[砂漠の月]

 その男は裏庭の奥の雑木林の中に立っていた。

 黒い服を着た長身で痩せているが眼光の鋭く、まるで死神みたいだった。

 二階のベランダに布団を干すために出た時に、その男の姿を見つけたのだが、以前に一度この男を見たことがあった。

 夫が亡くなる一週間前くらいに、裏庭で夫と一緒に居るところを見かけた記憶がある。私はバラの手入れをしながらチラッと見ただけだが、この家には来客は少ないので覚えていた。遠目から見た感じは五十代後半くらいで、ただ者ではない雰囲気が漂っていた。

 夫の四十九日の法要が済んで、ちょっと気持ちが緩んできた私の前に突然現れた。

 生前の夫といわく有り気な関係かと思えるこの男が、何か秘密を握っているかもしれないと私は恐怖におののいた――。


 夫の通夜に実父だという有名政治家と初めて対面した。

 この人物は政党の重鎮的存在で何度も大臣を経験していて、今は副総理大臣の職にある人だった。初めて挨拶された時にはビックリしてしまった。数名の秘書たちに囲まれて、夫の通夜の焼香にきてくれたのだ。

 お棺の蓋を開けて、息子の亡きがらを眺めながら、

「不憫な奴だった……」

 と、目を潤ませていた。

 夫の母親がこの政治家の愛人だったとそれとなく聴いていた。

 結婚前に二、三度、実家の神楽坂の料亭にも行ったこともあったが、元芸者という母親は凛とした美人だが、息子には無関心みたいだった。夫は母親似の端正な顔立ちの美男子で、女性にはモテる方だった。

 大学で私たちが付き合い始めた頃には、彼のことを好きだという女子大生たちから、嫌味を言われたり、虐められたこともあった。

「どうして、あんたみたいなブスがいいのよ!?」

 酷いことを言われたこともあったが、正直、こんな私のどこが好きなのか不思議でならなかった。当時の私はメガネっ子で服装もダサかったのに……。

 ――今思えば、夫は自由こそ与えてくれなかったが、全身全霊を傾けて私を愛してくれていたことだけは、揺るぎない事実だった。


 夫の葬儀は親戚の少ない私に代わって、しゅうとに当たる政治家の秘書たちが全てやってくれた。だから私は、ただただ悲しみに暮れる未亡人の役を演じてさえすればよかった。

 遺産については、今住んでいる屋敷と神楽坂の料亭は相続させて貰えることになった。他にも都内のパーキングや借家などもあった。夫の愛車だったマセラッティ・クアトロポルテだけは秘書が乗って行ってしまった。

 実際、夫の資産がどのくらいあるのか全然知らなかったので、その資産の多さにただ驚くばかりだった。

 今は賃貸物件になっている神楽坂の料亭を河合幹也がすごく欲しがっていた。

 彼は和風の料亭で和テイストなフランス料理を提供したいと考えているようで、前に神楽坂の話をした時に興味を持ったみたいだ。一度、不動産屋を通して見に行ったこともある。銀座のお店は手狭なので、こういう大きなお店で高級フランス料理のオーナー兼シャフとしてやっていきたいと熱く私に語っていた。

「君には絶対に損をさせないよ」

 レストランの共同経営者の話を持ち掛けられた。

 おそらく幹也は私よりも、あの神楽坂のお店に興味があるのだろうと薄々感じていた、だから家を出る時には、神楽坂の家の権利書も持って逃げようと思ったほどだ。


 早朝、犬のけたたましい鳴き声で起こされた。

 うちで飼っているミニチュアダックスフンドたちの鳴き声だが、いつもよりも甲高く尋常じんじょうではなかった。

 屋敷のセキュリティシステムは万全だ、まさか外部からの侵入者とは思えないが……夫亡き今、この広い屋敷で一人で暮らすのは心細くて仕方ない。

 犬の鳴き声は一階にある室内プールからだった。

 プールの扉を開き水面を見た瞬間、私は言葉を失くした。

 犬が……プールに浮かんでいた。耳にピンクのリボンを付けているから、あれは牝犬のイヴに違いない。そして牡犬のアダムが大きな声で吠えている。

 いったい何があったのだろう? 少し位なら犬たちも泳げた筈なのに……。その時、足元にバラの花が一輪落ちていることに気がついた。

 これは私が庭で育てているバラの種類だ。何故? こんな所に落ちているのだろう? 建物内に誰かが侵入していたということか!?

 ――ブルッと恐怖で背筋に悪寒が走る!

 愛犬のイヴを誰かが故意にプールに沈めたのかもしれない。私の脳裏にあの死神みたいな男の姿がかすめていった。もしかしたら、これは私への警告なのか!?


 犬が死んでから、この屋敷で一人で居ることが怖くて堪らない。あの死神みたいな男に命を狙われているのかもしれない――恐怖で夜も眠れない。

 これでは胎教にも悪い。私のお腹には赤ん坊がいる、たぶん、不倫相手の河合幹也の子どもだと思う。

 私たち夫婦には子どもができなかった。病院で診て貰ったら、夫の精子の数が少なくて妊娠し難いのだと医師に言われた。簡単な方法で男性の不妊は治ると説明されたが……そんな不自然なやり方で子どもを作りたくないと夫が不妊治療を拒否した。

 それが大いに不満だった! 私はひとりっ子で寂しい思いをして育ったので、自分の分身ともいえる子どもがたくさん欲しかったのだ。

 それなのに夫は『君さえいれば、子どもなんて要らない』というのだ。私は『子どもがいれば、もっと楽しい生活になる』と思っていたから……二人の考えはのままだった。

 だから幹也と不倫関係になった時、ピルを飲んでいるからと嘘をついて避妊せずにセックスをした。どうしても子どもが欲しかったから――。

 たぶん妊娠初期の12週間目に入ったと思う。妊娠検査薬で調べた結果で、まだ産婦人科で診察して貰っていないが、いずれ海外へ出国して出産するつもりだ。

 赤ん坊は一人で産んで、一人で育てていく、その覚悟はできている。――夫が遺産をたくさん残してくれたお陰で経済的には大丈夫。


 月満ちて、新しい生命が生まれる。砂漠の月のように輝く私の希望なのだ。

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