ダーク・マター

ボヘミアン

第1話 予言の書

  

  兄弟たちよ。

  深いイドの底をのぞき見たことがあるかい。

  じっと、眼(まなこ)を凝らして、のぞいて見るがよい。

  光――という名の、闇の影が消失した時、

  深淵の彼方(かなた)から、

  じっと、此方(こなた)を窺う見知らぬ眼差しに出会うだろう。

  だが、あわてることはない。

 じっと、待てばよい。

  光芒(こうぼう)が放たれた方が、シャドーなのだ。



 光子は胸が締め付けられる恐怖にとらわれていた。

 十八年間生きて来て初めて味わう超弩級の恐怖だった。

 もうどう考えても後ろからつかず離れずついて来る人影は悪意に満ちている。

 幾筋もの分かれ道を違えず、ピタリとついて来る。

 チャリを押しながらそれとなく振り返って見るに、三角のフードで顔を隠した、絵本から抜け出した魔法使いのような、いかにも怪しい風体。武器ともとれる長い棒を杖のようについている。

 その距離は二十メートルと離れてはいまい。

 こんな時間に、月明かりと防犯灯だけを頼りに、坂道ばかりの、墓地公園内を突っ切るコースをとったことを、今になって光子は後悔した。どうかしている。

 今の時間――午後十時をまわろうかというーーこんな時間には車でさえ通るのは不気味な所である。

 左右は墓地で、墓地を過ぎると、両側からカシやシイなど詰屈した枝葉を重ねた雑木林が、鬱葱と頭上に覆い被さって、暗くなる。

 所々に防犯灯が黄色く淡い光を放っているとはいえ、こんな薄気味悪い所、夜一人で歩く酔狂はいない。

 それだからなおさら、後ろの人影が只者でない証拠〈それをいえば、自分もそうなるのだが〉。

 ある時、母がいった。

 ――あんた達は〈そこに兄もいた〉普通の者と思ってはいけん。いつ何時、暴漢に襲われんとも限らん。そういう運命を背負っているけん、気をつけんといけんよ。

 まさに今が、その時か。

 部活で遅くなる時の帰りは、いつも母がアルトで迎えに来る。今日に限って、県病に入院しているお祖父ちゃんがまた肺炎を起こしたとかで、迎えに来られないからタクシーで帰るようメールが入った。

 なのに、部活の友達とチャリで一緒に帰って来たのが、最初の過(あやま)ち。

 二つ目の過ちは、それなら母がいつも車で通る道、夜半でも交通のある美術館前の明るく広い道路を帰ればよいものをーーその方が近いし、適当に人家もあるーーいつも通り友達ん家(ち)がある桜ヶ丘経由で帰ろうとしたこと。

 というか、過ちとばかりはいえない。意に反したことをしたわけではない。母のいいつけを守らなかったことも含めて、きわめて恣意的な選択であった。もともと、そういう昼でも薄暗く、人通りが少ない、薄気味悪い場所が好きなのだ。もっといえば、血の欲求でもあった。

 人気のない墓地公園を通る時のゾクゾクした気持ち、お墓や密林から何が飛び出して来るか、考えただけでもゾクゾクする。お化け屋敷やゼットコースターのゾクゾク感に似ている。

 光子は生来そういうゾクゾク感がたまらなく好きなのだった。冒険家のように、危機的状況を求める気持ちが、その場になったらきっと後悔するだろうけど〈今のように〉、そういう気持ちが、押さえ難くあるのだった。

 恐がりの兄は今でもジェットコースターになんか絶対に乗れないしーー城嶋後楽園のジェットコースターは木組みの上を走るので危なかしいことこの上なく、スリル満点なのにーー幼ない時分、楽天地の象の背中にさえ怯(おび)えて乗れなかった。そういう時光子は、何かにつけ優秀で、両親の誉れである兄の風下(かざしも)に置かれている鬱憤を晴らして、得意満面だった。

