Ⅲ—冬哉
「と、もう時間か。じゃぁ、今日の講義はここまでにします」
初老の教授がそう告げると、講義室の空気が一気に
早速机の上を片付け始める人、まだノートに何かを書き込み続けている人。そんな風にしてまだ直前の講義の名残を感じさせるような光景が繰り広げられるかと思えば、既に知り合いと集まって談笑していたり、スマホの画面を見つめながら指を動かしていたりする人たちもいたりする、そんなありふれた講義後の時間。
だけどその中にも、数日前と比べると何か熱気のようなものを感じるような気がする。多分、それも勘違いではないのだろう。
「さて、結局お前、明日は何かあるんだっけ?」
「今年もフリーだよチクショウ……彼女出来ることにかけてバイト入れなかったのに」
「そんなすぐに作れたら苦労しねぇだろうよ。ってことで、明日ウチで独り身パーティでもするか?」
「おっけ、乗った」
だとか、
「えー、カナ、彼氏いたの!? この裏切り者~!」
「ごめんごめん、この埋め合わせは今度するからさ」
とかいったように、あちこちで繰り広げられる会話、その妙なノリが、何よりもこの時期が来たことを物語っていて。
そう、ひと月も後、なんて思っていたクリスマスも、気づけば明日に迫っているのだ。
そして――それはつまり、僕らが参加する『残念会』、その本番までに残された時間も、既に一日を切っているということに他ならない。
晃生に半ば強引に誘われたバンドだけれど、それでも一か月ずっと練習してきて。やっぱり、なんだかんだ楽しかった。
それに、考えることだってたくさんあって、それなりにあったはずの時間が、結構あっさりと過ぎていったように感じる。
「どうしよ、明日ヒマなんだけど」
「私に聞かないでよ。……あ、そう言えば、なんか瑞希が明日の『残念会』でバンドに出るとか聞いたけど」
「え、マジ? じゃぁ折角だし観に行こうかなぁ」
今だって、なんだかふわふわとした緊張感があるのを感じている。
明日は、どうなるだろうか。演奏は上手くいくだろうか。晃生の告白の方は、そして――待った、今、瑞希の名前が聞こえたような。それも不穏な文脈で。
反射的に顔を上げて室内を見渡すけれど、同じ学部の人ですら顔を満足に覚えていない僕が声の主を探すのはほとんど不可能というもので。
だからって気にならないわけじゃない。確かに瑞希は友達が多いイメージがあるけど、学部の違う彼女の名前がここで出るのだろうか、という懸念と、あとは『残念会』ってそんな、ごく当然の選択肢みたいに出てくるほどポピュラーなものだっけ。
と、ふと、誰かと視線が合う。……かと思えば、その彼はそのまま僕の方へと向かって歩いてきて、気さくそうな笑みを浮かべた。
「やぁ、
突然話しかけられて、僕はわけもわからず固まってしまう。というか彼は一体誰だっただろうか、顔を見たことがあるような、無いような、
……思い出した、確か、学部の懇親会か何かで会ったことがある。だいたいどの集団にも一人はいる、とりあえず誰にでも話しかけてみる、ってタイプの。
ひとことふたこと交わした程度で、まぁ深い仲になることはないかな、なんて思っていた記憶があるのだけど……一体、彼が僕になんの用だろう。
などと戸惑っていると、彼は僕の様子を不思議そうに眺めながらも、ポケットから何かを取り出して僕の方へと。
「明日のイベント、君がここ、出るって聞いたけどホント?」
「え」
几帳面に折りたたまれたそれは、よく見ると、数日前に僕が配るのに苦労したチラシで。
そして、彼の指先は出演者一覧の『腐れ縁トリオ/バンド演奏』を指していて。
「……どこで、それを?」
その言葉を発したとき、僕は自分が妙にぎこちなく体を動かしているのを自覚せずにはいられなかった。
「あー……ごめん、それ多分あたし、ってか友達のせいだ」
開口一番に、瑞希に事の次第を訪ねると、瑞希は何とも気まずそうな顔をして僕に謝った。
「どういうことさ」
「えっと、あのチラシ、配る相手に困って仲のいい子に渡してたんだけど、その中に噂好きな子がいて……」
そういうことか。僕はつい額を手で押さえてしまう。昼間のやり取りを思い出すと未だに軽く頭痛がするような気がする。
正直、僕は、当日の観客があんまり多くならないだろう、と予想していた。多少有名だとは言え大学内のイベントなのだし、やっぱりクリスマス付近は何かと予定がある人が多いだろう、と。
ついでに、少ないとはいえいないわけではない知り合いに見つかることを防ぐために、参加団体のところにもあえて僕らの名前を載せることはしなかった。
しかしどうやら瑞希の友達が何やら話を広めていたらしく。『腐れ縁トリオ』なんて呼び方、大学では知ってる人なんてほとんどいないだろうと思ったのだけれど、今日の彼が知っていたということは、どうやらそれなりに知られてはいるようで。
つまりまぁ、僕ら三人の知り合いも、何人かはおそらく冷やかしにくる可能性がある、ということだ。……想像するだに恐ろしいのだけど。
とりあえず、学部の彼をはじめとして、他知り合い何人かには「折角だから観に行くよ」なんて言われてしまった。
いや、君たちはもう少しマトモな時間の使い方をした方が良いんじゃないのか、なんて思ったりはしたけど、そのときの気のよさそうな笑顔を見て、あぁ、多分この人たちは本当に来るな、と悟ってしまったのだった。ただでさえ気が重いというのに、知り合いがたくさん来るとなればなおさらだ。
はぁ、と、重いため息が漏れてしまう。それを聞いた晃生が、やや強引に肩を組んできて。
「まぁ、ほら、それだけ多くの人に見てもらえるってことだろ。いやぁ、腕が鳴るぜ……!」
などと意気込みながら、フォローになっていないフォローをくれる。残念ながら一切嬉しくない、というか、だから嫌なんだって。
とはいえ、今更ここで、やめます、なんて言えるはずもない。曲がりなりにも今日までやってきた、それをふいにしてしまうのは、流石の僕でも勿体ないと感じる。
そもそも今だって、最後の練習――明日は出番前に時間を取れないので事実上のリハーサル――をするために、スタジオに向かっている途中なのだから。
改めて、僕は考える。
明日は、僕らの勝負の日だ。それは、バンドについても、僕らの関係についても。
まず間違いなく、これまで続いてきた僕らの関係は、明日、何かしらの変化をすると思う。決して絶縁ではなくて、それでもきっといつも通りではない形に。
やっぱり、それは寂しいことだと思う。だからこそ、僕はずっとそのことで悩んできた。
けれど。
気づくとスタジオの前に辿り着いていた。瑞希が黒い大きなドアを開いて中に入り、それに晃生が続く。
晃生が閉じないように押さえてくれていたドアを掴んで、僕もまたそれを潜りながら、僕は改めて、決意を固めた。
例え、終わった後に僕らの関係がどうなろうと、今はただ、バンドを成功させるために全力を尽くそう。
たとえその結果がどうなるにしても、明日の事は僕らの中で、忘れられない思い出の一つになるのは間違いないのだから。
ドアに添えていた手を放す。
重厚なそれが
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