Ⅳ—冬哉

 瑞希が鍵盤の、最後の一音を押さえた、そのままにキーボードから鳴って長く伸びた音と、アコースティックギターの空洞内で響く音。三曲目の最後の和音が、絡みあいながらゆっくりと消えていく。

 それを聞き届けて、僕は思わず、小さく嘆息たんそくした。


「……まぁ、なかなかいいんじゃないかな」


 つい、そんな言葉が口を突いて出た。それを受けて晃生もようやく、ドラムを叩き終えたままの体から力を抜いて。


「そうだな、初めてにしてはなかなか上出来じゃないか?」


 そんな風にして同意する。

 瑞希はそこに交じってはこなかったけれど、それでも、指先を鍵盤から離した彼女の、ここから見えるその横顔は、どことなく満足げに見えて。


 今日いきなり集まって最初の練習。曲は、僕ら三人が一曲ずつ提案して決まった、冬定番のものが、合計三曲。

 決して皆が知らない曲ばかりが選ばれたわけではない。だから全くのゼロからスタートしたわけではないけれど、それでもバンドを組もう、という話になってからまだ二週間も経っていない。

 その間にも皆がそれぞれに講義やバイトで忙しかったこと、そしてそもそも僕らが恒常的に演奏をしているようなタイプじゃないことを考えると、今日いきなり三曲を通しでやってみて、それが『曲』の形になっている、ということは、それだけでもかなり驚くべきことのように思われた。


 と、晃生が突然立ち上がる。

 そのまま真顔でつかつかと僕の方に近寄ってきて――突然、僕の背中を、ばしーんと思いっきり叩く。


「いった!」

「いよっしゃ冬哉、よくやってきてくれた!」


 僕の悲鳴は、晃生の喜びに満ちた声にかき消される。しかもそれだけでは終わらず、何発か追加で平手が入る。


「ちょ、ちょっと晃生、痛い、痛いから」


 何度かそう言うと、ようやく晃生は背中を叩く手を止めてくれた。

 だけどそれだけでは満足しなかったようで、結構強引に肩を組まれる。


「いやいや、やっぱお前すげぇって。乗り気じゃなさそうだったくせにやっぱやるときはやるなぁ」

「本番でもないのにそれは流石に大げさだって」


 実際、本番までにはかなりの時間があるし、それだけの時間の間に克服しなきゃいけない課題も、まだまだたくさんあるように感じた。

 それと、初日からここまで演奏が成り立ったのは、別に僕一人の努力のためだけじゃない。晃生だって瑞希だって、それぞれがきちんと練習してきたからのことなのだから、僕一人だけこんな風に褒められるのも違う気がする。


 そう思って、僕は瑞希に助けを求める視線を送るけれど。


「んー、でも今回の練習、結構冬哉が引っ張ってたところあったと思うよ」


 などとさらりと言われてしまって、なんだか妙に照れ臭い気分になる。

 初めは嫌々ながらだったのが、弾いているうちにだんだん熱が入って、気づいたらレポートを放りだして練習してしまった、その甲斐があったなんて考えると、嬉しいような悲しいような気分になる。

 けれど、あんなに渋っていた手前、そんなことを正直に話すのも気恥しくなってしまって。


「……まぁ、元から知ってる曲もあったし」


 結局そんな風に誤魔化してしまう。目を逸らした僕の顔を、晃生がニヤニヤしながら覗き込んでくるのだけれど、気持ち悪いから本当に止めてほしい。


「照れるなって。この調子だと本番もうまくいきそうだな」

「そう言うなら、とりあえず晃生はテンポがズレるところをちゃんと直さないとな」


 流石に言われっぱなしではいられない、と反撃すると、晃生が、うげ、なんて声を漏らす。自覚はあったらしい。

 放っておけばそのままお小言合戦になりそうなところで、瑞希が手を叩く。


「はいはい、なんでもいいけど、練習時間もったないからとっとと二回目やろ。まだまだ直すところいっぱいあるんだから」


 瑞希のその言葉に、おっしゃ、と晃生が気合を入れて戻っていく。そうして僕らはそのまま、スタジオの退出時間になるまで練習を続けたのだった。




 スタジオの帰り、陽の落ちた夕方の道のりを、バス停まで三人で並んで歩く。

 瑞希は左手をコートのポケットに突っ込みつつ、右手でスマホを弄っている。晃生の方は、練習中の調子はどこへやら、考え事をしているような調子で呆けた顔を晒している。

 何となく漏らしたため息が白く変わる。それが厚着の隙間から差し込んでくる寒さをより一層強くさせるような感じがして、僕は小さく身震いする。ほんのりと汗ばんだ体には、冬の空気は毒だった。


 不意に、晃生が口を開く。


「しっかし、アレだな、ちゃんと練習しねぇとなぁ……」


 それは以前もどこかで聞いたような言葉だったけれど、今度のはため息交じりで、しかもかなり実感がこもっていた。

 それに僕が言葉を返すより先に、瑞希がなんてことのないような口調で返す。


「そうだね、あたしもちゃんとしなきゃ。時々触ってはいたんだけど、ちゃんと弾くとやっぱ、指が動かなくなってるなぁ……」

「ま、瑞希ならすぐになんとかなるだろ」

「なにその過信。……あ、そうだ、あたし今日の練習、録音してたんだけど、データいる?」

「お、それは助かる。頼むよ」

「りょーかい」


 それから瑞希は僕とも視線を合わせて。


「冬哉はどうする?」


 と。


「……そうだね、僕にも送ってもらえると助かるかな」


 少し間を開けて、僕はそう答えた。


「了解。帰って、編集したら送るね」


 そう答えて、瑞希はそのまま、一つ大きく息を吐いた。


 そうこうするうちに僕らはバス停に辿り着き、人のいない待合所のベンチに、少しずつ距離を置いて腰かける。

 見上げた先の時刻表によると、あと十分前後で次のバスが来るようだった。


 薄ぼんやりした電灯の光に照らされ、僕らの間には沈黙が満ちる。二人はそれぞれに何か考え事をしているようだった。おそらくは、今日の練習のことを。


 音を重ねている途中の、心地の良い高揚感、それが今は少しずつ平熱に戻り始めていた。それはきっと、二人も同じなのだろう。

 今日はなんとなくうまくいっているように感じたけれど、実際は多分、まだそれぞれが自分の演奏に必死で、他の二人の音を聞く余裕があんまりなかったからそう思っただけ、という部分も、すべてではないにしろ多少はあったのだろう。


 きっとそれぞれが、ここをミスした、とか、合わせてみると一人の時とは違うな、とか、そんなことを思っているはずだ。瑞希の録音は、そうした部分を後で振り返るにはかなり役立つだろう。そして次はもっといい演奏ができるようになる。


 今日の反省と、それでもこれから先の明るい展望。その最中に浸ろうとしていても、しかし僕は冷めてきた頭の中で、どうしても浮かんでくる一つのことのせいで、そこに没頭できずにいた。


 僕が立ち上がると、それに気付いた瑞希は不思議そうな表情を浮かべて僕を見上げてきた。


「……ごめん、そういえば、ピック買って帰ろうと思ってたんだった」

「次のバス、もうすぐ来るけど」

「ん、まぁでも別に次のバスで帰ればいから。先に帰ってて」


 そう答えると、瑞希は「そっか。またね」と言って軽く手を振る。僕はそれに応えて、それから横で若干動揺した様子を見せる晃生に「別に気を使ってるわけじゃないから」ということを視線で伝え――それから、ギターケースと荷物をもう一度担ぎなおして、再び冬空の下を、街の方へと歩き出した。

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