 そういえば前にも一度、この墓地公園で血も凍るような恐怖体験をしている。

あれは中学二年生くらいの時だったろうか、もう少し上の、雉飼場(きじかいば)と呼ばれる本光寺の下辺りは、背の高い広葉樹が生い茂っていて、ドームのような暗がりになっていた。そこは暑い夏でもひんやりじめじめ湿(しめ)っぽく、日中でも薄暗いくらいで、夕暮れ時ともなればもう、あの頃は防犯灯がなかったから文目(あやめ)もわからないくらいの暗がりとなった。

 そこを中学生の光子がやはり部活帰りに一人で歩いていると、光子のすぐ隣を、誰かが一緒に歩いている気配がした。人が動く濃厚な気配がするのだ。ペタペタという足音まで。

 ゾッとして、心臓がバクバク、金縛りのようになって、横を振り向いて見る勇気が、その時はなかった。

 それが悔しくて後悔でならず、あのゾクゾクした感覚をもう一度味わいたくて、今度こそ闇を透かして正体を見極めてやろうと、何度も同じ時間帯にそこを通ったものだ。これって変態なのかなあ……などと思いながら。

 しかし同じ夢をもう一度見たいと思ってもままならないように、二度とそういうことは起きなかった。

 そんなわけで、母から迎えに行けないというメールが入った時、(シメタ!)と心の奥で思う心があったことは確かだ。

 しかし今は後悔している。掛け値なく恐怖が勝っている。あとになってから、この恐怖心をもう一度味わいたいと思うことになるかも知れないけど、そうなればよいけれど、今は心臓バクバク。口を開けるとお尻が飛び出しそうだ。

 進退窮まった冒険家もそうであろうか。滑落したロッククライマーも後悔する? 処刑台の死刑囚も? 火炙りになったジャンヌダルクはどう? 家庭の中で、おとなしくぬくぬくしていればよかったと思う? ママの懐の中で。

「何んですか、若い娘が。そんな時間に、そんなとこ、一人で歩くもんじゃありません!」

 鼻でせせら笑っていた母の忠告が、現実のものとなってしまった。後ろをついて来る人影は、ただの気配などではない。角を曲がる度に、もう来ないだろう、今度こそ別の道に、という願いをーーしかしそうなったらそうなったで、「なあ~んだ、つまんない」と落胆するだろうけど――ことごとく裏切って、そいつは、月光に照らされ、あるいは暗がりから勃然と姿を現した。一キロ以上もそうやってついて来る確かな存在である。

 間合いを計ってーーいや、少しずつ距離を詰めて来ている。攻撃を仕掛けるチャンスを窺っている。

 仕掛けて来るとしたら、逃げ場のない一本道の雉飼場か。

 その前に、逃げるかーー逃げるチャンスは何度もあったーー戦うか、決めなければ。

 ――逃げるなんて!

 こんな時の為に、下手な男には負けない体力と、武術を身に付けて来たのではなかったか。

 あの時、女を棄てようと決意したのではなかったか。

 ――だけど、この胸の高鳴り!

 何せ、実戦経験不足で、ハートがまだできてない。これでは息が上がって、身体(からだ)が縮(ちぢ)かんで、満足に戦えやすまい。

 先手・後手自在の空手などの飛び道具と違って、柔道はどちらかといえば受身からの攻撃となる。水のように冷めた目で、冷静に敵の動きを見究め、打撃をもろに受けないよういなしながら接近戦を制して、相手の懐に飛び込んでしまえば、掴まえてしまえば、こっちのもの。

 胆力――が必要なのだ。肝っ玉が!  

