第9話
一歩踏み出しその足が止まる。もう一歩踏み出し、立ち止まった。
校門の辺りに人だかりができている。自転車を取りに行っている
そのまま立ち尽くしている訳にもいかない、渋々、嫌々、杜若は自転車を再び押し始めた。正に黄色い悲鳴とはこういう事だろう。きゃあきゃあという歓声の中に突入するのには、物凄い勇気がいる。積極的な少女達からは名前教えて下さいよぉー。どこから来たんですかぁー? 等と次々質問が飛んで、その中心で青年がにこやかに対応している。えらく爽やかな顔つきで、そりゃあこんなに女子に囲まれれば悪い気はしないだろう。
一応それなりに興味はあって、だから頑張ってここまで来たけどでもやっぱり声をかける勇気はわかない、だって先輩に後でしめられちゃう、みたいな大人しそうな少女達がたむろしている辺りから、ちょっとごめんと掻き分け掻き分け、杜若は校門に向かった。
「つ……ば、め!」
「おう、かき」
気付いたのか、こちらに向かって軽く手を上げる。一気に巻き起こるどよめきとブーイング。「ぐえぇっ!?」後ろから急に首が絞まって、杜若は目を白黒させた。どこかで見た顔だと思ったら、杜若のクラスの女子である。
「た、
「ちょっと
「え、ちょ待っ、関係無いじゃん」
しかも俺、一応調子悪いのに。わざわざ言い直して、がっちりシャツの後ろ首を握り締めた手は振りほどこうとしてもほどけない。一体この力はどこから出てるんだ、と疑問に思う。
「出し惜しみしないでとっとと白状なさいよ……」
「
「えぇっ、どこの学校なんですかぁ?」
「
どこからか飛んだ声は気のせいか、クラスの男子に対応する時よりも数段高い。隆興大。燕の答えに歓声はきゃあー! とさらに大きくなる。
「誰が兄貴……」言いかけて、ぐわっ、と再び首が締まる。
「ちょっと! こんな人が兄弟とか、黙ってるなんて」
「い、いやちが、兄貴とかじゃ、うっ」
「親戚親戚。イトコ」
思いっきり口をふさがれる。無駄に手がでかい。呼吸ができず杜若はその手を外そうと叩いた。
「大学生って、今、いくつなんですかぁ?」
「今? 十八」
きゃー! 長身・イケメン・高学歴。恋のソロバンを一気に弾いた女子達が、目の色をかえて一歩ずつ輪を狭めて来る。
「うわぁああぁ………な、何だ何だ」
「……っ、メアド教えて下さぁーい!」
誰かが叫んだ一言にせきを切るように、あたしもあたしもと、次々に駆け出す少女達。田奈も、もはや突き飛ばすようにしてその流れに加わった。解放された杜若は波に流されないように必死に自転車にしがみついた。
いや、俺ケータイ持ってないから。そんな風に答えて、不満そうな声がいっせいに漏れる。それでも一向にひかない波に、杜若が放心してきた辺りで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。「ほら、授業じゃねえのか? 帰った帰った」燕のセリフに名残惜しそうに、女子達も四散していく。田奈も、よくつるんでいる女子達と共に諦めきれない表情で燕の姿を追っていた。というか、まだ目が諦めていない。杜若に目をとめる。
「そういや、駿君。今日随分サボってたけど」
「……体調崩したから帰るんだよ」
顔をしかめて返事する。クラスでもボス格の女子なだけに、さすがに気が強い。偉そうに見下すような感じで、ふうんと頷いて。
「ま、いいや。後で調べさせてもらうから」
駿君の住所。
当然の如(ごと)く宣言して、歩き去る。杜若はしがみついた自転車に、だらりと垂れ下がった。
「マジで? 何だそれ……」
「やれやれ、すげぇもんだ。やっと終わったか」
肩やら首やらを曲げ伸ばして鳴らす燕に、杜若は半眼で答えた。
「どーすんのさ、あれ絶対本気だったよ。家の前で待ち伏せとかしてくるかも」
「ああ、そりゃあ気にすんな」
適当にポケットに突っ込んだ安っぽいメモ帳と、どっかでもらったみたいな今時ノック式じゃないボールペン。今は、キャップが外されている。
「適当に、ちょろっと書き取っといたからよ」
これで防御しとく。
