Ⅱ—冬哉

「お願いしまーす!」


 近くで晃生が声を張り上げながら、道行く人たちにチラシを手渡している。それを横目で見ながら、僕もまた、手元に山と残っている束を少しでも減らすために、気力を削りながらも人混みの中へと入っていく。


 街の中央、特に人の行き来が多い場所に位置する、広場のようになった場所、そこに僕と晃生はやってきていた。


 某有名チェーンのカフェを始め、それなりに大きな店や、あとは町おこしの一環で設置されたストリートピアノなんかもあるここは、休日にはちょっとしたイベントなんかも開催されたりして、様々な層の人が集まる場所になっている。それだけあって、ここに来ればすぐにチラシもなくなるだろう、と思っていたのだけれど。


 確かに、平日の夕方にも関わらず人通りは多い。……多い、のだけれど、どうにも僕の手元にあるチラシの束は一向に減っていかない。


 まぁ、それも当たり前のことではある。大多数の人にとって、大学で開かれるイベントなんて関係のないものだろうし、だったらチラシなんて受け取ってもゴミになるだけだ。僕だって、時々大学や街で見るティッシュ配りの人とかは、さりげなく避けて通るタイプだ。

 これからしばらくの間は、露骨に避けるのはやめようかなぁ……と、立場が変わったことで彼らの心内を理解したところで、目の前の問題が片付くわけでもなく。


 そしてそうこうしているうちに、晃生が僕の方に戻ってきていた。


「よ、冬哉、こっちは終わったぜ……って、まだそんな残ってるのか」

「……」


 内心でちょっとイラっとした。僕に多めに渡したのは晃生じゃないか。

 晃生は肩をすくめて。


「いや、まぁ八つ当たり的に多めに押し付けたのはあるけど、それだって俺よりちょっと多め、ってくらいだろ」

「まぁ、それはそうだけど」


 確かにまぁ、僕の手際が悪いのはあると思う。……のだけど、その辺りもうちょっとだけ気遣ってくれてもいいんじゃないかなぁ、なんて思う。そして八つ当たりって何のことだよ。


 しかし。

 困った。僕が自分の分を配り終えるには、ここまでの減り方を見るとまだかなり時間がかかりそうな気がする。かといってその間晃生を待たせるのも悪いし、手伝ってもらうにしてもあんまりやりすぎるとサボりになりそうだし。


 そんなことを考えていると、晃生は見かねたようにため息をつく。


「まぁ、苦手なのは知ってるけど……もう少しくらいはこういうのにも慣れといたほうがいいんじゃねえのか?」


 言いつつ、僕の手元からチラシの束をちょっと強引に引っこ抜く。

 それから、目分量でだいたい三分の一くらいを取って、残りを僕につきかえす。


「ほら、俺が多めに押し付けた分、こんくらいだろ。これだけやってやるからあとは自分で頑張れ」


 そう言うなり、また人ごみの向こうの方へと去っていった。


 その姿を見送ってから、僕もまたため息を吐く。


 等分に戻しただけだから、というような言い訳をしていったけれど、多分それは僕が変に気負わないように、という意味でもあるというか、晃生なりのフォローなのだ、ということは、長年の付き合いからわかっていた。……わかっているのだけれど、何年たってもなかなか治らない自分の引っ込み思案にちょっと情けない思いがする。


 とはいえ、そんな風にされると僕もいよいよ頑張らないわけにはいかなくなる。近くを歩いていた適当な人を捕まえて「この日バンド出るんでよかったら~」とか何とか話しかけている晃生に向けて心の中で、ありがとう、と呟いてから、僕も、これから配る相手を探すべく視線を巡らせる。


