第7話

 乾いた風。風が砂を巻く砂塵が舞う。そこは―――砂漠フィールド。

「くっ……アチィー……こんな所にほんとに食材(えもの)がいるってのか!?」

 目の前に手をかざした少年と、背の高い男。少年の額から顔から、噴き出す汗が顎を伝い落ちた。

「さァな……俺ぁ何にせよ追うだけだぜ」

 男は鍵爪の生えた手を振って肩の砂を払った。犬のような長い尾に、ぴんと立った耳が震える。奇妙な二人連れの前にはドームがあった。椀を伏せたような半球体、ガラスでできているみたいに光を反射するそれに向かって、彼らは進む。そして彼ら以外にも、続々と小さい人影がドームに向かって集まっていた――――。

 手にはフライパン。白い上着を詰めた鞄を背負って、少年は砂に足を埋めながら歩いていく。


 ※


 天下逸品! とは、月刊アフターマジックで連載中の新感覚アクション料理コミックである。最強の料理人を目指す少年二郎ジローは、相棒である狩人ハンター獣の織雅オルガと共に、唐突に失踪した兄一朗イチローの後を追って『天下逸品トーナメント』に参戦する。

 天才と呼ばれた兄を超える。硬い決意の元、様々な苦難強敵に遭遇しながらもジローは諦めない。その手が作る料理は、繊細さと強さを兼ね備えている。時にこわばった心さえも解きほぐす温かい料理は、審査員をも唸らせる。

 パートナー、オルガは狩人として食材を捕らえる役目を担っている。会場で会った彼の過去は誰も知らず、ただオルガという名前と獲物を追い詰めるその強さだけが、料理人と狩人の間だけで語り継がれる最強のハンターの伝説を思い起こさせた。

 そんな二人が、トーナメントを上り詰め優勝することはできるのだろうか。そして、失踪した、かつて天才と呼ばれた兄イチローの行方とは。

 謎が交差する中、今日も彼らは戦い続ける! 


 ※


 人気沸騰の文字が躍る帯を巻いた四巻を読み返しつつ、杜若はページをめくった。

 月刊アフターマジックは道行ミチが中一も終わり頃に鼻息荒く眼鏡を曇らせながら、学校にまで担いできて校舎の裏で売りさばこうとしたもので、その時に彼から購入したのだった。

 掘り出し物を見つけたと目を輝かせて、ポケットに突っ込んでいた小銭と交換で特別価格の創刊号を手渡してきたのだったが、当然教師に見つけられ、彼は驚かれ呆れられこっぴどく叱られることになった。

 その後、杜若かきつばたは思いの他その雑誌が面白くて、感想を言いに探しに行ったクラスで、同じく買って同じく面白いと思った弥斬やたと遭遇したのだった。吉日呂よしひろはその後、その頃からつるんでいたヤタを通じて出会ったのである。

 

 四巻で、ジローは砂漠フィールドに苦戦することになる。

 下手な料理は暑さですぐに駄目になってしまう。メニューを考えながらオルガと獲物を捕らえようとするが、砂漠の珍味「砂土竜スナモグラ」は中々見つからない。果てしない砂丘を疾駆し、ライバルとどちらが先に見つけるかを競うような戦い。

 そして、オルガが張った罠が捕らえた一匹のスナモグラを、ふいをつかれて相手に奪われてしまう――――!

「っくそぉおおおお!」

「………うぉおおおおお」

 相手の罠にはめられて、蟻地獄に足をとられたジローは砂漠に拳を叩きつける。共鳴してその悔しさに杜若は唸った。きたねぇきたねぇと連呼しつつ漫画を握り締める。そんなあれアリか!? くっそお、人のもんを奪うのか小料理屋紅蓮!

 天下逸品の順番決め、昼休みに行った再戦にてヨシ→ヤタ→杜若→ミチと決まった。みんな新しいのは早く読みたいので、一日交代で渡すことになっている。一周したらまたミチの家で貸し出しもするので、まずは早くだ。つまり、二人の後になるから手に入るのは二日後の明後日。

 待てない。本気で待てない。そう思った杜若は、せめて読み返そうと小遣いをはたいて渉部書店に走ったのである。以前もそんな事があって結局三巻まで揃えてあるので、四巻を購入して読み返しては、うずうずしながら過ぎない時間をもてあましていた。

「杜若くーん、ご飯ー!」

 階下から村雨むらさめが呼ぶ声がする。も一回最初から読み返そうかと思っていた所だったが、押さえた腹がぐぅっと鳴り、ひとまず空腹を優先することにした。階段をぎしぎしきしませて、台所を覗くと村雨がお盆を手渡してその上に次から次へと食器を載せた。