「抜け目ねー。……中学生に囲まれて楽しいかよ、エロ親父。ロリコンで捕まるぞ」
「別にそんなつもりはねえよ。寄ってきたから相手してやっただけだ。しかし最近の中学生は発育が……なぁ」
やっぱりエロ親父だ。杜若は軽蔑の眼差しで、ひょうひょうとした燕をねめつける。
よく見れば、履いているのはサンダルはサンダルでも、いぼのついた健康サンダル。ジャージもTシャツも、今までこの格好で寝てましたと言われても信じられる。こんな土方の兄ちゃんか、下手すれば日曜のオヤジのような服装であっても、恐ろしきかな。燕のなりだとちょっとルーズだけどステキぐらいに見えてくる。目覚めていれば、金髪であっても笑顔もきりりとした、どこから見ても好青年だった。
世の中は不公平だと思う。
「………こうなる事ぐらい、予想できただろ。何考えてんだよ二十歳(はたち)のプータロー。さば読んでんじゃないっつーの」
「何だよ。ははん、どっちにしろ十分大学生で通用する歳だ。それに無職じゃねえ。れっきとした
ライターねえ。どっちにしたって
「おい、調子はどうだ。大丈夫か?」
「……まあ、少しふらふらする位だけど」
「そうか、そりゃいい」
それじゃとりあえず移動するか、とママチャリのストッパーを蹴って外し、燕はハンドルを握る。押しながら校門を出て行く後ろ姿に「つーか」と杜若は疑問を投げつけた。
「どうして来たんだよ、燕」
「―――たまたま、俺がウチに居たからよ」
「そうじゃないだろ」
それだけの理由で、わざわざ来るはずがない。若手だといって、いや、若手だからこそ、燕には多くの仕事があるはずだ。村雨、そして明と同じく飛天組所属の―――情報屋なのだから。
「忘れてねえし、当然、伝えるつもりだったけどな」
振り向いて、肩越しに燕は唇を動かした。
「親父さんがお呼びだ。
――――お前、また何かやらかしたな」
そんな所だろうと、思っていた。
予想が的中して、重い気分が確実な物に変わる。胸に落ち込んだ暗い物を、振り払うように溜息。
「自転車には乗れっか」
自転車の方にあごをしゃくる。一応、心配はしてくれているらしい。大丈夫と答えると、頷いてまたがり、行くぞという。鞄をかごに入れて杜若もサドルにまたがった。
漕ぎ出して、その速度は緩い。ペダルを踏む足が遅く、自然とそうなるのだろう。前を行く燕は、意識してゆっくりと漕いでいるようだった。杜若が速く漕げないのを、わかっているのだろう。
杜若は汗の滲んだ背中を見つめながら、ぼんやりと回想した。
母親が居なくなってから、父親が一番に連れてきた少年。初めて出会った時の燕の事を。
※
家について自転車を門の中に引き込み、家の壁に寄せるようにして塀の間に止める。
「どうせ、帰ってくるまでに時間があるだろうから適当に着替えて休んでろ」
俺は奥の部屋にいるからよ、と燕に促され、部屋に上がって制服を着替える。Tシャツとハーフパンツに着替え、ベルトもボタンも無くなるとようやく一息つけた。二階は窓を開けても暑く、階下に戻る。はだしで廊下を歩きながら、軽く空腹を覚える。気絶していたという理由が何だか間抜けだが、結局昼食は食べ損ねてしまった。何か腹に入れようと何とはなしにでたらめな鼻歌を歌いながら、台所に向かおうとして、杜若は奥の部屋を見た。
真っ直ぐ貫いた廊下の、玄関に近い方から順に、台所、居間。居間の向かいが村雨と明が寝泊りしている八畳間で、その次の四畳半が燕の居る部屋だ。四畳半の向かいはちょっとした物置で、その隣が客間で今は空っぽ。
その、奥。そこに狭い部屋がある。杜若の足は自然とそちらに向いた。
扉を押し開けると、妙にひんやりとした空気が流れてきた。窓がふさがれているために薄暗くちょっとした動作で埃が舞う。カーテンの隙間から、僅かな光の筋が差し込んでいた。何度か咳きをした。ここも、物置部屋になってしまっているのか。何しろ何だかんだ物が多いのもあり、邪魔な物を適当に押し込んでそのままになってしまっているのだろう。杜若自身も、どうなっているのか、ほとんど覚えていなかった。
