閑話―紗千

 あの人が去って行くのを、わたしはただ見送ることしかできなかった。


 受け取ったチラシに、もう一度視線を落とす。『毎年恒例』という飾り文字や、『残念会』というなんだかわからない言葉が目を引くけれど、わたしの視線はそこではなく、もっと別のところで止まる。


 『十二月二十四日』


 その日付を目にした途端に、わたしの胸がちくりと痛む。


 初めて、あの人と出会ったときのことを思い出す。

 図書館で、いきなり声を掛けられて。歳の離れた男の人が相手だから、何が目的だろう、なんて変に警戒してしまった。

 けど実際には、あそこに行くのが初めてだってことを察して、本の探し方を教えてくれただけ。

 今になって思えば、職員の人とかに聞いてみればいい話だった。だけどあのとき、わたしは初めて訪れた場所で右も左もわからない状態だったから、すごく助かった。


 それから、なんだかんだとこうして二回も出会っている。世界は狭い、なんて言うほど大したことじゃないだろうから、多分本当に偶然なんだけど。


 なんだか変な縁だな、って思う。あの人のことなんて、大学生なんだろうな、ということすらさっきようやく知ったような、そんな程度の結びつきだというのに、それでもなんだかごく自然に言葉を交わすようなことになっている。なんだか、巡り合わせって不思議だ。


 だけど、たとえその居心地がそんなに悪くないと言っても、この関係性をありふれた言葉に当てはめてみれば、せいぜいが「知り合い」ってところ。これからも顔を合わせることはあるかもしれないけど、だからってお互いがお互いに影響しあうような関係になることはきっとない。


 そのはず、だった。

 だけど。


 私の嘘をあの人が真に受けて、心配そうな表情をしたとき――わたしは、不意に、胸が痛むのを感じた。


 だって、わかってしまったから。


 学校では、怪しまれないためにマスクをつける、とか、それくらいの偽装はしていたけど、まさか誰かに会うとも思っていなかった今のわたしは、そんな警戒をしていなかった。

 それなのに。普通にできていた自信もないのに、あの人は疑うこともせずに。


 ……いや、多分それも言い訳なんだと思う。そもそも初めて会った時から、薄々気づいてはいたんだ。

 だって、知らない人が困っていたから声をかけました、なんてことを本気で言えてしまう人を、優しいと言わなくて何と言うのだろうか。



 だから――そんな人を傷つけてしまうかもしれない、なんて知りたくなかったのに。



 ずき、と、また胸が痛む。

 それでも。


 たとえば、バンドをやる、というのは私の聞き間違いで、本当はただイベントの宣伝に来ていただけかもしれない。……少し考えて、すぐその考えを打ち消す。

 私は一度、ギターを背負ったあの人と会っている。あれは、きっと練習の帰り道だったんだ。そうして練習をしてきたものを発表する場所が、きっとチラシに書かれているイベントなんだろう。


 だから、願うなら、わたしの『魔法』より先に、あの人が、そして一緒にやる人たちが、演奏を終えてしまえますように、と。

 図々しいと思うけれど、クリスマスなのだから、ちょっと願うくらい、きっと許してもらえると信じる。


 私は、意識してほんの少しだけ、口の端を吊り上げてみる。

 三度目、また走った胸の痛みには、気づかないふりをして。


 目を閉じて、物語の中の魔女を思い浮かべる。

 骨でできた家に住んで、気味の悪い魔物に守られて。そして、欠陥品の足を人魚姫に押し付けて、彼女の声も、姉妹たちの長く美しい髪の毛も、望むものは全て手にしてしまった、あの強欲で性悪な人物のことを。


 小さく吐いた息が、白い煙になって夕方の空に消えていく。


 今更何を思ったところで、もう遅い。もう私にできることは、ただその時を待つことだけ。

 そう、私は、クリスマスの夜に、『悪い魔女』になるんだ。

 そして、きっと、たくさんの人たちから幸せを奪って、ただ一人だけ幸せな日々を送るのだ。


 誰かを傷つけてしまうかもしれない、という予感、ただそれだけでいちいち自分が傷ついている余裕も、資格も、私にはきっとない。


 陽が沈みかけの、鈍色の空を見上げる。

 ずっと準備を続けてきた『魔法』が発動する日は、すぐそこまで迫ってきていた。


 もう少ししたら、お母さんが家に帰ってくるだろう。まだ人の流れは絶えていなかったけど、だからってあそこに飛び込むことを躊躇ためらっていたら間に合わない。

 私はチラシを折りたたんで鞄に押し込む。それから、恐怖で震えそうになる身体を抑えるために、耳あての位置をちゃんと直して、それからゆっくりと、家に帰るために歩き出した。

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