「今日は早くに終わったからねー。美味しい物できたよ! はい運んで」

「へい」

 大人しく返事をして運ぶ。毎日の食事をまかなってもらっているのだ。明日のご飯を思うと、面倒臭くても逆らえない。居間に運び込んで、コップやら箸やら茶碗やらをでっかくて低いちゃぶ台みたいな食卓に並べる。冬にはこれがコタツに様変わりする。よしっと。きちっと箸と器を並べ、村雨の指示のままにお盆を持って台所と居間を往復する。作りたてのおかずを運んで、だいぶ食べる物が揃った絶妙な頃合につばめが姿を現した。

「おう、飯か」

「すんげぇタイミング」

 味噌汁の鍋を片手に呆れ半分で杜若が言うのも無視して、どっかと座布団にあぐらをかいた。村雨が炊飯器としゃもじを重そうに持って来て、燕を見て目を吊り上げた。

「何、もうっ! 手伝ってくれたっていいでしょ?」

「いや……」

 あくびをしつつ、肩なんかもみながら答える。

「しょうがねえだろう。原稿の〆切、明日で」

 またぁと叱るような口ぶりになる。村雨は怒って、燕に向かってしゃもじを振った。

「いっつも先延ばしにするんだから」

「そうは言ったって……なぁ?」

「え、こっちに振んの!?」

 俺関係ないじゃん。杜若は身を乗り出してコップに麦茶を注いだ。燕は頭をがりがりやりながら、だって宿題とかよ、余裕持ってできる奴いるか? と尋ねる。そして村雨に頭をかくなっとまた怒られた。

「食べ物のある所では駄目。フケが落ちるじゃん!」

「はいはいごめんなさいよ」

「あーもう分かった。明日適当に自分で食べなさい。アタシの味噌汁もご飯もおかずも、まるっきり食べさせてあげないから」

「申し訳御座いませんでした。姫さん」

「わかればよろしい、ご飯何盛?」

「特」

 丼にてんこ盛りにして米をよそってやり、杜若の茶碗も受け取ってどれくらい? と聞く。中くらいでと答えて、にぎやかな夕食が始まる。今日は珍しく、久し振りだ。村雨も上機嫌である。

「アタシ今日は定時に上がれたから。録りも、時間通り行ったし」

「俺は事務処理で後一日書き仕事だから同じく」

「明は? また帰って無いんだ」

「そうそう」

 気の毒そうに息をつく。食べさせてあげられないのが残念だと、村雨は腕を振るった料理の数々を眺めた。

「ここの所、結構忙しくて。あの子……今日は飲みに連れてかれるみたい」

「うわー……」

「そりゃきついな。あいつ無理だろ、ただでさえ人苦手な癖に」

「からあげ、あの子好きなのに」

 そういう村雨は、少し淋しそうだった。そりゃそうだ。杜若はもぐもぐと瑞々しいレタス噛み、飲み下すといつもより威勢よく食べだした。だが、それでもお代わりを言うのは燕の方が早かった。

 もう食べたのと笑いながら、ちゃんと良く噛んでよとたしなめる。

 気を紛らわすには、忙しくさせるのが一番だと思う。それに腹も空いていた。


 食べ終えて食器を下げてという後片付けも終わって、テレビの前でぐったりしていると燕がパソコンを抱えて机に下ろした。ここでやんの、向こうでやんなよ。下書きすますのには適当に何か鳴ってた方がやりやすいんだよ、と足で軽く蹴りあったりしながら、コンセントを差込み画面に向かってキーを打ち始める。

 村雨もあっまたと言う顔をしたが、今日は見逃すことにしたようだ。

 

 がしゃん。小さく音が鳴った。玄関だ。燕がすぐ顔を上げる。さすがに、反応が早い。杜若は立ち上がり、村雨も濡れた手を拭き拭き後をついてくる。

 がらがら、ばたん。どさっ。

 引き戸が開いて、閉まって、廊下に――――。

「うわっ!」

「やっ、あくるちゃん」

 人が倒れている。うふふふ。含み笑いをする赤い顔。スーツのスカートからはすんなりとした足が伸びていて、脱げかけた靴をつま先で引っ掛けていた。廊下にぶっ倒れて、膝から下は玄関だ。

