[閨房のアジタート]

 ――それにしても厄介なことになってしまった。

 私は不倫相手の元に逃げようとして、夫とケンカになり揉み合って、夫が階段から転落して死んだ……あくまで、これは事故死なのだが、果たして警察が信じてくれるだろうか?

 救急車を呼ぶか、警察を呼ぶか、迷っていたら……突然、夫のスーツのポケットから携帯が鳴った。私の携帯だが夫に取り上げられてしまっていたものだ。

 ポケットから取り出せば、不倫相手の河合幹也かわい みきやからの電話だった。


『もしもし、俺だよ。今着いたから門の前で待ってる』

 家を出ていく私を幹也が車で迎えにくる手筈てはずになっていた。

『幹也さん! どうしよう? 夫が死んでしまったの』

『えっ!?』

『出て行くところを夫に見つかって、ケンカになって、三階の踊り場で揉み合っていたら、階段から転落して死んでしまった』

『……マジで?』

『ねえ、私どうしよう?』

『…………』

『お願い、助けて!』

『事件現場に俺が居たらマズイじゃん。今日のところは帰るわ。落ち着いたら連絡して……じゃあ』

 そう言って電話は一方的に切られた。


 なんて薄情な男! 河合幹也は奥様向けのワイドショーで評判のイケメン、タレントシェフだ。

 知り合った切欠は、テレビのグルメ番組で彼が経営するフランス料理のお店が紹介されて、そこに夫と二人で食事に行ったことだった。

 銀座にある彼のお店は『Rose bleue』、フランス語の“ 青い薔薇 ”という意味で、こじんまりしたお店だが、インテリアはアール・ヌーボー調でお洒落な雰囲気だと思った。

 食事も美味しくて、最後にはシェフの幹也がテーブルに来て挨拶をしてくれた。間近で見た彼はテレビで観るよりもずっと素敵だった。だが、私と幹也が楽しそうに会話をしていると、やきもち妬きの夫が露骨に不機嫌そうな顔をする。

 家に帰ってから『Rose bleue』に、また連れて行ってと夫に頼んだら……怒ったような顔で返事をしなかった。

 私たちの住む屋敷は土地だけは広いのだが、人里離れていて不便な場所にある。おまけに夫には車の運転を禁止されているので、私ひとりでは何処にも行けない。――まるで、軟禁状態だった。

 それでも『Rose bleue』に、どうしても行きたかったので、夫のいない日には、タクシーを呼んで銀座の彼のお店に通っていた。

 その内、個人的に料理を教えて貰ったりして、ついに幹也と一線を越えて不倫関係になってしまった。


 私たち夫婦のセックスは夫が主導権を握っていた。

 毎晩、お風呂に入ると私の身体を隅ずみまで夫が洗ってくれる。そのまま全裸でベッドまで運ばれて、耳たぶから、乳房、クリトリス、アヌス、足の指まで長い時間をかけて愛撫する。

 私は死んだ魚のようにベッドに横たわり、ひたすら夫が果てるのを待つ――。

 夫はベッドで私に奉仕をさせなかった。最愛の妻に娼婦のようなマネはさせられないからだという。

 しょせん私は彼のお気に入りの人形にすぎない、私にとって夫婦のセックスなんて、退屈な日常でしかない。


 夫以外の男性を知らない私には、幹也は刺激的だった。

 無名時代、ホストクラブで働いていた経験がある、幹也は女の扱いにも慣れていた。

 少しSっ気のある彼は、私に卑猥な下着を付けさせ、恥かしい奉仕をいろいろさせた。受身のセックスしかしらない私は、幹也との扇情的なセックスに身も心も溺れてしまった。

 どんな危険をおかしても、彼との逢引を止められなかった。――そして、今、お腹の中に彼の子どもがいる。

 妊娠の事実を幹也には告げていない、結婚している女があなたの子どもだといっても、彼は信じないだろう。だが、私たち夫婦には子どもができなかったから、おそらく父親は彼に違いない。

 幹也に子どもの責任を取って欲しいなんて考えていない。

 だけど妊娠の事実がバレたら、夫に堕胎させられてしまう。私は産みたい、絶対に赤ん坊だけは産みたいのだ。私生児になっても構わない、自分一人で育てていく覚悟はできている。

 堕胎させられないため、私は夫から逃げようとしたが、見つかってケンカになり、結果として夫が転落死してしまった。


 マスコミに顔が売れている幹也は、こんな厄介のことに顔を突っ込みたくなかったのだろうか。だから自分の保身のためにさっさっと逃げていった。

 付き合っていく内に自己中で、お金に汚い男だとは気づいていた。夫の所有する神楽坂の料亭を狙って、私に近づいてきたことも分かっている。女癖が悪くて、打算的な幹也には、もう怒りよりも呆れてしまった。

 身長176cm、体重63キロ夫の死体を自分一人では、どうすることもできない。夫が自分から落ちたのだから、これはに他ならない。

 下手に工作したらかえって疑われてしまう。ここは素直に警察を呼んだ方が良さそうだと判断して、携帯から電話をする。警察がくるまで、この状況をどう説明するか、頭の中でシュミレーションして置くべきか。


 夫の死体を前にして、不思議なくらい冷静な自分に驚いている――。

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