 と、そこで、何か覚えのある人影を見たような気がした。

 通り過ぎかけた視線を戻して、そしてその先に――あれは。


 黒一色の、といっても、艶消しとかそういうわけでもなく、ただ全体的に黒っぽいコートに身を包んだ、厚着の上からでもわかるような細いシルエットと、白い耳あて。


 もしかして、と思って、僕はその人影へと近づいていく。

 と、足音に気付いたのか、不意にが振り向いた。


 僕の予想通り、そこにいたのは図書館で会った少女だった。


 とりあえず、やぁ、と声をかける。彼女はぺこりとお辞儀をして、そこで何かに気付いたようにあたふたとする。

 どうしたのだろう、と思っていると、彼女は背負った鞄の中からメモ帳のようなものを取り出して、なにやら急いで書きつける。

 かと思えば、それを僕の方にくるりと回して、それを見せてくる。


 そこには、『こんにちは』と少し崩れた文字で書いてあった。


 あれ、と思う。


「声、どうしたの」


 と、つい聞いてしまう。それを受けて、彼女はまた数秒ほど、何かを新しいページに書き込む。


『風邪を引いてしまったので』


 再び向けられたノートのページには、そんなことが書いてあった。

 なるほど、風邪か。冬も本番になってきたし、そういうこともあるのだろう。声を出せなくなるほど酷い風邪、というのは昔一回だけ経験していたのだけど、あれはつらいのに、そのくせ熱が出ないから学校を休むわけにもいかなくて大変だった、という記憶がある。


「そっか。ありきたりな言葉で悪いんだけど、お大事に」


 そう言うと、彼女は今度はメモ帳に何かを書き込むようなこともなく、ただ軽く頭を下げる。流石にそれが、『ありがとうございます』という意味だということくらいは僕にも理解できて……けれど、そこで会話が途切れてしまった。


 さて。この前、会話がなんだか中途半端に終わってしまったので、もしかしてあの時なにかあったかな、と声をかけてみたのだけれど、今のところ彼女が何かを新しくノートに書き始めるような様子もない。

 風邪を引いている、となれば引き留めるのも悪いし、せいぜい顔見知り程度の関係なのだから、僕はさっさと立ち去ってしまう方が良いのかもしれない。


 どうしたものか、と彼女の様子を窺うと、その視線が何か僕の方に向けられていることに気付く。というよりはむしろ――あぁ、なるほど。

 僕は抱えたチラシを一部取って、彼女の方へと差し出す。


「えっと、これ。今度、大学でちょっとしたイベントがあって、僕と、あと友達二人とでバンドをやるんだけれど、もしよかったら」


 彼女の、手袋に包まれた手が、ゆるゆると近づいてきて僕の手からチラシを受け取る。そのまま彼女はそれを少し眺めて、


 そこで、ふと、彼女が少し、哀しそうな顔をしたような気がした。


 だけどそれも一瞬のことで。すぐに彼女はメモ帳に『ありがとうございます。もし時間があったらお邪魔させていただきます』と、そう書いて僕に見せてくる。

 ありがとう、と僕はそれに答えて、まぁそれ以上用事もなく、軽く手を振って彼女とはそこで別れた。



 さて、さっき垣間見えた彼女の表情、あれは見間違いだろうか、それとも風邪のせいかな……などと考えていると、人ごみの向こうから晃生が近づいてくるのが見えた。

 かと思うと、次の瞬間には、肩を掴まれていた。

 そして、小声で。


「……おい、冬哉。流石にあの子は、犯罪になるんじゃねぇか?」


 物凄く嫌な誤解をされていた。


「違うから。僕を何だと思ってるんだ」


 僕はそう言って、やや乱暴に晃生の肩を押して遠ざける。「ならいいんだけど」と、晃生もすぐに引き下がる。




 結局その後、特に変わったことはなく、僕はまた人ごみに紛れながら、道行く人に「お願いします」と言いつつチラシを差し出す作業に戻った。


 そうして、晃生がチラシを配り終えた少し後くらいに、帰宅ラッシュか何かで一気に人通りが増え、僕の方も何とか手元に残っていた分を配り終えることができ、その日はそれで帰宅したのだった。

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