第5話

 暗闇の中一つの火が点る。踏み出すたびに点り赤い尾を引く光。歩みに沿って追うように、一本の道筋が闇に浮んだ。光が炎のように燃え上がった。赤々と、長靴ちょうかが踏みつけた敷石の中で火が燃える。そしてそれが横顔を紅く照らし出した。

 硬く閉ざされた門扉を前に、裾に残った光を払った。

 それはそこにあるだけで経てきた遥かに長い年月を感じさせる。鈍い輝きを放つ門には幾多の古い傷がつき、攻撃に耐えここに残った事を証明している。門柱に突き刺さったくさびの数は三本。それらは装飾され、この家が〝第三勢力〟である事を示していた。

 承諾無しには通れないその門は、しかし沈黙している。周りに気配は無い。ただ扉の中央、丁度目線がかち合う辺りにわしこうべを垂れていた。

 青銅の鷲。その尖ったくちばしに同じく青い輪をくわえて、従順に俯く。輪を取り上げ、扉に思い切りぶつけた。響き渡る硬い音が耳に嫌な残響を吐いた。青い羽が、ぶるりと揺れる。輪をくわえた口が開かれ喉の奥まで晒される――吼えた。

「うぉおおおおう! 何奴!?」

蔓食つるばみ

 ぴたりと吼え声が止んで、鷲は金の目を眇めて低い声で唸った相手を認めた。

「――――開けろ」

 首を巡らし、相手をとっくりと眺めた上で鷲は返事をする。

「おや。これはこれは、――――鳩羽はとば嬢」

 嵐の瞳が鋭く睨み返した。長衣の裾をひき、手にした鎌を突いて体重を支えている。長い髪がたれた肩が微かに上下していた。

「開けろ、蔓食」

「いやはや、ご機嫌麗しゅう……とはいかないようですな。随分とお疲れの御様子」

「開けろと言っている」

 蔓食は心外そうに無い眉をひそめて、銜えた輪を齧った。嘆かわしいとでも言うように首を振るたび、扉を輪が叩いた。

「私の言葉が聞こえないのでしょうか? それとも会話する価値など無いとでも? それはいやはや幾ら私がたかが金物の獣だとしても、あんまりな態度では御座いませんか。やれやれ、やはり気性が荒くていらっしゃる」

 金目が両目ともに細められ、値踏みをするかのように口元からかちかちと輪をかじる音がした。上から下までじろじろと、ぶしつけな視線にただ鳩羽は口を閉ざし、睨み続ける。

「そもそも疲れを表に現すなど、まだまだ、なっておりませんな。この家に住まわれる方ならば……。全く、そうとは思えませんな―――ふむ、たとえ寝起きするのが物置とはいえ」


 その台詞を最後まで発したか否かの刹那、一陣の風が起こり鈍色の刃が飾り羽根ぎりぎりで止まった。金の片目だけが、振るわれた刃を確認した。鳩羽は歯を食いしばり、怒りに目は爛々と輝いていた。

 ――――ぎちりと奥歯が鳴る。

 嵐の瞳が急速に冷えて、鎌の柄を強く握りなおした。

 蔓食はしばらく黙った。鳩羽の鎌であれば、彼の首をそのまま扉から引き剥がす事などできないことではない。その予想できて当然の事柄にも構わず、まるで煩い蝿がとまっただけのように、まるきり興味なさ気に瞳だけを動かして刃を見ていた。

 至極うっとおしそうに小さく鼻を鳴らして、首を揺すった瞬間鍵の外れる音がした。

 扉が軋みをあげて、開く。

「どうぞ、鳩羽嬢」

 首をしゃくった時に、揺れた輪が扉を叩いた。一人が通れる分だけの僅かな隙間しかそこにはない。鎌を蔓食の首から外して、鳩羽は素早くすり抜けた。扉の向こうで、やはり気性が荒いとか、血統がどうのとか、蔓食が声を潜めもせずにぼやいているのが聞こえてきたが、無視した。

 下を向いたまま、広間につながる廊下を階段に向かって早足で歩いていた時だった。鳩羽を通してそのまま閉じるはずの扉が、大きく軋んだ。

 長い長い軋みだった。幾つもの響きが入り混じり、悲鳴が混ざっているみたいに聞こえる。その中から硬い靴音が聞こえた。悠然とした歩み。後ろから追いかけてくる。鳩羽は足を止めた。止めざるをえなかった。

