Ⅵ—瑞希

 拍手の音。そしてあたしは、ついにこの時が来たことを理解する。


 不思議と、緊張はなかった。冬哉が変なことを言ったから、それで落ち着けたのかもしれない。

 気合いがみなぎっている感じがする。ひょっとしたら、今のあたしは無敵かもしれない。そんな馬鹿みたいなことを考えながら、あたしは退場してくる人たちとすれ違った。




 キーボードを抱えてステージに上がると、客席の方から『瑞希ー!』と声が上がる。とっさにあたしは舞台裏に戻ろうとして、その足を必死に止める。


 無敵、とはなんだったのか。顔から火が出そうな感じがする。

 本当に残念ながら、こんな恥ずかしいことをする相手には心当たりがある。あのろくでもない友人たちだ。……まさか、本当に冷やかしに来るなんて。


 あぁ、もう。せめて演奏が始まってからならよかったのに、なんでこのステージには幕がないんだろう。そんなことを思うけれど、仮設ステージにそれを望むのは無理がある、というのはわかっている。


 もう早く準備して、演奏して、さっさと帰ろう。キーボードをスタンドの上において、シールドを繋いで、あとは、マイクの角度をちょっと弄って。


 ほっとひとつ、息を吐く。横を見れば、冬哉が椅子に座って、ギターに当てるマイクを調整中、後ろの方からは晃生がドラムを叩いている音が聞こえる。

 もうちょっと時間がいるかな、と思いつつ、あたしもキーボードを適当に叩いて音量の確認をしたり、マイクの具合を確かめたり。


 そんな時間が少し続いて、そして不意に、二人の音がぴたりと止まる。


 冬哉と晃生が、こっちに視線を向けていた。そのそれぞれに頷き返す。


 途端とたんに、場の空気が一変する。

 あたしたちから、徐々に周囲まで巻き込んで。それまで騒がしかった客席が、ゆっくりと静まり返っていく。

 そして、辺りに完全な静寂が満ちたところで、あたしはその空気に突き動かされるようにしてキーボードに指を――運んだところで、ふと動きを止める。


「……あれ、どうやって始めるんだっけ」


 思わず口に出してしまう。

 直後、観客の方からどっ、と笑い声が上がる。それで、あたしは失敗に気付く。しまった、マイクが入ってるんだった。顔が一気に赤くなるのを感じる。


 焦った。ああもう恥ずかしい。

 助けを求めて二人の方を見る。しかし晃生はものすごく気の抜けた様子で肩を落としていて、そして冬哉の方は、左手を額に当てて呆れた様子。助け舟は、どこからもやって来ない。

 逃げ出したい心と葛藤するあたしの方を、冬哉が指で指す。……いや違う、これは。


 理解した。つまりあいつは、あたしに喋れと言っているのだ、自分のところに喋る用のマイクがないのをいいことに。

 なんであたしが、と、マイクが拾わない位置でため息を吐く。

 というか、よくよく思い返してみれば、どうやって始めるか、とか、そんな話は一度もしていなかった。……ってことはこれ、あたしだけのせいじゃないじゃん。


 けど、まぁ、文句を言ってばかりいても始まらない。


『失礼しました。……えっと、改めて、腐れ縁トリオ、です』


 あたしは気持ちを切り替えて、探り探り、マイクに向かって喋ってみる。

 後ろの方で何か歓声が聞こえたけど、聞こえてるってことだな、と意識的にスルー。気にしてたらこっちが持たない。


『えっと、バンド、やります。……とは言っても、見てのとおり、アコギにキーボードにドラム、っていう、ちょっと静か目の構成なので、盛り上がりとかはそんなに意識しないで、ゆったり聞いてもらえるといいかな、って思います』


 なんとか、それだけ言って、ふぅ、とまた一息。それから、晃生と視線を合わせて、『いける?』と確認。晃生が頷くのを確認してあたしはマイクに向き直り――そして、少しタメを作って、そして言う。


