第一章 そうだ、バンド、やろう。

Ⅰ—冬哉

 成長するっていうのはどういうことなんだろう、と考える時がある。


 辞書にある意味はこうだ。『育って成熟すること』。

 それは確かにその通りだと思う。幼い頃の僕も、小学校の授業で育てていたアサガオだって、ちょっと大きくなるたびに「成長したねぇ」という言葉を色々な人にかけてもらっていた気がする。


 けれど、時に成長という言葉は、身体が大きくなるという意味以外でも用いられる。僕が知りたいのはそっちの方だった。


 年齢を重ねても、所属しているものが変わっても、ずっとただ、自分だけが変わらずに一人取り残されているような感覚を、僕は折に触れて感じていた。

 このままではいけない、そう気付いたのは多分、だいぶ昔のことで、それからずっと、その思いを抱えて生きてきて。


 だけど、だったら一体、僕はどうすればいいのか。そんな疑問には、しかし答えどころか、手がかりすら掴むことができないまま、表面上は進んでいるようで、実際には行き詰っている、そんな矛盾した生活をずっと続けて。


 あてもなく、ただもがき続けるだけの、しかしそれでも昨日と変わらないような日々の連続。

 気を抜けば体にどろっとしたものがまとわりついてきて動けなくなるような、かといってそこから抜け出そうとすればするほどかえって深みにはまっていくような、泥の海を泳ぐかのような繰り返しの中で、けれど僕は、伸ばした腕がなにかを捕まえる感触を、未だに知らないでいた。






 徹夜の末、何とか仕上げたレポートを、講義の最後に提出して部屋を出る。

 その行末ゆくすえ、というかそれによる僕の成績のことを思うと、また気分が沈みそうになる。


 とはいえ、そう憂いてばかりもいられない。本来、このレポートの提出期限は来週。僕がそれだけの余裕を持たせて課題を終えたのには、当然、それなりの理由があるのだ。


 そしてそれは、何も僕一人の事情というわけではない。というのも――講義室の外に設置されているベンチ、そこに腰かけている友人の方へと、僕は視線を向ける。


 その先で、退屈そうにスマホの画面に目を落としていた、腐れ縁の友人、夏樹晃生なつきこうせいは、僕の視線に気づいてか、にわかに顔を上げる。


「お、冬哉とうや。……どうした、また死にそうな顔してんぞ」

「あはは……ちょっと、また、徹夜で」


 そう答えると、晃生は心配するような表情を一転、呆れへと変化させて。


「またか。お前はいい加減ちっとは計画性ってものを身に着けたらどうだ?」


 と、なかなか耳が痛い指摘をしてくる。


「そうは言うけど、ここのところ忙しい理由を作ったのは晃生じゃないか」

「今回は、な。だけど冬哉、お前毎回何か課題が出るたびに徹夜してんだろ」


 そう言われてしまえばその通りなので、言い返すこともできない。

 一応、頑張って早く終わらせよう、とは思っていたのだけれど、と言い訳をしようとするけれど、そう思っても実行できていない、ということこそ、何よりも僕に、計画性というものが欠如けつじょしていることの証明に他ならないことに気付いて。


 それでもせめて、レポート自体の締め切りよりはずっと早く終わらせることができた、という点については評価してもらってもいいんじゃないかと思う。

 そんな甘い考えで、自分を責める自分自身を誤魔化そうとする僕の前で、晃生はもう一度大きくため息を吐いて。


「まぁ、いいか。……で、練習の方はちゃんとやってきたんだろうな」


 どこか真剣味を含んだ問い。僕は、晃生の目を見て、頷く。


「……あぁ、うん。一応、それなりには弾けるようになってる、はずだけど」


 というよりも、そっちに手を出していたせいで徹夜することになった、というか。


 やらなければいけないことがあっても、ついつい別のことに手を出してしまうのは僕の悪い癖だ。そして大体いつも、それのせいで自分自身が苦しんでいるような気がする。


 の、だけれど、今回に限って言えば、その『別のこと』というのもまた、晃生に頼まれていた『いつかやらないといけないこと』なので、それは不幸中の幸いというか、なんというか。