「あははははははぁ、あくるちゃん、お帰りですよお」

「…………」

 やだぁどうしたんですかぁ、寂しいですー反応して下さいよぉ。突っ伏したまま無邪気にぱたぱた手を振っている。

 杜若と村雨は顔を見合わせた。長い黒髪が広がって、殺人現場じゃないが結構凄いことになっている。足を踏み出せば広がった髪を踏みそうで、おっかなびっくり村雨が近寄って抱き起こした。

「んっ……杜若君、靴脱がして」

「あ、うん」

 持ち上がった体の隙間から、すばやく靴のストラップを外して引っ張る。ついでに玄関に落ちていた鞄と紙袋を取った。村雨と協力してどうにか廊下に全身を引き上げたが、その間中ずっと明は上機嫌そうに喋っていた。

「酔っ払っちゃったぁんですよー。あははぁ、ありがとぉございまあす」

「大丈夫? 明ちゃん」

「んー、村雨さぁーん。助けてくださいよぉ、天井が、ぐるんぐるんしてますー」

「つーか、どうしてこんな酔ってんのさ。まだ、八時回ったかどうか……」

「そうだよ、どうしたの?」

「んくぅ。えっと、今日はですねー。しゃちょーさんがぁ」

 こんな調子では話もろくにできない。燕を呼び、明を抱えあげて居間に移動した。冷たい水を汲んできて、目の前に置くと明は一気に飲み干した。そして、再びろれつの回らない口調で話し出した。


「今日はー、どっかだか忘れちゃいましたけど、社長さんと飲み会だったんですよぉ」

 情報の提供で、明の事を気に入ってひいきにしてくれている(どっかの)社長がいるらしく、明は今日その社長達と飲み会があり、上司から相手方がお前にも来てもらいたがっているので来い、と言われた。

「だから、おんなじ部署の女の子たちとー、何人かで連れ立って行ったんです」

 それを聞いて、燕と村雨は揃って頭を抱えた。

「あー……その上司さんまずかったなー」

「全くだ。知らねえんだな、明が死ぬほど酒弱いの」

「ねえ。多分話が急だったのかも。大体、どっちか呼ばれるのに」

「ああ。いっつもこいつにゃあ世話焼かされる」

「んで、どうしたわけ?」

「んっとですねー、会自体が始まったのも早かったんですけど」

 明は唇の辺りを指先で押さえた。

 

 始まってすぐ、あっという間に酔っ払って右も左もわからなくなってしまった明に、その上司もこれはヤバイと思ったらしく、タクシーを手配して早々に退散させたらしい。

「グッジョブ上司。いい判断だ」

「ほんと。女の子ぐでぐでに酔わせちゃったら、電車でなんかとっても帰せやしない。タクシーの運転手の人はどう? そもそも飲み会だよ、セクハラとかされなかった?」

「だいじょぶですよう。カラオケで歌って踊ったくらいですー」

 ひとまず何事も無かったらしいと知って、あからさまに村雨は安心していた。

「やれやれ、よかったわ。ったく……困ったねー、明ちゃんてば。世の中物騒なんだから、ちゃんと自己防衛してよ? どうする? もうしばらく酔い覚まししてる? 布団敷こうか」

「ありがとうございますー」

 もうちょっとここに居ようかなぁとまだほの赤い顔で言いながら、明はにこにこしている。

「何だか調子いいなぁ」

「のんきだなぁ、明。俺でも心配になるよ」

「嬉しいなー優しいね、杜若君。あ、そうだあ」

 手をはた、と合わせて、杜若の持ってきた紙袋をごそごそと探る。洋服のブランドの袋で、正面にロゴが入っているやつだ。結構大きい。よおしっ、と取り出したのは、不釣合いな紫のふろしき包みである。

「えへへぇ。明の得意技」

 でかい。大きさは小ぶりのスイカくらいある―――丸い包み。それを膝に乗せ両頬にえくぼを作って、明は杜若を見た。

 ふろしきがぱさりと膝に落ちる。

「社長さんも欲しがるような、先見さきみの情報だよ」

 丸い―――水を固めたような、水晶球。ほのかに青く、放つ輝きは澄み切っている。一つの湖をすくって固めて、今にも水泡が奥から浮かんできそうな冷たさ。

 その笑顔に、杜若はへきえきした。困ったな。正直言って今の明は普通じゃない。今までも何度かあったけど……いつもと精神や体の具合が違うと、そういう時の結果には酷いが出る。酷く外れるか物凄く当たるか。普段が当たるだけに、信じてびくびくするのもかえって嫌だ。