 ――おまえは母の胎内に玉を二個置き忘れて来たな。

 と、福岡の伯母にいわれたことがある。けど、一度なりとも修羅場を潜らないことには、肝っ玉は据わらない〈ジェットコースーターも最初は恐かった〉。

 ならば今がそのチャンス。天恵の試練。伸るか反るか。

 光子は、腹を決めた。

 この先、墓地が途切れた所に、墓地を挟んだ一通の道路が出合う所がある。そこは道が広まって平らな、ちょっとした広場になっていて、鋭角に左に上る狭い道と、真っ直ぐ雉飼場から本光寺に向かう広い道に分岐する。そこで一戦を交えよう。

 そう腹が決まると、そこは並みの少女ではない。田川の侠客の孫であり、娘である。光子は自転車を小脇に佇んで、坂道を上って来る人影を持った。

 ――ござんなれ〈福岡の伯母の口癖である〉。

 どんなやつか現れるか、ゾクゾクした。

 しかし、その広場の片隅に、フルスモークの黒いセダンが止まっていることには気付かないでいた。無理もない。それだけ迫って来る怪人に気を取られ、悲壮な決意に興奮してもいたのだ。

 後方でカチャという音がしたので半身振り返ると、防犯灯に照らし出されて、のっそり車から迷彩服の男が出て来るところだった。

 そいつは同じ色のツバ広帽を被ってサングラスをかけていた。デンジャラスな男であることは、仁王立ちしたその全身が物語っていた。運転席からも頭の禿げた男が姿を現す。こいつはサングラスも帽子も被ってないけど、亀のように顔の半分を黒いハイネックセーターに埋めていた。やはり、アーミーグリーンの軍服のようなブルゾン姿。

 ――何んなのよ? これ。……こんなのあり?

 下腹がキュッと締まった。前門の虎、後門の狼である。これでは勝ち目はない。

(ママ、助けて!)光子は心の内で叫んだ。

 その時である。

「ヒメ! わしの後ろに!」といって、いつの間にやって来たのか、長い棒を持った魔法使いが、光子と男らの間に割り込んでしわがれ声で叫んだ。

けど、いかにも苦しそうに、肩で息をしている。中腰になって、棒でようやく体を支えているような有様。フード付きジャンパーに、夜目にも鮮やかな赤いニッカ―・ポッカー姿。

 その声ですぐにわかった。三、四年前から屋敷の納屋に住み着いている片腕のテキヤだった。中味のない右袖をブラブラさせている。八十はとっくに超えた老人である。

「何んな。松つあんな」

「こげなこともあろうか思うてな」松吉は男らに向き直って、「おい、おまえら、何者んじゃい!」といった。

 男達は顔を見合わせた。

「ヒメに手を出すと、五徳のマツが承知せんぞ!」

「ちっ!」と、男らは舌打ちして、バタン、バタンと、セダンに乗り込み、「ジジイ邪魔だ、どけ!」

 といって、恐ろしい勢いでバックし、タイヤを鳴らしてユーターンすると、一通を逆走して下って行った。

「ふぁはふぁふぁ。へコカルイどもが!」

 へコカルイとはフンドシ担ぎという意味である。今でもタオルで手製のフンドシを拵えて締めているテキヤの松吉は、弁慶のように棒を突き立てて、一本しかない黄色い墓石のような門歯を見せて高笑いした。

「ああ、助かった。けど、松つあん」光子は自転車のスタンドを立て、松吉の傍に行った。「脅かさんでよ。松つあんの方がよっぽどオジ(怖い)かったは。魔法使いみたいな格好に見えたんじゃもん、怪しい人か思うた」

「あいつらよりか?」

「あいつらの方がまだまし。可愛い顔してたじゃん」

「ほほほっ。ようゆうわい」

「でん、こんことは、内緒にしといてね。ママが心配するといけんけん」

「よか。よかばってん、ヒメもこげなとこ、暗うなってからは通らんようにせねばな。わしがおったからよかったものの、ママが聞いたら卒倒するばい」

「うちかてむざむざやられはせん!」

「――おお! これは頼もしい。したら、腹ば、括っとったとか。うーむ。血は争えんのう……」

 あとでわかったことであるが、母の遼子にはすっかりお見通しだった。おとなしくタクシーで帰るような子ではない。だから松吉を迎えに行かせたのであった。光子の性格と日常の行動を知り抜いている遼子は、桜ヶ丘の楊志館高校の前で待っていればよいといった。案の定だった。

