第三幕『禍津神《まがつかみ》』

第1話

 地下での一件から五日が経過した。


 謎の集団。

 赤外套。

 穂積中尉の死。

 そして、甘粕正彦。


 余りの情報量に、穂積に代わって担当になった将校が目を白黒としていたのを思い出して、アンナは思わず苦笑いを零す。


「何一人でニヤニヤしているんです? ひょっとして事情聴取の受け過ぎで頭が馬鹿になりましたか?」

「事情聴取で疲れたのは否定しないけど、なんで一々アンタはそう口撃力が高いのよ?」

「あら、上手いことを言いますね」

「喧しいわよ」


 橙色に輝く斜陽を見つめて、大きく溜息を吐くアンナ。そんな彼女の姿は今、東京湾の一角にある巨大な船渠ドックにあった。辰宮家が保有するその船渠ドックの中には要塞を想起させる黒鉄の船影がある。


 戦艦三笠。日露戦争最大規模の局面の一つ、日本海海戦において旗艦として活躍した帝国海軍を象徴する戦艦だ。


 アンナは三笠の甲板の上から艦橋を複雑な心境で見上げる。


「無理に付き合う必要なかったのですよ?」

「いいの。アンタの神器が見たいって思ったのは事実だもの」


 そう言った手前、やはり気分は鈍色だった。日露戦争で露西亜ロシアが勝っていれば、と彼女はどうしても想像してしまう。それが詮無きことであるとわかっていても彼女は止められない。


 アンナは胸に去来するものを押しつぶすように、胸元を抑えた。


「どうしてかつての連合艦隊の旗艦がこんな所にあるのよ? そもそも、ありなの? 個人が軍艦持つなんて」

「三笠は、最早一人では走れませんから」

「それって、もう動かないってこと?」

「はい」


 日露戦争終戦直後に起きた爆発事故で三笠は沈没した。そのまま帝国海軍から除籍され、廃艦が決定されたところを辰宮家が回収。今に至る。


 丁寧に手入れをされているものの、最早三笠は単身海に出ることはできない。爆発事故による損傷箇所はある程度修繕されているが、新しいものを作った方が効率が良いという結論が出てしまっていた。


 そんな一隻の廃艦を大切に保存するその意味、そのうちの一つは敬意であった。日露戦争において大国露西亜ロシア帝国から日本を守った船。これを守らずして日本人を名乗れようかという機運が高まった結果であった。


 そして、もうひとつ。それは三笠の神器化にある。


 神器とは現人神あらひとがみ祈祷いのりを高める、現人神の決戦霊装だ。だが、神器というものは簡単に作れるものではない。何千万という人々の想念を一身に受けて初めて生まれるもので、普通ならば誕生するまでに千年以上かかる代物だ。


 それがいきなり、しかも近代兵器が神器化したともあれば解体できるはずもない。だが、船としては既に終わってしまっているこの戦艦を運用するには特定の力を持った現人神でなけれならなかった。


「私の祈祷いのりは“不沈”なんです」

「不沈? 沈まないってこと?」


 頷く瑞乃は、遠くで作業員と共に甲板の掃除をしている悠雅を見つめながら自身の祈祷いのりの起源を語る。


「“沈みたくない。闇に溺れたくない。闇から這い出たい。飛び立ちたい”。そう思った末に生まれた力でした。だから、私と泳げなくなった彼女はとても相性が良かった。私が祈祷いのりを発露すれば彼女はまた海に出られるから」

「彼女?」


 小首をかしげるアンナに瑞乃は、「ああ」と手を合わせる。


「神器に性別があるのかどうかはわかりませんが、三笠は船だからか、女性らしい人格を持っていまして」


 そう言いつつ、瑞乃は腰に挿した刀の鯉口を切った。


「この刀――三笠刀は三笠の破損した砲塔から作ったものでして、普段はこの三笠刀から意思疎通をしているんです。三笠、挨拶を」

Yes ma'amイエスマム。私は戦艦三笠。初めまして、ミス・アンダーソン』

「これはまた流暢な英語ね。どっかのバカとは大違い」

『バカ? 悠雅様のことでしょうか?』

「よくわかったわね?」

『それはもう、瑞乃様が常々愚痴を零しておられますから』

「ああ、やっぱり?」


 頷くアンナはせこせこと三笠の換装作業を手伝う悠雅を流し見て苦笑していると、煤まみれの彼が駆け寄ってきた。


「換装作業終わりました」

「お疲れ様です」

「それじゃあ、俺はこの辺で」

「そんなに急いでどこに行くんですか?」


 妙に急いだ様子でサッと踵を返した悠雅の背に、瑞乃が訝しんだ視線を突き立てると、彼の肩が驚いた様子でびくりと跳ねた。


「警邏に行こうとしているんですね? 今夜はやめてください。この五日間、憲兵の詰所に出ずっぱりでろくに休めていないんですから、今夜くらい身体を休めるべきですよ」

「……寝てなどいられないのですよ」


 彼の胸中に過ぎるのは、甘粕の薄ら笑いと穂積の絶望に染った泣き顔。そして、未だ手に残る穂積だったものを斬った、生々しい感触。

 あのような被害者をこれ以上出す訳にはいかない。これは無辜の民の命と尊厳と共に、深凪悠雅という人間の在り方を賭けた戦いでもあった。


 彼のそんな想いを知っている瑞乃はならばと提言する。


「それなら私も行きます」

「お嬢はダメです」

「ふぅん、なら私なら良いの?」


 何やら不満げに腕を組むアンナが、彼の行く手を阻んだ。


「いいわけあるか。揚げ足を取るんじゃない」

「私には一人で探しに行くなって言ったわよね? なのに、アンタは行くんだ?」


 以前、東條を探しに行こうとするアンナを悠雅は引き止めた。ならば、悠雅自身もまたこれに応じなければならないはずだ、と彼女は暗に訴えている。


「人命が懸かっている」

「私の願いだって安くない」

「喧嘩しないでください」


 対峙する瑠璃と紅蓮の二色の瞳を割って入る翠緑は、憤慨した様子で二人を睨む。


「あなた方に喧嘩されると必然的に私が止めなくてはならないんですから、やめてください」

「だって、悠雅が強情だから!!」

「わかっています。だから、勝手に着いていきましょう」

「お嬢!!」

「貴方が勝手をするんです。私達も勝手にしてもいいですよね?」


 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。悠雅は観念したように肩を落とした。



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