第2話
「アンタが先に助けたくせに」
白人の少女は努めて冷たい表情を作って述べ、それでも「だけど」と、付け加えるように。
「忠言、痛み入ります」
「……怒って雷落とされるかと思った」
無論、比喩ではなく、実際に。
「ええ、落としてやろうかと思った。でも、アンタの言ってることも何となくわかった。割と本気で
「どんな顔だよ」
「今にも泣きそうな顔」
「見間違いだろ」
「相手の表情を読めなくなるほど視力を落としたつもりはないわ」
「……馬鹿馬鹿しい」
悠雅は顔を背けて、図星突かれたみたいに。奥歯を噛みしめる。
「お嬢は――黒髪の女はどうしてる?」
「あの子なら連絡することがあるってどこかに行ってしまったわ」
「……そうか、良かった」
悠雅はここに来てようやく、わずかながら胸を撫で下ろした。あの戦いに巻き込まれて怪我でもしていたらと思うと、腹の底が酷く冷えたのだ。
「ねえ、今度は私が聞いていい?」
「なんだ?」
「貴方、殺し合ってたはずの私をどうして怪物から助けてくれたの? 日本人からしたらロシア人なんて憎くてたまらないんじゃないの?」
彼女の問いに、悠雅は僅かばかり逡巡を挟む。彼女を助けた理由がわからなかったからだ。
悠雅は彼女を殺そうとしていた。なのに、彼は彼女を庇った。一見矛盾に満ちた行為だが、あえて言うのなら――
「体が勝手に動いていた」
「はあ?」
怪訝な表情が返ってきた。当然だ。しかし、理屈ではなかった。
「とんだフェミニストね。私を殺そうとしたのに?」
彼はじっとりとした彼女の視線から逃れつつ「それより」と話題を変える。
「言うのが遅れたが、ありがとうな。本来なら、真っ先に礼を言わねばならなかったんだが……つい、怒鳴ってしまった。すまない」
悠雅は
ならば礼を言わねばならぬと悠雅は深く頭を下げる。
「あんたのおかげで助かった」
「私も、貴方に助けられた。
返すように彼女もまた礼を述べ、花のかんばせを咲き誇らせた。
「それじゃあ私、そろそろ行くね」
寝台がやけに大きく軋み、馬乗りになったままだった彼女がそこから降りようとすると、長い腕が彼女の白く細い手を掴んで引き止めた。
「これからどこへ行くんだ?」
「わかってるでしょ? 私には私の目的がある」
「できるのか?」
「できるかどうかじゃない。やるの」
彼女の決意は固く揺るがない。しかし、かの国の隠密としてこの国に潜入したのであれば騒ぎを起こした時点で母国に
彼女は個人的な用があってこの国に来ているということ。
(一人で行かせてはダメだ……)
悠雅は彼女が一人で行ってしまわぬように力強く握りしめる。
「一人でどうにか出来るほどこの国は甘くない。軍部を嗅ぎ回れば銃殺されかねん。特に
「それでも私は、ここで膝を折りたくないの」
意思は変わること無く、貫くような視線を悠雅に向けている。
「爺さん――永倉新八に会いたいんだろ? 理由によっては取り繋いでも良い」
「アンタのおじいさんだったのね」
「血は繋がってない。育ての親だ」
「どちらにせよ、これ以上アンタとアンタの身内に迷惑を掛けたくない。永倉新八のことは諦めるわ」
「迷惑ならこっちだって掛けてる。お前は命の恩人だ。恩返しさせてくれ」
「そんなこと言ったら私だって救われた。これ以上貴方の負担になりたくないの」
吐き捨てる様に彼女は立ち去ろうとする。だが、悠雅は更に強く彼女の手を掴んで彼女を引き止める。
「ここでお前を一人にする訳にはいかない」
「……甘いのね。殺し合ってた時の貴方に今の言葉を聞かせてあげたいわ」
「人は変わる生き物だ。経験する事で意見が変わることもあろうよ」
「それもそうね」
互いに身に覚えがあることだった。そして、それを思い出してくすりと笑い合う。
「そうだ、すっかり名乗るのが遅れてしまったな。俺は
「私は――」
彼女は悠雅の手を取って、僅かに間を置いて、
「――アンナ……【アンナ・アンダーソン】よ」
