downer・血塗れの雌(チマミレノメス) a bloody female
無残に死んだ
我らはかの者と同一では有り得ず、同一であってはならない。
記憶に刻め、遣り口を。
言葉に、少女は機械的に従順に頷く。
狼はヒトを好んではならない。狼はヒトを許してはならない。
狼はヒトと話してはならない。狼はヒトと歩んではならない。
狼は狼である事を忘れてはならない。
狼は獣である事を忘れてはならない。
我らはオオカミ。ヒトでは無い。
恨むべきは、
我らを
母親は爪の割れた指で姉弟の手を掴むと、姉に弟の手を握らせた。上から手を被せて強く握らせる。少女は、弟の手を握り締めた。自分にとっての義務だ。鼓動が強く胸を打つ。頼るものなど何も無い。手を握っていれば、安心だと思った。その場の不安から逃れるために、小さい手を握り合った。いくら指に力を込めても本当は無理なのだ。反射的な衝動で喚き出さないように必死だった。無闇やたらな行動は無意味だと、既に知っている。親は認めてくれない。
語りの中に偽りを感じても、言葉にしてはいけなかった。
それは、存在しない物なのだ。
親の命令には、従わなければならない。
親を信じていた。逆らってはいけない。
忠実に頭を垂れる。疑ってはいけない。
従順に目を閉ざして、答えは一つしかない。
子供は、親を、信じなければならない。
心が冷たく凍っていく。ガラスの窓を閉めるように、少女は心を閉じた。裏腹な言葉が唇から紡がれて、押さえつけられた感情が胸を焦がした。
(わかったね―――うるふ?)
「はい、お父さんお母さん」
少女に生き方を教えた親は、
そう、こんなことは無意味だと知っている。
静寂が下りない蛍光色のネオンに照らされた夜の中に、獣が居る。今にも穴が開きそうな擦り切れたスニーカーが、全身を高額の
男は涙と鼻水と血まみれで、みすぼらしく反抗を試みていた。
畜生、畜生、と呻いている。顔の横辺りに歯が既に何本か転がって、男は血混じりのよだれを垂れ流していた。
「……化け物」
少女の指先に、けばけばしいネオンの光が閃いた。
男は嗚咽が混ざった悲鳴を上げる。
気休めだったが返り血を拭う動作をして、落ちて来た癖のある髪をかきあげる。長く波打った茶髪は肉食獣の毛並みに似ている。
足元の肉塊を見下ろした。まだ、痙攣している。尻ポケットから財布を抜き、腰のベルトから鎖を外した。
「姉ちゃん」
背後からの声がある。低く掠れた声で口調は幼く、呆れと拗ねるような調子が混ざっている。顔を顰めた少年が立っていた。
目深に被った帽子の下から、瞳が落胆を滲ませていた。
「一人で終わらせちまうのか」
「……ああ」
言葉が耳まで届かない。意味をようやく、理解する。
少女は遅れて、応えた。
「ごめん。つい」
少年は口の中で呟く。
「……別に。いいけどよ」
少年はカーゴパンツのポケットからビニール袋を取り出すと、開いて突き出した。財布を中に放り込む。
「次、行こうか」
片頬が歪む。頬に刻んでいるのが、どれほど醜い笑みなのか分からない。早い鼓動が治まらない。
「とにかく、あたしたちは生き残らなきゃならない」
おう、と少年が頷く。
昼夜を問わず、影の中で静かに息を潜めている獣がいる。
二頭の獣が笑いながら街に消えていくのを、誰も知らない。
この場所が、異能が住む世界だと誰が知っているだろう。
雑踏が目の前を通り過ぎていく。気だるげに店先のブロックに腰を下ろして、見送っていた。少女は癖のある髪を背に垂らし、学生服を装った特徴の無いミニスカートと着崩したシャツを身に付けている。シャツが包んだ体は均整が取れていて、スカートの裾から伸びた組まれた脚はしなやかな線を描き、長さが強調されている。服はよく見ると薄汚れている。だが、どこに居ても珍しくない組み合わせのせいか、誰もが些細な汚れなど気にしない。気にもとめない。
少女は腿に頬杖を付いて、道を行く人々を眺めている。
全員が脇目も振らずに歩いて行く。話し声が縦横無尽に飛び交っている。やらなければならない目標だけに駆り立てられて、目を逸らさない。
(誰も、何にも興味がないみたいだよねー)
己の事しか眼中に無いような生き様だ。
道端の少女など彼らの人生に一片たりとも関係も無く、僅かな価値も無い、存在していないも同義であるということが、実感できる。実際その通りだ。人々に対して、少女は特別な感情を抱かない。特別であろうとも思えない。決してなれるわけが無い、理由がある。
少女と道を行く人々の間には、決して越えられない隔たりがある。
ブロックから立ち上がる。生温い風が、頬に触れる。いつも通り、耳鳴りがしそうな騒音がBGMだ。乗り物のエンジン、店員の呼び声、漏れ聞こえる会話、足音に衣擦れ、キーホルダーやアクセサリーのぶつかりあう金属音、開け放たれた店先から零れる曲の切れ端、様々な音が混ざり合って頭が壊れそうな爆音になっている。
自分は音楽を刻めない。鼻歌など覚えた記憶も無い。
少女の生きる場所が、ここに居る全ての人間の生きる場所が、異能が住む世界だと誰が知っているのだろう。
きっと誰も知らないに違いない。
(どっちみち、あたしは知らない)
どれだけのニンゲンが、戦場を知っているのかを。
歩き出して数歩進むと、足元に異変があった。波紋が広がるように風景が変わる。閉ざされていく。少女の目の前で、無色の領域が展開される。石を一つ一つ組み上げるみたいに、続々と覆われていく。早回しのテトリスみたいに、積み上げられて見えない壁が出来上がっていく。
世界は色彩を失う。音を失う。何も無い場所に、息をする存在が二つだけ残った。黒尽くめの男と、二人――――。二人切り、人が消えて急に開けた道路で向き合っている。
弟と離れた事を悔やんで、奥歯を噛み締めた。
(前っ、この辺展開しなかっただろうが!)
不用意に浮んだ嫌な想像を振り払う。道路に横たわり、負けるというイメージだ。らしくない―――。不意打ちの戦闘で、動揺しているのだろうか。本当にらしくない。
何年も昼夜を常に共に過ごしている。
戦闘も悪意も慣れ切っていた。
事実を知覚して、脳味噌が急激に冷えていく。
(あたしの敵がいる)
目前に、薄く笑う男が存在していた。立って、いる。負けない。負けるはずがない。今はそう、ただ戦えばいい。
(あたしは、獣だ)
一度目を閉ざす。ざわめき出した身体に、熱く
激情が噴き出す。今一度開く時、戦いは開始される。
目を開いた。
全身を振り絞るような
自らの獣の精神に飛び乗った。久し振りの精神解放、100%全開モードだった。リズムもビートも聞こえない。最高にハイな瞬間が訪れる。凶悪な笑みで飾って、後は〝獣〟に身を任せればいい。
潜んでばかりの日々には、うんざりしているんだ。
戦いの後、荒い息をする少女が一人だけ存在した。男は路面に横たわっていた。赤い海に沈む壮年の男の面相は無残に切り裂かれ、醜く変わり果てていた。
「
領域は解かれない。きっと傍に居ると弟の名前を呼ぶ。何度も繰り返すが、少年は一向に姿を見せない。辺りは静まり返って不安が胸に打ち寄せる。(恐い)恐怖が一歩ずつ、足を速めて近付いてくる。喉が苦しくなってくる。弟を探さなければ―――ならない。早く、見つけ出さなければ。
(荒野を、守りなさい)
頭が痛くなってくる。吐き気がした。二人が一人になってしまうということの意味は、少女にとって酷く大きかった。コウヤ。微かに呟いて、もう一度声を張り上げようと息を吸い込んだ。
着地する足音が耳に届く。息を止め、振り向く。
そこに居たのは弟ではなかった。
全くの別人だ。呆気に取られ、即座に神経を張り詰める。若い男だった。二つか三つ、年上に見える。どこからか、たった今飛び降りて来たのだろう。落ち着いた黒い直毛の髪。色が抜け落ちたように、極端に白い肌が浮かび上がる。男の身体に余分な力は入っていない。言ってしまえば抜け過ぎている。手も脇に垂らして、ただ立っているだけだ。何もしない。する様子も無い。黒い瞳がこちらをゆっくりと見る。
少女は低く唸り出す。
男は、一般人ではありえない。ここに居るということが、何より確かな証拠だ。これは、一般人は入れない結界なのだから。
直感的な、獣の匂い―――!
(感じる!)
全身が総毛立つ。胸が大きく鳴って、体が変わっていく。頭に僅かな痛みが走り、獣の耳が髪を割って現れる。唇を割いて獣の牙が伸び、スカートの裾から現れた獣の尾が揺れる。開かれた手から、爪が剥き出される。肉食獣が獲物を狩るための、鋭く尖ったナイフのような爪だった。
少女は、狼だ。
男は、唸り続ける少女の変化を目にしても何一つ口にしなかった。こちらからは、仕掛けない。身体を屈めて警戒をあらわにしながら、相手の観察を続ける。男は唐突に興味を失ったように目を逸らして、膝をたわめた。動きに緊張し、
「今の、何?」
高いビルを見上げて、気持ちが素直に言葉になった。
(罠か?)
