Ⅶ—瑞希

 しっかりしろ。あたしは心の中で呟く。やって後悔するんじゃなかったのか。


 自分に発破をかける。それで、ほんの少しだけ気合いが戻ってくる。汗を拭うようなふりをしてこっそりと目元を拭って、あたしは息を整えて。


『ごめんなさい、何を喋ろうとしたのかわからなくなっちゃって』


 そう言うと、客席から再び笑い声。それであたしは、少しだけ気力を取り戻す。

 大丈夫、あたしは、やれる。


『とにかく、ギターのチューニングが終わったみたいなので、次の曲行きます』


 拍手の音。あたしはキーボードの上に再び両手を構える。

 けれど、二人には視線を向けなかった。だって、そうしたらまた、揺らいでしまいそうになるから。


 戸惑うような気配。だけどそれも一瞬で、すぐにスティックの乾いた音が響き渡る。

 一回、二回、三回。その合図に合わせて、二曲目の演奏が始まった。




 冬哉のアルペジオに、そっとあたしの音を乗せる。

 晃生の選曲、映画の主題歌だっけ、ちょっとアップテンポ気味な曲。


 だけど、心がついてこない。歌い出しが近づいてくる。頭が芯から冷えていくような感覚。

 そして――思ってた通り、あたしの声は震えてしまう。


 動揺して、指が鍵盤の上を滑る。不協和音。


 大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 落ち着いて指を正しい場所に。お腹に力を入れて、声の出し方をしっかり直す。

 晃生がリズムをキープしてくれているし、冬哉だって演奏に集中している。たかだか一回のミス、そんなもの練習で散々繰り返してきたんだから。


 取り返せる、立て直せる。そう思っているはずなのに、そんな気持ちとは裏腹に、足が震える。指先がこわばって動かなくなる。


 まだダメだ、最後までちゃんとやり遂げて、笑顔で終わらなきゃ。そう決めたのは、他でもないあたしのはずでしょ。

 そんな思いで、必死に二人についていく。けれど、三人の中であたしだけが演奏に集中できていないことが、そしてあたしの乱れが、少しずつ二人に伝わり始めていることが、あたしには理解できてしまっている。


 抑えていた涙が、またあふれそうになる。大丈夫、と唱え続ける頭の中は、もはや大丈夫、という言葉の意味すら分からなくなるくらいに荒れ狂っていて、それでも記憶を手繰りながら、必死に指を動かし、声を張る。


 一番が終わる。間奏はない。それが恨めしくて、でも声を出すのをやめたら、そこで歌えなくなってしまうかもしれない。

 三曲目は無理かもしれない、なんて弱音がよぎる。それでもせめてこの曲だけはちゃんと終わらせたい。だから黙って、あたしの心。


 だけど。


 突然、

 震えて声にならなくなったのでも、喉につっかえて、ということでもなく。


 ずっと、抑え込んでいたのに、そんなもの関係ない、とでも言うように。みたいに、理不尽に。

 

 なんで、どうして。


 混乱で、頭が埋め尽くされる。そのはずみで、完全に集中が途切れて、手元が――狂う。


 ガン、と、和音にすらなっていない音の塊が、誤魔化せないほど大きく響く。

 そしてそれを聞いた瞬間、あたしの中にわずかに残ってあたしを支えていた気力が、ついに折れてしまった。


 あたしは、そのままずるずるとステージの上に崩れ落ちる。悔しさ、わけのわからない状況に対する困惑、そして――胸を貫かれるような、どうしようもない苦しさ。


 無理、もう無理だよ。誰か、助けてよ。


 子供みたいに、心の中で悲鳴を上げながら。気づくとあたしの目からは、もう抑えられなくなった涙が、とめどなくあふれ出ていた。


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