幸降る街の人魚姫

九十九 那月

 市立図書館の自動ドアを潜ると、エアコンで温められた空気が吹き寄せてきて、温度差で僕は少し身震いをした。

 手袋をポケットに突っ込み、コートを脱いで半分に畳んで左腕にかける。自転車を漕いで多少体は温まっていたけれど、それでも館内の温度は丁度体に馴染むくらいで、そのことにほっと一息を吐く。


 ここに来るのは一体いつぶりだろう。かつてはそれなりに通った場所のはずなのに、久しぶりに訪れてみると、見知らぬ場所に来たような、けれどやはりどこか懐かしいような、そんな不思議な気分に囚われる。


 どうして僕がそんな馴染みのない場所に、しかも土曜日、休日である今日にわざわざ訪れることになっているのか、と言えば、ひとえに予想外のレポート課題のせいだ。


 大学に通っていると、必ず取らないとならない講義と、単位数を埋めるために取らなければいけない講義というものがある。僕もまたその必要に駆られて、周囲の評判的には楽そうに思える講義を受講したのだけれど――その担当の教授が、今年からレポート課題を追加します、などと、実にさらりと告げたのがおおよそひと月ほど前。


 正直、それを聞いたときは何かの詐欺みたいじゃないか、と思った。いっそそのまま放棄してしまおうか、なんてことも考えなかったわけじゃないのだけれど、そもそもそれでは本来の目的、単位数を埋める、ということが達成できない。

 そもそもは楽をしようという魂胆で講義を取った自分が悪いのだろう、という風に自分を納得させつつ、しかしそれでもレポートの期限までには当分の時間がある、と高をくくっていた。


 その計画が崩れ去ってしまったのが、昨日のことだった。期日周辺に予定を入れられてしまった僕は、否応なしに計画を繰り上げざるをえなくなった。

 慌てて資料を集めようとしたのだけれど――しかしその日は、大学が終わったあとすぐにアルバイトの予定が入っていたため、そのまますぐ大学の図書館に寄って、という計画が使えず、さりとて休日に、ちょっと交通の便が悪い大学に行くつもりにもなれず、結果として僕はここに来ていた。




「お探ししてまいりますので、しばらくこちらでお待ちください」


 そう定型の言葉を述べたカウンターの職員さんが、僕の提出した用紙を持って去っていく。その後ろ姿を見送って、僕は一つため息を吐いた。


 それらしい本を探すべく、図書館に備え付けられたパソコン、その蔵書検索機能を使って検索したところ、僕が求めている資料の凡そ半分くらいが、書庫の方に収められていることが判明した。

 大学生にしか需要がないような本、そして大学生は大学の方に行く、という判断らしい。そうした本は、専門の用紙を使って申請し、職員の人に取りに行ってもらわなければいけないことになっている。


 どうしたものかな、と心の中でつぶやく。職員の人が戻ってくるまでの間、思いがけず暇な時間ができてしまった。

 この間に他の本を探しに行ってもいいのだけれど、その間にあの人が本を持ってきてしまって、それで待たせるような形になってしまうとそれも悪い、なんて思ってしまう。


 そんなちょっとした悩みとともに、あてもなく視線を走らせていた僕の目が――不意に、あるところで止まった。


 専門書なんかが置いてある、あまり人のいない一角。そこに、何かを探すようにじっと書架を見つめる一人の少女が居た。

 年齢は、わからないけれど、身長から見るに取り敢えず大学生というわけではなさそうだ。そんな少女が一体あの場所に何の用だろうか、なんて思ってしまう。


 つい、暫くの間彼女のことを観察してしまって。そして、不意に、彼女が困ったような表情を見せて。そしてたまたまそれを目にしてしまった僕は、それを気にしてしまった。


「えっと……何か、探してるのかな」


 僕は、彼女に近寄って行って、驚かさないように、かつ周りの迷惑にもならないように、小さめの声で話しかける。

 その声に、彼女は驚いた、というように肩を跳ねさせてから、ゆっくりと振り向く。


 警戒したような目と視線が合って、まずかったかな、と思う。と同時に、別のところで、おや、と思う。揺れる長い黒髪の向こうから現れた彼女の瞳は、青みがかった灰色をしていた。