疑問に思ったが、戦う意思が無いのならわざわざ追う必要は無い。(―――荒野)今は弟の行方が先だ。弟の不在が、脳内で警鐘を鳴らし続けている。痛む頭を切り替え、今度は弟を探すために警戒を怠らず少女は走り出した。
「姉ちゃん!」
元気な声に足が止まる。目に入ったのは慌てて駆けて来る弟の姿だった。ニット帽からTシャツにかけてが、
「ああ、良かった。大丈夫?」
弟は牙を剥き出し、抱えていた戦利品を突き出す。それが財布と、体の一部だと気付いて眉根を寄せる。指だ。
弟は、段々えげつなくなって来ている。
「何これ。どうすんの」
「べっつに、取っちゃ悪いって言うのかよ」
「アンタがいいなら、いいけど……。そんなに余裕あんなら、心配しなきゃよかった」
「そーだぜ。うるふの方こそ、楽勝だろ」
荒野が、足元にあった死体を無造作に蹴る。先ほどの戦闘を思い出した。見知らぬ男の登場に気を取られ、すっかり忘れていた。赤い水溜りに浸かった自分の靴が、濡れている。
こんなモノはもう、どうでもいい。
肉塊を見下ろすが、うるふは既に興味を失っていた。問題はあの男だ。濡れたような黒い瞳で、こちらを見ていた黒い男。
あの目が、焼きついて消えない。
(あいつも、獣だ)
手を染めていない顔では無い。目が違う。明らかに、こちら側の生き物だ。
獣のニオイがまだ、残っているような気がしていた。
自分の狼の嗅覚と直感が外れたことはない。あの男は本当の意味で自分と同類だと感覚が知らせている。
血縁以外で初めて見る、近い者だということ。
(―――ふうん。どうでもいい)
うるふは男が去っていったビルを見上げる。明日には忘れる出来事だろう。何事も無く出会うには、広過ぎる街だ。
(どうせ、もう会わない)
思考を別の方向に向けようとした。肌が痺れるような感覚があって、無視できない。異能の数は限られているとはいえ、馬鹿にならない量になってきている。再び出会うはずが無い……それでも。
ひょっとしたら。
らしくないと吐き捨てて、意味の無い思考と未だかつて経験の無い感覚を振り払うように身震いした。二人は敗者から金品を奪って、その場を後にする。
殺して奪って生きていく、単調な繰り返しの日々を送っている。異能は、認知されていない存在だ。必要なものは、奪って生きる。殺すだけなら、幾らでも出来る。だから、出来ることなら残酷に。
今日もうるふは街を歩いているが、いつもと違って太陽が空の天辺で輝いていた。ありがたくない日差しが、肌を焼く。昼日中に出歩くのは珍しい。それに今日は、どうしてもという理由もあるわけではない。耳には、以前の戦闘での戦利品のmp3プレイヤーがある。登録してある曲は分からないし曲目に興味は無いが、街で耳にしたことはあるような、どれも似た最近のヒットソングが耳を流れてゆく。まだ弟は眠っている頃だろう。扉を閉じる時は、部屋に閉じ込めるような罪悪感があった。歩いている今も、吐き気がしていた。
(つうっ……)
頭痛を堪える。顔をしかめて餓えた野良犬のように、微かに舌を出す。好き好んでアスファルトを放浪している訳ではないが、無性に街を出歩きたくなった。光に照らされているだけで不安感があり、薄暗い部屋に戻りたい気持ちが胸を占める。獣の本能、だろうか。暗闇や、影が呼んでいる。それでも、不快感を押さえ込み、逆らって太陽の下に居ると恍惚にも似た感情があった。自嘲的な笑いが浮んでしまう。
(馬鹿みてー……)
(無理、しちゃってさぁ)
一体自分は何がしたいのだろう。
老年と呼んでも差し支えない男と擦れ違う。姿を横目で追う。意識が張り詰める。年齢を重ねている割に背筋が伸び、凛々しい面差しをして両腕に二人の少女達をぶら下げている。男の腕に抱きついた少女たちは服装を淑(しと)やかなスカートで揃えて、髪を二つに結わえた方が幼く、頭の天辺でカチューシャのように細いリボンを結い、長い髪を下ろした方は年上の顔立ちをしている。長い腕にすがって男に向けて甘えた眼差しを投げ、小鳥のようにさえずっていた。
(ふうん)
平和だねと見送る。年上の方が顔だけ振り向いた気がした。
小さく笑ったように見えて、まるで見せ付けられているようで不愉快になる。
「不気味なヤツ……」
どうせ自分の思い違いだろうが、今はやはり気が立っている。
一人でいることを自分で選んだはずなのに、どこか頼りなくて焦燥感があった。
二人が一人になってしまうことの意味―――だ。
重要なことのはずなのに、心を紙やすりで撫でられるような感覚がして裏切りたくなる。何かに押さえつけられているようで、見えない何かに無性に逆らいたくなる。前々から、あったことだ。ただ、実行に移したのは久し振りだった。
(何年ぶりかなァ)
荒野とは、約十年前に親に放り出された時から二人切りで生き合って来た。弟と言っても、歳は一つしか変わらない。街で、二人切りで生き抜いてきた。
(そう、あたし達は、何としても生き残らなきゃいけない)
うるふは、弟を守れと親にきつく言い渡されている。
つまりは重要度の問題だ。
全世界の人類の中で圧倒的少数の異能の中、種族を分別すれば〝人獣〟その中の〝狼〟、うるふが属するのはさらにその一派。小数派は明らかだ。現在の立場から、いかにして這い上がるか。絶やさず、数を増やすか。たった一つの手段は交配――だ。数が減少した結果〝狼〟同士の交配は不可能に近い以前に、非生産的である。亜種との交配あるいは、人間との交配が主流になる。そうなってくると、〝
二人で、と言っても、もしも窮地に立たされた時、生き残るべきが誰かは決まっている。理屈として理解しているし、納得しているつもりだ。親には嫌と言うほど言い聞かされ、うるふの血肉となって身体に染み付いている。
対して荒野は〝狼〟として自分達の立ち位置や、行動の原理、原則は理解している。親から教育を受けているからだ。それとは別に、本質的に好戦的で気まぐれだ。言いつけを聞かず気の向くままに出歩く癖に、いざどうにもならなくなると頼り切りなのが見え透いている。優先順位など気にも留めず好きな時好きなように好き勝手に、荒野を重要視し守っているうるふに懐き、頼り、癇癪を起こし、
そして、一時間もすればけろっとした顔で横にいる。
うるふは顔を
荒野は、甘えたがりだ。
うるふが荒野を必要としているように、荒野はうるふを必要としている現れなのかもしれない。でも荒野の振る舞いは、うるふにとっては、たまに自分の立場を利用しているように見える。
(だからこそ、なんだよ)
そういう荒野を放っては置けない。守るために、自分が居る。
自分は、守るために居る。
だからうるふも、荒野と絶対に生き残らねばならないのだ。
何百回、何千回と噛み締めた決意は、変わらず苦かった。
目の前を黒い影が過ぎる。獣のニオイが、鼻をつく。五官が一気に覚醒した。目を見開く。夢を見ているのかと思った。
人込みの海の中に、見覚えのある黒装束が浮んでいる。
(この間の!)
荒野を見失った時、出会った男だ。濡れたような黒髪と、黒い瞳が鮮烈な印象を残している。間違いない。足が道路を蹴る。後を追っている。何がしたいのか分からないまま、ひたすら追いかける。人の海を掻き分けて、いつもの癖で息を潜めた。
男の姿が、飲み込まれたみたいに掻き消える。あっと声が漏れる。まずい―――。止まれずに踏み込んでいる。境界線を越えた先は、灰色の世界だ。
(境界を、越えたんだ)
舌打ちする暇に、頬に迫った生温い風を飛び退って避けた。
蹴りを放ったのは、牙を剥き出した男だ。腕や頬の辺りに虎の縞めいた紋様が浮かび上がっている。長身で、体中に
うるふも落ち着いて爪を現す。自分を高めるように、唸り声を出す。虎男の拳が今まで居た場所を打ち抜く。アスファルトに、へこみが出来る。飛び上がって避けている。高い筋力と、それなりにスピードもあるようだ。鋼のような筋肉に覆われているため、一般人と戦うのと違いポイントを見極めないと攻撃は効果を示さない。そもそも、力の差で一般人との戦いはほとんど一方的な
冷静に構えを取る。
例え同じ
二人以上が領域に入ることで展開する、誰が仕掛けたかもわからない、街中に見えないトラップのように散らばった灰色のフィールドが戦闘区域だ。灰色の領域の中は特殊な空間として区切られていて、能力を持たない人間を決して介入させない。
どちらかが出て行くまで、展開され続ける。
不毛な戦場がここにある。
うるふは虎男の技を避け続け、タイミングを見極める。ありがちなことに、虎男の攻撃は大振りで避けるのは容易い。チョロチョロ逃げ回ってるだけかてめぇ、オンナは大人しく下に敷かれてろとか下卑た笑みでありふれたことをだらだらと喋っている。呆れ果てて言葉も無い。
戦闘の最中で、戦う相手を見ていると自分がいつか子供を孕むことを考えただけで涙が出そうになる、とうるふは考えた。
いくら戦いに慣れていようが、少なくともこんなクズだけは願い下げだ。
(典型的な……)
「筋肉バカ」
「ああっ!?」
怒りに任せて拳を振り下ろした、その瞬間を待っていた。こんなセリフで頭に血が上るようでは、なおさら程度が知れる。
虎男の背中に飛び乗り、体重の乗ったスピードのある拳を脳天に打ち込む。前のめりになった虎男の頭を掴んで仰け反らせ、晒された首の頚動脈を鋭い爪で掻っ切る。噴き出し溢れて、肌を濡らす血液が熱かった。
シャツを湿らせ、浴びた血液が急速に冷えていくのを感じながら、構えを解かず振り向いて状況を確認する。先ほどの黒い男は二人に襲われていた。今倒したのと同じ虎男と、犀のような角を持つ大男だ。確認と同時に反射的に駆け出して、自分が何で走り出したのかを理解する。黒い男は、虎男の素早い攻撃に対応していて、犀がじわじわと移動しているのに気付かない。
「……っ! うぁああぁあああああぁああああああらぁあああっ!」
叫び声を上げ、猛突進しようと構えを作った犀の側頭部に向けて飛び蹴りを放つ。頭が揺れて、統制を欠いた身体が横倒しになる。注意を逸らされた虎男の頭部が、一瞬遅れて宙を舞う。
黒い男は、血を浴びて白い頬に真っ赤な筋が伝っている。
頭部がアスファルトに落ちて、血を吹きながら首無しの死体が倒れ込んだ。男は無言で近寄って来ると、うるふの脇で白目を剥いた犀の頭蓋骨に足を乗せ、体重をかけて踏み割った。
うるふの目を見ると、唇を歪め本当に微かに微笑んだ。
「ありがと」
自分を見つめる黒い瞳が間近にあった。獣の匂いが濃厚に漂っている。戦闘直後の荒い呼吸、火照った身体を冷静にしていくような声だった。刃のように鋭い爪と、口から飛び出た尖った牙を見て、思わず言葉が口から飛び出ていた。
「ねえ、ひょっとして、アンタも〝狼〟なの?」
「―――君は〝狼〟なんだね」
確認するように、うるふの顕現した耳や尾を見下ろす。もしかしたら、牙と爪だけで判断したのは早合点過ぎたかもしれない。スカートから覗いた尾を、指で触る。今さら迂闊だったかと後悔しても遅かった。
「そうだよ」
意に反して男は肯定する。
「俺も〝狼〟だ」
「へえ」
平静を装って、相槌を打つ。鼓動が早くなっている。
(落ち着け)
言葉を選びながら、お互いにとっての意味と真意を、探り合う。男に偽りがないのであれば、奇跡的なレベルの出会いだ。
会話の裏で駆け引きが始まっているのを感じた。
「そう。あたしも、そうだよ。―――初めて見た。親とか以外で、同じひと」
「……俺もだよ」
苦笑交じりでぼやきながら、男は目線を合わせる。
「
「昼間に出会うなんて――――思っても、みなかった」
うるふの金色の瞳が細められる。
二人の間に沈黙が下りて、興味、関心、利益などの感情の算段が出来上がっていく。火花を散らしそうな、視線の交錯。同種であり、年齢も近い者との出会い。限界ぎりぎりまで情報を、利益を引き出すべきだ。
瞳の奥に含まれている様々な意図は、読み取れない。
舐められるわけにはいかない。隙を見せるわけにはいかない。
うるふは気付かれない程度に姿勢を正し、胸を張った。
「出よう」
「うん。そだね」
「酷い恰好だ」
男は目に入りそうになった血を拭っている。自分の服を見下ろす。元が色の薄いシャツなだけに、染まりようは凄かった。
顔が歪む。うんざりしてしまう。派手な戦闘の後、いつも問題になるのが衣服の始末だ。シャツは、再び着られるようになるかも怪しかった。
「出たら、……何か話す?」
「いいの?」
話したいことがあるのか、と言外に潜ませて訊ねる。
「少し、君に興味があるかな」
頬が上気していくのが分かる。深い意味は無いはずだ。一応は平然とした風を演出して、合意を示す。
「いいよ?
