圭の編
学校という場所は私の邪魔な場所でした。特にイジメという発想で言うとゴキブリと同意語ぐらいのレベルに感じるぐらい毛嫌いしています。
私は成績も運動神経も容姿も人より上でした。それを気に食わない人間はどうしても出てくるものです。
ゴキブリは潰して殺すに限ります。
私は強い人でした。
しかし、彼女は違う。
今まさに学校の屋上から飛び降りようとしています。
高一の早乙女圭は男疑惑をかけられ、好きな女性に心を散々に弄ばれました。
馬鹿にされているだけなのに気付いた時の精神的ショックは相当なものだったでしょう。命は頑丈で簡単に捨てようとして捨てられるものではないのです。
鋭い紙切れで簡単に血を流す上、それだけで痛覚に支配される脳は常に痛みを拒み続けています。
心臓も自然と鼓動を辞めるのは決して健康な若者には有り得ないことなのです。
私は悲劇の主人公の前に颯爽と現れて神の手を下す狐です。
夜の校庭で変に捻じ曲がった身体をした早乙女圭は確かに死んでいました。
見開かれた眼球に私の尾が映ります。
チリーンと安らぐ鈴の音が鳴り響き、夜が一転して、真昼間に変わります。両親の寝室の横のリビングの椅子の上で彼女は座っていました。
瞳は紅く、冷静にテレビのバラエティ番組を見据えています。
彼女はもう私の一部でした。
狐の尻尾の毛がテレビの下に散らばっています。自分の毛ですから、大した不快感はありませんでした。
非日常的な物は取り除かなくてはなりません。
箒とちりとりを手に彼女が死んだ原因を無かったことにする計画を練ります。
そもそも何故、早乙女圭は男を軽視し、格上の女を崇めるのか。
それは彼女の両親の歪んだ日常に隠れていました。
母親の方がデキる女で父親はキレると誰にも止められない凶暴な男だったのです。くだらない世間一般の家庭。
彼女をあのイジメからの挫折感から救うため、まず私が取った行動は千切れた尻尾の掃除とテレビを消すことでした。
彼女は命を絶つ未来を変えるため、某かの大きな行動に移らなくてはなりません。
それでは圭の章に入りましょう。
あれは早乙女圭が都山加奈に告白した1ヶ月前。
高校を私立に無理して入ったのは僕、圭があの子と一緒にいたかったから。
僕は自分が女の自覚はあるし、女で産まれて後悔していないが、女の子が昔から好きだった。
生まれ育ちの良い品格の良さと甘いシャンプーの香り。男にはない妖麗感。軽やかな華奢な身体。
僕は自信のない普遍的な顔立ちと成績と運動神経の多少天然キャラで通る女の子だった。
何してもキラキラ輝く都山加奈に告白して、両思いを築けた時は夢のように舞い上がった。
彼女は凄い。
笑った時白い歯がキラリと光り、成績も運動神経も可愛さも抜群で大きな瞳が毎日の日々を満喫して見つめている。
完璧な美少女が僕なんかを見てくれる。
心の中でガッツポーズを取りつつ照れ笑いして、僕はおずおずと微笑んだ。
都山は何も言わず、僕の頬にキスし、いつもの自信に満ちた笑顔を僕に向けた。
あの時の高揚感は忘れられそうにない。
ただ地獄が始まっていたのに気付かない程僕は鈍感過ぎた。
「ねえ、早乙女。ちょっといい?」
僕の熱い視線の先で都山が机に座って猫のように背伸びをした。大きな欠伸を噛み殺す。
一瞬、甘いシャンプーの香りがフワッと舞い上がる。
僕はぶっきらぼうにそっぽを向いて、赤くなる顔を隠した。
「何だよ?都山」
心臓が張り裂けそうだ。これが恋なのか。
都山は僕の肩に長い髪の毛を引っ掛け、グイッと強引に顔を近付けた。
「ウチらってさ、付き合ってるんでしょ?」
僕はタジタジだ。何も言えなくなる。
都山はニンマリ笑って、僕の頬をつついた。最近、そういう仕草が多い気がする。怖いけど、ゾクゾクして、狼狽する僕を見ている都山の瞳に釘付けになる。
「だったらさ、面白いことしてよ」
思考回路が停止する音がした。
まず、これは彼女に言って欲しいことではない。
僕は思わず吃った。
「ど、ど、どういうこと?」
都山が、僕を見下す。その視線に愛は無かった。
教室の窓から鴉の鳴く不吉な声が大袈裟に耳に響く。
都山は美しく笑った。
「トイレの水を飲むとか?」