百合のように美しく、それでいて痛々しいほど儚く笑う彼女を見た時、悠雅は胸を締め付けられる思いだった。その笑顔に、言い知れぬ重量を感じたのだ。
彼女がこの国へとやってきた理由と関係があるのだろう。彼は一人納得する。
「あんな。アンナ。うん、良い名だ。それに短くて呼びやすいのもいい。向こうの名前はやれ‟えいどりあん”だの‟きゃろらいん”だの‟くりすちゃん”だの長ったらしい上に小難しい名前が多いから助かる」
「英語苦手なのね」
「外つ国については食文化以外基本的に興味が無い」
「アンタ、今後の為に英語くらいは話せた方がいいわよ?」
アンナは何やら勝ち気な表情で「私なんかロシア語、日本語、英語、フランス語、ドイツ語の五カ国語も話せるんだから」なんて言って胸を張ってみせた。
しかし、当の自慢された側の方はわかっているのかわかっていないのか、「ほぁ〜」とよくわからない反応を見せる。目を丸くしているのでとりあえず驚いているようではあるのだが、反応が余りにも薄いのでアンナは少しばかり恥ずかしくなった。
「ちょっとは褒めなさいよね」
「ああ、悪い。よくわからなくてな。でも、凄いのはわかるぞ。沢山勉強したんだな」
悠雅は感心したように唸る。
「本当にわかってるの?」
「無論だ。お察しの通り、英単語もろくにわからん身だ。尊敬するよ」
「ふふん、もっと褒めてくれても良くってよ?」
途端上機嫌になったアンナは高く笑った。悠雅はその様子を彼女の下から眺めながら、困った時は褒めよう、と密かに胸に刻んだ。
「少し話が逸れたな。本題に戻ろう」
話題の軌道修正の提案にアンナも同意して頷く。
「それじゃあ、聞かせてもらって良いか? うちの爺さんに会わなきゃいけない理由ってやつを」
「良いけど、でもそれには条件があるわ」
「聞こう」
返答すると彼女は人差し指を立てて、
「条件一、他言無用にすること」
「心得た」
悠雅の返答にアンナは満足気に頷いて、次に中指を立てる。
「条件二、笑わない事」
「そもそも笑うつもりなどない」
「貴方がそういう人間じゃないことはわかってるんだけど、一応ね」
命懸けでこの国にいる人間が抱く、その願いの重みだけでも簡単に笑い飛ばす事などできはしない。彼は改めて覚悟を決める。
「他に条件はあるのか?」
「いえ、これで終わりよ」
彼女は佇まいを正し、こほんと咳払いすると、彼女はその願いを口にする。
「私はね、この国に流れ着いた人体蘇生の法を求めてやって来たの」
「人体、蘇生……?」
えらく荒唐無稽な単語が飛び出たな、というのが悠雅の第一印象だった。
人体蘇生法がこの国に本当にあるとしたら、今頃この国は死人だらけの国になっているだろう。
彼自身の見立てではそんなものは有り得なかった。
だがそれでも、彼女はあるかわからないようなものに縋らなければならないほど、追い詰められているのだろう。
「家族を失くしたか」
悠雅の問い掛けに彼女は無言で頷く。
「そうか」
無慈悲に切り捨てれば、今時珍しい話ではない。しかし、受け止め方は人それぞれだ。中には受け止めきれずに彼女ように零してしまう人間もいる。
だが、それでも死者に会うことは出来ない。この世界はそういう風に出来ているのだから。
悠雅も考えたことがなかったわけではなかった。彼もまた、先の戦争で多くのものを失った。戦場で父を、その訃報聞いて体の弱かった母を。戦後処理の不始末で起きた暴動で姉を。そして――朋友を。
(もしも、死んだ人間を呼び戻す方法があるのなら)
幼い頃、何度もそう思った。そして、彼はその想いを幾度と無く飲み干して来た。だが、今ここで彼女にそれを強いれば枯れ落ちてしまいそうな気がして、悠雅は言えなかった。
「わかった取り繋ごう。爺さんが知ってるかどうかは知らないが、それでもいいか?」
「それでも良いわ、ありがとう」
――“その思いはきっと、間違っている”、と。
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