「ひっどい……埃、だな」
ごほっと咳き込み、足元を気にしながら部屋の中に踏み込む。近い所には古新聞や雑誌類が積まれていて、そのうち二、三の山は埃が薄かったり、手のあとがついたりしている。
表紙を見て。「………」いわゆる青少年の育成の妨げになるようなブツだ。
父親か燕が手をつけて読み捨てたのだろう。ったくしょうもない俺は興味なんてないぞ、と呟きながら頭を振ってその山を乗り越える。
つまずくと、埃を被った青いプラスチックのケースだった。取っ手のついた長方形のケースには「ながれかきつばた」と書いてある。鍵盤ハーモニカのケースだった。細長い革ケースはリコーダーだ。絵の具かばんに、プラスチックの画板も置いてある。ガムテープを張った段ボール箱もあって、それには油性ペンで教科書とある。
そうかと思い当たる。中学へあがる時に、全部しまったのだった。
しばらく、適当に物を調べていて―――。手を置いたものには見覚えがあった。一瞬、何かの台かと思った。ダンボールが上に積まれ、他のものと同じく埃で白くなったそれから手を離すと、その下には手の形に艶光りする黒い板。よく、見れば――。段ボール箱が置かれている、それよりもっと低い台。揃いの色で足がある。背もたれの無い椅子だ。
教室においてある電子オルガンを、上に向かって伸ばしたみたいな。グランドピアノを二つに切ったみたいな。
確か『アップライト・ピアノ』。そう呼ぶのを覚えていた。
舞い上がる埃に構わず、ダンボール箱をどかして、椅子に座る。蓋を押し開けて白黒の鍵盤を見つめた。軽やかな歌声と、動く腕を見上げた自分。音楽に合わせて声を張って。その膝の上で歌う妹。
ふっと一節が脳に浮かび上がる。さっきのでたらめな鼻歌だ。頭の中で曲が再生される。ぎこちなく人差し指が鍵盤に乗せられた。ゆっくりと押し込む。鳴る。眉根を寄せるような音だった。ほったらかしにしていたからだろうか。それでも杜若は指を使って、あの時の曲をたどたどしく辿った。
「何してんだ?」
「うわぁあっ!」
弾き終えた瞬間だった。派手な音を立てて蓋が閉まる。
間一髪で杜若は手を引き抜いた。あやうく挟まれるとこだった。燕は不思議そうに突っ込んだ首で部屋を見回している。
「これはまた……埃まみれだ。何か用でもあったのか?」
「いや! 別に」
「……ははん」
燕が愉快そうに足元の雑誌の山に目をやった。杜若は、げっと思った。
「これが目当てか」
「んな、ち、違う違う違う!」
「本当かよ? ん、さっきの音はピアノか。……珍しいもん弾いてるな。この家にあったなんてちっとも知らなかった」
「うん、俺も今思い出したんだよ」
「こんな埃まみれのところにいたら、変なとこ悪くならねえか? 早く出ろ」
今、出ると立ち上がって、部屋を出た。扉を閉めて居間に移る。母の弾いていた曲が、何故弾けたのかはよくわからなかった。
燕は再び自室にこもった。上司に送らなければならない原稿の作成をするらしい。
今度は居間で、足を投げ出し障子も開けてぼーっとする。家に沿った形の、細長い庭と目隠しの植木。
※
母親が居なくなって、杜若は一時期どうしようもない時があった。喋らない、動かない―――等など。父親は、何度も学校へ頭を下げに行った。けれど、一向に様子の変わらない杜若と、段々増えていく仕事の量にとうとう手が負えなくなる。
杜若六歳の夏。父親に連れられ、当時十二歳の燕が唐突に現れた。
仕事の一環で、預けられたらしい。
その時すでに頭は金髪。凶暴そうな顔つきはいかにも不良少年。敵意満々の闘争心を山ほど抱えた、子供だった。
何でも
その見知らぬ少年と一緒に、杜若は父親の知り合いの〝何でも屋〟に放り込まれた。
そこは相談所のようなものもかねているらしく、
「任せな、私が矯正してやるよ」
そんな力強いセリフと共に、一年間。思いっきり性根を叩き直された。
「燕の子分でいいじゃないか」
彼女は通い始めてすぐ、そんな風に言い放った。
「杜若は
そんなのごめんだと燕は喚きたて、そんな事まるっきり知らなかった杜若もぎょっとして不満を訴えた。