「うん、お互い状況を整えてからにしよう。―――二、三日後の方が都合いい」
男が出した条件に、眉をひそめる。男の思考を予測する。日を置くということは、即ち時間稼ぎだ。すぐに浮ぶのは逃げの計算、もしくは別れた後、不意をついての強襲の計画の二つだ。
「即、ってのは無理なのね?」
「予定がある。こんなことは、予想外だったし」
無表情に近い顔からは、憶測を立てる材料が何も見えない。
時間を置けば、それだけ周到な用意も出来る。約束を過ぎても後の接触がないとしても、同じだ。男の計画に乗ればニ、三日もの間、警戒を解けない。例え男が脱兎の如く逃げていたとしても、しばらくは敵襲に意識を割かなければならない。日を置くという条件だけでも、男の信用度を下げなければならなかった。男への見方が極端に変わって、答えをより慎重に選んだ。
「……そう」
「それまで、敵襲、強襲無しは血に誓う」
男は手のひらに長い爪で線を引いた。皮膚に出来た真新しい裂け目から、血が盛り上がる。決断を迫られているとそこで気付いた。うるふには、何を意味しているのか分かった。
(もう、遅いか)
今さらやっぱり無しとして別れても、同じことが起こるのだ。
うるふは気付いた。このまま別れても男は全く無視することも、うるふの後をつけることも、計画を立て強襲することも出来る。実際男がどう行動するのか、うるふに知る術は無い。言ってしまえば最初に姿を認めて出会った時点からだ。うるふが男と関心を持った時に駆け引きは既に始まっていたのだ。
(やっぱり頭悪いわ、あたし)
はめられたかも、と自分に対する情けなさを含めて舌を巻く。
―――こうなったら。
うるふも、男と同じく左手に傷をつける。血が滲んだ手のひら同士をぶつけ合い、握り締める。骨ばっていて、指が長く滑らかな手のひらだった。うるふの手のひらの方が熱く、温度はさほど感じない。
(戦闘になったら、それはそれでやるしかない)
不利になったら、逃げればいい。荒野とうるふにとって、目的はあくまではっきりしている。
(どうにかして、生き残る)
目的だけを忘れなければ、大丈夫だ。自分が今ここに居るというのは、ここまで生き残ったという意味だ。思い出せば、それなりに修羅場も潜り抜けてきている。
「己の血に誓って〝狼〟は約束を守る」
「―――己の血に誓って〝狼〟約束を破らない」
「誇り高き獣の血。この身体を流れる〝狼〟の血が、一滴でも本物である限り」
「―――誇り高き獣の血。この身体を流れる〝狼〟の血が一滴でも本物である限り」
「私は〝狼〟であり、約束は破られない」
「私は〝狼〟であり、約束は必ず守られる」
一旦解き、指を絡めて握り直す。離して、手のひら同士を打ち合わせて鳴らす。互いの血を交わして誓う、人獣同士で行う儀式である〝血の誓い〟は親に教え込まれたことの一つだった。
幼い頃から何度か行っている。古臭い、汗臭い儀式だと思わなくも無い―――。誓いをしても、うるふは現に男の事を疑っている。身を守るためには、必要なことだった。〝誓い〟など破って当然だと考えているような輩が、親の時代よりも確実に増えているからだ。
でも、やるとやらないとでは格段に違うのも確かだった。
軽んじられこそすれ、行うとやはり意識が違う。高くなる、とでも言えばいいのか。多少は未だ効力も持っているのだった。
これは〝約束〟だと認識する。
裏切られても、全力で潰す心構えが出来る。
「二日後に駅前の広場で」
「会う時間は?」
「今日と同じだ。夜じゃなくて、……昼にしよう」
おっけ、と頷く。
立ち去ろうとする男を、最後に引き止めた。
「ね! ……名前、教えてくれない?」
「―――コオリヤマ・ヤキ。ヤキでいいよ」
男が去ることで、結界は崩れいつも通りの世界に戻る。雑音。騒音。人々が屍(しかばね)に気付き騒動を起こす前に、素早く鋭くアスファルトを蹴って、うるふもその場を離れた。誰にも見られない場所と速度で、走りながら顔を腕で隠した。心臓が早鐘のように鳴っていた。
うるふは、廃墟のようなアパートに辿り着いた。町外れで、建物の中からは人の気配がしない。二階の角の扉を開け、丸まっていた弟が侵入者に反応して即座に起き上がった。
「うるふ! 急にいなくなりやがって。どうしたんだよ!」
「どうもしないよ」
寝ていればよかったのに。騒々しく喚き出した弟を無視して、扉を閉じる。部屋の端に無造作に置かれた1リットルのペットボトルを開け、口にする。
「あたしも寝るよ。まだ寝ときな」
「何だよ。誤魔化すのかよ」
「―――うるさい」
荒野を睨み付ける。
「お前にそんなこと言う権利は無い。自分は、好き勝手出歩く癖に。あたしがどこへ行こうが、あたしの勝手」
荒野の声が、いつも以上に癇に障った。
苛立った口調で叩き付けられたセリフに、荒野は萎縮して、途端にしゅんとした顔をする。
「な、何だよ……」
言葉を失くして、精一杯反論しようとして情けない顔をしたまま黙っている。
(そういう弱気が、ムカつくんだよ)
うるふは無視して、荒れ果てて染みだらけの畳の上に血塗れの服も脱がず寝転がった。夜の街が目を覚ました時が、獣の時間だ。金銭に余裕が無いのはいつものことだから、今日も狩りに出かける。
目を覚まして、傍らで眠りこけている荒野を背にシャツを着替える。食べ散らかしたり壊れたりしたものが詰め込まれた袋の上に、血みどろのシャツを放る。スカートはまだ汚れが目立たなかったので、幸運と言うべきだろう。シャツはまた、どこかの量販店で盗って来ればいい。着替えを終えた後、荒野を揺さぶり起こして外に出る。
巣穴から起き出した獣が二頭、夜闇の中に立っている。
今度地に這いつくばっているのは、若い男達だった。分かりやすく血まみれになって呻いている彼らの周りに、連れて歩いていた女達もへたり込んでいる。男が三人、女が二人だった。
荒野が悲鳴をあげようとした女の口に手のひらを押し付けて、言い聞かせる。
「いいかぁ……騒ぐんじゃねーぞ。同じようにしてやってもいんだぜ?」
「ちょっとどいて」
うるふは荒野をどかせると、予備動作無しで女に拳を食らわせた。状況を理解させるためには、実感が伴うかどうかが大事なのだった。どちらが上位なのか、身体に思い知らせる。痛みで分からせるのが、一番早い。横様に倒れた女の髪をつかんで引き起こし、口を塞ぐ。
「女だからって安心してんじゃねーよ。こいつが言った通りだから」
丁寧に扱われている髪は滑らかで指通りがよく、僅かな明かりでも光の輪が浮んでいた。分からせようともう一度、きつく引っ張った。荒野は、身動きが取れない男の足から高そうなスニーカーを
「かっ……返せ……」
「はん! そんなに惜しけりゃ、てめえの名前を書いとけよ! 極太マジックでよ!」
ご機嫌で片足を上げてスニーカーを触っている荒野に向かって、うるふは声を掛けた。
「行くよ、荒野」
荒野は一瞬何を言われているのか分からない、といった顔でうるふを見た。
「……殺さねぇの?」
「やり過ぎても、良くないっしょ。財布はもう盗ったし」
「あー……」
餌をお預けにされたみたいに、名残惜しそうに振り向く荒野を、街明かりの方へ連れ出す。
「どっちにしろ、あいつら、しばらく動けないよ」
「そりゃ、骨折ったし……」
「荒野、二手に分かれよう」
「あ?」
「もう、今日の分はいいじゃん? この辺は、あのウザいやつ展開しないし、単独ってことで」
「何言ってんだぁ……」
「ほら、一人で動く練習だよ。一人で動くのも練習しとかないと、いざそうなった時、困るじゃんか」
「オカシーぜ。だって、俺ら一人になんかならないだろ」
当然のように盲目的な言葉が発せられて、うるふは神経を逆撫された。根拠も無く、よくそんな風に言えるものだ。意味も無く暢気で……こいつ、何も考えていないんじゃないだろうか。
そんなはずが無いのを知っていても、思考が行き着いてしまう。
「最初から、二人だったじゃ」
「どうなるか何か分かんないのに、適当なこと言わないで」
荒野を見る目には、憎しみさえ篭っていたかもしれない。
「あんたさ、万が一でも、一人になった時どうすんの。そのまま死ぬの。ねえ、この馬鹿ヤロウが! あんたの方が大事なんだって、どうして分かんないの! 一人になっても、生きていかなきゃならないんだよ!」
「……わ、分かった。分かったよ。分かってる……」
セリフとは裏腹に、荒野の目に不安の色が掠める。うるふは見ない振りを決め込んだ。
「気分が乗らなきゃ、帰ってて」
言い捨てて、荒野を置いて行く。行く先があるわけでもない。行く先なんか、いらない。繁華街は獲物の宝庫だ。右を向いて左を向いて、目に止まった奴から殺せばいいんだ。
(自分は獣―――)
考えて、倦怠感が身体を包む。
(―――だるい)
最近は特に、やる気が起きない。がむしゃらに爪を振り回す気にもなれない。こんなことは初めてで、とても危険な状態だった。余計な思考に蝕まれた身体は、反応が鈍る。
それでは、決して生き抜けない。
偉そうに荒野に説教しておきながら、何てざまだろう。自分に対する苛立ちで、舌打ちを何度繰り返しただろうか。胸に淀んだ溜息を吐き出して、幾ら浴びても慣れ親しんだ気持ちにはなれないネオンに晒される。道を行く死んだ目の男にねめつけられても、殺意は身体を動かすまでに至らない。重症だ。頭が痛くなるような気がする。
進行方向の真ん中に、少女が立っている。紅のワンピース、真っ赤なエナメルのサンダルは、足元が危ういほど高いヒールだった。けばけばしい彩色が嫌でも目を引いた。
「―――ねぇ」
横を通り過ぎざまに、声と共にひやりと冷えた手が肩に置かれる。即座に跳ね除けて、距離を取る。少女が、忍び笑いを漏らす。
―――狼はヒトと話してはならない。
うるふは少女を睨み付けた。向こうからの反応が無いので、無視して、立ち去ろうとする。
「待って」
(っ!?)
うるふの足が止まった。いや、止められた。少女の手によって―――。少女は明らかに何らかの能力を行使して、うるふの肉体の自由を奪っていた。
「ふふっ……昼間、会ったでしょう?」
肌にまとわりつくような、甘ったるい声だった。
「こっち、来て」
明らかな命令口調で、手を伸ばす。細い輪が、ぶつかり合って揺れる。指がうるふを指し示していた。
足が、一歩少女の方へ進む。構えが緩み、腕が滑り落ちる。
(―――――何で!)
「静かにしてね? お願いだから……」
唇を綻ばせて、囁く。差し伸べた手を引き寄せるようにして背を見せ、歩いて行く。見えない何かが絡み付いて、身体を縛っていた。引きずられる! 人目など構っていられない。牙を剥き出し、吼えようとした唇も開かない。喉に見えない首輪をかけられているみたいだった。
もつれるような足取りで、一本裏の道へ入る。泡がはじけたみたいに、喉に空気が入り込み音を取り戻す。
「あんた、何! 何様!?」
文字通り噛み付きそうな剣幕で怒鳴る。相手は一般人じゃない、異能だということがはっきりしていた。身体はまだ、自由が利かない。腕は両側に垂れて指程度しか動かせない。足も、蹴り上げるなど大きな動きは出来そうもなかった。
「見違えた? 私なのに」
てらてらと輝く唇と、伏せられた黒く長い
「羨ましそうに見てたでしょう? 嫉妬深そうね、薄汚いお姉さん」
鼻が触れ合いそうな距離まで顔を近付けて、からかわれる。
高いヒールで、目線はほとんど同じだった。微笑を唇に乗せて言うセリフで、気が付いた。振り向いて見せ付けるように笑った少女。昼間擦れ違った、姉妹のような少女達の片割れ。
「あの、妙なジイサンの腕に縋り付いてた……?」
「あはっ、正解」
声を立てて笑うと、幼さが垣間見えた。不意打ちで赤い唇が頬に当たる。
「……っ、な」
「でも、妙な爺さんは無しね。不正解。あれだけカッコいい人は滅多に居ないわ」
「……に、すんだよッ」
「そんなに嫌だった? 傷つくのに。そんな言い方、男の子みたい」
勝手にして置きながら、本当に傷付いたみたいに弱い笑いをする。それにしても、正解と言われても信じられないくらいだった。服装と、化粧で見違えている。確かに面影はある。だが一目ではあの今時珍しい、どこかの令嬢じみた子供とはとても思えないだろう。今の姿なら自分と同年代と言われても、納得できる。
「何がしたいんだよ! 離せ!」
少女の行動は不可解な上に、理不尽な力で拘束されているのは我慢ならなかった。窮地に陥った状況で、身勝手な選択が自分を締め上げていた。
(二人で、居れば――)
荒野と離れなければ、こんなことにはならなかった。言いつけを守らなかったせいだ。言いつけを守らなかったから、こんな状況になっている。
だから――――やはり、逆らってはいけなかったのだ。
言いようも無く悔しくて、うるふは歯噛みした。
「大丈夫……危害は加えない。これ以上セクハラもしない」
唇の両端が常に上がっている。まるでゲームでもプレイしているみたいに、楽しそうだった。
「んー、……あなたに私のこと好きになってもらおうと思って」
「殺すぞ」
「冗談よ。あなたも、冗談でしょう?」
「……本気だ」
うるふは唸り出す。口元から牙が覗いた。少女は激しく振り下ろした指を、突き付ける。
「野蛮。不細工」
突如、豹変した態度で少女は言い募った。
「あのね、心から不細工になるのよ? 分かる? 幾らスタイルが良くても、見かけが派手でも、そういうのはただの素質。磨かなきゃ光らないし、心がドロドロじゃ不細工なの。そういう不細工は、適当に利用されて終わり。そんなのじゃ絶対に幸せになれない。人を綺麗にするのは、自信と思いやりと、つまりは愛情。OK?」
(はぁ?)
