第2話

 埋め立ての人工島犇めきあう東京湾。そこから伸びる、鉄橋の先にはもっとも沖に近い島がある。陰州口いんしゅうぐち。悠雅たち三人の姿はそこにあった。


「それにしてもずいぶん陰気臭い所ね? 警邏するのはわかるけど、何もこんなじゃなくてもいいじゃない」


 海がもたらすジメジメとした湿気と、鼻が曲がりそうになるほどの強い磯の香り。街路灯の光が足りないのか街全体が仄暗く、どこか薄気味悪さを感じたアンナは小さく身震いしていた。


「ここは黒外套が初めて目撃された場所なんだ。出現頻度も多い。奴らに繋がる手がかりがあるかもしれない」

「だから、こんなに人の気配が無いの?」

「いや、それ以前からだ。この陰州口という地区は亜細亜アジア一人口密度が高いと言われてる帝都の中でも、一番住民が少ない地区なんだ」

「どうして?」

「忌まわしい土地だって言われてるからだよ」


 白い息を燻らせ、ぼやくように応える悠雅は沈みつつある太陽を仰ぐ。彼の言葉に首を傾げる彼女に「ここは昔、海底神社があった場所なんです」と、瑞乃が補足する。


「ですが徳川の世の頃、大規模な埋め立て事業があり、取り壊してしまったのです。それ以来、この陰州口では多くの水難事故が起きる様になってしまったようですよ」

「津波、海賊、海魔その他諸々。毎年何かしら事件事故が起きてる」

「だから、忌まわしい、ね。そりゃ人が減るわ――って、あれなに?」


 不意にアンナが足を止める。その視線の先には海に向かってどす黒い水を垂れ流す大きな穴があった。


「下水道の排水口だ。家々や各地に溜まった雨水、工場排水などの汚水を地下に張り巡らせたこの下水道に流している」

「……それって海が汚くならないの?」


 アンナは露骨に嫌そうな顔を見せると、悠雅は同じ心境ながら、それでも利用している己への葛藤からか苦虫を噛み潰したような顔を作る。


「なっている。そのおかげで、このあたりの漁師達は沖まで出て魚を漁るようになったと聞く。だが、この下水道が無くては地表が穢れる」

「ペストやコレラでってこと?」

「具体的な病名は覚えてないが、多分それだ。明治に入って、帝都に人口が集中しだした挙句、都市開発のおかげでこの辺りの農家が軒並み減った。そのせいで屎尿しにょうを消化し切れなくなり、苦肉の策として流している。文明の力は俺達に豊かさをもたらしたが、いいことばかりではないな」

「……その下水道に潜る、なんて言わないわよね?」

「必要なら潜る。が、婦女子には辛い環境だろうし待っててくれて構わない」

「べ、別に嫌とは言ってないし!」

「無理に我慢する必要はありませんよ? 貴女、身なりは立派でしたし、箱入り娘なら汚れ仕事はできないでしょう」


 唇を尖らせるアンナに瑞乃が揶揄からかうように満面の笑みで尋ねると、途端アンナは頬を膨らませ、面白くなさそうに鼻を鳴らす。


「そうしたいのは山々だけど、ほら? 狭い場所だと使い物にならなそうなのが一人いるでしょ? フォローしてあげないと悠雅が可哀想かなーって」

「それは私と三笠に対する挑戦でしょうか?」

「そう聞こえちゃったなら悪いわね」


 負けじと花のかんばせを咲き誇らせて、アンナは勝ち誇ったように瑞乃を見下ろす。そして、そのままの状態で視線を叩きつけ合う。


「器の小さい女」

「態度の大きな女」

「こけし」

「マトリョーシカ」

「はいはい、喧嘩は江戸の華ですけど、今は勘弁してくださいね。もう夜ですし、近所迷惑になってしまいます」


 笑顔のまま火花を散らすアンナと瑞乃の間に割って入った悠雅は若干呆れ気味だ。だが、目元はほんの少しだけ孤を描いている。


 アンナ・アンダーソンという少女は彼から見ても危うげだった。彼女の原動力となっている家族の蘇生という望み。禁忌の願いを抱く彼女には寄り添う誰かが必要だと悠雅は考えていた。

 たとえ、その望みが果たされようと果たされまいと、彼女を受け入れてくれる。そんな誰かが。

 それは多ければ多い方が良いし、異性である自分だけでは不安だろうと考えていた悠雅にとって、アンナと瑞乃の和解はこれ以上無い朗報と言えた。


 そして、その逆もまた然り。怪異退治や要人護衛など、血なまぐさい世界に身を投じてしまっている瑞乃にとってもアンナという存在は大きい。本来ならば学生として生活していたであろう彼女にとって、同性で歳の近い友人は璃菜くらいのもの。それ以外は悠雅や新八、真琴といったむさ苦しい男達のみ。

 一般的ないわゆる、“女の子”としては余りにも寂しい世界だ。


 アンナという存在が瑞乃の世界に少しでも花を咲かせてくれるに違いない、と悠雅は考える。


「言ってることは正論なんですけど、悠雅さんに言われるとなんだかしゃくですね」

「奇遇ね、私もなんかムカつくわ。ちょっと頬を差し出しなさいよ」

「……理不尽過ぎる」


 今度こそ本当に呆れ果てて、彼は些か頭を抱える。その横で「ああ、そうだ」と瑞乃が何やら思い出したように手を叩いた。


「これから何があるかわかりませんし、お二人にこちらをお渡ししておきますね」

「この紙切れは一体何?」


 紙を見つめてアンナは小首をかしげた。紙にはうねうねと蛇のような文字がびっしりと書き込まれていた為だ。


「呪符です。そこに封じ込めた式神が、私に居場所を教えてくれるようになっています」

「ああ、この前悠雅を――」


 その刹那、瑞乃の細腕が目にも止まらぬ早さでアンナの真白い首に絡み付いた。


「え、どうしたんですかアンナさん? 気分が悪い? それは大変ですね!!」


 丁寧な言葉遣いでアンナの心配をする瑞乃の翠緑の目には、今にも喰い殺しかねない殺気が迸っていて、アンナは思わず青ざめる。


「ぐ、ぐるじい……わかった、わかったから、言わないから、離しなさい……」

「ああ、気分が良くなったんですね? ああ、良かった」


 どこが良いの? アンナはそう返したくて堪らなかったが、これ以上薮を突けば、蛇どころか鬼が出てくるかわからない。


(覚えときなさいよ……!!)


 心の中で拳を握り閉めていると、視界の端に白い雪が綿毛のように舞うのが見えた。気が付けば、空は灰色に覆われて、星々を覆い隠していた。

 街路灯の光に燃ゆる不香の花。故郷でよく見た香りのない花弁が一枚、ふわりと落ちてきて、右手で受け止めると花弁は直ぐに滲んで消えていった。


「儚いね……」


 口の中で一人呟くアンナ。その様子を外から眺めていた悠雅は、思わず息を飲んだ。街路灯の柔らかな橙の明かりで照らし出された、彼女の一人舞台。蜂蜜色の御髪が馬鹿に美しく煌めいて、彼は目を奪われる。

 彼女の背後に這い寄る脅威に気づけなくなってしまう程に。


「誰ッ!?」


 途端、アンナが声を張り上げ宝剣を抜き放つ。振り返った彼女の視界の中には、黒外套が黒い外套を雪風に翻す姿。


 アンナは祈祷いのりを発露しようとするも、時すでに遅し。黒外套の焦油タールのような肉が暗幕のように広がり、アンナを飲み込んだ。

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