「子分が嫌なら弟分だね。お前ら、これから一緒に生活するんだよ」
問答無用で一緒にされて、その後、二人は文字通り痛みを分かち合って、言い争い、取っ組み合いのけんかをし、何でも屋の仕事の手伝いを協力してやり遂げた。二人が二人とも思いっきり笑うようになったその後も、学校が終わればランドセルと鞄を投げ出して駆けつけ、けんかをして、遊びまわり、仕事を手伝った。
杜若八歳、燕十四歳の時、十四歳の
その半年後、十三歳の
飴は最初から親が
その能力を見込まれて、預けられたのである。四人に増えた子供達は、全員が何でも屋の仕事を手伝った。三人とは、その時からの関係である。
※
杜若が何も考えずにぼうっとしていると、庭の植木の外がふいに騒がしくなった。何だか、聞き覚えがあるような。
ふと意識して植木の方を見ると慌てるように声が大きくなって、白い物が空を飛んできた。杜若は度肝を抜かれて目を見張った。着地してしばらく横滑りするほど勢い良く飛び込んで、目の前で止まる。中身が入っている。表面には、近所のスーパーのロゴが入っていた。
「あああー! やっべえ! 俺、みかんバーだったのに!」
「何やってんだ。つうより何を考えてんだ、てめえの頭はよ」
「まさか投げ込むとは……うーん。これはこれで斬新な演出だといえなくもない」
「そんなん言ってていいのか? ミチ、お前コーンアイスだったろが」
「おおおおおお、吉日呂。俺は今お前を今までで一番許せないな!」
「わぁあ! 悪かったっつの! そんな怒るなよう」
ビニール袋が飛んできた理由が明らかになって、杜若はかなり脱力すると共に納得した。彼らなら、納得できる。
奇妙に笑いがこみ上げてきて、外の騒ぎを聞きながら、杜若は腹を抱えてうずくまった。
ふと。
その時、辺りが静まり返った。ぴたりと上から蓋をされたみたいに、音が途絶えた。顔を上げる。杜若は頭をめぐらした。これは。こんな事ができるのは。杜若は該当する者を一人しか思い浮かべられない。玄関が開けられる。廊下から、足音が向かってくる。
「――――よお」
今、帰ったぞ。
左手に鞄と重そうなビニール袋を
「元気そうだな」
「………っ」
飛天組 組長。
「村雨からだ。お前にだと」
後で礼を言っておくんだなと杜若の目の前に置いた。中身は、赤い。ラップにくるまれた、真っ赤なスイカの切り身だった。穣太郎は目の前で膝をつき、適当なところに鞄を置いてあぐらをかいた。放置されていた自分の持ってきたものでない袋に目をとめる。
「何だ、いいものがあるな」
「おっと。お帰りですか」
開いたふすまから、燕が顔を覗かせる。おおと袋の中身から目をあげて返事をして、杜若の目の前からスイカのビニール袋をさらった。
「冷蔵庫にでもしまっといてくれ。後で切るだろう?」
「あれ、スイカっすか!」
「村雨がな」
村雨がという所で燕は片方の眉を上げた。しかしそれも一瞬だけで、じゃあしまってきますと奥に消える。
会話を終えて、彼は自分の息子に目を戻す。
下を向き、目線をそらし、杜若は唇を噛み締めた。穣太郎は黙ってビニール袋を取り上げ、中のアイスを出した。杜若に向かって、バニラのカップを一つ差し出す。ほら、というのを断れなくて受け取る。自分はレモンシャーベットのようなやつを選んで蓋を開ける。
袋の中には、到底四人分だとは思えない量のアイスが入っていた。
「いつ仕事の停止令が解かれた?」
「…………」
「俺の見ていない所で、色々しているらしいな」
黙り続ける杜若に呆れたように、木のさじをくわえた顔をほんの僅か歪めた。
「―――放っておけと言っただろう」
「…………」
「ああいったやからは、相手をすればするほどつけあがる」
相手にするなと言ったつもりだったがな。乱暴に頭をかいて、話を続ける。
―――正直、家族狙いなんていうのはあって当然ぐらいなもんで。
頭の横を通りすぎる。
ありとあらゆる情報を握ってる奴を、根元から倒そうなんてのはざらな話だ。