急に飛躍した話に、頭がついていかない。答えが出ない。少女は真面目そのものだった。
「私、そういう汚いのって嫌い。わざわざ自分を駄目にしてるのって気に障るの。だから、私が変えてあげるわ」
「うるっせぇ! あたしは、てめぇみたいなお節介がこの世で一番嫌いだ!」
口が開けば、噛み付ける。
身を乗り出したが―――身体が、固まる。
「ねぇ知ってる? 人と同じ動きを影がするのよ」
少女の細い腕を飾った、幾本もの金属の輪がぶつかって鈴のような音色を奏でた。意思に反し、強引に歯が噛み合わされる。
固まって動けない身体で、目だけを下に動かすと少女の無数の腕輪から黒い線が発せられ、全てうるふの影に直結していた。
「私は〝影遣い〟」
「う、ぐ―――」
「影を全部支配したら、あなたを動かすのも思いのままなの。わかった?」
少女の目を見ていると、肯定以外に道は無いのが分かった。
肯定しなければ、何時間でも平気でうるふを放置するだろう。
少女の言葉が本当なら、彼女はうるふの身体を意のままに操れるのだ。乱暴に頷くと、顎が緩む。口を開いて、聞こえないように言葉を作る。
「何?」
近付いた顔に向かって、唾を吐いた。
「てめえらは、好きなようにしろよ」
うるふは嘲笑(あざわら)った。
「欲しいもんが何でも手に入ると思ったら大間違いなんだよ、欲深なガキが。人間が! てめぇらは金も食べ物もオモチャも武器も地位も平和も、何でも欲しいモン好きなモン全部持ってんだろうがよ! これ以上、何が欲しいってんだよ。欲張んじゃねえよ! クソッタレ、今度はあたし達から、何を奪おうってんだよ。ええ!? てめーのワガママで、あたし達自身まで奪おうってのか! 自惚れんじゃねえよ! 噛み千切るぞ!」
「……全部なんか持ってないわ」
うるふの恫喝に怯えもせず、少女は激昂もしなかった。驚くほど冷静に、剥き出しの腕で顔を
「あたし達? あなた達、って、何なの?」
「ああ?」
「これは、私とあなたの、単なる個人同士の取引よ。バックボーンは何にも関係ないわ。そうでしょ? あなた達に興味はないの。私が興味あるのは、誰でもないあなた自身よ」
変な勘違いしないで。
少女は明確に言い切った。うるふは、思いも寄らぬ反論にすぐには切り返せない。
「なん……っ」
「本っ当、手ごたえありそうよね。そそられちゃう。変てこな自意識の中に閉じこもっちゃって。そんなに楽しいの、そういう一人ぼっちごっこみたいな馬鹿げた妄想」
少女が指を一つ打ち鳴らす。縄を引き絞られるみたいに、背筋が伸ばされる。嫌でも少女と目を合わせられる。
「何、自分だけは特別みたいにヒロインぶっちゃって。あなたのは、ただの
淡々と言葉を重ねて、うるふを圧していく。
「自分の悪いトコも何もかも無視して、周りのせいにしてるわけ? 自分のいいトコも何も認めずに、自分を
乱れた長髪、薄汚れたスカートに向かって手を振る。
「あなたはそれさえ不合格」
「うるせぇ……。そんなモンが何で要るんだよ。要らねんだよ。そんなモン無くっても、こっちの世界だったら生きて行けんだ……。こっちは……生きていくだけで、必死なんだよ!」
弱々しく言い返した言葉も、無残に打ち砕かれる。
「あなた、何がしたいの? 何をしてるの? こっちの世界って、どっちのこと? 世界は一つしかないのに、手段は一つじゃないのに?」
何がしたいの? ――――
――――何をしてるの?
コンクリートの壁に、磔(はりつけ)にされているみたいな気分だった。
脳味噌の回転が追い付かない、回路が焼き切れそうだ。
「てめーなんかが、分かるわけない……」
「分かって欲しいの? 分かるわけ無いでしょう。お互い、分かり合えないものなんだから。自分のことさえ分からないのに、人のことが分かるの? 予測しか出来ない。推測しか出来ない。結局誰も分からないから、小さな情報ですり合わせるしかない。それに、あなたのことなんか分かるわけ無い、あなたは何もしてないんだから」
「分かって欲しくなんかねぇよッ! うるせえ黙れ!」
「オッケーって言って欲しいんでしょ?」
言葉が詰まった。少女の一言は、うるふの胸を貫いていた。
「あなたが何をして欲しいのか、私には本当には分からない。でもね、結構見え透いてるの。だから予測は出来る、推測は出来る。あてずっぽうだけど、当たり?」
「あ、う……。何だそりゃ……、できる、わけ、ねー……」
「本当にそう思ってるの? 始めないうちから言ってたら、何にも出来るわけないわね」
少女は鼻で笑った。拘束が解かれる。うるふの全身は脱力して、アスファルトの上に糸が切れたみたいに力無く座り込んだ。
少女はうるふの目の前に手を差し出した。
「わっけ、わかんねーことばっかり言いやがって……」
「さあ、行きましょうか」
「どこへ……」
掠れた声で、俯いて尋ねた。
「自由になりに」
心が揺らいだ。下らない言い争いをして、言いくるめられてはいけない。でも、心が揺れて仕方が無い。縋って来たものを、一気にひっくり返されたような状態だった。頭の中は洪水のようになっていた。気持ちが溢れかえって、収集がつかない。
言葉の弾丸に穿たれて疲れて憔悴し切っていたが、最後の最後にうるふは答えた。
「……いけない」
何故、と少女は聞いた。
「荒野が、居るから」
うるふの意識はそこで途切れた。気が付くと、路上で寝転がったまま夜明けを迎えようとしていた。鳥が、鳴いている。何を話したのか―――何を考えていたのか。すっかり忘れている。女。女と出会ったのだ。でも結局の所、出会った女が何だったかは分からず仕舞いだ。気を失う直前に見た顔は、酷く残念そうな失望した表情で、うるふへの全ての興味を失って見えた。
(帰ろう)
(―――どこへ?)
(……荒野の、所へ)
心が重い割に、酷く身体が軽かった。気持ちが悪いくらいだ。
気を抜いたら、涙が零れそうな感じだ。うるふは光から逃げるようにアパートへの帰路を辿った。部屋に戻ると、荒野は頭の傍に財布を二つばかり並べて眠っていた。どうやら捗(はかど)らなかったようだが、丁度いいくらいかもしれない。毎日事件が起こり人が死ぬ世の中で、多少の殺しは目立たないが―――殺し過ぎては、目立ってしまう。
(ここなら―――ここなら、安心だ)
うるふは、思う。帰って来たという落ち着きがある。薄暗い部屋、淀んで溜まった空気と、湿ったニオイ。慣れ親しんだ暗闇があった。夜明けの淡い明かりが差し込んでいる。
(ここが、あたしの場所だ……)
(今まで、ずっと……。これからも、ずっと……ここに居る)
瞳が閉じかける。途方も無く疲れていて、まどろみ始める。
『あなた、何がしたいの?』
胸を抉られるような、衝撃があった。
(………それで、いいんだっけ……?)
うるふは、畳の上に崩れて手を付いた。思考を放棄して、眠りに落ちた。
(二日後。二日後、だ)
うるふは思案していた。今日も昼間だった。目が覚めてしまったので、紙幣を何枚かとmp3プレイヤーを部屋から拾って出歩いている。気持ちは、津波に揺られる小船だった。今にも大破してしまいそうな、寄る辺無い気持ちで街を出歩いている。
何にも、頼れない。強い獣であるはずのうるふは、支えを失ってしまっていた。
血の臭いが、周囲には色濃く漂っている。目にするもの全てを壊してしまいたくなる。片端から、片端から壊して砕いて滅茶苦茶にして、最終的に辿り着くのはどこになるだろうか。
空腹を感じて、目に付いたコンビニに入る。菓子パンを物色してから雑誌を手にとって、立ち読みを始める。内容はほとんど頭の中に入って来ない。店頭に流れていたBGMと同じ曲が、耳元で輪唱するように並行して流れ出した。ドアの開閉があって、客が出て行く。センサーが反応して、電子音が鳴る。
雑誌を棚に戻して、菓子パンだけを買って外に出る。剥き身の小銭をポケットに突っ込んだ。
外には、一人の女が立っていた。電子音を背後に外に出る。口元に加えた煙草から、白煙が立ち上っている。手には、同じロゴの入ったビニール袋を提げていた。色気もそっけもなく、ゴム紐を輪にして髪を一つに纏めている。目にかかった前髪の一部を、手で退ける。眼鏡をずらして、覗き込むような視線を送っていた。どこででも見かけるTシャツと綿パンツを身につけ、ショールを首に巻いていた。全て大量生産の安い家族向けブランドだ。
女は落ち着いた雰囲気、揺らがない空気を持っている。
うるふとは対照的だ。数日前の自分だったら、自分もこんな風に堂々としていられたのだろうか?
奇襲に対して、警戒する。いつの間にか、いつでも警戒の態勢を取れるようになっていた。何年も戦いに満ちた生活を送っていれば、嫌でも神経が張り詰める。同時に、かなりの倦怠感があった。
(だるい)
面倒臭い。そんな気分じゃない。
いまいちのテンションで半眼のまま、こちらからはしかけない。歩きながら、ただ女と目を合わせた。
―――狼はヒトと話してはならない。
女は色の悪い、薄い唇を開いた。
「なあ、来ないか」
感情の薄いハスキーな声だった。返事は、しない。無表情の裏で小さな驚きがあった。こんな風に声を掛けられるなんて、何年ぶりだろう。女の声には、まるで悪意が感じられない。悪意でなければ、作意だ。緻密で姑息な計算の代わりに、女の声は余裕に満ちていた。
こちらからはまだ何も言わないでいると、眼鏡の女は続ける。
「……時間潰しに」
来いよ、と言う。眼鏡をずらして、上目遣いの視線を送り続けている。どうやら相当、目が悪いらしい。鼻で笑って撥ね付ける。凶暴な目つきになっていると予想がつく。眼鏡の女は臆さず、もそもそと面倒そうに口の中で喋った。
「いいから。一人で飯を食うのも侘しくてさ」
そう零すと、踵を返して歩き出してしまう。行ってしまうのかと思いきや、少し先から振り返って呼ぶ。
「なあ。今日は、暑いだろ」
また、背中を向けて前へ進み出す。
(バッカじゃねーの)
酔狂な奴もいたものだ。のこのこ着いて行くほど、馬鹿じゃない。いつもなら従うはずもない。女は今度こそ、振り返らずに歩いて行く。距離が開いていく。周囲の熱気が、判断を鈍らせる。思考が散漫になってしまう。
まだ、暑い。
『何をしてるの?』
自分は、何をしているんだろう。
『閉じこもっちゃって』
自分を閉じ込めているのは、何だろう。
着いて行くはずが無い。
(何で?)
