第8話

 爆音と衝撃が悠雅の体を舐めた。その衝撃の余り湖畔に叩きつけられた彼は、祭壇を押し潰して横たわる龍の姿と、硝煙を燻らす巨大な兵器を背に並び立つ二人の少女の姿を目の当たりにする。


「何が、起きた?」


 狼狽える様に言葉を零したのはマーシュだ。彼は横たわる龍を前に膝を付くと、言語化できない叫び声をあげる。それに釣られて、念仏を唱えていた者達が輪唱するように喚き出した。常人ならばそれを聞いているだけで発狂してしまうであろう、その叫び声は三半規管を直接揺るがすような威力を見せる。


 だが、そこに一条の光が迸った。光はおぞましき輪唱を引き裂き、雷鳴を轟かせる。閃光と音にくらつく悠雅の元に、小石が転がってきた。その方向に視線を向ければ件の少女二人が立っている。


「‟瑞乃”、アンタも大概無茶苦茶よね。こんな土の下で大砲ぶっ放すなんて」

「“アンナ”さんの地底湖の水を電気分解して爆破する、という案よりも遥かに安全だと思いますが」


 互いに毒づく瑠璃と翠緑の瞳が交差して、すっと降りてくる。


「で、大丈夫?」

「お怪我はありませんか?」


 あれほど凸凹デコボコとしていた筈なのに。そう思って、悠雅は自然と笑みを零してしまった。


「問題ない、大丈夫ですよ俺は。そんなことよりいつから名前を呼び合う仲になったんで?」

「減らず口を叩けるなら問題ないですね。――それで、一体どういう状況なのか説明していただけますか?」

「正直、仔細は計りかねています。ただ、穂積中尉は訳ありのようで」

「あいつが裏切ったんじゃなくて?」

「端的に言えばそうなんだが、単なる裏切りではないと思う」


 悠雅は腰を抜かして怯える穂積を見据える。

 彼に何があったのかはわからない。しかし、帝都の地下で怪物を飼っているような連中に縋らねばならないほど追い詰められているのだとしたら、手を差し伸べなければならない。

 英雄を目指すのなら、決して見捨ててはならぬ。悠雅は穂積を救うべく、天之尾羽張を深く握り込む。


「――荒事のようですな」


 不意に、怜悧な印象を覚える低い声が大空洞に響き渡った。その声は波のように押し寄せ、勇む悠雅の心は一瞬で沈めていく。

 徐々に近付いてくる足音に、喉が張り付き、彼はえずきそうになる。


 やがて、一人の男がその場に顔を出した。大日本帝国陸軍が採用している、黄土色の軍服を纏う男。呼吸を忘れてしまいそうになるほど整えられた尊顔と、異様に白い肌に黄金の瞳を頂く男。