どんな言葉も、耳の脇を通り過ぎていった。もう、うんざりするほど聞き飽きていた。子供に言い聞かせるような口調で。淡々と、面倒くさそうに、それはそれという事実なのだと。どうしようもない事柄だ、と。言い聞かせる。
「お前だって知っているだろう」
視線が初めてかち合った。体に疲れをまとっているが、目だけは冷静だった。冷静に、事実だけを見据えていた。
「いくらやってもきりが無い」
わかっているだろう。杜若は手のひらを握り締めた。
「情報屋なんてのは、恨まれる職なんだよ」
どんな理由があっても。ぎりりと歯を食いしばる。疲れた様子で、当然のように、それだけだと話す。何も分からない子供に向かって、喋るような口調で。それが、無性に頭にきた。
「……だから、何だってんだよ」
庭を見つめていた目を、こちらに戻させるほどに強い語気で杜若は言った。
「だからしょうがないっていうのか。だからどうしようも無いのかよ。どうしようもないで、終わりかよ!」
そりゃあ、と言葉を区切る。そりゃあ、自分は見習いだけど。でも、何も知らないわけじゃない。言いたい事だってある。意地だって。
「それだけで終わらしていいのかよ! 巻き込んでいいわけないだろ!」
穣太郎が無言で見つめる中で、杜若は立ち上がって叫んだ。一人興奮し、頭に血が上っていくのを感じた。相手が冷静であればあるほど、杜若の思いは募った。
「俺には仕事がある。それを知っていて向こうから来たんだ。向こうだって、自分の意思で来たんだぞ」
「関わった方が悪いって言うのかよ」
息をまく杜若。穣太郎は眉間にしわを刻み、その姿を見る目は、困惑している。
「一体、何が言いたい」
「人の一人や二人……っ、守れない奴がどうして長なんかやってられんだ!」
「お前は、俺に何を期待してるんだ」
「………はぁっ!?」
怒鳴り返せば、見る見るうちに、厳しい顔つきに変わっていく。
「さっきも言ったが、俺には仕事があるんだ。他の事にまで構っていられるか」
「他、の……?」
簡潔に言い放たれ、言葉が出てこない。あれほどだった力が急速に抜けていく。他の。他のだって。他の何だって言うんだ。
「お前には色々不満もあるだろうがな――――」
机に向かって手を叩きつける。その両目は突き刺すような眼光を放った。
「俺は飛天組の組長で情報屋、駿 穣太郎。妙な期待をかけるな。俺は俺で、お前はお前。お前が何に怒り、何に憤るか知らないがな、それを俺に押し付けるな。お前がやっているのはただの甘えだ。文句をつけるのは勝手だがな、それ以上、不必要なことに関わるんじゃない」
「命令に背いてしゃしゃり出て、子供がやたらに首を突っ込むな」
「わかりました」
声が震える。手が震える。
「だけど、一言だけ言っとく。残念だな、あんたには、何も期待しちゃいない」
それだけだ。一方的に宣言し、部屋を飛び出した。物凄い音で階段が鳴り、扉が思いっきり閉められて家中の壁が揺れた
部屋に残された穣太郎は、頭を再びかいて、溜息をついた。どうぞと差し出されたコップの麦茶には氷が浮いていた。どうもありがとう、と受け取って一口飲む。
「……あーあ。酷い言われようっすね」
全くかきの奴、と苦笑して階段の方向を見やる。
「聞こえたか」
「台所近いすから」
隣にあぐらをかいて、燕は「不器用っすね、おやっさん」と話を振った。
「あれ、本当に飴が渡したんですか」
「押し付けてきたんだ。ほとんど無理矢理」
「あー、それはそうなんですか。それにしても、せっかく飴の奴が気ぃきかせたのに。―――わざわざ言わなくても」
自分が持ってきたってことにしちまえばいいのに。
「きっと、飴の奴そのつもりですよ。少しは会話の助けになれば、とか」
「そんな気遣いしてほしいなんて言ったこともない」
あいつらしいとは思うがなと言うと、ほんと不器用っすね、そう評して燕は笑った。穣太郎は畳みの上の袋に向かって顎をしゃくった。
「それ、しまっといてくれ。あらかた溶けてるかもしらないが」
「さっきの杜若の友達だったのか。前から、けっこう遊びにきてた奴らですよ」
「……なあ、俺は……」