(―――どうでもいいか)
皮肉めいた笑みが唇に浮ぶ。
「……いいよ」
肉の削(そ)げた背中を見ながら、その後を追っていた。自殺行為をしている。引き戻そうとする恐怖があったが、奇妙な愉快さに包まれてしまっていた。笑いたいくらいに爽快だ。脇道を内側に入ると、喧騒がフィルターを通したように遠のく。涼しさに息が出る。建物に囲まれた影を通っていく。表とは温度が違う。一人しか通れない幅の道を、眼鏡の女はマイペースに歩いて行く。塀の上で寝ていた猫が頭を起こす。
唐突に土地が開けて現れた薄汚いビルの非常階段の前で、煙草をポケットから出した携帯灰皿に擦り付け、女は躊躇わず上がっていく。非常階段はペンキが剥げて、赤い錆びだらけだった。階段の中ほどの扉の前で、ポケットから取り出した鍵で扉を開く。
「どうぞ」
階段の前で見上げていると、顔だけ出して声が振ってくる。後を追って上り、開かれた扉の中に入る。薄暗く翳った汚いビルの汚いフロアだった。コンクリート剥き出しの床に、埃が漂っていた。安っぽい壁で区切られて、壁の手前にスチールのドアがある。部屋の奥はくり抜いただけの出入り口だ。壁紙もくすんで、あるのはどれも色褪せ塗装も剥げくたびれ果てた家具ばかり。
車の音が聞こえる。窓から見ると、車が道路を通り過ぎていった。街中から程近い、車通りのある道路に面しているのだ。
「意外に、遠ざかってないよな」
ぼうっとしていると、顔が近くにあった。予想以上に、近い距離に驚く。横に並んで、小さな箱を差し出す。白い物を口端にくわえている。火のついていない、煙草……。
「チョコだよ」
シガレットチョコの箱を揺する。勘違いだった。
「いらない」
「あ、そ」
「あたしが来なかったら、どうした?」
「ん?」
踵を返して、ソファの向こうに置かれた冷蔵庫の前で屈んでいた女が、疑問の声を発する。
「相当、格好悪いよ? 変質者。頭のイッちゃった人じゃん」
丸まった背中に向かって、話しかける。
「変な風に誘ってさ」
「まあ―――いいじゃないかよ。お前、ついて来たんだから」
はい、とわざわざ戻ってきて、赤い缶を渡される。世界一メジャーな……あの赤い缶では無い。
「コーラ駄目?」
「んーん……」
プルタブを引っ掻いて、空ける。こっちきな、と女は軽くソファを叩いた。言うことは聞かない。その場でにおいを嗅いで、缶に口をつける。泡が口内に広がって、喉を滑っていく。銘柄は違っていても、コーラであることには変わりが無かった。
(毒とかは、無いな)
反射のように確認して、喉に心地良い甘さと刺激を楽しむ。
「来ないのか? 食い物もあるぞ」
仕掛けが無いことから警戒をワンランク下げ、食い物に釣られて近寄っていくと、女は薄い笑みを浮かべた。ソファは革がひび割れ、所々裂けて中身の綿が飛び出ている。女の向かいに腰掛けると異常なほど沈んでしまって、バランスを崩しかける。
スプリングも壊れているようで、ぼこぼこして居心地が悪い。
しかし居心地が悪いのには慣れっこだった。
「悪いな」
謝罪の言葉に顔を上げる。言ったことも忘れたようにガラステーブルの上に、乱暴に袋の中から大量の調理パンやおにぎりを取り出して並べる。
「適当に食いな」
うるふは無言で、自分の袋を脇に置くと手近なメロンパンを選んで食べ始めた。二口、三口を口に含んで言う。
「遠慮しないよ」
「それでいいさ」
奇妙に鮮やかな観葉植物と、低いガラステーブルを挟んで向かい合わせになった、ぼろぼろの黒革のソファ。誰かの話を聞くために誂えたような調度品だ。何らかの相談……商談。取引の場になるのだろうか? 部屋の隅にはラックが置かれて、鈍重そうなコンピューターと器具が置かれている。そうだ。まるで事務所のようだ。事務所の、廃墟だ。
女は静かに梅干のおにぎりの包装を剥いて、口に運んでいる。うるふはメロンパンを平らげて、
「名前は?」
うるふは聞こえない振りをして、コロッケパンを黙々と食べている。金茶色をした瞳が、女を見る。
「お姉さん、普通の人じゃないね」
「うん?」
「普通、声かけたりしないよ」
「気になったんだよ。少しな」
女は時折コーラを飲みながら、時間をかけて咀嚼している。
「言いたくないんなら、いいや。食うだけ食ってけよ」
「うん」
「持って帰るか?」
行儀も何も無く、むさぼっていた動きが止まる。
「……いいよ」
(荒野が喜ぶだろう)
そう思った。
だが、意味も無く大量の食料を持って帰ったら、弟はきっと不審に思う。見知らぬ者の後を疑いもせずに着いて行った話など、奇異に感じるだけだ。弟がたまに浮かべる不安の色を、思い出すだけで、心配と――心を炙られるような苛立ちがある。
(
ちらり、とテーブルを眺める。広げられた食べ物はいかにも魅力的だ。空腹を抱えている身にとって、まともな食べ物が手に入るまたとないチャンスだ。こんな幸運は滅多に無い。
「や、やっぱり」
(荒野には、嘘をつこう)
「やっぱり……いる」
「そうか。じゃあ、残したら全部持って帰っていいぞ」
気付かれないように息を吐く。些細なことなのに、何故弟を偽りたいと思うのかは分からなかった。
女は梅干しのおにぎりを食べ切ると、何をするでもなくうるふを眺めていた。結局全てを食べ尽くすような勢いで、袋の中の約半分を胃に収めた。二本目のコーラを、ソファに身体をもたせかけ味わって飲む。
「満足かい?」
「うん。まあ」
頷いて、立ち上がる。コンビニの袋に残った食べ物を全部入れて、女は手渡してくれた。自分のものも、一緒にしてしまう。
背を向ける。ソファに座った状態で、女が声をかける。
「帰るか?」
「うん」
「ここのことを覚えておきな。いつでも来ればいい」
「どうして?」
「お節介が好きなんだよ」
(変なヤツだぁー……)
うるふは袋をぶら提げて、開けっ放しの扉の前で振り向く。
名乗ってもいいかな、と思った。
「うるふだよ。あたしの名前」
女は、小さく笑う。
「
うるふは無表情で、扉の向こうに消える。非常階段の手すりを踏み台に、一気に地面まで飛び降りる。膝でクッションして、危なげの無い動作で降り立った。去ってゆく後ろ姿に、声が投げられた。
「うるふ!」
誘睡が気の無い動作で手すりにもたれていた。
「またおいで」
目線だけ投げて、歩き出す。口元で囁く。
「ありがと」
何かが、うるふの中を満たしていた。苛立ちと不安感が消えて無くなり、足元の覚束ない感じも消えている。暖かいものであることは、間違いが無かった。
(言いつけを、破った)
いつもと違う調子で、心臓が鳴っている。
(でも、悪いことは起こっていない)
(ひょっとしたら、今まで通りでなくても、いいのかもしれない)
奇跡的な出会いであることは、間違いが無かった。自然と笑いが零れた。一瞬で消えるような、儚いものだった。
誘睡は、うるふの後姿が建物の影に消えるまで見送っていた。
背後から全速力の足音が聞こえて、背中に熱い塊が衝撃を伴って体当たりしてきた。勢いがよすぎて誘睡は手すりから落ちそうになり、慌てて体勢を整えた。口元から煙草が落ちそうだ。
抱きついて腕を絡めて、飛びついて来た人間がにやりと笑う。
カラフルなゴム紐で、髪を頭の両脇で二つに結わえている。
「いざねぇっ」
「なんだい、ミナ」
「
部屋の奥の出入り口から、たしなめる声がした。
「また乱暴なことをして!」
ロングヘアの少女のブラウスの胸元には、リボンがあしらわれていた。チェックの短いプリーツスカートから、白い足が覗いている。
「表から入ったんだね、
「そう。ごめんね、断らなくって。誘睡さん」
「いいんだよ。別に」
「ねぇ、あの子、ちょっとアレな感じでしょ?」
「あぁ……本当にお前は、よく見ているよな」
「昨日ね、アタックをかけたんだけど、振られちゃった」
「お前、誘うのはいつも下手だな。あたしにはそれが不思議だよ」
「
「何だよ、暴れるな。落ちるから」
未成を床に降ろして煙草をふかしながら、誘睡は黙亜たちに目を合わせたまま手すりにもたれた。
「これからしばらくは、お前たち、寄らないでくれるかい?
―――ちょっと大変な子と出会っちまったみたいだ」
部屋に戻って、うるふの姿を見るや否や喚き出した荒野にパンの入った袋を放ってやる。中を確認した弟は即座にがっつき始めた。
「どうしたんだよ?」
「食べ物が減ったと思ったから、買いに行ってた。ラッキーだったよ。買出ししてた奴みたいなのがいて、盗って来た」
「姉ちゃんの分は?」
「いらない。食べたから」
荒野はしばらくしてから、パンを二つ投げて来た。うるふは後ろめたさを感じながら、それを口にした。
荒野は相変わらず不安そうな目付きでうるふを窺っていたようだったが、今は食料に夢中だ。うるふは、怪しまれなかったことを密かに安堵していた。
(後、一日。――一日だ)
太陽にも、少し慣れてきたかもしれない。ここ数日は、昼間出歩くのが日課のようになっている。生活が変わってくると、以前が少し不思議に思えた。今日はデパートが密集している、特に人込みになっている場所をうろついていた。いつ来ても人が絶えないというのは、絵でも貼ってあるかのような奇妙さがあった。増減もあり、確実に周囲は動いているのに自分でも首を傾げたくなる。
(今日一日をやりすごしたら、明日の昼間は、ヤキと会う)
「おそよう?」
友達のように手を振って、挨拶してきたのは白尽くめの少女だった。全身総毛立って、意識が張り詰める。その場からすぐに逃げ出したいくらいだったが、うるふは動かなかった。自分より優位だと思われるのは癪だった。自分が生きている以上、あれは取り返せる負けカウントだった。露骨に嫌な顔をしてしまい、手のひらに汗をかいていた。
果たして、少女の衣装は打って変わって、レースとフリルがあしらわれたメルヘンチックなドレスだった。フリル満載の姫袖のブラウスに合わせたミニスカートに、リボン付きのオーバーニーソックスと厚底の編み上げ靴を履いている。頭にはレースの塊のヘッドドレスをつけ、顎の下で結ばれたリボンが揺れた。こうも様々な服を着こなせるのだったら、さぞかし楽しいだろうなと羨みに似た気持ちが押し寄せた。
「私ね、
「……近付くな」
「何にも危害を加えるつもりなんかないったら。仲良くしましょう」
「うるさい」
「大丈夫、私、今は昼間だし、甘ロリ乙女モード全開だから、ピースフルな女の子の気分で胸が一杯。一番安全なのよ?」
相手が異能とか、正直どうでもよくなってきた。
これ以上嘘くさい誘い文句は聞いたことが無い。
「お風呂。入りたいでしょ?」
「……なん」
「ご飯もあるわ」
「……だから、何だ」
「一緒に来てくれない? ご馳走するわ。信じる信じないは、あなたの自由だけど」
小首を傾げて、微笑む。胡散臭いことこの上ない。でもいつもとは条件が違っている。気にならないはずの汗と汚れが、身体に纏わりついている。
(明日、なんだ)
(黒い男―――ヤキ、と、会う)
時間も場所も、昼間の世界だ。何故自分の姿を気にせずに居られたのか、今では分からなかった。いや、分かってはいる。
必要が無かったのだ。手に入らないものだと思っていた。でも、もう気付いてしまっている。黙亜は、自分に向かって差し出している。断るのは容易だ。だが断ったとして、どうやって手に入れようか。考えることから始めなければならない。現状でうるふが持つ、欲しいものを手に入れる力は、限られている。ここから、外へ出なければならない。気にしないでいることはできない。もう、変わり始めている。
頷いた。着いて来て、と言った黙亜の後に続くと次第に見覚えのある景色が見えた。通ったことのある道を使っていることに気付いて、一時は治まっていた警戒心が沸き起こってきた。
場所が一気に開けて、そこにあったのはビルである。誘睡と会ったビルだ。
「ここ!」
「うん。こっちよ」
表通りに回って、地味な入り口を鍵で開けて中に入る。鍵は、抱いていた白い兎の縫いぐるみの首輪のチェーンに付いていた。
どっちが本体なのか甚だ疑問になるサイズである。
「ここで、昨日、人に会ったんだけど」
うるふは話を切り出す。
「誘睡さんでしょ? あの人、変な人よね」
階段を上がり、三階のフロアに入る。部屋の形はほとんど変わらないが、うるふが訪れて食事をした場所とは違い、調度品がほとんど無かった。
「あんた、何……知り合い?」
「あたし達もここによく来るの」
「あたし達?」
「あたしと、妹。あの人、変わった子を集めて面倒見るのが好きでね」
「はぁ……」
ということは、拾われた同士、ということになるのだろうか。
「この時間帯は誰も居ないから、安心していいわよ」
勝手知ったる様子で黙亜はうるふを先導する。調度が極端に少ないため、全体的に広さが増して見える。部屋の端には、紙箱やプラスチック製の引き出しが幾つも重ねてある。傍の壁に、アイロン台が立て掛けてあった。毛布が床に敷かれ、テレビが壁際に置いてあった。お風呂の支度をしてくる、と黙亜は簡単な扉の向こうに消えた。
扉から出てくると、積まれた引き出しからタオルや着替えのようなものの一式を次々取り出して、うるふに持たせた。背中を押して、黙亜が出てきた扉を潜らせる。
「凄く、簡易的なんだけど」
扉の向こうが脱衣所になっていて、風呂場への曇りガラスの戸があった。隅に、乾燥機付の洗濯機が鎮座していた。黙亜は曇りガラスの戸を開けて、シャンプー、リンス、ボディソープ、湯水の調節の仕方、シャワーと蛇口の切り替えの仕方などを一通り教えて今度は食事の支度があると出て行った。熱い湯など、久し振りに浴びた。何をするでもなくぼうっと当たっていると、胸が苦しくなって目を押さえ嗚咽を堪えた。意味も無く、泣いた。おっかなびっくり調節をして、一通り洗い終わると新しい下着とTシャツとイージーパンツを身につけて外に出た。
積んである引き出しが床に置かれ、中から有名ブランドの服が次々と現れていた。化粧品も、服と比べて遜色の無いものばかりだ。
「うわ……」
「座ってて。あなたの服、洗濯機にかけてくる」
瞳が輝くのを押さえきれない。床に、
手に取ると、暖かい。海苔の端はまだ乾いていた。
「あ、勝手に食べてる」
「ま、まだ食べてないって」
「いいよいいよ、食べて」
うるふは雑誌で立ち読みをするだけしか出来なかった服が目の前にあって、気分が浮き立つのを感じた。
「私のおススメはこの辺かな……。あなた、背が高いものね。サイズは目測なんだけど、そんなに間違ってないと思うの。気に入ったのがあったら、着てみて。……そんなに
「服はそんなに、持ってないし……。こういうのは、盗みにくいから」
銘柄付きの服を売るような店は、店員の目が届くような店がほとんどで盗みにくいのだ。持っているのは着古したスカートと、大量生産のシャツを何枚かだけだ。どうしても着られなくなったら一番量が多くて無難な盗みやすいものを、夜中の量販店でくすねてくる。
「じゃあ、しょっちゅうここに来た方がいいわよ。ねだれば結構買ってくれるから。何しろ服って結構、入用なのよね。私が買い物手伝ってるから、安いのから高いのまでジャンル問わず、イイなって思うブランドで揃えてあるけど」
「何で、そんな風に……してくれんの?」
「何でって、誘睡さんの服もここに入ってるのよ。サイズは男物も含めて相当揃えてあるけど。本人は、お金使いたくてしょうがないみたいなトコもあるみたいね」
「こういうのを、あの人も着るの?」
不満そうな表情をして、聞く。
「幾つだと思う?」
「……さあ」
「まだ、二十五歳。十分イケるでしょ」
もう少し年上だと思っていた。思い返してみれば納得できる年齢だが、もっと上を言っても通じるだろう。年齢に比べて、達観しているようだと言えばいいのか、雰囲気が落ち着き過ぎているのだ。痩せぎすの体型といい、年齢不詳と言っていい容姿に拍車をかけている。うるふは軽く肩を竦めた。
「どういうのがいいかな……」
綺麗になったら、どういう反応をされるのだろうか。
喜ぶ? 驚く?