「じゃあいくよー、よおーしっ」

「お、俺いいよっ」

 杜若は立ち上がり、ふすまを開け放って廊下に逃げた。

「おい、杜若っ」

「そうだ燕っ、燕占ってもらいなよ、俺宿題っ」

 おい! と燕が立つ前に、杜若がばたばた階段を昇って行く。顔をしかめて燕が席に戻ると、明はもう周りが目に入っていないようだった。燕はそそくさとパソコンを片付け、部屋を出た。


 明は居間に一人になった。だが、きっとそれにも彼女は気付いていないだろう。瞳の奥は霧で濁りあらゆる物を通さず、ただ、水晶を手に。視線も送っているが、それが本当に見ているのかは定かではない。

 手にした水晶の中が動いた。光が溶けるように内側からあふれ、明の指の下からもれ出す。唇が動いた。


「夏の花――――」

 夏の花。

「まだ咲かない、夏の花。

 ただ、ただ、伸び上がろうとする。

 白い影が訪れて、黒い首輪を施した。

 枷を渡して獣を売れと影は言う。

 枷と交換で、夏の花は手に入れる。

 夜使いと剣と翼を持つものがお前に加勢する。

 太陽に背いて冬を探せ。

 それが全ての幸運となる」


 すうっと息を吸い込んで、明はかくんと目を閉じた。そのまま安らかな寝息が聞こえる。布団をしき終えて戻ってきた村雨が、眠り込んでいる明をあーあと抱き起こした。

 ほんとに、困っちゃうよね。荷物を紙袋に戻し、肩を体の下に差し込むようにして奥の部屋まで連れて行く。

 手を離れた水晶球は、黙ったままだった。


 ※


 杜若は部屋にこもっていた。ベッドの上、読み返している内容はまるきり頭に入ってこない。ちらりと横を見ると、すぐ手の脇には――――携帯電話。唇を噛み締めて、杜若は漫画を置いて携帯電話を取った。登録してある番号を、呼び出して――かける。

 ヤタから貰ったメモ。家に帰ってすぐに開いた。爪の先で引っかいたような酷い字で、の字だとすぐわかる。

 先延ばしにするのはもうやめだ。

 ごくりと唾を飲み込んだところで、繋がった。

「もしもし―――」

『おう、杜若か』

「はい。ヤタからメモ、貰いました。

 ―――お久し振りです、八釼やけんさん」

 ああ、と相槌を打つ声。深い声。低く、染み入るように深い声だった。

「あの内容は本当ですか」

 声が焦る。

 爪の先で引っかいたみたいな酷い字で。刻まれていたその文面は。

って」

『そう。しかもこれで――だ』

 

 ぐっと息を詰める。黙っていると向こう側で相手が話を続けた。

『杜若よ、お前が俺らに〝流下つばきについて知っている事を教えてくれ〟と言ってきたのは、それなりの理由があるんだろうな』

「……はい」

『今まで襲われた場所は、確かに全て飛天ひてん組の情報屋が関わってる。これではっきりしたわけだ。三回続けば、さすがに接点の中でも多少は浮ぶ。でも、お前が調べるようなことか?』

「………」

『俺は、お前に訊くぞ。あそこは、できない無茶はさせないってのはしっかりしている』

「はい。理由は話します。ちゃんと」

 汗が滲んだ手を、握り締めた。自分がちゃんと喋れているのか、心配だった。

「でも、その前に聞きたいことがあるんです」

『何だ』

「八釼さん達の〝流下つばき〟についての見解を。教えて下さい、あいつを、八釼さんはどう見てますか」

 言った。こわばった舌でも、今までつんだ経験のお陰でちゃんと動いた。

 どう見てるか、か。そう言って、少し考えるような間が空いた。

『……今までの二度に及ぶ破壊行為。それに今度で三回目だ。人に対する殺傷行為は見られない……それでも、現場はめちゃめちゃだ。部屋の――特に書類やデータベースを、無人の時を狙って再生不能にぶっ壊している。だが、しょせん部屋の中。建物の表には出ない。情報屋を使ってるくらいだ、襲われた方にも後ろ暗い所の一つや二つ、あるんだろう。

 だけどいい加減、色んな所に我慢の限界が来てる頃合だ。そろそろとっ捕まえる動きがあってもおかしくはない』

 それに、と続ける。

『部屋に残された犯行声明文……。思い切り煽ってるな。どうやら奴はガキだって噂がある。そいつが本当なら、それはだ。破壊行為……ね。立派な不良児童だ。俺と、誘睡いざねにかかれば一発で更生してやるよ』