 しかし、懸念が現実になったことまでは知らぬが仏となる。それは松吉と光子だけの秘密となった。

「なあ、松つあん。あいつら何者やろう?」自転車を押して歩きながら、光子が訊いた。

「学校の先生には見えんかったな。パーマ屋の親父にも見えんかったじゃろう?」

「まだうちら狙われてるんやろうか?」

「さあ。――ばってん、五のヒメ。若いオナゴが、こげな時間に、こがんとこ通るんは、真っ裸で歩くんと同じことぞ」

「――もう! わかったけん、いわんで。それに、いいかげん、その、時代がかった、ヒメ、いうのもやめてくんない」

 先代親分の代から城島家の娘をそう呼んで仕えて来た松吉であった。何度もそう注意されるけど、改める気はない。

 雉飼場の樹木のトンネルを抜けると、道がまた三つに分岐して急坂になる。左に行けば本光寺、榊原家の入母屋造りの屋敷は、右手に上って暫らく行った所の高台にある。


 その日遼子は午前様になって帰って来た。

 とりあえず娘の部屋を覗いて、光子がベットにおとなしく寝ている〈タヌキ寝入りであったが〉のを確かめてから電気を消し、キッチンで、有り合わせのもので夕食をとった。

 納屋にはまだ電気が点いていた。ボディーガードを任じている松吉はまだ起きているのだろう。いつもながら、遼子の赤いアルトがガレージに納まるのを待ってからでないと、決して寝ない。

 キッチンの窓からポツリと納屋の電気が消えるのが見えた。今は女しかいない一軒家。九十近い老人とはいえ、心強いボディーガードである。もう一人若いのがいたけど、今は畑中の刑務所に入っている〈といっても、まだ拘置区で未決拘禁の身であるが〉。

 ドモリのタツという気立てのいい青年だったけど、ちょっとしたことで強盗・傷害の罪に問われている。根岸先生は何とか恐喝・傷害程度で執行猶予をとれないものかと頑張ってるけど、どうなることやら。

 二人とも福岡のお義姉さんの差配によるものでーー離縁した夫は三年前に獄死、子供らは父親と死別して、遼子としてはもう城島家とは縁が切れたと思っているのにーー「光子と竜平は血を分けた可愛い姪子と甥子、どうして放っておけるもんね」といって、ややもすれば光子を養子に欲しがった。迷惑な話だったけど、今はよかったと思う。

 さっき見たら、ガレージと家の間に光子の赤い自転車が停めてあったから、やはりタクシーで帰らなかったのだろう、松吉に迎えに行ってもらってよかった。松吉は植木の手入れや、板壁の補修、屋根瓦の防水ペンキ塗りなど、ほかにも屋敷の細々としたメンテナンスにも気を配ってくれて、本当に助かる。

 だけど光子には困ったものだ。

 コーヒーを入れながら思いは光子に移る。親のいうことを少しも聞かない。小学生高学年の頃からもう自分より背が高く、中学生になったら見上げるようになって、叱るのにも迫力がない。

 特に今は進路のことで険悪な関係にある。できれば近くで平凡なOLに納まって欲しいのに、警察官になるといって利かない。公安職はこりごり。それだけはどうしても譲れない。大学に行けばまた気が変わるかもと思って、経済的には苦しいけど進学を強く進めるが、駄目。進路指導の先生に相談しても埒があかない。

 困り果てて、光子が一番恐れている、福岡の竜子お義姉さんに言い聞かせてもらおうとしたら、これがとんでもないやぶ蛇になった。

「光子を警察官なんぞにさせたら絶対いけん。警察も検察も裁判官も刑務官もみんな親の敵(かたき)。光子をうちに預けんしゃい。光子は普通のオナゴにおさまるような子じゃなか。一つ道をば違えたら、大変なこつうやらかす娘(こ)ばい」