(―――笑ってくれるかな)
ふと、自分は誰の反応を考えているのかと思った。頭がくらくらした。人の反応を気にしたことなど無かった。新鮮な気持ちだった。単純に憧れていたものが眼前にある喜びは大きかったが、一番に思い浮かんだのはほんの数日前に会った相手だったのだ。荒野じゃなかった。荒野なら、どんな顔をするだろう。
考えるのが嫌になった。自分の変化に嫌気がさしたが、どちらかといえば浮き立っている自分に対する戸惑いの方が強かった。
(うえぇ、サイアク……)
「……これって、借りてもいいわけ?」
「勿論。今まで、何の話をしてたのよ。ご飯、お風呂とちゃんとしたんだったら、おまけで服も付けてあげます」
何か思い至るところがあったのか、黙亜は手を叩いた。
「ねえ、誰かと会うの?」
手に持った服を握り締め、不自然に沈黙したうるふに黙亜は歓声をあげた。
「いつ!? いつ!?」
「あっ、明日……」
「じゃあ、待ち合わせに行く前に来て、ここで支度していけばいいじゃない!」
願っても無い話だった。うるふは頷いて、黙亜はじゃあ明日の恰好を決めていった方がいいわと口にした。
「そうしたら、焦らずにすむもの」
支度を存分に整えて、うるふはビルを後にした。黙亜は入り口まで見送りに出て、うるふが去るまで手を振っていた。
「さてと。私も行かなくちゃ」
誘睡さんに見つかると、まずいものね―――。
そんなセリフを囁いて舌を出し、痕跡の後始末をするためにビルの中に戻っていった。
「姉ちゃん、いい匂いがするね」
荒野はうるふを見て開口一番、そう言った。部屋で寝そべっていた荒野は、諦めたように食って掛かりもせず寝返りを打って、うるふを見上げている。
「ああ、そう」
「何かあったのかよ……?」
沈黙を守り通したうるふに、幻滅したように再び寝返りを打つ。いいけどさ、とぼやくのが聞こえる。罪悪感と裏切りが胸を占めて苦しかった。でもうるふは、その苦しさに慣れ始めていた。
自分は荒野のために生きていると思い込んだのは、いつからだっただろう。本当に、自分の意思で荒野を守ると選択を下したのはいつだったのだろうか。そんな瞬間が、あったのだろうか。父と母に教え込まれた、心に打ち込まれた楔が抜け落ちていく。幼いうるふは無力だったから、身体と言葉を使い尽くして戦った。笑うことがいつの間にか得意になった。嘘を吐くのは十八番だ。でまかせの愛を囁きながら、相手を殺せるようになった。殺した相手は、端から忘れてしまえる。親切や優しさに心を許さず、手のひらを返された絶望を味わい苦汁を舐め、笑みを忘れず牙を剥いた。いつだって技術を磨いた。生き残るために必死だった。二人で、生き残るために。荒野を、生かすために。
(あたし本当は、何をしたかったんだろ?)
愕然とした。
気がついたら、荒野を傷付けていた。赤くなった爪を、呆然と眺めている。荒野は予想もしていなかったという顔で、血が溢れ出した頬を押さえている。
(荒野を、殺したらあたしは幸せになれる?)
殺す行為自体は繰り返して来たから、慣れている。憎悪が無くとも殺せる。そこにあるのは動作だけ。
(あたしが)
(あたしだけが、生き残ればいい。生き残るのが荒野である必要は無い?)
楔が無くなれば、支えを失って倒れるだけかもしれない。うるふが立ち尽くしていると、荒野は頬から赤いものを畳に滴らせながら、四つんばいで近付いてきて、哀れっぽい目付きで謝った。
「ご、ゴメン。うるふ……、何かあったんだろ?」
泣くことも出来ずに黙っているうるふに辟易して、荒野は不器用そうに立ち上がると頬を洗いに外に出て行った。
朝になり、荒野がぐっすりと眠り込んでいるのを認めてから部屋を抜け出した。どこかへ、早く逃れたい気持ちで一杯だった。上の空で、荒野のことを脳の隅へ追いやった。ビルまで行くと、待ち受けていた黙亜が準備をして待ち受けてくれていた。
髪を整え真新しい服に袖を通して、うるふは落ち着かなさげに、周辺を見渡していた。メイクもしている。黙亜の手並みは慣れているだけあって、安心できるものだった。緊張したうるふの慣らしということで、黙亜は率先してうるふと連れ立って街を歩き、ほんの少し前に分かれたばかりである。目的の人物を視野に納める。とりあえず、再び合うまで危害は加えないという誓いは守られた。満面の笑みに近い表情が頬を彩る。
「ヤキ!」
呼び声と、近付いてくる人物を認めて一瞬の驚きが男の顔を染める。間近まで寄っていくと、目を瞬いて、心の底から感心したように言う。
「別人かと思ったよ」
驚いた、と柔和な微笑みを見せる。余りにも穏やかで、気が抜けた。容赦なく残酷に殺戮を行える人間が、こんな顔をできていいのだろうか。首を傾げそうになる。
「でも、すぐに分かったよね……?」
「だって、そういうのは、包み紙と同じでただの外見だから」
目が変わってないよ。彼はさりげなくそう言った。うるふは慌てて警戒心を取繕った。勘を研ぎ澄まさなければならない。
ふとしたことで、すぐに流されてしまいそうだった。小さな異変も見逃してはならない。これは、取引だということを忘れてはいけない。
「じゃあ、えっと」
「うるふ」
「え?」
「あたしの名前。適当だよね」
まだ、教えてなかったからとうるふは言った。二人に名付けられたのは、呼ぶのに名前が必要だからというただそれだけの名前だ。記号でしかない。
「あたし達、人と関わらないから、変な名前でもいいんだってさ」
「いいんじゃないかな」
許容の言葉が、耳を打った。俯いていた顔を上げて、横顔を見る。
「その名前、分かりやすくて」
「それ、フォローじゃないよ」
「あ、そうか」
駅に隣接している喫茶店に入り、二階の端の席に向かい合って座る。注文したアイスコーヒーが二つ、届く。うるふにとって飲み物は何であっても飲み物であり、何を飲んでも同じだったから同じものを選んだのだった。ストローを口に含む。動作の全てが、ぎこちなくなっていた。自分は今、壁を越えているのだ。排除されているはずの自分が何事も無くここに存在できていることが、酷く不思議だった。
(簡単に、越えられるもの、なんだ―――)
ヤキを眺める。彼は出会った時から、とっくにその壁を越えているように感じられた。自分と同じ存在であるはずなのに、壁など無い物のように軽々と扱っている。
「誓いは、守っただろう?」
ヤキは低い声で話し出す。テーブルはブースで区切られていて、ずっとここに居たくさせる優しいBGMが掛かっていた。
「用件って言うのは……さ」
「こんな所で喋って、大丈夫?」
「大声で喋らなければ、大丈夫。そこそこ客が入っているし。皆、自分の作業の方が大事だ」
躊躇わず、彼は続ける。
「大切なものは、ある?」
「……何、それ」
「もし君が持っているものが全て置いていけるものなら、俺と一緒に逃げよう」
え?
うるふは思わず聞き返す。
「真剣だよ」
ヤキは冷静だった。指を組んで、話している。汗をかいているのは、二人のアイスコーヒーの入ったグラスだけだ。
「俺は、俺の一族、俺の家族を置いていく。兄弟と、親だ。こういうのは、決断を鈍ると逃してしまうんだ」
早ければ、早いほどがいいんだ。
「〝狼〟なら、分かるだろう。君だって、それで最初は渋ったんだ」
どういう意味か分かっているはずだと、彼の目が告げている。
「一緒に来て欲しい。君さえよければ。明日の、明方に。深夜を過ぎた、夜明け前に抜け出してまた会おう。こんなこと、滅多に無いんだ」
(これで逃げられる)
うるふは真っ先にそう思い、自分の肩から力が抜けていくのを感じた。うるふは頭を目まぐるしく回転させて、答えを探した。
「う……。じ……、時間を、貰える?」
どうにか言葉を搾り出し、うるふは早口で続けた。
「勘違いしないで。あたし弟が居るから」
行きたい。胸を突き破って溢れそうな思いを、唇を噛み締めて堪える。焦っては駄目だ。失敗できない。こんなチャンスは、二度と無い。あからさまに餓えているように見せては、付け込まれる。
「早ければ、早いほどいい。―――わかってる。でも、あたしと弟は、今、二人っきりだから。話をつけなきゃならない。そうしなくちゃ、弟はきっとあたしを探す。弟を、危険な目には合わせられない」
うるふは、ヤキの目を見据えた。
「あたしは、真夜中に、抜けてくる。あなたと行く」
ヤキも、真っ直ぐに見返してくる。
「だから時間、ちょうだい」
「わかった」
ヤキは頷いて、席を立った。店を出て、人気の無い物陰を探す。建物の間に身を隠して、手を伸ばし、抱き合った。
「ヤキ」
甘く伸ばした声で呼ぶ。
「あなたが、好き」
それは契約の言葉だった。うるふが全てを捨てて逃げ出すための、契約への誓いだった。嘘を吐くのは慣れている。口先だけなら何とでも言える。この男を、道具のように使おうと思った。何度もやってきたことと同じなのに、声が震えた。
これから自分は、最大の裏切りを犯すのだ。
うるふの身体は力強く、抱き締め返された。
「俺も、好きだよ。うるふ」
契約が成立した。二人は逃げる。うるふは鎖が解けていくような感覚を味わった。はるかに、罪悪感を上回るうち震えるような快感だった。名前を呼ばれた、それだけで泣きそうだった。
予想以上に熱い、体温を感じている。胸の鼓動が聞こえた。身体に通っている、血の巡りを感じていた。抱き締めて体重を預けても、物ともしない。揺るがない。今自分を預けているものが、自分と同じモノだというのが心強かった。
他には何も要らない―――貴方が居れば。腕に肩に、そうしていないと溺れてしまうとでも言うかのようにしがみついて、体中に幸せが訪れるのを待った。男の腕が自分の身体を強く抱き締める。うるふは震えた。抱き合っているだけで、身体が幸福に満たされる。今の自分はとても無防備だった、なのに無敵な気がした。
自分に傷が付かないと理由も無く信じられた。
知っている単語を頭の中で幾ら並べても、気持ちに追い付かなかった。言葉を重ねても重ねても、言い表せない気がして途中から声が尽きた。口にするたび、軽くなっていくような気もしていた。
言葉なんか信じられないと、縋り付く腕の力を強くした。
(言葉なんか通じない)
(ただの単語でしかない)
だから。
(気持ちの代わりに、この手が貴方の心に焼きつけばいい)
うるふは自分に嘘をついた。
(自分にとっての意味なんか、伝わらなくてもいい)
言い聞かせるように嘘をついた。本当の願いは叶わないと知っていた。
(このまま溶けてしまえばいい)
自分が、疑い出す前に。裏切りの画策をする前に。
通じ合って、溶け合ってしまえばいいのに。
溶け合って、死んでしまえれば―――それが一番いい。
(違う)
本心が、叫ぶ。喚く口に、蓋をする。
叶うのなら、溶け合えた瞬間死んでもいい。でも、溶け合えるわけが無いと、知っている。
いくら願っても叶わない。だから―――嘘をついて。
あたしが、あたしを生きるのなら、それは絶対に叶わない。
(あたしは、動くことしか出来ない)
(だから、その行動が、あなたの記憶の片隅にでも残ればそれでいい)
たったそれだけが自分にできる最善だと、うるふは俯いた。
「また会おう」
去り際にそっと優しい声が掛けられる。顔が熱い。
耳まで真っ赤になったかもしれない。
敵を襲う時、特に異性を狙う時は甘ったるい微笑が便利な道具だった。頭が悪そうな笑顔、悪戯っぽい微笑み、歯を見せたり、唇を吊り上げたり。簡単な罠に引っかかって、地面と抱き合う破目になった相手は、数えるのも馬鹿らしい。偽りは吐き気がするほど覚えている。だから、自分が顔を赤くしているなんて想像もしなかった。
(ひょっとして、遊ばれてる?)