 扉が完全に開ききった。

 蔓食はきっと頭を垂れてうやうやしくも言うだろう。彼こそが、次代の私の主だと。


 墨を流したような髪に長衣。その長身痩躯に、隙は一つとしてない。鳩羽は立ち尽くしていた。手にじっとりと汗を感じた。壁際に立ち、頭を下げる。そして命じられる前に本日の任務の成果を述べた。

「本日の任務は東徒ひがしかち区周辺における悪念処理。同組クラスの死神一名、情報屋一名と組み、煙状二十四体、変形一体、合計二十五体の確保に成功しました」

 ご確認下さいと袖から一本の瓶を取り出し、珠に添えて差し出した。移し変えられた悪念と封印された珠。彼はそれを一瞥もしなかった。代わりに。

 目の前が一瞬暗くなる。ずるり。腕の間に落ちた墨色の布を呆然と見つめた。一体これは。手の中の物を見下ろして、そして気がついた。

 それは、彼の今まで纏っていた長衣だ。

 。そう認識する頃には、その姿はもう廊下の先の方へと歩いていた。

「―――どういうことですか」

 布を握り締めた。

「どう言う事ですかっ!」

 鳩羽は鋭く叫んだ。彼は足を止め、振り向いた。そこに表情は無く、彼は当たり前のように軽く眉をひそめて尋ねた。

?」

「……………っ!」

 声の届かない距離ではけしてないのに。鳩羽は意識して声を抑え、もう一度繰り返した。手の中の長衣を握り締め、乱暴にならないように前に突き出す。

「これは、どう言う事なんでしょう」

「ああ、―――――」

 彼は冷めた態度で接した。ごく冷淡な感情を示した。本当に珍しく、ふと唇の端に小さく笑みを乗せた。

 それは、嘲りの笑い。

「上着掛けかと」

 

 すっと血の気が引いた。

 手に提げていた鎌を瞬時に握り締め、気がついた時には足が廊下を蹴った。廊下を蹴飛ばして距離を詰める。目前に姿がある。駆ける動作の中で体を捻り鎌を大きく振りかぶって。

 振り下ろした。彼は防御の体制も何もとらずただその場にいた。その肩口に、当たる、と思った瞬間体を衝撃が襲った。

 吹き飛んだ。

 背中を廊下の壁に強く打ちつけた。力が抜けた瞬間脇にあった花瓶に腕がぶつかり、水を撒き散らして砕けた。そのまま、廊下にくず折れる。

 足が立たない。それでも、手を離れた鎌を取り戻そうとした。手を伸ばせば。後少し這って進めば届く。けれどそれは近づいてきた長靴により蹴られ、遠ざけられた。


 今ならわかっていた。振り下ろした柄を片手で押さえて掴み、引き寄せ、その時にもう片方の手で腹部を思い切り叩かれた。


 靴紐を上まで締めた長靴が視界に迫る。絨毯に頬をつけたまま身動きできない鳩羽の顎を捉え、強引に持ち上げると無理矢理立たせ壁に頭を押し付けた。息のかかるような位置で、墨の瞳が覗き込んでくる。めまいがして目が霞んだ。体に―――力が入らない。

「………今、お前は何かしたのか?」

 無表情。平坦な声。口元だけが笑いながら、確認するように。分かりきっている事を、物分りの悪い役立たずにもう一度分からせようと彼は言う。思い知らせるために。

「上着が汚れてしまった。だから洗っておけ。それがどうして理解できない?」

 息が苦しい。返事ができないとまた殴られた。逆らう事もできない状況に、募るのは無力感。この、顎を掴んだ手に今すぐ噛み付いてやりたいほど憎い。胸が刺すように痛む。それなのに。苦しさの中でやりきれなさより怒りが先に立った。

 どうすることもできない彼女に対し、彼はいっそ言い聞かせるような口調で語る。

「女にしては力が強く、女にしては能力が高い。ただの子供のお前が、短期間でここまでのし上がったのは認めてやる。確かに賞賛物だろう。だがそれでもだ」

 お前には力が無い。

 だから俺には敵わない。

 絶対的な優位を体に叩き込まれる。上の者には従えと、彼が言う。理解ができたかと訊いた。足が立たないから体重が支えられない。それなのに顎が固定されて。

 苦しい。もうろうとする意識の中で、ただ、謝ろうという意識が働いた。お願い離して。

「すみませ………はな、して、くださ…ぃ」

 

