Ⅵ—瑞希

 あたしは再生停止のボタンを押して、イヤホンを耳から外す。


 あたしの迷いとは関係なく、練習は順調に進んでいる。これからも練習は何回もできるし、あの二人ならまだまだここからレベルを上げてくるだろう。そんな、信頼と、そして不安と、相反するような二つの感情があたしの中にあって。


 だから、この状況から逃げてしまいたいのなら、あたしが練習も本番も全部滅茶苦茶にして、あるいは思いっきり手を抜いて、『終わり』の機会をなくしてしまう他にないのだろうけど……ずっとやろうとして失敗して、逃げ続けて。それでやっと得た機会でさえも逃してしまう、なんてことになったら、絶対にあたしは後悔をすると思う。


 だから今は、思いっきり練習に打ち込もう。本気でやろう。そして……絶対に、本番を成功させよう。

 どうせ後悔するのなら、ことじゃなくて、を後悔したい。

 あたしたちが知っているべきだった、そんな辛さを全身で受け止めて、辛くても何かのためになった、と、そう言いきれるような後悔をしていたい。


 その日に訪れる辛さの大きさなんて、今のあたしにはわからないんだから、今はそれを恐れる余裕がないくらい、全力で前を向いていたい。




 後ろに引っ張られそうになる気持ちを強引に抑え込んで、あたしは思考を切り替える。


 帰ったら少しだけ編集して、この音源を二人に送らなきゃ。そういえば次のバスって何分に出るんだっけ。二人はもう帰ったかな。


 そんな風に考えている時――不意にあたしは、少なくなったとはいえまだ人通りのある夜道の、動き続ける人たちの間に、一人だけ立ち止まっている人影を発見する。


 とはいえ、誰かを待っている、とか、そういう事情がある場合だってある。だからそれほど珍しいことではないはずなのに、なぜだか変に気になってしまって。


 少し立ち止まって、遠目でその誰かを見つめる。少しして、あたしはその理由を理解した。


 そこにいたのは、女の子だった。

 それも、とびきり綺麗な。


 歳は、あたしより少し下、くらいだろうか。

 コートとかマフラーとか、身に着けているものが妙に地味な色合いをしているのを見ると、服装なんかがいちいち校則で決められていた頃を思い出してしまうのだけど、そう考えると中学生か高校生なのかもしれない。

 もっともあたしは似たような恰好をしていようと大して変わらない、というか、普段は結構オシャレに気を使って何とかそれなりに見えるようにしているのだけれど、視線の先にいる彼女は全く違う。『野暮ったい』という言葉はこういう時に使うんだな、ということを、もしかするとあたしは今初めて本当に理解したのかもしれない。


 見えている場所と言えば本当に顔だけなのに、それだけでも恐ろしい存在感だった。

 長く艶やかな黒髪、そこだけワンポイントのように明るい白い耳当て、そして――そう、その瞳も印象的だった。黒でも、茶色でもない、むしろちょっと灰色っぽいような、日本人離れした。


 あたしはしばらく、突如視界に入った、その西洋人形みたいな彼女にしばらく見とれていて、それからはっと我に返る。


 そういえば、あたし自身も忘れかけていたけれど、もうそろそろ、夜と言っていい時間帯に差し掛かっている。あたしが言えた義理じゃないけれど、女の子が一人で出歩くにはもうだいぶ危ないと思う。誰かを待っているにしたって、流石にそろそろ諦めて帰った方が良いんじゃないの、って思うくらい。

 そういった年長者としての善意が九割と、あとは一割の怖いもの見たさで、少し声をかけてみようかな、なんて思った、その時。


 不意に。

 彼女が、街灯の下に歩み寄って、ポケットから手袋に包まれた両手を出す。


 たったそれだけの動作だったのだけれど、それがなんだかお芝居の一幕みたいに見えてしまって、つい驚いたあたしは、歩き出そうとしていた足を止めてしまう。


 そのまま、彼女はじっとたたずんで、街灯を見上げる。その横を、人が次々と通り過ぎていく。


 そして、ふと、彼女の両手の間にある空間が、ぼんやりと光を放つ。

 かと思えばそれはすぐに彼女の手元を離れ、街灯よりも高く、空の高いところまで昇って、まるで空気に溶けていくかのようにして消えてしまった。


 しばし茫然とした後、あたしは我に返って目を擦る。周囲を見渡してみるけれど、あたし以外の誰かがさっきの光景に気付いていた様子はない。


 何かの、見間違いだろうか。

 あたしが困惑している間に、彼女はまるで用事が済んだとでもいうように、歩いて先の方へと消えて行ってしまった。


 一体、今のは何だったんだろうか。

 気付けばさっきまで頭を悩ませていたことなど、すっかりどこかに行ってしまっていて、けれど新しく浮かんだその疑問にも、やっぱり答えを出す方法はなくて。


 結局、あたしはなんだか狐につままれたみたいな気分のまま、彼女が歩いて行ったのとは反対側にあるバス停に向かって歩き出すのだった。

 

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