Ⅳ—晃生

 今日の講義自体はちょっと前に終わっていたけれど、下宿先で暖房に当たっているとそのうちに寝落ちしてしまいそうな予感がしたので、レポートの下準備なんかを片手間にやりながら時間を潰していたのがさっきまでの話。


 鞄の中には、ケースに入れたスティック。今日も『残念会』バンドの練習だ。瑞希も冬哉も今日は最後まで講義で埋まっているので、折角ならこのまま二人が出てくるのを待って一緒に、と思って、講義棟のそばに座っていた。


 先に出てきたのは瑞希の方だった。スマホに視線を落としながら自動ドアの向こうから出てきて、こっちに気づいて顔を上げる。

 そして、露骨に、うわぁ、という顔をする。


「……なにそれ」


 瑞希が俺の持っている物を指さしてそう言う。俺は手元の、だいぶ分厚くなったクリアファイルを掲げてみせる。

 中には、知り合いから押し付けられたチラシが数十枚ほど、半ば強引に収められている。


「……運営やってる友達に押し付けられた。参加するんだったらこれ配るの協力してくれるよな、って、笑顔で」

「……それは、断れないね」


 だろう、と言って俺はため息を吐く。

 まぁ、それでもちょっとは加減をしてくれたのだと思う。その友人も、山と積まれたチラシのほんの一部を渡してきたにすぎないのだけれど、それにしたって一人で配り切るには少し多いかもしれない、なんて思っていたりして。


 と、ふと、瑞希が右手をこっちに差し出してきていた。


「じゃ、それ少しちょうだい」

「え、いや、俺だけでも何とかなると思うぞ?」

「参加するんだから、って意味だとあたしも一緒でしょ、ほら」


 ずい、とさらに右手を突き出してくる瑞希。

 俺は、思わず苦笑してしまう。普段は割と適当なのに、こういうところは引かないんだよな、瑞希って。

 つくづく、いいやつ、なのだ。


「ま、そういえばそうか。ありがと」


 礼を言いつつ、チラシを数部適当に取り分けて差し出すと、瑞希はそれをさっと受け取って、鞄の中にしまう。

 それから、ふと思いついて、俺はニヤリと笑って。


「……あ、そうだ、じゃぁ冬哉も巻き込まないとな」

「冬哉に配る人のあてがあるかはさておいてね」


 冗談めかして言った言葉に、瑞希も冗談を重ねて笑う。

 まぁ、確かにあいつが友達に囲まれてるのはあんまり見たことがないけれど、あいつは単に人づきあいが苦手というか、不器用というか。それでも別に人嫌い、ってわけでもないし、多分俺らが心配するまでもないとは思うのだけど。


「さて、あたしキーボード取りにいかないといけないから、先行くね」

「ん、いや、冬哉もどうせギター取りに行くだろうし、そこまで一緒に行けばよくね?って思ってたんだけど」

「……あたしの家、冬哉の家から結構遠いと思うんだけど」


 言われて、言葉に詰まった。そういえば瑞希の下宿先は、大学から少し遠いところにある。

 なんでも、両親から防犯がしっかりしたところを勧められた結果、通学が少し面倒になって困る、とかなんとか。そんなことをだいぶ前に聞いた記憶がある。


「それもそうか。……まぁ、ひょっとしたら同じバスに乗るかもしれないから、そうなったらその時に合流しようぜ」

「そうね。……じゃ、またあとで」


 手をひらひらと振って、瑞希は大学を出て行った。


 ドライだなぁ、とつい思ってしまう。数年来の友達ともなればそんなものかもしれないのだけれど、大学に入ってからは接点があんまりなかったのだし、たまに話せる時くらいはもうちょっと長く、なんて俺はつい思ってしまう。


 まぁ、そういうところも含めて瑞希は瑞希。もともとあんな感じだし、そう言うところも好ましいと思っているのだ。大体ここで変に瑞希を引き止めて、それが原因で練習に遅刻する、なんてことになったらそれこそ本末転倒だ。

 バンド自体がほとんど俺一人のエゴで始めたようなものなのだけれど、だからといって俺一人の都合であれこれかき回していいわけじゃない。そういうのは会の後にすると決めているのだし、今は集中あるのみだ。


 一つ息を吐いて、暴走気味だった自分をいさめる。全く、恋は盲目ってホントだな、と思いつつ、似合わねー……という思いで我ながらちょっと寒気がしたり。

 いやもう、初めて恋を知った、みたいなわけでもないんだから。


 そんな風に思いつつ、一方でふと、考える。


 俺の持っていた瑞希への感情が、恋へと変わったのは、果たしていつのことだったんだろうか。

 自分で考えてみても、よくわからない。つい最近のことだったかもしれないし、もしかしたら初めて出会った時からなのかもしれない。多分、そこに境界線を引くこと自体がそもそも間違いというか、結局、今までがあったからこそ今があるというか。


 そう言う意味では、初恋、っていうのもあながち間違いじゃないのかもな、なんて、ちょっぴり詩的な、というか俺らしくないことも思ったりして。


 まぁともかく、俺が今思っていることとしては――やっぱり、俺は瑞希のことを確かに好きだ、ということ、そしてもう少し話していられたかもしれないチャンスを逃したことが、少しだけ惜しいと思っている、ということ。


 ということで。


「……あ、晃生。……なんでそんな難しい顔をしてるのさ」


 瑞希が大学を去ってから、わずか数分後のこと。

 そんなことを言いながら、何でもないような表情を浮かべて現れた冬哉の背中を、八つ当たり気味に強めに叩いてしまったのも、俺の中では仕方のないことなのだ、と。


 ほぼ不意打ちで入った一撃に、冬哉は「痛った」と声を漏らして不満顔をする。

 俺はその反応で、少しだけ気が紛れたような感じがして。


「……いきなり何するのさ」

「いいから黙って叩かれとけ。……あとこれお前の分な」


 まぁ、いくら事情を話してあるとはいえ、あと少しお前が早く出てきていれば瑞希と一緒に帰れたかもしれないのに、なんてことは流石に恥ずかしくて言えない。

 だから代わりに、気持ち多めに取り分けたチラシを押し付けると、案の定冬哉は嫌そうな顔をするのだった。

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