手を振って人込みに飲まれる姿を見ながら、意地悪なことを考える。疑いは身体に染み付いていて、戦場を生きるうるふは今さら素直になることなんか出来ない。うるふは初めて本心から、彼が嘘をついていようがいまいが、どちらでもいいと思えた。
うるふは、黙亜の元でいつもの恰好に着替えて部屋に戻っていた。太陽が沈んでまだ間もない。暗く狭い部屋で、姉が弟に話し掛ける。何度も繰り返した、遺言だった。特別な話でもない。いつ死んでもいいように、どちらかが居なくなってもいいように、うるふは弟に何度も言っていた。忘れないようにという、日常的な決まりごとのようなものだった。でも、今度ばかりは意味が違う。正真正銘、最後の言葉になるだろう。うるふは、荒野に全てを明かすつもりは全く無かった。
ねえ、と声を掛けるところから始まる。
「例えばさ、もしこれが絶対的に不利な戦いでこれ以上は駄目だって感じたら、生き残るために、あたしがただの足手纏いで邪魔者だったら」
うるふは緊張を隠したのどかな口振りで、不釣合いな遺言を語る。不自然な部分を、微塵も見せてはいけない。計画を破綻させたくない。絶対に―――。
「荒野、あんたは姉ちゃんの血を浴びて行け。もしも同じ状況だったら、あたしもそうするよ」
荒野は、黙って話を聞いていた。
まだ明るい夜空に、月が満ちる。
「じゃあ……行こうか」
うるふはささくれ立った畳の上から立ち上がった。
「何?」
荒野が扉の前に立ちはだかっている。両腕を広げて、決意を目に秘めていた。窓から、刺すような月の光が降っている。肌を焦がすような苛立ちが自分の中から起こってくるのが、わかった。ヤキが、待っているのだ。
「何してんの。どいて」
「今日は、行かせない」
荒野は、うるふを弾劾する。
「うるふ、ここんとこずっと、変だったぜ。おかしいって。夜も、昼間も―――うろうろ、一人でどこ行ってんだよ」
うるふは口を閉じた。
「一人でずっと! 単独行動ばっか!『単独行動は危険だ』っつってたのはどうしたんだよ! 二人で、二人で生き残らなきゃいけねぇって、てめえがずっと言ってたんだろ!」
荒野の目には、怒りがあった。うるふの中でも、苛立ちが募っていく。
「……うるさい」
「はぁ!?」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい! うるさいっつってんだよ!」
うるふは唸り出した。身を屈める。月光が身体に降り注いでいる。
「あんただって一人でうろついてるだろーが。何を今さらそんなこと言うんだ。あたしは駄目で、あんたはいいの? ついこないだ、そう言ったばっかりじゃねえか!」
荒野は唇を尖らせ、言い返した。
「だって、うるふは止めねえじゃねーかよ。そんなに止めてえんなら、殴ろうが縛ろうがすりゃいいじゃねえか。そうしなかったつーことは、認めてたってことだろ?」
「ふざけんな、馬鹿!」
うるふは怒鳴っていた。悲しい。寂しい。どうして、弟はこんなにわけのわからないことを言うんだろう。弟が不安なのは手に取るようにわかった。弟が、言葉を選べるような余裕がないのもわかっていた。でも、許せなかった。止まれなかった。
「……あんたはどうして、そんなこと言うの。どこの世界に、好き好んで大切な自分の弟を殴ったり縛ったりしたい姉貴が居るってんだよ!」
荒野はうるふの絶叫に圧倒されて、今度こそ黙った。
「あんたは、あたしのことそんな風に思ってたわけ?」
荒野の顔に、後悔が浮んだ。
「姉ちゃ……」
「もういい! あんたなんか、知らない、もう要らない!」
うるふは叫んだ。肌がざわめく。内側から毛皮が現れる。痛みに顔をしかめ耐える。身体が骨格が変形して、滑らかな毛並みが細波のようにうるふを包み込む。
(うまくいった)
安堵の気持ちが押し寄せる。完全な変身は、毎回緊張する。
成功する確率も低い上に、下手をすると元に戻れなくなる可能性もあるからだ。痛みから解放された肉体の方向を変えて、開かれた窓に向かって跳躍した。ベランダに出て、尾を振る。
荒野はあからさまに血相を変えて、うるふ! と叫んだ。
うるふは踵を返して、去ろうとした。再び跳躍しようとした身体が、ただ事ではない絶叫を聞いて強張る。
「あぁあああぁああああぁぁあああああああああああああ!」
振り向くと、荒野が吼え猛りながらのた打ち回っていた。顔を覆った手の甲が、毛むくじゃらの毛皮で覆われて痙攣している。
「あぁ、ぎゃ、ぎゃんっ、あああっ、ぎゃああう、うるふ、うるふ……姉ちゃんッ、姉ちゃぁあん!」
(失敗―――!)
ぞっとして、うるふは即座に部屋に飛び込んだ。
身震いをして、変身を解く。焦っていて無事変身を解けたことに喜びを感じている暇も無かった。
「荒野っ、荒野ぁっ……!」
「ねぇ、姉ちゃん、…いっ……いだい、いだ、いだい、いでぇよぉ、いでえよおぉおっ!」
「荒野っ……大丈夫。大丈夫だよ!」
うるふは僅かな逡巡の後、荒野を背中に揺すりあげた。荒野がまた悲鳴をあげて躊躇ったが、事態は一刻を争う。構っている暇は無い。ヤキのことは覚えていた。早く向かいたい気持ちが、焼きついていた。でも、こんな状態の荒野を放っていくわけには行かない。
(誘睡のところだ)
彼女以外、思い付けなかった。うるふは街を走り出した。
「我慢してよ! 荒野!」
喚かれ叫ばれていたら、否が応でも人の意識を引いてしまう。
堪えて荒野が歯を食いしばる気配がした。うるふは一層速度を上げた。
うるふは当たりをつけると扉を破るような勢いで開けて、中に転がり込んだ。そこは誘睡と食事をした事務所で、目当ての彼女はソファにもたれかかって書類のようなものを手にしていた。驚きに、目は見開かれている。
「助けて!」
うるふが叫ぶと誘睡は素早く立ち上がりちょっと待ってな、と言って部屋の奥に消えた。痛みに耐える荒野の声は、もはや言葉になっていなかった。誘睡は白い箱を持ってくると、荒野の傍らに膝をつき、うるふに荒野を押さえているよう指示を出した。頭を支えて口を開かせ、隙間にカプセルを放り込む。次いで、ミネラルウォーターのボトルを口元にあてがって飲ませた。必死だった荒野の動きが次第に遅くなり、手が床の上に垂れ落ちる。数分後には薬が効いて、荒野は元の姿に無事戻っていた。荒野は、意識を失っていた。
「一体何があったんだい」
「〝変身〟に、失敗して……」
「そうか。……。まあいい、とりあえず落ち着いてよかった」
誘睡は奥の部屋からタオルケットを持ってくると、荒野の身体に被せた。うるふは、所在無くソファに座っていた。
「ねえ、……」
「何だよ」
「愛って、何?」
誘睡は言葉を失って、えらく難しいことを聞くねと瞬きした。
「知らないよ。自分で探すもんじゃないのかね」
ポケットから煙草とライターを取り出し、銜えて火をつける。
「見つけるよりも、持続する方が大変なんだよ。怠けると、すぐに逃げていくから」
ソファに座って、うるふは俯いた。
「ねえ……どうしよう。あたし、こんなに好きなのに殺せる」
愛って、何だろう。
ただ、好きという気持ちなのかな?
触れたいと思うような気持ちなのかな?
一緒にいたいと、思う気持ちなのかな?
傍にいたいと思うような気持ちなのかな?
寄り添いたいと願うような気持ちなのかな?
自分には、分からない。
「あたし、荒野を殺せるんだ」
うるふは、ソファの上で膝を抱えた。
「荒野は、すごく大切なんだよ。でも、最近は凄く苛々して、うっとおしくなる時もある。邪魔だと、思って……気がつかないうちに、荒野を攻撃しちゃったりして。どう思う? こんなの、よくない……でしょ」
「うるふ、私に何を聞いているんだ?」
誘睡は腕を組んで、静かに煙草をふかしている。
「私に『よくない、そんなのいけない』と言って欲しいのか?もし、私が『気にするな、いいんだ』と言ったら、荒野を殺すのか?」
「―――あ」
「それで、いいのか? お前の求めている答えは、違いやしないのかい」
「……わかってるよ、でもさ。荒野は、あいつはあたしを頼れるんだよ。でも、じゃあ、あたしは? あたしの幸せと、荒野の幸せって別で。何も出来ないわけじゃないのに、あたしに守られてて、一人で、楽な思いして」
「……
ゆっくりと、煙だけが漂っていく。
「それ以上言ってやるなよ。荒坊が可哀想だ」
うるふは口を噤む。
自分だって、こんなことを言いたいのでは無い。誘睡の言う事は正しくて、正論ばかりを口にする。でも、もだっても彼女の前では意味をなさない。今も、うるふの様子から目を逸らし、窓から道を見ている。
「うるふ。多分、お前の願いごとは、もっと別の場所にあるんだよ。見付かっていないから、手近なことで理由をつけて補っているだけだよ」
言っている事は、分かる。分かるけど、気持ちが治まるわけじゃない。うるふは唇を噛んだ。
(それじゃ、あたしには幸せになる権利は無いってーの?)