 彼は悠雅たちを目で射止めると、喜色を帯びた声を漏らす。


「懐かしい顔だ。久しいな、夜叉丸」

「【甘粕正彦あまかすまさひこ】……」


 かつて名乗っていた幼名で悠雅を呼ぶ男を見据えながら、悠雅はその名をうわ言のように呟く。


「ああ、失敬。もう元服を終えて名を変えているのだったな。確か――悠雅、とか。中々良い名だ」

「アァァァァマァァァァカァァァァスゥゥゥゥッッ!!」


 まるで旧知の友にでも会ったような、満面の笑みを零す彼の元に、赫銅しゃくどうの斬光が走る。

 吼え猛る悠雅が甘粕を斬殺せんと天之尾羽張を振り下ろしたのだ。しかし、その凶刃は甘粕の元には至らなかった。

 悠雅の体は金縛りにあったように、動かなくなってしまったのだ。


「相変わらず直線的な男だ。幼い頃より何も変わっていない。少しは周りを見ろ」


 甘粕の指さす先には、黒外套の黒いヘドロのような肉体が波紋を作っていた。


 さらによく見れば、黒外套のヘドロは悠雅の足を上り、彼の全身を飲み込んでいた。そうすることで彼の身体を押さえ込んでいたのだ。


「黒外套……だと?」

「黒外套? ああ、表の人間が付けた名前だったか。これには黒蛭子ショゴスという正式名称があるのだが」

「喧しい。答えろ、甘粕。こいつらはお前が使役しているのか?」

「そうだと言ったら?」

「斬る。お前だけは絶対に」

「その状態でできるのならやってみるといい」


 小馬鹿にしたように笑う甘粕は、倒れ付した龍の前で咽び泣くマーシュに恭しく頭を垂れる。


「お迎えに上がりました、マーシュ司祭」

「甘粕貴様、今さら何をしに来たァッ!! 貴様は我等の守護のために遣わされたのではなかったか!!」

「落ち着いて下さい司祭」

「落ち着いてなどいられるか!! ハイドラがたった今、ここで撃ち殺されたのだぞ!!」

「ええ、だから来たのです。貴方を逃がす為に」

「ふざけるな! 我らがハイドラが討たれたのだぞ!? 彼奴等には裁きを与えねばならん!!」


 激墳に震えるマーシュを他所に、甘粕は瑞乃の背後に控える大砲を指さす。


「ご覧下さい。あれは三〇.五センチ口径連装砲。我が主が警戒していた“神器・戦艦三笠”の主砲です。あれと相対するには、最低でも戦艦一隻分の戦力を用意しなければなりません」

「たかが戦艦。何するものぞ!!」

「貴方一人なら良いでしょうが、貴方の信奉者はそうでもないでしょう。さらに付け加えさせていただけるのなら、あれは単なる戦艦に非ず。新撰組の背後には西村真琴にしむらまことがいる。間違いなく奥の手を隠していることでしょう。改めて、戦略的撤退を愚申します」

「逃がすとでも?」


 極めて平静に語る男の言葉を瑞乃が遮る。彼女は新たに召喚した四.七センチ口径単装砲の照準を男に合わせ、通告する。


「ひき肉にされたくなかったら降伏しなさい」

「やれやれ、いつも悠雅の後ろに隠れていた子がいつからそんな口を利くようになった?」


 ため息を吐く甘粕は黄金の双眸を、隅で震えている穂積に向け、一言命ずる。


「穂積中尉、時間を稼げ」

「へ?」


 思わず間抜けな声を上げる穂積は、殺気立つアンナと瑞乃を流し見て震え上がる。


「む、無理です!! 相手は現人神なんですよ!? 直ぐに殺されてしまう!! どうかお考え直しを!!」


 ボロボロと涙を零して懇願する穂積に甘粕は笑いかけると次の瞬間、とんでもないことを口にする。


「ならば、穂積弥次郎恒人ほづみやじろうつねひと黒蛭子ショゴスを呑め」

「アンタ一体何を言っているの……!?」


 訳の分からない甘粕の命令。アンナは、穂積が拒否するものだとばかり考えていた。相手は得体の知れない怪物。それを腹に収めるなど、正気の沙汰ではない。


「い、いや、嫌だあっ」


 アンナの予想通り穂積は拒絶した。だが、何故か彼は、悠雅を縛り付けている黒外套――黒蛭子ショゴスの元へとにじり寄っていく。


「お、おれは、まだ死ぬ訳にはいかない……息子と女房が家で……だから、お願いします!! 甘粕殿!!」

「重ねて命じる。穂積弥次郎恒人、黒蛭子ショゴスを呑め」


 二度目の命令でいよいよ、体の自由がきかなくなった穂積は走り出す。アンナと瑞乃は咄嗟に彼の体に飛びつくも、尋常ではない膂力を発揮する穂積は彼女たちを振り払って黒蛭子の沼へと飛び込んだ。