『それじゃ、一曲目、行きます』


 客席の方から、今度はあのバカ達だけじゃない歓声。

 まずは、あたしの選曲、ポピュラーなドラマの主題歌から。


 晃生がゆっくりとスリーカウント。あたしの指先が奏でたコードが先行して、そこに冬哉の柔らかな音が重なっていく。

 静かさと、灯る火のようなぼんやりした明るさを伴った、冬の曲。アンプ越しに調和したメロディーが、あたしたちの『残念会』のはじまりを告げる。




『……ありがとうございます』


 最後の一音が、ゆっくりとフェード・アウト。それを聞き届けてから、あたしはマイクに向かってそっと口にした。

 瞬間、鳴り響く拍手。それに包まれたあたしは、確かな手ごたえを感じていた。


 会場の空気を掴んだ、という感じがした。演奏を始める前はどこかやりづらさを感じていた空気も、今は跡形もない。

 そっと、喉に手を当てる。気のせいかもしれないけれど、なんだか今日は喉の調子がいい。


 イベントに参加しているとき特有の、何とも言えない高揚感。これなら、いける、と根拠もなく思う。ついつい、早く次の曲に、なんて思ってしまうけど――横目で、今まさにチューニング中の冬哉を見る。選曲の関係で、どうしてもこの時間が必要だというのは、練習の時からわかっていたこと。


 だから――あたしは、目の前のマイクを見つめる。特に打ち合わせをしていたわけではないけど、この時間はあたしが喋って繋ぐしかない。

 普段のあたしなら、ここで何を喋ろうかな、なんて考えるところだけど、イベントの空気に当てられたのか、あたしの口からはするすると言葉が漏れ出してきた。


『改めまして、あたしたち、腐れ縁トリオ、って言います。……なんでこんな名前なのか、って思った人もいるかもしれないんですけど、これはあたしたちがつけた名前じゃなくって、周りからの呼び名なんです』


 そのとき、あたしの心のうちに、ほんの少しもやっとした気持ちが現れたように感じて。

 だけどそれで言葉は止まらない。ただただあふれ出るままに、考えるより先に言葉になる。


『あたしたち、全員出身がこの辺で、初めて会ったのは中学の部活なんですけど、そのときからの友達で。で、中学は結構ずっと一緒にいたんですけど、なんでかたまたま高校も一緒になって。それで中学時代からの知り合いから冗談交じりに言われたのが、腐れ縁トリオ、っていう呼び方の始まりで』


 違和感が膨れ上がっていく。なんでかはわからない。ただあたしの頭の中では、不意に冬哉や晃生の、何でもないような表情が浮かんでは消えていた。


『何か話してたわけでもないのに志望校が被ってたときは、流石にびっくりしちゃって。それで気づくと大学まで一緒になっちゃって。ここまで来ると、流石に腐れ縁を認めなきゃいけない、というか』


 胸に、痛み。なんでだろう、すごく楽しいはずなのに、同じくらい、苦しい。これ以上喋ったらいけない気がする。なにか、致命的な傷を負ってしまいそうな予感。


『まぁ、それで、どうせなら何か一緒になろうか、って話になって。今回こうしてバンドをやるようになったのは、そんな理由なんですけど、』


 ——あぁ。


 そこまで言って――そこであたしは、思い出してしまった。

 これが、『最後にする』ためのバンドなんだ、ってこと。


 この先に、、の未来は無いんだってことに。


『えっと……その』


 あたしは、それ以上の言葉を継ぐことができない。

 言うべき言葉の代わりに、二人と過ごした日々だけが、頭の中を占拠している。


 なにが、二人なしでは立っていられなくなる前に、だ。

 とっくに、手遅れじゃん。


 ……でも、終わらせる、終わらせなきゃ。そう決めたんだ。

 あたしたちは、成長しなきゃいけないんだ。

 本当は、とっくに経験しているはずだった別れを知って。その辛さと引き換えに、大人にならなきゃ。だから、こんないびつな関係とはさよならしなきゃ。


 なのに。


 気付けば、さっきまでの高揚感は、そのまま全部が、どうしようもない苦しさに変わってしまっていた。


 冬哉のチューニングはとっくに終わっていて、あたしが黙ってしまったせいで、ステージ上には沈黙だけが満ちていて。


 ダメだ、早く、この空気をなんとかしなきゃ。

 だけど。


 行き場のない思いが、あたしを締め上げる。恐怖と苦しさで、心が悲鳴をあげる。


 あたしは、一体、どうすればいいの?

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