放課後の夕焼けも都山も日常的だったのに、何かが壊れていた。それは彼女の口から出た言葉だけだっただろうか。それとも彼女がサイコだと気付いたショックだろうか。
僕は引き攣り笑いをし、恐怖心を無理矢理隠した。
「トイレの水なんか飲める訳ないじゃん」
僕の言葉に都山は微かに怒りの色を目に灯す。
「私のためなら、トイレの水ぐらい飲めるでしょ?できたらキスしてあげるから」
都山が囁き、微笑む。
僕はまだ理解できなかった。取り敢えず便所に向かった。狭い教室を出、1番近くの便所を目指す。
足が重かった。
ノロノロ歩いたのに、とうとう着いてしまう。
僕はやけっぱちになって、トイレの洗面所の蛇口を捻った。
小柄な都山に突き飛ばされる。彼女のレースのパンティがチラリと見えた。場違いながらときめく。だが、見上げると待っていたのは都山の冷酷な目だった。
「何やってんのよ?ウスノロ。キスして欲しんでしょ?」
放課後、誰もいない。もちろん、助けなど来ない。そもそもこの時点ではまだイジメではない可能性を秘めていた。
レズビアンのSMだ、これは。
新しいジャンルの世界に入ったのだ。
良いだろう。受けて立とうではないか。
しかし、目の前の便器の水を目に躊躇わずにいられない。
飲めるのか?本当に。
僕はバランスを崩した体制でよくよく考えてみる。
都山は好きだ。変なSMぐらい付き合ってやってもいいぐらい。大便を食べる程ではないから、少しやろうか。
あの時、まだ引き返せた。
比較する対象を間違えた。
次の日、僕が便器の水を飲んでいる写真がクラスメイト全員の目を引く羽目になる。
もちろん、都山とキスはできなかった。
私は早乙女圭の頭をゆっくり撫でます。
夜の車道を小雨でできた水溜りが車に叩き付かれバシャーンッと派手な音を立てました。
圭の両親は何の違和感もなく休日の圭の背後に料理だけ残して別々の寝室に篭もります。唐揚げと玉子焼きの濃厚な匂いに圭の1度死んだ胃袋が鳴りそうでした。
「圭、お前も早く寝ろよ」
酒を持って、父親は大袈裟に溜息を吐いていました。
母親は簡素に圭に伝えたいことを紙に纏めていましたが、それが薄れた愛情を物語っていました。家事と仕事に追われ、圭の顔をまともに見ようとしません。
好都合でした。紅の瞳を見られると厄介です。
--圭、行きますよ。私と共に。本当は死にたくありませんでしたか?
この台詞だけは欠かせませんでした。
早乙女圭は頭の中の声に困惑せず、冷静に聴いていました。
「死にたくなかった」
一言一句苦しそうに言葉を吐き出します。
「僕は本当は死にたくなかった」
その言葉は私の微笑に足るものでした。
--貴女は生きて生きて生き抜くのです。都山加奈は私に任せなさい。
早乙女圭は都山加奈の名前の響きに突如、泣き出しました。悲痛の声を上げ、両手で顔を覆います。涙が両手の隙間から伝って足元に滴り落ちました。
「都山が好きだった。僕は都山のことを本当に…なのに…何故こんなことに…」
私は冷たく圭の短い前髪をクシャッと掴みました。
--人間だからです。それは決して悲観的なものでも軽蔑的なものでもありません。尊いからこそ私は貴女に命を捧げました。貴女は生きるべき人間です。
貴女は誰?と圭は言いかけやめます。それは賢明な判断でした。私は神でも仏でもないのです。
私は何者でもありません。ただの妖狐です。妖怪の狐など虚しいだけです。
--早乙女圭、都山加奈に見合う女になるのです。彼女を多少痛ぶりなさいな。分からせてあげなさい。
圭は涙を拭うと自分自身を抱き締めて一言、呟きました。
「ありがとう…ございます…ッ」
私は「コーン」と鳴きました。1度失った命を蘇らせたのは私の勝手です。礼を言われる筋合いはありませんでした。
「便所女!気持ち悪いんだよ。近寄るな!!」
都山のグループのリーダー、西谷ゆかが僕に唾を吐きかけてきた。
都山は僕を見て、おぞましげに顔を歪める。
「私のためとか言って、本当迷惑なんですけど。汚らわしい。来ないで。西谷、こいつ、どうする?」
僕は涙腺が緩まないようにするのに精一杯だった。〝便所女〟の称号はあれから1週間経った今やクラスメイトどころか同級生全体に知れ渡っている。馬鹿にされるよりレズビアンなのを気持ち悪がられていた。