袋を拾い上げて穣太郎に顔を向ける。彼はあぐらをくずし、天井を仰いで目をおおっていた。
「俺は、悪い父親か……? そもそも、いい父親ってのはどんなんだ」
「まさか。悪い父親だったら、杜若がああも真っ直ぐ育ちますか?」
そんなの、と燕は笑った。手を外して答えを求める穣太郎の顔には、迷いの色がある。
「食べる物をちゃんと食わせて、着る物を着せてやって、学校にも通わしてやって、十分じゃないですか」
ただ。
「杜若が求めてる物が違うってだけですよ。あいつの欲しいもんが、それじゃないって事です。それは何だかはっきりしねえし、自己申告するようなもんでもないんですが。そもそも分かったってぽんぽん与えればいいってもんでもねえし」
「何だそりゃ」
まるっきり具体性がない、と頭を抱える。
「むちゃくちゃなんですよ。どうしたらいいってそうやって考えるんでも、そんだけ子供を思ってことでしょう」
それが行き過ぎてもことですがね、と結ぶ。
「だからあんまり気にしすぎないでほうっときゃいいんです。気にしたってわかりゃしませんよ。でも、本当に何にもしてねえんですか?」
「何がだ」
「対処っすよ。対処。おやっさんなら、杜若がやってることはわかってんでしょう」
「………ああ。でも」
再び、目をおおう。
「あいつの好きにやらせようと思ってた」
「そうなんですか」
驚くように言う燕に、幾分暗い面持ちで穣太郎は答える。
「そもそも、俺が手を出すような問題じゃない。あの子が―――そうしたいならそうさせるつもりだった」
後の半分は消え入るような声で、燕は疑問に思ったが口には出さない。
「おやっさんは、心配するようなことないっすよ」
微笑んで、後ろについた手に体重をかけた。
「杜若あれで、中々しっかりしてるじゃないですか。それに、知ってますか。あれは確実に父親の背中を追ってますよ」
あいつ、と楽しげに。
「あいつまだ、野球帽被ってるんですよ」
初めて会った時からずっと。
「心配しないでもすぐに追いついてきますって。それまで待ってればいいじゃないですか。きっと、すぐですよ。俺も楽しみだ」
横顔に、いたずら坊主の面影。けれど不良少年の影はもう見えない。
「燕、お前の親父さんは何て言ってる?」
「親父すか? まだまだ、しっかり修行を積んで来いってうるさくて」
「いずれ、戻るんだろ。地駆組に」
「そうっすね。一人前になったら、そうなると思いますよ」
「燕」
何すか? とたずねる。
「お前、大きくなったな」
「おやっさんには、俺も散々迷惑かけましたから」
一丁前に、と俯いて笑いを漏らす。
「これ、食ってけよ」
「ああじゃあ、ありがたく」
燕はビニール袋を隣に置き、杜若が残したアイスクリームに手を伸ばした。
※
「――――っ!」
腹が立ってしょうがない。部屋で布団にしがみつき、珍しく頭に血が上るほど怒ったせいでくらくらする体を支えた。結局、昼食も食べそこねた。
「くそぉ…………」
片手で探して、ケータイを開く。
先日の、
「……お前の気持ちは分かった。そこまで言うなら、止めねえ。何か分かったらすぐに知らせる」
ありがとうございます、と杜若は返事する。
「お前、俺が前に渡した電話番号、登録してあるか?」
何かあった時のためにと、何でも屋を離れる時にせんべつ代わりにもらった電話番号があった。今まで一度もかけたことは無かったが、ちゃんとメモリーに登録してある。
「いいか、自分でも自覚してるだろうが、お前は基本的に戦闘タイプじゃねえ。使いようによっちゃ、戦闘にも使えるって程度のもんだ。
そいつらは戦闘のプロ。
俺らでも手を焼いていたくらいの、つわものだ」
話はつけておいた。何か、いざと言う時があったら、その時は連絡しろ。必ず協力するはずだ。
その電話番号が画面に表示されていた。今まで使おうなんて考えたこともなかった。怒りにまかせての危うい決断が杜若を傾かせた。だけど、もう心は決まっている。
決意して、杜若は通話ボタンを押した。
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