第5話
彼女は口を鎖した。答えが落ちている訳でもないのに、俯いて。
その姿を見て、悠雅はただただ痛ましかった。後悔をしている訳では無い。これで彼女が考え直してくれたなら御の字とすら彼は思っている。しかし、彼女の傷ついた目に、胸が酷く痛んだ。泣かせたい訳ではないのに。
「実はさ、前に東京駅の地下に潜った時、瑞乃にアンタの過去のこと、少しだけ聞いたの」
無言のまま神祇館を出た時のことだった。彼女は沈みこんだ声で、切り出した。
「お嬢から?」
「うん。アンタが捨て身で前へと進む理由が気になって聞いたの。あの娘は、事件があったってぼかしてたけどね」
「それなら、今補完できただろ」
「その実態は私なんかが気軽に聞いていい内容じゃなかったけどね」
少し苦く笑った彼女は、また視線を落とす。
「どうして話してくれたの? 本当は、こんな事話したくなかったんじゃないの?」
「この話をして、お前が
彼はありのままの本心を伝える。それが彼女に対する誠意であると思ったから。
答えを聞いたアンナは短く「そう」とだけ返すと、肩を落として歩き出す。
(ままならないな、本当に……)
悠雅は自嘲気味に笑っていると、沈みかけた夕日が右目を焼いた。
「そろそろ帰らないと」
そう言い出したのはアンナの方だった。彼女はいつの間にか、下に向けていた顔を空に仰いでいた。そして、彼女は先ほど悠雅が取ってやった犬のぬいぐるみを抱きしめながら、こう提案する。
「ねえ最後に、あれに乗りたいんだけど良い?」
彼女が指差す先には光の国があった。硝子と、鏡と、数え切れない電飾で煌びやかに彩られた光の箱庭。その中を陶器で出来たような真っ白い馬と黄金の馬車が揺られながら楽しげに回っている。
「ああ、いいよ」
悠雅が頷くとアンナは彼の手を握った。まだ、心の底から笑えていないが、それでも、精一杯笑顔を湛えて。
幸せそうな家族の姿に悠雅は目が眩む。すると、彼の手を引くアンナの足が止まった。
「お父様はね、とても悪いことをしたの」
不意にそう切り出したアンナは悠雅と同じように、眩しいものを見るように目を細めてひっそりと語る。
「民の期待に応えられなくて、悪い方へ悪い方へと運命が転がって行って、その末にサンクトペテルブルクで大事件を起こした。話だけを聞けば、私はきっとお父様を許せなかった。だけど、お父様は、私たちには優しかった。ずっと優しかったの。富や権力よりも、何気ない日常を尊ぶ人だった。きっと、お父様は普通の人になりたかったんだと思う」
今は遠い、昔日の日々。アンナは幸せだった頃の記憶を辿る。
「お母様はいつも、お祖母様や叔母様たちに怒られて、辛そうにしてた。だけど、私たちの前では気丈に振舞って、私たちに
大きな目から、瑠璃色の宝石が流れ落ちた。ぎゅっと、悠雅の手を強く握り締めて、彼女は続ける。
「お姉様たちは、いたずらばかりする私に手を焼いていたけど、いつも最後には笑ってくれた。エカテリンブルクに幽閉されていた時は、陽気な私が心の拠り所だって撫でてくれた」
次第に嗚咽を混じり始める。それでも彼女が続けるのは、これを
「弟は体が弱くってね。最後には一人で歩くこともままらなくなってた。それでも、私たちの前では一度だって弱音を吐かなかった。強い子だったのよ? 幽閉が解かれたら、兵士になるって、小さな頃からの夢を叶えるって、言ってたの」
体を震わせ、振り絞るように話す。膿を搾り出すように。その行為は当然痛みを伴った。胸の内側に刃を突き立てるような痛み。
「私は、そんな家族を見殺しにした。目の前で殺されたお父様とお母様の亡骸から目を背けて、悲鳴と銃声から耳を塞いで。燃え上がる
彼女の罪の告白を、悠雅はひたすら聞き続けた。その覚悟を胸に刻みながら。
「私はもう、
不意に瑠璃色の瞳が紅蓮の瞳に突き刺さる。
「それでも、貴方は私を止める?」
「止める」
悠雅は間髪入れずに答える。そう答えることがアンナにとっても、自分自身にとっても正しいと思うから。
「貴方も大概最低よね。自分は望みを果たそうと進むくせに。私を引き止めるなんて」