「それよりも、近々大規模な〝人獣狩り〟が近々行われるらしいんだ。あんた達も気をつけたほうがいい」
誘睡の真剣みを帯びた忠告は、耳を素通りしていった。
「名前、呼ばないで。そんな風に、気安く呼ばないで」
「……どうするんだい?」
うるふは、気絶したように眠っている荒野を背負った。
「帰る。荒野に、ここ、気付かれたくないから」
「荒野も、来たっていいんだよ」
「……わかんないよ。迷惑かけるかもしれないから」
「荒野を預かろうか?」
思いがけない申し出に、うるふは顔色を変えた。
「勿論、本人に話を聞いてみなけりゃわからない。だが、そうしたら、お前も、自分の好きなことができる時間が増えるだろう? そうすればお前だって、本当の願い事が見付かるかもしれないじゃないか」
暖かい、真摯な言葉だった。うるふは言葉を噛み締めた。目を瞑る。でも、もう戻れないのだ。選ぶ道は決まっている。誘睡の言葉は、自分を新たに縛る鎖のようにしか聞こえなかった。
「駄目だよ。本当は最初から、ここにだって来ちゃいけなかった」
うるふは、拒むように背を向けて外へ出て行った。
自分の住処だった場所に戻って、荒野を寝かせた。おやすみ、と呟いて扉を閉める。アパートを仰いで、部屋の中の弟の姿を思う。もう、戻らない。帰らない。
うるふは走り出した。
走りながら、いざね、と名前を呼ぶ。
世の中、特別だと思ってくれない人が、99%。特別なんて無い。掛け替えが無いなんて、出任せ。偽物。嘘っ八。欠けた所は埋めて。埋まらないなら新しい物で塞いで。道具を駆使して、あらゆる手を尽くしてしがみついて、むさぼって、意地汚くもがいて。人間は生きていく生き物だから。苦しくても、適当に笑って、生きていける生き物だから。
生きる事は容易い。
極限まで妥協できなくなったら死ぬしかない。楽しみを楽しみだと思えなくなったら、放棄する気持ちもわからなく無い。
大切が大切でなくなったら、人は捨てる。掛け替えが無いなんて当たり前。この世に同じものなんて無いんだから。でも、無くなっても生きて行ける。
生きるなんて簡単。
適当に笑って、適当に流して、流れるまま流されるまま。
(だから、人間なんかどうでもいい)
(そんな強い生き物なんか、弱い生き物なんか。あたしには関係無い)
たまたま立ち読みをしながら、コンビニで同じ雑誌を手にしたとか、そんなきっかけもない。同じコンビニに居た、という
それだけだ。煙草を銜えた立ち姿が、蘇る。
(大丈夫。すぐに、切れる)
自分に確認を取る。
獣は、いい。感情もない。心もない。気持ちもない。悲しいも苦しいも寂しいも嬉しいも楽しいもない。
ただ、生きているだけ。
悲しくも苦しくも辛くも淋しくもないよ。なのに。
(じゃあ何で、涙が出てくるんだ)
「どうすればいいの?」
苦しいよ。悲しいよ。淋しいよ。
むなしいね。悲しいね。淋しいね。
心の中の誰かが囁く。
自分は人間じゃない。自分は狼じゃない。
(でも、どうにも出来ない)
うるふは声を押し殺して泣いた。
「おとうさん、おかあさん……!」
返事は無い。分かっている。愛しさより憎しみの方が強い。
自分たちを放り出した彼らにとって、自分たち姉弟は何だったのだろうか。
(……ヤキ)
彼は、自分と同じものだ。彼だけが、信じられるのだろうか。
いや、彼も、信じられないのには変わりが無い。でも、自分は彼の後を追う道を選んだのだった。蜘蛛の糸のように細い思いを、繋いで、手繰り寄せようと思った。
(何で、人と隣り合って生きてはいけないんだろう)
うるふは、考える。
もしも自分が働こうと思ったら、いくらでも、働けるのではないだろうか。働いて自分で金を稼いで、好きな人と同じ場所で暮らせないだろうか。嫌いとか好きとかそんな感情じゃなくて、ただ静かに暮らしていけるのは幸せなんじゃないだろうか。
偽りの笑みを浮かべるのはやるせないかもしれない。だけど、それくらい我慢できるんじゃないだろうか。―――愛しい人が居れば。
狼は、人間が憎い。
あたしは、人間が憎いのか?
狼は、人間ではない。
あたしは、人間ではないのか?
あたしが憎いのは誰だ。
迎合するのは、許されないのか?
幸せになっては、いけないのか?
―――人間は、何で、殺さなきゃいけないんだ。
(あたしは、疲れた)
事実に気付いたうるふは、呆然と自らの爪を眺めていた。
(本当は、あたしは、殺したくなんか無かったんだよ)
(じゃあ、あたしは―――何がしたかったんだろう)
もういい。うるふは思考を放棄した。
全部捨てて、あなたを追っていこう。うるふは速度を上げた。
(ヤキに会いたい)
会わなければならない。
高いビルの屋上で、少女二人が会話をしている。一人は至極つまらなそうに。一人は、至極楽しそうに。
「人生はゲームなのよ。使い古された言い回しだけど」
「ゲーム……ねぇ」
「ゲームだから、面白がればいいの。悲劇を演出してみたいなら、泣けばいいの。イベントが喜劇なら、笑えばいいの。あなたの人生を自分で演出すればいいのに。欲しい物は全部獲得すればいいのに。シナリオは自分で考えればいいのに。もちろん、ゲームだから、真剣にやるのよ。そうじゃなきゃ面白くない。で、も、馬鹿みたいよねえ―――あの子は」
つまらなそうな方は、どちらかと言えば眠いらしく大きくあくびをして、楽しそうな方に行儀が悪いとたしなめられていた。
「馬鹿みたいよね。わざわざ自分で自分のことを縛って拘束して呪文をかけて、閉じ込めて、抜け出そうともしないで。目隠ししてわざわざ視野を狭くして。全部簡単なことなのに。全部、ただのゲームなのに」
「でも、
「意味が無いのよ。その真剣さに。不幸になるのに真剣になってどうするの? 可哀想よね。こんなに胸が痛いのは久し振り」
「どー……だか。ふ、あぅう」
「可愛いから、結構好きだったの。私のストーリーの面白いキャラクターかなって」
「うえぇ……出たよ」
急に話を飛ばすし……と、枕を抱き締めてつまらなそうな方が文句を言う。
「だからね、可愛いから苛めたいっていうのも、まあ、あるかも。悲しいけど、んー。でも、そうすると今のところの私達の目標からは逸れちゃうから……それも最高のエンディングを迎えるための、イベントのスパイス。さぁ、ショータイムよ」
「……もくっちゃんてさぁ、ホント性格悪いよねえ」
「ああ、でも、今さらじゃない?」
待ち合わせ場所、駅前の広場。うるふが走り込んだ瞬間に、灰色の領域が展開される。視線の先には、誰より求めていた相手が居た。そんな風に言うのは、おこがましいのかもしれない。出会って過ごした時間は数えるまでも無く確かに僅かだ。偽りの無い気持ちだった。
濡れたような黒髪に夜闇だけを生きてきたと証明するように白い肌で、灰色交じりの黒コートに黒のジーンズ黒のブーツを身に付けたモノトーンの組み合わせの男。黒い瞳の中央を縦一筋の金色が裂いて、在った。
「何、してるの」
問い掛ける声は、発した本人しか気付けないほど微かに震えた。
「何……その恰好。暑くない?」
あれほど、笑顔を絶やさなかった人が笑わない。
足元に、血の海が広がっている。黒い靴が踏みつけているのは、幾多の屍だ―――。
「ね、何をしようとしてんの?」
面を貼り付けたような表情は、微動だにしない。
「何か言ってよ……答えろっ!」
「罪深き者を狩りに、来たんだ」
そして彼は名乗りを上げる。うるふの前で一度も上げた事の無い、正式な名前を告げた。
「俺は〝狼狩り〟の
死ぬ前に。そう言って男は笑った。
うるふは呆気に取られて、男の禍々しい笑みを見ていた。
(裏切られた)
手が震えていた。膝が笑っている。これから自分が辿る運命が見えた気がした。男が、死体の山から降りて来る。
裏切って、裏切られて。全てを……弟を捨ててまで、辿り着いた結論がこれか。約束は、破られた。
うるふは、胸の内で言葉を紡いだ。
―――ごめん、荒野。
姉ちゃんは先に死ぬかもしれない。
絶望感があった。再び檻が閉ざされていくような、喪失感もある。失ったものは、大き過ぎた。もう二度と取り戻せないかもしれない。
「……ろす」
うるふは呟いた。
男が、薄い笑みを貼り付けて近付いてくる。
言い残して置いて良かった。離れなければ良かったなんて、今さらだけど。
もしもあたしが死んだら、お願い。言いつけをちゃんと守って。あたしはどうなったっていいんだ。自分の落とし前は自分でつけるよ。こんな姉だったこと、あんたは怒るかな。怒るよね。荒野は、ワガママで甘えたがりで無鉄砲。だけど、いつだって本気で怒ってたし、何より優しかったから。
荒野、あんたは生き残れ。それだけがあたしの、本心からの望み。
あんたのこと、本当に大好きだった。
たった一人のあたしの弟。
群れの中の一頭の雄。
唯一の、仲間だよ。
「あたしは、あんたを殺す。あんたを殺して生き残る。荒野と生き残るの。あたしのたった一人の弟と。あんたなんか、あんたなんか、要らないんだ!」
うるふは絶叫して爪と牙を剥き出した。
「愛してるよ」
囁かれ、抱き締められ身体が固まった。
うるふの攻撃は、夜貴に当たっていた。攻撃にも構わずうるふを抱き締めて、夜貴の身体からは紛れも無い彼の血が吹き出した。うるふの唇から真っ赤な雫が滴った。鮮血が胸を染めた。
夜貴の爪が、胸を貫いていた。
うるふの血が、夜貴の顔を汚す。
「甘いね―――甘過ぎるよ」
暖かい―――。寒い。喜びも悲しみも感情の全てが、苦く苦しく甘く切なく辛い思いが、心臓を締め付けられるような孤独が、うるふの砂漠のようになった心めがけて落ち、染み込んでいった。愛おしく抱き締められた身体からは力が抜けて、腕も足もだらりと垂れ下がった。
赤い海が、見る間に広がっていく。うるふは気付いていた。
(この人は―――この人も)
寂しいのだ。
淋しいのだ。
悲しくて辛くて、どうしようもない欠落感を。埋めて欲しいと望み、求め、足掻き。こんな風にしか、表せないのだ。
「そうやって、最後はいつも俺を退屈させるんだ」
いっそ悲しげな表情で酷薄な笑みを浮かべて、どうしようもなく愛しい人はそう言った。
自分の存在は、彼の寂しさを癒せない。
(どうして、この人を好きにならなければいけなかったんだろう)
自分から手を離す仕草に、一滴の切ない離し難いとためらうような愛とも呼べるような感情が閃いたような気がして、うるふは叫び出したくなった。
きっと血に塗れて生まれてきた。でも、そんな自分たちが、愛しあっていけないはずがない。
(あたしは、あなたが好き)
泡立った血が唇から垂れ落ちる。
結界が解けて、世界中に色が満ちる。びっくりするほど鮮やかに世の中の風景が目に映る。
ああどんなに醜くてもどんなに苦しくても、どれほど汚くてもどれほど惨めでも、それでも世界は綺麗なんだね。
瞬間的に、思った。
(もっと早く気付けたらよかった)
自分にもう結界を維持できる資格は無いのだと、意外なほど冷静に理解する。
色鮮やかな世界の雑踏の中を、一人の少年が突っ切ってくる。
自分に、世界を見ていられるような猶予は既に与えられていない筈だった。どうして見えるのか分からない。目に映っているのだとは思えない。けれど確実に見える、認識できる。
少年の必死な表情が愕然とした顔に変化する。
(そんな顔しないでよ)
胸が小さく軋んだ。自分がそんな顔をさせている。
(だけど、―――足、止めないで)
うるふは願った。せずにはいられない、矛盾した願いが胸を刺して棘みたいに痛んだ。我侭な姉ちゃんでごめん。あんたのことさ、本当に好きだった。苛々したりうっとおしかった時もあるけど、でもお互い様ってことにしてくれない? だってさ、あたしはやっぱり好きだし、あんたはそうやって走ってくれるんだから。
(それが、やっぱ、嬉しいんだよ)
思考が闇に包まれる。足元に空いた深い穴が、うるふという名前が付いていた人格を飲み込む。
(おやすみ、荒野)
「さよなら、うるふ」
偽りの恋人の甘い囁きを耳に、うるふは狂おしいほど愛おしい眠りについた。
うるふの願いごと、それは。誰にも咎められず厭われず、悲しみ、喜んで、大切な人と必要なものを手に入れて。
(―――できれば)
あなたと生きていきたかった。
プレイヤー、サハラウルフ。
グッドゲーム、ハッピーエンド?
サッドゲーム、アンハッピーエンド?
ゲームクリアー/リタイア?
コングラッチュレーション!
ニュープレイヤー、???????
ゲーム、リロード。
Now loading
Next game 『new and last one』
Cross road wolf
To be continued....!!!!!!!!!
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