 とにかく、僕の言葉を受けて途端に機嫌をよくした晃生は、「そっかそっか、ならよし」と満足げに呟いて歩き出す。

 現金な奴だなぁ、と、僕も密かにため息を吐きつつ、晃生の後に続いて。そして、僕らは一度、荷物を取りに帰るべく大学を後にする。

 ここから十分くらい離れた市街地、その中にある音楽スタジオへと向かうために。




 晃生からとある相談を受けたのは、大体一週間と少し前のことだったと思う。

 予想外のレポート課題が課されて憂鬱ゆううつな気分だった僕は、たまたま廊下ですれ違った彼に、いきなり肩を掴まれた。


「なぁ、おい冬哉、お前って確かギター弾けたよな」


 開口一番に、晃生は僕にそう訊ねた。そしてその質問の意図を、僕は最初、測りかねてしまって。

 一応、弾ける、という部分については事実だったので、僕はうなずいた――のだけど、そのあとで段々と、嫌な予感がしてきた。だって、僕が楽器を扱えるか否か、なんて、晃生には特に関係ないことのはずだ。……いくつかの場合を除いて。


 そして――それは見事に的中してしまった。


 僕が「まぁ、一応、弾けるけど」と答えるや否や、彼は顔を輝かせて、僕の肩に両手を置いて、


「いよっし確保!冬哉、バンドやろうぜ!」


 などと、人目もはばからず声高に言い放った。


 率直に言って、意味がわからなかった。


 流石に、バンド、というものが何か知らないわけじゃない。ただ、大学生、バンド、と聞けば想像できるものはまぁ、軽音楽、もしくはそれに近いものだろうと思う。

 音楽好きの父の影響で、僕も何となくギターを触るようになった、そのおかげで、取り敢えずやったことのない人よりはギターを弾ける、それは事実だった。

 だけど僕が弾いているのはアコースティックギターで、だからバンド、という言葉からは少し遠い所にいるのもまた事実で。そして何より、僕はバンドをやろう、なんて気はないし、組むにしたってメンバーのアテもない。


 その辺りの事情は晃生もなんとなくわかっているはずで――だからこそ、僕もそうしたことを素直に晃生に伝えたのだけれど。


「あー大丈夫、それは知ってるから。別にそんな派手にやるわけじゃなくて、ちょっと『残念会』でやるくらいだし、場合によってはそっちの方が――」

「丁重にお断りさせて頂きます」


 即答した。


「ちょ、なんでだよ、そんな拒絶することないだろ」

「僕がそういうの嫌いなのは知ってるだろ」


 食い下がろうとする晃生に僕は慌てて追加で断りを入れる。


 『残念会』というのは、この大学で、毎年クリスマス付近の土日に開催されるイベントで、言ってしまえば『一緒に過ごす相手のいない人が、同じ場所に集まって大騒ぎする』という趣旨のものだ。

 一般客を含めて毎年それなりに客が集まる、というのは何となく聞いている。それに参加して、しかも演奏をする、というのは、僕にとっては想像すらしたくない事態なのだった。


 まず第一に、僕は人前に出ることがあまり好きではない。

 と、言うか、人と関わることが苦手だ。それはきっと僕の人見知りな性格だとか、昔人前に出て失敗したこととか、その辺りから来ているものだと思う。……後者については、もう思い出したくもないけども。


 それに加えて、バンドを組むのが初めてだ、ということ。別に誰かに披露ひろうするために弾いているわけでもないのに、いきなりそんなイベントで、なんて、ハードルが高すぎる。

 しかも、当日、(多分、悲しい事情によって)狂乱する観客の前で、とか。


 とにかく、そんな事態を避けるために、僕は全力で抵抗しようと試みる。


「ほ、他のメンバーはどうするのさ。晃生はドラム叩けるだろうけど、それだけじゃできる曲にも限りがあるだろ」

「あぁ、それなら、に頼もうと思って。ほら、あいつ確かピアノ弾けるし、歌もうまいし。ボーカルとキーボードが入ればだいぶそれらしくなるだろ」

「歌が上手い、って言っても、カラオケで聞いたくらいだろ……」


 晃生が、あいつ、と呼んだ相手には、すぐに思い至った。


 参加したくない一心で否定の言葉を吐いたけれど――しかし思い返してみても、何度か一緒に行ったカラオケで披露されたの歌声は、プロとはいかずともかなり圧倒されるものがあった。それはもう、そのあとにどっちが歌うか、晃生と軽く言い争いになった程度に。


 だからつい、彼女になら確かに、なんて思いかけてしまう自分がいて、そしてそれが分かっているからこそ、晃生も僕の抗議に取り合う様子もなく、彼女の姿を探し始めるのだった。


 まぁ、とはいえ、彼女に断られたら、他にメンバーになってくれそうな人の当てなんてそうそうないだろう。

 彼女もそういったお祭り騒ぎの類は避けるタイプのはずだし、彼女が断ったら流石の晃生も引き下がるだろう、と。


 そのときの僕は、後で思い返すとなかなかに楽観的な考え方をしていたのだった。

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