「済まない」
「謝らないでよ。私が惨めになるでしょ」
アンナは袖口で乱暴に涙を拭き、やっと破顔してみせると、大きく深呼吸をしだした。
急にどうしたのだろうか? と、悠雅はアンナのやや朱に染まった顔を覗き込む。
「私、貴方に隠し事をしているの」
「隠し事?」
「ええ、それを教えるわ」
「急にどうした?」
アンナの急な提案に悠雅はいまいちピンときていなかった。小首を傾げる彼の様子に、アンナは口元を緩める。
「貴方が胸にしまい込んで起きたかった秘密を教えてくれたんだもの。教えなきゃフェアじゃないわ」
可憐に笑んで。アンナは爆発しそうな胸を抑え込む。
(これを言えば、貴方との関係は切れるかもしれない。だけど、貴方には誠意を見せなきゃ)
アンナは意を決したように口を開く。
「私は……私の本当の名前は――」
しかし、その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
「――
青白い顔を覗かせる甘粕正彦と、得体の知れない言葉を吐く東條英機の姿がそこにあったから。
「ごきげんよう、諸君」
「甘粕、東條……!!」
その絞り出されたような声には怒気と憎悪が混在していた。
「お前にこいつは渡さない」
悠雅はアンナを背に庇い、天之尾羽張を引き抜いて、己が
「そう怖い顔をしなくてもいいだろうに。むしろ、私は君にも来て貰いたいとすら思っているんだよ深凪悠雅」
「抜かせ外道。本気で言ってるなら、お前は底知れぬ
「ふむ」
東條は「それもそうか」などと呟くと、悠雅と自分のやり取りを先ほどから見物している人々の内の一人を手招いた。
「ねえ、一体なんの劇なのかしら?」
「離れろ馬鹿!!」
なんとも緊迫感のない質問をする女性は、悠雅の言葉すら台本の言葉だと捉え、東條の元へと移動してしまう。
東條が彼女に向かって笑いかけると同時に、軍刀が鞘走る音がして――彼女の首が茜色の空に舞った。
胴体からは噴水の如く血液が噴き上がり、頭部が地面に落下する音がやけに生々しく響いた。その瞬間、一斉に見物人達が悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。前列の人間は後ろにいる人間を押し退け、小さな子供は人の洪水にいとも容易く流されていく。
「東條、貴様……!!」
彼は吼えながら、最短距離を最速で疾走。大いなる
「甘粕ゥッ!!」
咆哮して、強引に切りこもうとした瞬間、悠雅はぐらりと自身がどこかに崩れ落ちていくような感覚に襲われる。落ちた瞬間、自身が反転すると確信して、喉が干上がる想いだった。
「なんだ、反転しないのか? そんな怖々と力を使って破れる程、俺は甘くないぞ」
どきりと核心を突かれた悠雅の腹に深い衝撃が走る。甘粕の軍靴が深く突き刺さり、彼は吹き飛び、屋台に叩き込まれた。
「何故殺した!! 罪もない人間を殺した!?」
「それをお前が言う資格があるのか? お前も殺しているだろう? 施設の仲間達を。それだけじゃない、お前は昨晩、魚人――
「連中はお前らと一緒になって黒外套を使役し、無辜の民を攫い、犯し、殺していた。然るべき処理をしただけだ」
「攫ったモノ、喰らったモノ。それらを殺すのはまだわかる。だが、彼らの中にもお前の言う‟無辜の民”がいたとは思わんか? あれらも生物だ。人でなければ殺しても良いと? ああ、なんて残酷な発想だ!!」
『奴の話を聞くな馬鹿者!!』
演技ぶったように大袈裟に罵る東條の言葉を遮るように、天之尾羽張が声を張り上げた。
「ふむ、厄介な神器だ。所有者のフォローまでするか。流石は我が国が誇る第一級神器・天之尾羽張」
『私も貴様らに泥臭い穴倉に押し込められていたこと、腹に据えかねているでな。悪いが貴様ら揃って首を刎ねてやろう』
「それは怖いな。だが、貴方の助力があっても、その青年に私はおろか、正彦を殺せるとすら思えないが?」
ぐにゃりと粘性を帯びた笑みを浮かべる東條。彼と悠雅の間を遮る様に甘粕が立つ。
