Blood of Adam

泡沫恋歌

[金糸雀の唄]

 足元に横たわる夫の死体を冷静に見降ろしている。

 紐の切れたマリオネットのように不自然な姿勢で倒れている。首の骨が折れているのか、ひん曲がった顔で、その目は虚空を睨んでいた。

 三階の踊り場で激しく揉み合いになった。出て行こうとする私を夫が止めようとして、肩を掴んだ時、思いきり振り切ってやったので、夫はバランスを崩し……階段から勢いよく転落していった。

 そのシーンを私は上から眺めていた――。

 なぜだか、その時、これで全て終わった。解放されるという安堵感が湧いたことは否めない。

 結婚生活五年目。果たして、この男のことを愛していたのだろうか? 答えはNOだ! 一度も夫を好きとか愛しているとか思ったことはない。――私にとって、彼は単なる保護者なのだ。

 彼が欲しかったのは私の愛ではなく、私の自由を奪う権利それだった。

 彼の作った“ 愛 ”という牢獄に閉じ込められていた。結婚は囚人生活で自由なんてこれっぽっちもない。

 四六時中、私は行動を見張られ、何から何まで、彼は自分の趣味を押しつけてきた。服も髪型もセックスも……どれも満足していなかったが、ただ黙っていつも従ってきた。

 日々無気力になっていく自分自身を救う術がない――。


 大学生の時、私は母親と義父の間で居場所がなかった。

 母の再婚相手の男は、妻よりも若い義理の娘に性的関心を持ち、何度も襲われそうになっていた。義理の父に脅え、夫を誘惑したと思い込んだ母とは不仲になった。

 こんな家から、一日でも早く出て行きたいけれど、お金も住む家もなく、私は困り果てていた。

 そんな時、大学の先輩だった夫が救いの手を差し伸べてくれた。

 マンションの家賃、生活費、大学の学費など、三年間すべて、その費用を彼が出してくれていた、けれど、その見返りとして、私に性的関係を求めてこなかったことが不思議だった。

 そのことで深く感謝していたから、今まで彼のいうことに逆らわない、従順な女の振りをしてきたのかもしれない。


 どうして? いっかいの大学生にそんな大金が出せるのか疑問だったが、彼は有名政治家の隠し子で、母親は神楽坂の一等地で料亭を営んでいた。

 そのことを知った時、私は金持ちに買われただけかとプライドが傷ついたが……貧しい大学生の私は、この現状に甘えるしかなかった。

 けれども、大学を卒業したら就職して、今まで借りたお金を返済するつもりだった。それなのに……就活用の会社案内のパンフレットを勝手に捨てられた。


「君は僕のそばにいる限り働く必要なんてないんだ」


 夫の中で、将来二人が結婚するというシナリオができ上がっていた。――私の意思など最初から無視されている。

 結局、その流れで結婚が決まり、新婚旅行はヨーロッパ巡りだと嬉しそうに話す夫に「結婚する意思はない」と、きっぱり言えない自分の弱さを呪った。


 夫の母親に挨拶に行った日のことを思い出す。

 神楽坂の料亭の一室に通された。そこから美しい日本庭園が一望できる。築山つきやま、石灯籠、錦鯉の泳ぐ池、こんな建物が東京のど真ん中にあるなんて……今さらながら夫とその母親の財力に驚かされた。

 料亭の女将というだけあって、着物姿が凛として、まるで博多人形のような女性だった。夫は色白で整った顔立ち、切れ長の目が涼やか、歌舞伎役者のような中性的な感じがする、彼の母親を見て、この二人はそっくりだと思った。

「女同士で話したいことがあるから、あなたは座を外して」

 その言葉に夫が部屋から出ていった。

 美しい母親と二人だけになった私は、ひどく緊張して冷や汗が流れた。おそらく、二人の結婚を反対されるだろうと思っていたから――。(反対して欲しかった!)

 しばしの沈黙の後、ゆっくりと口火を切った。

「息子が選んだ人だから私は反対しません。あなたも息子のことを選んでくれたね?」

「えっ……わたしがですか?」

 思わず言い淀んでしまった。

「お互いに納得して結婚を決めたわけでしょう?」

「あ、はい」

 私の顔を覗き込むようにして。

「……後悔しない愛なんてないわ」

 それだけ告げると「私は仕事がありますから、ゆっくりしていってください」と部屋から出ていった。

 入れ替わりに部屋に戻ってきた夫が「母が、二人の結婚にはないと言ってる」と嬉しそうに話した。

 夫の母親は大臣も歴任した有名政治家の愛情を何年も繋ぎ留めてきた、いろんな意味で女として一流なんだと思う。それゆえ、息子には執着がないのだろうか。

 すんなりと結婚が受け入れられて、むしろ拍子抜けの気分だった。


 程なくして、大臣の第一秘書だという男が会いにきた。

「君の成績は普通だが、男性関係はきれいだった。ご子息とは大学からずっと付き合ってきたようだし、大臣は二人の結婚には反対しないという意向を伝えにきた。この結婚で君は、お金に一生不自由することはないだろう。大臣とご子息に感謝しなさい」

 私のことをいろいろ調べてきたのだろう。人を見下した態度で、自分たちの言い分だけ話す傲慢な男。

「玉の輿に乗ったからといい気になって、大臣との関係を世間に風潮ふうちょうしないでもらいたい。以上だ!」

 そういって立ち去った。後ほど、その男が本家の姉の夫だと聞いた。


 結婚式の一ヶ月前に、突然、夫の母親が心不全で亡くなった。

 たった一人の肉親が死んだというのに、夫は結婚式を延期しようともせず、イタリアの教会で二人だけの式を挙げた。

 その夜、初めて夫は私を抱いたのだ。

 彼の強いこだわりとして妻以外の女性とはセックスはしないという信念があった。結婚してからは……今までの我慢を取り返すかのように、毎日々、昼も夜も関係なく夫は私のからだを求めてきた。

 新居として建てたという屋敷は、裏が山、前方は海という地上の孤島のような場所だった。リゾートホテル建築用に買っていた土地に、贅を尽くした白亜の館が建てられた。


「ここは二人だけの楽園なんだよ」


 満足そうに囁く、夫の横っ面を殴ってやりたいと何度思ったことか。

 元々、人づきあいが苦手で友人の少ない私でも、こんな寂しい場所で夫と二人きりで暮らすのは苦痛だし、まるでお城に幽閉されている気分だった。


 唯一、趣味の絵を描いて気を紛らせていた。

 いつも彼は、私の描いた絵を褒めちぎる『素晴らしい色だ!』『きれいな絵だね』『絵の才能が君にはあるよ』って――。

 でも違う! それは私の絵を褒めているのではなくて、私が描いた絵だから褒めているだけにすぎない。

「老後は、絵が好きな君のためにフランスかイタリアに移住してもいいか」

 そんな言葉で私を繋ぎ留めようとする。

 ただ甘やかされているだけで、私を対等な人間として認めているわけではない。「後悔しない愛などない」というが、なぜ結婚してしまったのか、それで本当に良かったのか、いつも自問自答してきた。


 この屋敷は大きな鳥籠だった、そこから飛び立てず、私は鳴いていた。

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