 どうだ、懐かしいだろう。笑い声を交えた言葉に、苦笑を返す。

「誘睡さんにぶっ飛ばされたのは今でも衝撃ですよ。あれ、忘れろったって忘れられません」

『ああ、お前は不良って言うよか、ただのすねたガキだった。まあ、……懐かしい話はまた別の機会にするとしてだ』

 そろそろ本題に入ろうか。

 いよいよだ。杜若は汗ばんだ手のひらを今一度、握った。

 電話に向かって口を開いた。

「実は―――」


 ※


 ずきん。

 頭が―――痛い。


「あー………」

 机に突っ伏していると、ミチが漫画本を山ほど持って、杜若の顔を覗き込んだ。いつもの回収だ。

「どうした、顔色悪いぞ」

「あー……うん、頭が痛い」

 ずきん。

「ッ痛ぅ……!」

 波紋のように、襲い来る痛み。ずきん。今もまた、頭に突き刺さるような。頭を抱くようにして呻いていると、ミチが自分の机に漫画本をどさっと下ろした。

「おい、大丈夫か杜若」

「う、く、癖みたいなもんだから」

 平気平気といいながら、痛みは回数を増すごとに強くなっていく。今までで最大級だ。朝からなんとなく、調子も悪かったけれど。これは。


 呼んでる。


「無理するとよくないぞ、頭の使い過ぎか? 数学のせいか。数学っていうのはだな、あのローマ数字にアレルギーのある主人公がいてだな」

「何だよ……また漫画?」

「いや、ラノベ。意外とアタリだった。今度貸してやる」

 そりゃありがと。杜若は机に手をついて立ち上がった。

「さすがに調子悪いから……ちょっと保健室行ってくる。センセーに言っといて」

「この渉部様に任せろ」

 胸を叩いて送り出された。足元がふらついて出入り口で女子とぶつかった。ごめんと顔も見ないで謝って、そのまま廊下を階段に向かって歩き出す。

 階段の壁にもたれて、チャイムを聞きながら息を整えた。

 数人の生徒が遅ればせながら杜若の前を通り過ぎた。頭を二、三度振る。よし、しっかりしてきた。

 保健室は一階。だか杜若は上に登る段に足をかけた。

 

 もう授業は始まっている。だから、足音を忍ばせて。物音を立てて気付かれないように。教室からは死角になっているし、クラスから一番近いのが、人通りの少ない南階段だったのがよかった。

 足を踏みしめて壁に手をついて、段を上がる度に痛みは強くなる。階を越えれば、頭を締め上げるように。だがそれが、正しい方向に向かっていることを知らせてくれる。

「ちっくしょー………」

 普段なら。

 痛みは正しい方向へ進むごとに減っていくものだ。だんだんと感覚が冴えてきて、澄んできて。こっちだと自分の感がはっきり語る。

 意識がもうろうとして、階段を踏み外しやしないかとひやひやする。まったく困った奴だ。学校でなんて……こっちは職業学生。兼業(けんぎょう)なのに。

 確実に段を上がっていく。見上げれば狭い隙間から、上に重なる階段の手すりの壁が見える。一番天辺はペンキのはげかけた天上。手が触れた壁もペンキがひび割れて、隙間から冷たいコンクリートが覗いていた。

 

 スチールのドアの前に、杜若は立った。

 簡単なドアノブ。

 狭い入り口。埃がすみに溜まっている。こんなところまで誰も来ないし、まして掃除なんか。曇りガラスから日が差し込んでいる。強い日差しがここまで届く。暑い。風が、通らないから――――。

 杜若はノブを握った。捻って手ごたえが無いのに気付いた。ずきん。鍵はかかっていない。無用心。ちょっと不満気にそう思って、扉を向こうに向かって押し開けた―――。


 ずきん。

 そこにあったものは。


 白い姿。

 はためく、長い衣。


 船の帆とか、ロープに干したシーツとか。そういうものとは違った。けして色褪せていない。太陽の光に晒された証がない。一種、異様さを感じさせる。

 それは振り向いて、小さく笑った。色の無い唇が、微笑みに曲がった。 

 ああ、やっぱり。正しかった。向こうの話だ。

「―――それで、一体何の用で?」

 湿気と、淀んだ空気。手の跡もくっきり残りそうに濃く重い。杜若は営業用に顔を切り替え、たずねた。仕事人風に、軽く手も広げてきさくな感じに。

「ひとりで来られたんだ。ってことは、やりたい事は多少なりともはっきりしてるってことで……俺が役に立てることは何? どんな情報が欲しいんだ? あっと、その前に聞いてもいいかな」