女の子達、皆、僕の視線を避ける。まるで見られるだけで汚されると思い込んでいるかのようだった。
「このブス、男にモテないからって女に走る最低最悪のクズだろ?都山に近寄るとか脳味噌空っぽなんじゃねえの?」
西谷の部下達が豪快に笑った。
恐怖心で足がガタガタ震える。
「都山、どうしてこんなことしたんだ?」
都山は元々考えていたように即答する。
「私に口効くんじゃねえよ、キモブス便所女」
僕の涙腺は限界を越えていた。見られないように身を翻し、昼休みに都山のグループのたむろしている旧校舎の屋上から走り去った。中傷された痛みと都山への幻滅で心の中がパニックを起こしていた。
また都山に頬をつつかれたかった。額にキスしてもらいたかった。
本気でなくても良かった。
親友の春日美子だけは僕を避けなかったし、励ましてくれた。
「ゴメンね、友達なのに都山さんのこと応援しちゃってた。あの子が性格悪いの噂だけじゃなかったんだね」
僕は泣きじゃくる。美子の前なら、もうプライドなど薙ぎ払える。
「僕、もう生きていきたくないよ。告白せずにずっと遠くから見てた方が幸せだった。死にたい」
美子は一緒に泣いてくれた。僕の痛みを一緒に味わっているかのようだった。
「圭が死んだら、私、また1人だよ?圭は悪くない。学級が上がればもう誰も覚えてないって。ねえ、ほら。私達には部活もあるし」
美子の懸命な言葉に黒いモヤが少し晴れる。しかし、絶望感は消えることはなかった。
そんな折、美子は交通事故で大怪我を負った。
都山は楽しそうに笑っていた。
全治3ヶ月の頭部打撲らしい。都山のグループの1人が現場にいたと後になって知った。
お見舞いに行くと美子は僕のことを忘れていた。
--無力な自分が憎いですか?
また雨が降り出します。
私は雨音から人々の嘆きを聴き取り、麗らかに憂いました。その行為自体が好きなのです。
圭は首を振りました。
「何も憎くないんだ。1度死ぬと何にも怒りや恐れなどの感情を抱かなくなる。僕はここにいるだけなんだ」
--明日の学校、私に任せて下さい。貴女は優し過ぎます。自分が憎くないのであれば、他者を呪いなさい。
早乙女圭は神妙な面持ちで頷きました。
その結果、どんなことになっても圭には耐えれる精神力があると私は踏みます。
圭の章はここまでにしましょうか。
陰湿なイジメの話ではなく、狐が命を与える話が本来の姿なのです。
トイレに閉じ込められたり、西谷ゆかに暴力を振るわれたり、教科書をゴミ箱に捨てられたり、靴に画鋲を入れられたり、机に〝死ね〟やら〝キモイ〟やら書かれたり、イジメという言葉から連想されるものは大抵、圭は経験しました。
もう充分ですね。
反撃の時が近付いて参りました。
月曜の朝は早乙女家にとって大したものではありません。
癌手前の父親が何度も咳払いして、新聞をたぐい寄せます。
母親は苛立ちを抑えて熱い珈琲を父親に出しました。
私(圭)を見ると、少し面倒くさそうに、朝食--パンと目玉焼きとハムとポタージュ--を顎でグイッと指し示しました。
私は目を擦る仕草をして上手くカモフラージュします。
朝食を摂ると父親が驚いた顔をしてぶっきらぼうに言いました。
「食欲が戻ったか。そうか。それは…良かった」
私は何も答えず、朝食の席を立ちます。鞄を片手にぶら下げ、優雅に家の扉を開けました。余りもの日光の眩しさに鞄を盾にして光に慣れるのを待ちます。
登校中も器の空っぽな男子共が「便所女」とからかってきます。
女の子は私専用の道ができているが如く陰口を叩きながら、近寄って来ません。
心の中で圭が叫びました。
--美子、待ってろよ。
既に学校に着いた時には上履きは虫だらけの汚水の中に浸されていました。水で洗い、何の躊躇いもなく、履きます。
私が教室1-Aに入ると全ての雑談が止まりました。
クスクス笑いが広がります。
薄い緑色の黒板に〝キモブス圭ちゃんは同性愛者♡〟と書かれています。
私は淡々と黒板の大きな悪意を消します。
肩が震えます。
退屈そうなバカ丸出しの声が耳に入りました。
「あーあ、可哀想。泣いてるんじゃね?」