 といって、テキヤの跡継ぎにしょうという腹なのだ。明治以来の名門の門流、光子の祖父の代から始まった「天門屋一家」が不景気で衰退し、後継者問題に揺れている時期であった。

 法律事務所開きの時に、一度だけお目にかかったことのある木之元の親分は、今や耄碌(もうろく)していて、昼日中から焼酎を飲み、倍賞千恵子の「下町の太陽」や「さくら貝の歌」を聴きながら涙ぐんでいる有様とか。今は竜子義姉さんが支えているけど、将来を思えば、一家十五人〈家族を合わせれば五十人余り〉の川筋者の命運は、創業者直系の孫娘、光子にかかっているというのだ。

 冗談じゃない。光子は榊原家の愛娘、テキヤの親分にするくらいなら、まだ警察官の方がまし。遼子は早々に逃げ帰ったのだった。

 だけど親の目から見ても、竜子がいうように、光子はちょっと変っている、何を考えているのかわからない。遠くを見つめるような目をして、何かに向かって突き進んでいるように見える。だんだん男のように猛々しくなって、顔は丸顔で似てもいないけれどーー親の欲目かも知れないけど、誇らしいほどキリッと引き締まった好い顔をしているーーしかしその女豹のような精悍な眼差しは、ハッとするように別れた元夫に似ている。

 頭が悪いので検察官にはなれないから、警察官になろうというのだろう。警察官になってどうしょうというか。元夫のようにまた正義に殉じようというのか。

 そればっかりは。何とか普通のOLで傍に引き留めておく手立てはないものか。親に少しも甘えることのない子で、あれよあれよという間にもう頭を撫でてやることも、抱き締めることも憚れるほど、大きくなってしまった。

 そこへいくと竜平はーーコーヒーを飲みながら遼子の思いは東京で大学生活を送っている長男の竜平に移る。

 一時、心がなごむ。疲れた体にコーヒーの甘さと苦味が心地よく染み渡った。

光子より二つ年上の竜平については申し分ない。大学進学も一発で東大理学部に合格し〈法学部でなくてよかった〉、生物科学を専攻して着実に学者への道を歩んでいる。

 元々内気で学究肌の子だった。榊原家の方の血を引いているのか、父も母も祖父も教師だった。大学教授にでもなってくれたら万々歳。福岡のお義姉さんには、「しゃきっとしんしゃい、しゃきっと」といつもいわれていたけど、親思いの優しい子で、学費や生活費は全部バイトで賄い、お誕生日にはきっとプレゼントを贈って寄すし、月を置かず電話やメールで気遣ってくれる。

 女の子一人しか儲けなかった父・母にとっても、竜平は待望の男の孫であり、自分が離婚してからは、榊原家の跡継ぎができたと大喜び、優秀な孫を、二人とも目を細めて見やっていた。

 そこでまた、なごんだ気持ちに不安が入り込む。

 今度は父親の容態のこと。肺ガンで入退院を繰り返している父親の史朗は、今度が最後の入院となるかも知れない。肺炎を起こす度に、命の炎を小さくしている。三年前に母親の菊を看取ったばかりであった。

 思えばここ五年は、両親(りょうおや)の看病や介護であっという間に過ぎた五年だった。子供らも難しい時期で、手を焼くことが多かったし、親族を含めて入学・進学・婚礼・葬儀など、通過儀礼も目白押しだった。

 その間に再婚話もあったのだが、元夫とは愛想が尽きて別れたわけじゃなし……。

 しかしその思いも断ち切られ、貴重な女の時期をも逃してもう四十も半ば、更年期障害を抱えた遼子はのろのろと立ち上がり、後片付けを始めた。

 そして大儀そうに左右に揺れながら寝室に向かい、布団を延べて、光子が寝ている二階を見上げて電気を消し、疲弊した体をごろりと横たえた。


 光子は胎児のように丸まって爪を噛んでいた。そうしながら船を漕ぐように体を揺すっていた。

 ――あれしきのことで、あんなに怯えるなんて。松つあんが怪しい不審者に見えてしまうなんて。

 ――何と弱々しい心! 