 一瞬、その日本人離れした瞳に、魅入られてしまいそうになる。


 とはいえ、と僕は思考を切り替える。今時ハーフとか、そういったものも珍しくはないことか、と思う。それよりも今は、警戒されている、ということの方がよっぽど問題だ。


 さて、どうしたものか。図書館職員の格好をしているわけでもない僕が、ここで「怪しいものじゃございません」なんて言っても余計に怪しまれて、下手をすれば通報モノだ。なので僕は一定の距離を保ったまま、用件だけを告げる。


「その、何か難しそうな顔で、難しい本ばっかりが並んでる棚を見つめてたから。何か探してるなら、もしかしたら手伝えるかも、と思ったんだけど」


 僕の言葉を、彼女はまだ半信半疑といった様子で聞いていた。それでも、とりあえず、といったように。


「……『人魚姫』を探しています」


 と。

 その言葉に、僕は首を傾げる。なぜ彼女は童話を探すためにここの書架に来たのだろうか。


「児童書とか絵本とかのコーナーならあっちだけど」


 とりあえず、童話ならあのあたりにあるんじゃないかな、という記憶を辿って指を指すが、彼女はかぶりを振って。


「その場所は、もう探しました。私が探してるのは、アンデルセンが書いた方です」


 そう言われて、僕は一瞬考え込んでしまう。そりゃ、『人魚姫』はアンデルセンが書いたものだろうけど――と、そこで僕は遅れて彼女の言いたいことを理解した。つまり彼女は、いわゆる『原作』の方を探しているのだ。

 確かにそう言うものはあまり子供向けのコーナーには置いていないかもしれない。それを探すために専門書なんかがある場所に来る、というのも、まぁわからないでもないな、と納得する。


「それなら」


 と、僕は図書館の一角を指さす。彼女は首を傾げて、何のことだ、とでも言いたげな顔をしている。


 多分、説明するよりは実際にやってみせた方が良いだろう。僕はその場所――まさにさっき使っていた、パソコンの置かれた区画へと歩いていって、検索欄に『人魚姫』、それからスペースを空けて『アンデルセン』と打ち込む。すぐにアンデルセンの全集みたいなものが引っかかった。


 僕はその所在や管理番号なんかを備え付けの紙に書きとめると、後ろで様子を窺っていた彼女に、その紙を手渡した。


「全集なら、書庫にあるらしい。これをカウンターの人に渡せば、出してきてもらえると思うから」


 そんな風に伝える。すると彼女は、手渡された紙に視線を落として、それから僕の方を見上げた。

 その表情が、ほんの少しだけ、緩んだような気がした。


「——ありがとうございます」


 最後に彼女はそう告げて、カウンターの方へと向かって行った。

 彼女が紙を職員に手渡すのを見届けて、それから腕時計で時間を確認する。彼女とのやり取りをするうちに、五分程度の時間が既に経過していた。今から資料を探しに行くのもな、と、僕はスマホを取り出しつつ残りの時間を無為に過ごすことに決めた。


 そろそろ、時間は二時になろうとしていた。今日も夜にバイトの予定があるので、それまでの時間と空いている明日とを使って、ある程度はレポートを書き上げてしまいたいところだ、と思う。

 もっとも、この手の計画は大抵うまくいくためしがないのだけれど。


 ふと、カレンダーアプリを立ち上げた。バイトの予定や大学の用事なんかが並ぶ中で――三週間と少し先に、一つだけ目立つ色のラベルがあって、そこに『残念会』の文字。


 頑張らないとな、と呟く。いつもレポートと言えば締め切り前日に徹夜して終わらせるようなことばかりだけれど、今回ばかりはそんなわけにもいかないのだ。


 ふと顔を挙げると、既にさっきの少女の姿はなく、そして丁度僕が請求した本が運び出されてきたところだった。

 僕はそれを受け取って適当な場所に腰かけ、まずは館外持ち出しができないものの内容から調べ始める。


 そうしながらも僕の頭の中には、再びさっきのカレンダー画面がよぎっていた。

 残り三週間。改めてその時間の短さを実感する。

 改めて、あの話を引き受けてしまったことへの後悔が押し寄せてきそうになる。それでも、やると言ってしまった以上はしかたない、と考えて、僕はその思いを一旦忘れることにする。


 十二月の、なんてことはない冬の日。けれど、まだずっと先のことだと思っていたクリスマス、僕らの勝負の日は、気づけばすぐそこに迫っていた。

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