「にい、さ」


 腹部を殴られた。思わず叫んで吸い込んだ息が狂った。咳き込んで、咳き込んで呻いて。唖然とした。ようやく自分の口走った言葉の意味に気が付いた。

 何を馬鹿なことを。唇を噛んで自分の愚かさを恥じた。

 分かりきったことなのに。

 まだ顎を掴まれたままで、もう一度上を向かされ視線を合わさせられた。その目は燃えていた。吸い込まれるような墨色の瞳が夜のように澄んでいた。その奥で、かがり火を点したみたいに怒りがぎらぎらと輝いた。―――それは、しくも激昂した鳩羽の目と似ていた。

「二度と俺をそう呼ぶな」

 この手で、と彼は左手を握り締めた。そこに鎌が顕現した。振るわれる、大きく振り回されるのに適した細身の鎌。長く細い刃に柄。埋め込まれた十の宝玉がいっせいにこちらを向いた。

「この手で―――千よりも多く切り刻まれたくなかったらな」

 嘲りさえもそこにはなかった。憎しみ。ただ深い、苛立ちと怨みと燃えるような怒り。  

 必死に頷いてようやく手を離された。体が膝から崩れ落ちる。吐きそうになって反射的に堪える。絨毯を汚せば、また何を言われるか―――何をされるか、わからない。

 長衣は拾って洗っておけ。この廊下は全部掃除しておけ。

 彼は命令を下して鎌を手から消し、立ち去りかけて振り向きざまにこう言った。残酷な笑顔を精一杯頬に刻んで、いっそ爽やかに、目を細めた。

「そうだな。十の勲章を奪い、お前が上十位に食い込めば、その時こそ誇りを持って、俺を。どこぞの馬の骨とも分からない女のがきで卑しいお前にできるのは、それだけだ」

 敵を噛み裂いて奪え。戦って勝ち取れ。。表情を氷のように冷やし、冷酷に嗤いながら彼は言った。

「それから、珠は持っていていい」

 目の前に封筒と、後を追って書類が落ちてくる。お前にだ。

「スクールからだ。読め、どうせ必要になる」

 鳩羽は気力を振り絞って手を突き、立ち上がって取り落とした長衣を拾った。立ち去る背中に向かって、渦巻く思いを全て沈めて頭を下げる。

「わかりました。――――世鷹よだか様」

 上十位。それは今、彼の居る〝墨〟の位だ。鳩羽など手の届くような範囲ではない。通常『灰』の位からそれ以上に上るのは、最低三つかそれ以上の年が居る。

 彼の名をささやく時、誰もが位に戦闘における最高位である〝黒〟を冠するのも間近だと言う。若き死神。


 その位夕墨ゆうずみ 死神世鷹。

 名門「第二の翼」家における第五代当主の一人息子にして、死神鳩羽の腹違いの兄。


 鳩羽は手にした長衣を強く胸に押し付けた。鳩羽の狙った、肩口に縫い取りされた交差する翼の家紋には、傷一つ付いていなかった。庇うように交差した胸の前を、伝い落ちた雫が零れていった。その震える肩に紋章は無い。

 ただ、決して濡らしてなるものかと胸に誓った。


 ♦


 まだ目が腫れている。

 風呂から上がり、タオルを肩にかけて鉄アレイの間を縫って足を置く場所を探しながら、木箱の上に立てかけられた骨董品のような鏡を覗く。それもひびが入って、実質はガラクタに過ぎない。

 ようやく、場所を見つけてベッドの上に腰を下ろした。顔が熱く頭痛がした。軽く溜息をついて、頭を抱える。長い髪が垂れて顔を覆った。


 鳩羽は彼がわからない。

 どうしてこうも自分を責めるのか。彼はまるで鳩羽に罪があるかのように見る。

 鳩羽は彼の悪い噂を聞いた事が無い。

 鬼のように強く、しかし手にした鎌を振るう姿は神々しくもあるという。尾ひれの付いた大げさな噂話だとしてもだ。話に聞く彼は、寡黙であり独りであることを好む。しかし話しかければ笑うし、その対応は紳士的ですらあるという。