 体は鍛えられても、心はそうはいかないのか。体と心は一体ではないのか。

あいつらと一戦交えていればどうなっていただろう。拉致されていたか。メタメタにやられていたか。それとも撃退していただろうか。

 ――タフにならなければ。もっともっと心身ともにタフにならなければ。


“明日からまたあのベルトを巻こう”


 三年前、突如、巨大な隕石が落ちて来て、世界が真っ暗になり、暗澹(あんたん)たる心に、瞋恚(しんい)の焔(ほむら)が灯った。

 あの時の悲嘆と憎悪は今なお少しも衰えてはいない!

 ――そうなのだ!

 国家権力を手に入れなければならないのだ。

国家の中の国家、権力の中の権力と対決するには、権力を手にしなければ。でなければ、テロリストになるしかない。

 権力を手放した為に、父は国家権力によって惨(むご)たらしくなぶり殺しにされたのだ――むざむざと。

 きっとそいつらに悪の焼印を押してやる! ソドムのように、神の火で焼き滅ぼしてやる!

 ――きっとそうしてやる! ――そうしないでおくものか!

 いつしか光子は夢現(ゆめうつつ)の中を彷徨(さまよ)っていた。


 光子は戦士だった。

 額に銀の鎖で編んだバンダナを巻き、黒い面(めん)頬(ほお)を被って、鎖カタビラの上から丸い肩の鎧を纏った短いスカートの少女戦士は、右手に両刃の剣を持っていた。

 剣を持った右腕と左足の太腿には、聖職者が巻く黒革のトゲトゲの付いたシリスベルトが巻かれてあった。

 少女戦士は右膝(ひざ)を立て、シリスベルトを巻いた左膝を折り曲げて膝頭を地に着け、お祈りのポーズをとった。左膝(もも)にトゲトゲが食い込んで血が滴り落ちる。剣を持った右腕を折り曲げた。同じように血が滴り落ちる。

少女戦士は勇ましく立ち上がり、剣を振りかざして、鷹のように甲高く叫ぶと、地平線の向こうの暗黒に向かって、広野を突っ走った。

 行く手を阻む様々な怪獣やモンスターを打ち倒し、突き倒し、斬り倒して、突き進む。

 行く手には、暗黒のマントを纏った魔王が聳え立ち、マントを広げると、無数の銀河がきらめいた。

 アンドロメダ銀河辺りに金色の目が明き、M51に赤い口が開いて、電子音的な嗤いが雷鳴のように轟いた。

 闇の軍勢が甲冑具足の音を立てながら西から東から南から北から星の光を遮り月光を横切って黒々と天空を行進する。

 閃光が闇を走って、マクロコスモスに闇の軍勢と、暗黒の魔王を隅(くま)取(ど)る。

 光子は暗黒の魔王に向かって泣き叫びながら剣を振りまわした。突き、払い、振り下ろしたーー。


 その熱狂はいつまでも続いた。

 母親に抱き起こされても泣き叫び続けた。

 抱き竦(すく)められても泣き叫び続けた。

 母親は癇の強い娘がついに発狂したのではないかとおろおろして、頬をぺタぺタ叩き、呼びかけ、赤ん坊をあやすように膝の上であやした。

 我が娘の初のテンカンの発作に、その熱く濡れた頬に頬を押し当てて強く抱き締めるより、なす術を知らなかった。

 強い怒りによる絶叫によって、舌を噛み切らずに済んだのは、真に幸運だった。

光子は白目を剥いて抗(あらが)い、仰け反り、激しく痙攣しながら、なおも泣き、絶叫した。

「――お・お・お・おー! ――お・お・お・おー! ――お・お・お・おー! ――お・お・お・おー……」

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