 粘性の液体を啜る音が嫌でも耳にこびりついて、アンナは思わず耳を塞いだ。しかし、それでも隙間から聞こえてくる。啜る音と、嚥下する音が。


 やがて、穂積は黒蛭子を飲み干すと、妊婦のように膨れた腹を抱え、のたうち回り始めた。


「穂積中尉!! しっかりしろ!!」


 黒蛭子から解放された悠雅が呼びかけるも、その声が届いている様子はなく、穂積は海老反りになって苦しみ悶える。


「嫌だ嫌だ!! 登ってくるのぼってくるノボッテクル!!」

「中尉、負けるな!! 今アンナを――」

「ごろじでくれえ、こわれてしまうまえに、かぞくを、くってしまうまえに」


 悠雅は言葉を失った。黒い泡を喰いながら、黒い涙を流す恐怖に染った目で、それでも家族を想う穂積に。

 直後、この世の終わりを垣間見たかのような絶叫がこだますると同時に、彼の目、鼻、口、耳、毛穴。穴という穴から血液の如き赤い液体が噴出した。


 噴出した赤い液体は意志を持っているのか、穂積の身体を独りでに飲み込んでいく。ものの数秒足らずで全身を覆い尽くした赤い液体に、無数の眼球が浮かび、それを赤い外套と仮面で覆い隠した。


「ま、さか……そうやって作っていたのですか!?」


 赤外套の誕生を目の当たりにした瑞乃が、震える声で甘粕を問い質す。


「おや、お前は遭ったのか。手強かったろう? 赤は作るのが手間でな」

「ふざけないで!!」


 甘粕に向かって発砲しようとした瞬間、四.七センチ口径単装砲の銃身を穂積に――否、赤外套にへし折られた。


「うむ、良い出来だ。やはり禁厭師まじないしを苗床にすると強度が違う。では、後は任せるぞ」

「ハッ、お任せを!!」


 赤外套が敬礼すると、甘粕はマーシュとその信奉者を連れ立ち、踵を返す。

 悠雅は甘粕を追うべく飛び出すが、赤外套が行く手を阻んだ。

 赤外套の背の奥から、黄金瞳の妖しい光が飛んでくる。


「そう急くな、悠雅。なに、近いうちにまた会うことになるだろう。尊き巫女殿もいることだしな」


 続けてアンナに笑いかけた甘粕は、マーシュと共に闇へと溶けていく。


「退いてくれ、穂積中尉」

「我は穂積に非ず。我は赤蛭子ハイ・ショゴス。我は穂積の屍より生まれしもの。覚悟せよ、大いなるもの。我らは敵対者に容赦ない」


 赤外套は外套の下に隠した赤い肉体を膨張させ、悠雅に殺意を向ける。

 最早、気の弱い穂積の姿はそこにない。ならば、彼の最後の願いを成し遂げるのがせめてもの情けであろう。


 赤外套が拳を振り上げると同時に、悠雅は天之尾羽張を構える。


「済まない」


 一秒にも満たない刹那の瞬間。謝罪の言葉が無情に零れ落ちた時には、悠雅の前から赤外套の姿が失せていた。

 代わりにあるのは赤い池。遺体はない。骨すらもない。


「悼ませてもくれないのか」


 気がつけばあたりは静まり返っていた。瘴気は失せ、甘粕たちの気配もない。地底湖の波打つ音だけが馬鹿に大きく響く。


 ここに怪異がいないのなら依頼は達成されたことにはなる。しかし、そう上手く呑み込める類の事柄ではなかった。


「なんで、彼は嫌がっていたのに……」

いみなを握られたせいです。禁厭師に諱を握られると、ああいう風に操られたり、呪い殺されたりするんです。だから、貴女も妄りに真名を明かさぬよう気をつけてください」

「……ええ」


 瑞乃の真剣な眼差しに、アンナは頷くことしかできなかった。そして同時に、妙法蟲聲経ネクロノミコンへ至る道がどれだけ険しい道かを再認識した。

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