第二章 変わるべきとき

Ⅰ—瑞希

 二限の講義に間に合うようにかけたアラームの音で目を覚まして、トースト一枚を焼いて齧りつつ、色々と準備をして家を出る。


 大学行きのバスを待つ、その間にちらりと覗いたSNSのタイムラインでは、友達の一部が『絶起なう』『はやくも単位やばい』などなど様々なバリエーションで遅刻を意味する言葉を書き込んでいた。


 この子たちは何のために大学に来てるんだろう、と思うのが半分、アルバイトが忙しかったり一限の講義を取らなければ行けなかったりと色々あって大変だなぁ、と思うのが半分。今時の大学生、というのは、どうにもこういう辛いところがあるものだ。

 まぁ、だからといってサボってばかりもいられないし、そんなだらしない友達たちも、どこかでは帳尻を合わせるために頑張るんだろうけど。


 冬の、少し混みあったバスに揺られ、講義開始十分前くらいには構内に到着する。

 黄色や茶色の葉が、枝にほんの数枚残っているだけの木々を見て、もうすっかり冬だなぁ……なんてことを思いながら教室へ。


 机に力なく突っ伏したメグと眠そうな目を擦るユリに手を振っておいて、空いている席――が、前の方しか残っていなかったので仕方なくそこに座る。


 ちょっと乱暴に、鞄の中からルーズリーフと教科書を取り出して机の上に並べる。


 そこでようやく落ち着いて一息つく、のだけれど、途端に睡魔が襲ってきて、危ういところで踏みとどまる。あたしも皆のこと言えないなぁ、なんてこっそり思う。

 取り敢えず教授が来るまでの時間はスマホを弄って誤魔化すことにするけれど、講義が始まったらダメだろうなぁ……と、あたしは漠然とながらも思っているのだった。




 はぁ、と深くため息を吐いて、もう一度机に倒れ込む。

 結局、大して集中も出来ないまま講義が終わってしまった。


 こんな調子で大丈夫だろうか、と自問して嫌になる。何しろ、もう少しで試験があるのだ。今日聞き逃したあたりが出題されると解けないかもしれない。

 誰かに教えてもらえればいいなぁ……なんて思う。けれど、それが願望形になってしまうのは。


「……瑞希、ゴメン、あとでさっきの講義のノート写させて……」


 と、今にも死にそうな声で話しかけてくるような友達くらいしか心当たりがないからなのだけれども。

 うん、今時の学生というのは、どうにも辛いものがあるのだ。


「あー、ごめん、あたしも今日はちょっと」

「えー、瑞希が聞いてないなんて珍しい」

「っていうか最近いつもそんな調子じゃない?」


 後からやってきた別の友達に言われてあたしは、あはは、と誤魔化し気味に笑う。


 心配してくれている、のだと思う。だから少し罪悪感があるけれど、それでも話すようなことでもないし――それに、今あたしが抱えている問題は、この子たちのせい、とまでは言えないけれども、ちょっと『友達』には話せないな、って思う。


「それで瑞希、学食行くよね」

「あー、うん、ごめん、今日はパス」

「……なーんか最近、ほんと調子おかしいよね、瑞希」

「ごめん、しばらくしたらなんとかなると思うから。……じゃ、またあとで」


 よくないなぁ、と、あたしは心の中で呟く。彼女たちとは、別にこの程度で崩壊するような付き合いではないけれど、あたしがよくないと思うのはむしろ自分で勝手にドツボにはまってしまう自分のことで。

 それがわかっていて、それでもつい、逃げるように立ち回ってしまうことを止められない程度には、今のあたしは迷走状態だった。




 ああ言っておいて何なのだけど、今更になって昼食のあてがないことに気付いた。普段は学食で手早く済ませているというのに、誘いを断るからこういうことになる。


 大学内に食事ができる場所が他にない、とは言わないけど、そういう場所には大体顔見知りがいそうだ。今日の状態だとマトモに談笑できるか怪しいし、それも避けたいところだった。


 と、なると、残された道は一つだった。できれば温かいものが食べたかったんだけどな、と思いながら私は購買に足を運んだ。


 四百円に少し届かない位の鳥そぼろ弁当を雑に選び取って購入し、備え付けのレンジで温める。どうせすぐ冷めてしまうのはわかってるけれど、加熱しないよりはマシだ。


 しばらく悩んで、行き先をある建物の屋上に決める。

 屋上、と言ってもそれほど高さがあるわけではなくて、どちらかというとテラスという方が雰囲気が近い。それなりに広く景色も悪くない場所なので、季節によっては結構人気のある場所なのだけど、まさか冷え込みの激しいこの時期に屋外で食事をとるような馬鹿もそうはおるまい。


 その目論見どおり、屋上に繋がるドアを開けても、人はいなかった。代わりにあたしを出迎えたのは音をたてて吹き抜ける真冬の冷風。寒さに震えつつ上着の前を引っ張ってせめてもの抵抗を試みる。


 手頃なベンチに腰掛け、レジ袋の中身を取り出す。割り箸を割る前に、いただきますと呟くことも忘れない。


 ひとすくい取って口に運ぶ。やっぱり少し冷めているけれど、それは覚悟済み。これが大学の購買のもの、というところを加味すれば、まぁ思っていたよりは美味しい、と言えなくもない。しばらく黙々と箸を進める。

 それからふと、箸を休めてため息。寒さ以外はいい場所にいるというのにも関わらずこうも憂鬱ゆううつになるのだからやっていられない。


「……あれ、瑞希?」


 そんなことを考えている最中に、よく知った人物の声。


 そういえば、いた。仲のいい人たちの中に、馬鹿の心当たりが一人。

 入ってくるときには見えなかった、何かよくわからないオブジェの向こうから、冬哉がひょっこりと顔を出して、こっちを窺っていた。


 視線が合って、つい身構えてしまうあたしがいる。


「珍しい、瑞希がこんなところにいるなんて」

「そう、かな」


 返事が適当になってしまうのを感じつつ、箸の動きが自然と早くなる。

 嗚呼あぁ、神様。どうして人を避けたいと思う日に限って、あたしはこうも色んな人と遭遇してしまうのでしょう。


 それでもまぁ、出会ったのが冬哉だったのは不幸中の幸いと言うべきか。彼はあたしの挙動不審な様子を追求することも、あたしの近くに座り直すこともせず、自分の食事に戻っていった。

 ちらりと横目でうかがい見ると、彼はおにぎりをかじっているところだった。おそらくは購買で買ったものだと思う。……こんな寒いところで冷や飯って、辛くないのかな、ってちょっとだけ思った。


 そのうち、気づけばあたしのお弁当は空になっていた。けれど、この沈黙の数分間のうちに、なんだかいちいち逃げ隠れするように動き回ってばかりいるのが馬鹿らしくなって、早く食べ終わって別の場所に移ろう、なんて気はすっかりなくなってしまっていたのだった。  

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