『できんだろうよ。だが、一矢報いる程度ならばさせてやれんでもない』
「どうかね、無理だと思うがなあ」
東條は実に楽し気に口角を釣り上げる。
「それなら、どれ、まずは一つ、牙をへし折ってやるとしよう」
カビ臭い古書を開く。
そして、同時にアンナの掠れた声が落ちる。その声に誘われるように悠雅は視線を動かせば、そこには驚愕の光景が広がっていた。
「あ、れ? 私、何が?」
つい先ほど首を刎ねられたはずの女性が起き上がっていたのだ。それも、切り離された首には切断痕など一切なく、綺麗に繋がっている。さりとて、血まみれになった衣服が先の惨状が現実に起きたことを示していて、それがまた致命的な矛盾を生み、悠雅を大いに混乱させた。
そうしてる間に女は東條と視線を合わせた瞬間、鈍い悲鳴をあげて走り去っていく。
「どうだね? 彼女は蘇った。元通りに。私の元に下ればお前達が失ったもの、全て取り戻させてやろう。仲間、友、家族」
「……今のを、見せるためにわざとあの人を一度殺したっていうのか?」
奥歯を噛み砕きかねない程に歯噛みする。悠雅は目の前の男とはやはり相容れない、と天之尾羽張を更に強く握りしめて東條へと斬りかかる。が、その赫刃はまたしても男の元に届かなかった。青白い雷光を纏う、金色の宝剣。それが天之尾羽張を阻んでいたからだ。
「なん、で……?」
「ごめんなさい。私やっぱり、人でなしだったみたい」
蜂蜜色の髪、揺蕩う中に瑠璃色の瞳が瞬くも、それは酷く濁った色をしていた。
「ねえ、東條英機。アンタの元に行ってあげる代わりに、私の頼み、一つだけ叶えてくれる?」
「無論ですとも。一つと言わず、十でも百でも」
「……契約成立ね」
その言葉を皮切りに、大きく雷光が迸って悠雅の体を撃ち貫いた。激痛ともに熱が走り、肉が焦げる臭いが立ち込める。それでも意識が吹き飛ばなかったのは奇跡に近いことであろう。悠雅は辛うじて繋いだ意識の糸を必死で掴みながらアンナを見据える。しかし、彼女が発する言葉は彼の望むものでは無かった。
「……ごめんね、悠雅」
アンナは悠雅に背を向ける。その背中を見ながら彼は歯を食いしばり追いかけようとして、ぐらりとどこぞと知れぬ奈落の穴に落下する己を想像する。
アンナが己に背を向けた。その出来事が、彼を叩き落とす。
ぶわりと熱量を帯びた風が駆け抜ける。過活動する霊力が大地を舐め、穢れた神威が顕現する。背中の肉を食い破り、八振りの緋火色金の剣翼が天地を穿つ。
「……い、くな……!!」
ずるり、剣翼を引き摺りながら彼は蜂蜜色の髪へと手を伸ばすが、アンナが立ち止まることは無い。それでも追いかけようとして一歩踏み出すと、彼女との間を裂くように甘粕が立ちはだかる。
「ようやっと裏返ったか、それも今度は意識を保っている。そうこなくては」
「退けえっ、甘粕!!」
吼えると同時に喉の奥が割れて、呼吸に血が混じり、咽る。そうしている間に奥から東條が問うてくる。
「先も言ったが、私はお前も欲しいのだが、どうする?」
「ふざけるなよ外道!!」
「そうか、残念だ。お前には英雄の資格があったかもしれないと思うと、残念でならない」
東條は本当に残念そうに眉を垂れて悠雅を見据えた後、甘粕の背に緋色の瞳を投げる。
「五番目物が見れると思っていたのだが、致し方ない。食っていいぞ、正彦。蠱毒の儀を終わらせると良い」
「御意」
甘粕は改めてコルヴァズを構え、
「――この身を焦がすは北より南へと誘う光。母を焼く焔は天を衝く――」
それは死出の
「――
かつて見た炎よりも大きく燃え上がるそれは逆巻いては揺らめき、空を焼き焦がしているようにさえ思える。
「――さあ、大魚の
やがて全身が発火して、甘粕は炎に包まれる。否、それは包まれるなどという生ぬるい表現には収まらない。細胞の一つ一つが炎へと変化していた。その姿はまるで――
「神話再現――“
――まるで生きた炎のようであった。
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