「あの程度で?困るよね、トイレのゴキブリちゃんはもっとタフでないと」
私は笑いを堪えるのに必死でした。
何と低級な嫌がらせなのでしょう。
私は不敵な笑みを浮かべたまま、圭の机の上に座ってる西谷ゆかに告げました。
「文字を書いて下さい」
西谷は嫌悪感の色をありありと映し出していましたが、私の瞳が紅なのに気付いて一瞬、恐怖しました。その後、嘲笑します。
「何?カラコン付けて良い気になってんの?近付くな、気持ち悪い。死ね。ブス、ブース」
西谷の無礼な言葉を聞かず私は優しく諭しました。
「文字を書けと言ってるのです。クソガキ」
西谷は笑おうとしました。しかし、自分の意思に応じずピクリとも動けません。
西谷の体を赤い光が羽交い締めしていました。
紅の瞳から帯びる赤い光が私から満ちると教室中のガラスが呆気なく割れ、見物人と机椅子諸共、教室の隅へ叩き付けられました。
都山加奈が一番に立ち上がりました。
私が許可したのです。
「西谷!!」
西谷は美術用に持っていた彫刻刀で左腕に〝文字を書き〟出しました。大量の血が迸ります。ドクドクと血が吹き、西谷ゆかは泣き叫びました。
血文字がくっきり浮かび上がります。
〝私がやりました〟
「痛い!痛い!!止めて!もう止めて!!!痛い!!!!!」
私は西谷ゆかを殴りつけます。
「人を殺した自覚を持ちなさい。西谷ゆか。それと--」
逃げようとする都山加奈の制服を破れるぐらい強引に引っ張りました。
「憧れの人であることができたら、良かったですね、都山加奈」
破れた制服からブラが覗きます。
私は強引に都山加奈の唇を奪いました。舌を絡ませ、強く噛み付きます。泣き出しても都山の舌を私の歯から逃しませんでした。
都山加奈の舌を噛みちぎり、私は何も言わず立っていました。血の味は塩辛い人間の塩分を含みます。
妖狐は人の心を読めます。私のことを〝化物〟とその場にいた誰もが認知し、近寄ろうとしません。
私はスっと都山加奈と西谷ゆかの方へ指を指し伸ばし、浮かせると、割れたガラスの外へ追いやりました。
ここは2階です。
クラスメイトは何もできず恐怖に竦んでいました。
1階のクラスから悲鳴が上がり、しばらくして、救急車のサイレンが近付いて来ます。
圭をバカにする人間はそれ以来、途絶えました。
「美子、今日はリンゴを持って来たよ」
僕はスーパーの買い物袋から赤い熟したリンゴを取り出した。不器用ながらも果物ナイフで皮を剥いていく。
美子はガラス越しに雲を眺めていた。いつも通り目が虚ろだ。
「結構高かったんだからな。美子、目が覚めたら僕とまた笑い合えないかな?」
僕は照れ笑いしつつ、自分でも何を言っているのか分からなかった。
事件--不思議と僕しか覚えていなかった--から1ヶ月経った今、僕にも笑顔が戻って来た。あの人のお陰だ。
リンゴをようやく剥き切る頃、美子が何か言った。
「け…い?」
僕の視線と美子の視線が交差する。
僕は目を見張った。
リンゴが転がり落ち、ベッドの下を潜った。
「美子?僕のこと思い出したのか?」
美子の目にじわじわと生気が戻ってき、美子は泣き出した。
「私ね、圭のこと好きだったの。今も好き。都山さんに圭をイジメるよう頼んだのは私なの。付き合ってなんて言えないよ」
僕は乱暴に美子の肩を掴んだ。そして、そのまま軽く額にキスする。
「美子の気持ちに気付いてやれなかった僕にも責任があるよ」
「これからも一緒にいてくれるの?」
僕は仄かに頷いた。
美子が泣き止むまで数10分必要だった。おずおずと語り出す。
「最初はね、圭が私のこと好きになるようにして欲しいって都山さんに頼んだんだ。そしたら、部活の子と喧嘩になっちゃって…」
美子は嘘のように人間らしく涙を拭っている。
「圭が死ぬ夢を見たの」
僕は軽やかに笑った。
「バカだな、美子は」
美子がマジマジと僕の髪を見つめる。手を伸ばし、何かを手に取った。
「金色の長い毛…」
チリーンと安らぐ鈴の音と共に毛は美子の手のひらから桜並木に揺らぎ舞散った。
あの人のだ。
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