 これがわからないと、対応の仕方も変わってくるから―――。

「君も死神?」

 丈の長い衣。白い死神というのは、見たことないけれど。


「君は、誰?」


 その言葉に、そいつは笑みを深くした。はっきりと明瞭に耳に届いた声は、それなのに、妙にくぐもっていた。


 一瞬、言葉を失って―――――。

「へぇ」

 なるほど、と杜若は応えた。瞳ががらりと変わっている。

 かろうじて残った笑顔は引きつっていた。それは怒りと憤り。硬く握ってもなお、ぶるぶると震える拳を押さえていられたのは意思の力だけだった。


「それじゃあ――――」


 ※


「流下つばきは―――


 杜若は言った。携帯電話を、耳元に強く押し付けるようにして両手で持って。

「俺の父親は情報屋です。それは、八釼さんも当然知っていると思います」

 唾を飲み込んで、喋る。

「だから、そのせいでっていうのも、八釼さん達ならわかると思います」

 情報屋はありとあらゆる情報を売る。もちろん、売るまでにはかなり頭を使って、値段だけではない、売ることで起こりうる出来事を予測し、その上で判断を下す。

 でも、売った相手が情報のお陰で成功することがあれば、その情報のせいで損をする。つまり、人が出てくることも当然で。怨みつらみがこっちへ飛び火してくる事もある。というか半分当たり前だ。それを覚悟してこっちも仕事をしている訳だが。

「家族の名前を使って中傷したり、罪をおっ被せようとしたりってこともあります」

 起こることを受け止める覚悟と、起こったことについての対処。その二つは違う。自分の行いのせいで、被害を受ける人が居るのなら。

 その人を守るのも自分の責任だ。

「どういう考えなのかどうかは知らないけど、これは、明らかに―――肉親の名前を使うことで駿ながれ穣太郎じょうたろうを狙った、彼をおびき出そうとする行為です」

『………それは分かった。だけどそれじゃ、流下つばきが―――お前の妹本人じゃないって証拠にはならないだろう』

「証拠ならあります。不可能なんです。―――流下つばき本人は、こっちの世界の事全く知らないんですから」

 黙った隙をついて、まくしたてるように杜若は言った。

「俺に母さんがいないのを知っていますか。母が妹を連れて出て行ったきり、もう会ってませんから。出て行ったその時の時点で、妹には何の能力の発現もなかった」

 俺はもう、その時には情報屋になるって決めてたけど。

「―――そもそも」


「そもそも、母はこっちの世界がきつくって出て行ったんです」


 母は、父の元依頼人で、その時起こったのからずっと、父が怪我をする場面や身内ってだけで巻き込まれる場面にも出会ってきて、それでも次の日にはどこの家とも変わらない普通の日常そのままに、背広を着て出て行く父を見ていて。

 大変さも辛さも、骨身にしみていたんだろう。

 そんな中で、生まれた息子までが「情報屋になる」と言い出した―――。


 運の悪いことにそのすぐ後にも遊びに出かけた先で、父が情報屋である事が理由でちょっとしたいざこざに巻き込まれたりもした。最悪なのは、遊んでいた杜若に向かって、その矛先が向かったことで―――。

 幸い怪我一つ無く、その時は何事も無く収まったのだけれど。


 母はなかなか泣き止んでくれなかった。不安だ、怖い、と言っていた。

 あなた達をいつか失うんじゃないかって。

 泣きながら、特殊な能力を持たなかった妹を連れて。

 この子を、巻き込みたくない。だから。


 ごめんねと泣きながら。彼女は去った。

「―――そんな風に言う人を、巻き込めるわけがないじゃないですか」

 ただ、こっちの都合だけで。

 

 姿が見えなくなるのが嫌で、父親に肩車をせがんで、角を曲がって見えなくなるまでずっと頭にしがみついてた。

 父親は杜若に謝るようなことはしなかった。ただ、その姿が消えても、しばらく彼が道に立ち尽くしていたことから、気持ちが伝わってくるような気がした。


「父は忙しくて手が回らない。でも、俺が巻き込みたくないんです。こっちの世界から離れた人を、ここに居たからって理由だけで巻き込むとか」


 だから。顔をあげて、杜若は言った。

「だから俺は絶対に流下つばきを捕まえなくちゃならないんです」


 そう。それは平穏な生活を護るために。

 杜若の願うただ一つのことだった。


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