Ⅷ—冬哉

 今日の僕は、いつになく気合いが入っていた。


 だけど――だから、視野が狭くなっていたんだと思う。




 思い返してみれば最初から、瑞希の様子は、少しおかしかった。

 約束に遅刻してきた、というところから、そもそも、らしくない、ことだった。本番前、一緒にいたときも、なんだか変に明るかったり、どこか張り詰めた雰囲気だったり。


 だけどそれも、今思い返してみれば、という話だった。その程度には、瑞希は上手く、感情を隠していた。


 それが。理由はわからないけど、多分、二曲目が始まる前、MCをしている途中で――決壊、したのだと思う。


 だけどそれを悟った時には、すでに演奏が始まってしまっていて――そしてすぐに、違う、と思った。

 これは、僕らが練習してきたものじゃない。


 音を間違えたり、声が震えていたり、そんなミスだけじゃない。そこにあったのは、ただ、音がタイミングよく重なっているだけの、バンドと呼ぶのをためらうような何か。


 違和感で、何度も手を止めたくなった。だけど、やりとげないと、という決意と、ここで止めたら、きっと、瑞希が……という予感で、必死に上辺うわべだけの演奏を続けていた。


 なのに。


 突然、瑞希の歌声が途切れる。その瞬間に、それまでのアップテンポな雰囲気を、取り返しがつかないほど完全に壊してしまうような、酷い不協和音。そして。


 瑞希が、その場に崩れ落ちる。

 瞬間、カラ、と乾いた音。ドラムの音が止むと同時に、晃生が瑞希の方に飛び出していく。


 ――終わった。終わってしまった。


 僕らにとって、大事な思い出になる。そんな期待は、跡形もなく、粉々に打ち砕かれて。

 だけど、苦い思いを噛み締めている時間はない。


 ――瑞希!


 名前を呼ぼうとして。

 だけど、言葉が、音にならない。空気だけが、喉を通ってむなしく抜けていく。

 信じられない思いで、喉を手で抑える。瑞希のもとへ向かおうとしていた足が止まる。


 そして――異変に気付く。


 イベントの最中、演奏中に起こったハプニング、それぞれの知り合いだっているこの場所が、


 気付いて、咄嗟とっさに客席の方に視線を移す。そしてそこに――




 異様な光景が、広がっていた。


 誰もが、混乱のさなかにあった。

 慌てたように口を何度も開閉する人、誰かに話しかけようとして、そのままの状態で固まった人、周囲に取り残されて、また状況に気付けていない人。


 そんな状態なのに――声が、一切しない。静寂の中、ただ靴の音や、何かがぶつかる音だけが響く。


 さっき、瑞希の歌が、不自然に途切れたことを思い出す。そして、僕が声を出せなかったこと、目の前で起こっている不可解な現象。


 まさか、みんな、、なのか。


 思って、慄然りつぜんとする。

 なんだ、これは。

 まるで、この世界から、人の声が失われて――奪われて、しまったみたいに。


 茫然としたまま。頭が、この状況を理解できずにぐるぐると回っている。何が起こっているのか、それを説明するような何かがどこかにないかと、意味もなく、あてもなく、視線を巡らせる僕の目が。


 ふと。

 こちらをじっと見つめる、青灰色の瞳を捉える。


 あ、と思って、けれどそれはやはり声にはならず。

 そして、視線が合った瞬間に、は何かに耐えるように顔を歪めて、すぐに踵を返して走り出してしまった。


 何故だろう。

 その様子に、考えるより先に、体が動いていた。


 ギターを置いて、ステージから飛び降りる。

 混乱する人の波をかいくぐって、彼女の消えた方へ。




 大学を出て、裸になった街路樹がいろじゅの並ぶ道を走る。


 視線の先、少し離れた場所に、黒いコートを羽織った小さい影。


 それを見失わないように全力で走る。最近あまり運動をしていなかった体はすっかり鈍ってしまっていて、脇腹が引きったように痛むけれど――それでも、一応は成人に近い男子と年下の女子。動けなくなるよりも先に、彼女の腕を掴む。


 それでもしばらくは、彼女は振り返らずに僕の手を振りほどこうと暴れる。

 全力疾走したあとにそんなことをする体力が残っているはずもなかったけれど、ここで逃がしたら最後だ、と気力だけで耐える。


 やがて、彼女は抵抗を諦めたように体から力を抜く。僕も少し腕の力を緩める。そうしてみると、彼女の腕は小刻みに震えていて。


 そして、彼女が振り返る。その瞳に――涙。


 思わず、手を放す。だけど、彼女にもう、逃げようとする気はなかったようだった。

 ただ、顔を俯けて。けれどやがて、覚悟を決めたような様子で、メモ帳を取り出す。何かを書き始める。その姿が、街で会った時の彼女と重なる。


 まさか。

 僕の脳内を、バカげた予感が走り抜けて。


 そして――書き終えると、彼女はそれをひっくり返す。うつむいたままの彼女。その動作は、不思議とゆっくりに感じられて。


 現れた、所々震えたようになりながら書かれた文字を、一つ一つ目で追って行って。にぶった頭と、荒くなった息の中で、僕はその意味を少しずつ把握していく。


 そして、驚愕する。


 そこには、ただ二言、これだけが書かれていた。




『ごめんなさい

 私が、やりました』

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