 誰もが彼を信頼している。―――ほん少し怯えを交えて。

 そんな彼が何故。自分だけを。

 悪い噂は消去されているのかもしれない。鳩羽は思った。

 あの彼が命じないと、どうして言える? 自分がのし上がるために邪魔なものは削除されているのだとすれば。

 鳩羽もまたいずれ、消去されるのだろうか。

 ゆっくりと出窓に置かれた通話器を取った。コードもダイヤルも無い受話器のようなもの。耳に当てて、そして意識を集中した。耳の中に、呼び出す音が聞こえてくる。


 本当はわかっているんだ。


 単調な音の繰り返しに耳を傾けていると、内心が騒いだ。

 本当はわかっているんだ。どうして、彼が自分を憎むのか。けれどそれはどうしようもない事で、鳩羽にはどうにもできない事だから。

 鳩羽は「第二の翼」家第五代当主鵰夜しゅうよの私生児である。

 母は身寄りも無く、本来なら学びスクールへ通うこともできないはずの者だったが、そこから戦いの実績のみで位を得るまで名を上げた、秀でた死神だったと聞いている。

 だがその母は戦いの傷が元で死に、家が引き払われて、鳩羽もまた過去の母と同じように道端で暮らすことになった。寝床は隣の家で借りる事ができたが、食べ物は無かった。いつかはのたれ死ぬ。それを待つような生活。

 だがある日、どこからか存在を知った鵰夜が自ら鳩羽を引き取りに現れた。


 本来ありえない事だった。

 鳩羽のような子供が生まれる。それ自体は無い事ではない。だがその存在は知られる事無く、隠されて育つのが普通である。鳩羽に取って父親は、ずっと〝名も無き父〟で終わるはずだった。

 それが、何故か。連れて帰られた時は、正妻が青ざめて金切り声を上げ、大声で罵った。その横で世鷹が絶句していた。それ以来、正妻とまともに口を利いたことは無く、世鷹には見下されている。

 鳩 羽は、食べ物と着る物と寝る場所とスクールへ行く権利を与えられ、命を救われた。

 そして代わりに、居場所を失った。


 通話器の横に置かれていた、先ほどの手紙に目を落とす。

『――――誰』

 声を聞いて、呼び出し音が途絶えたのに気付いた。

 相手が出た瞬間、顔の横を刃物が突き抜けたような気がした。それ程までに鋭い声。

 けれど鳩羽の心は緩んだ。唇から微笑が零れる。

「もしもし……鳩羽です。すみません、褪衣さえに」

『ああ。あんの馬鹿ならまだ。今さっきまで使ってたので、階上なのよ。じき帰って来るでしょうけど』

 そうですかと答える。少し焦りすぎただろうか。

 機械の奥で、ただいまぁーと間の抜けた声が聞こえた。

 ほら、と向こうで彼女が答える。

『今持ってって、代わらせるわ』

「ありがとうございます」

 

 ※


「ただーいまぁあぁぁああぁあ」

「おーう。今帰ったぞー」

 鎌を杖のように突きつき扉から入って来た褪衣の後ろに、派手な髪型の青年が続く。褪衣と並んで見劣りしない程だから、二人連れで歩いた日には人の目を避けられないだろう。

「何だァその気の抜けた声?」

 ウワァ褪衣ボロ雑巾みたい。開いた扉の中で、螺旋階段の手すりに座った子供がけたけたと笑った。褪衣よりも三つか四つは小さく見える少年。背丈は褪衣の胸まであるかないか、尾っぽのように縛った髪がぴんと跳ねていた。

「うっせー……あー決めた。今決めた。もうお前に土産やらねー」

「何だとぉっ!? 褪衣の癖に生意気なんだよッ」

「おいおい、まあいいだろ。そうつんけんすんなよ。ひさ

 だってぇと弥は唇を突き出して足をぶらぶら揺らした。

沙戯さざれにぃー、褪衣がくれないって言うんだぜー」

「俺疲れてんだよ! 見ろ、ほれ見ろこの血痕! 治療室で膏薬こうやく張ってもらったからちっとは楽だけどよっ」

 がばっと長衣をはだけて、その下に着た長袖の首を肩まで引っ張って膏薬と治療布を見せ付ける。

「許してやれよ。褪衣だってな、本気じゃないだろ」

「……まぁな」

 さすが沙戯兄貴。分かってんじゃねぇかと肩を叩いた。

「たりめーだろ。何年お前らの兄貴やってると思ってんだ」

「よし、じゃ特別サービスな。えー、こほん」

 一つ咳をすると褪衣は爽やかな輝かんばかりの笑顔を浮かべた。

「お帰りなさいませお兄様☆ お疲れでしょう、お荷物お持ち致します。お風呂がいいですか? それともご飯が先ですか」

「何だ。やけに気がきくな」

「知らねぇの? これ最近流行ってるらしいぜ」

「へぇ、そりゃいいや。変わったもんが流行ってるな。うちが上流階級みたいだ。俺最近出てないからなぁ。ほれ、もういっぺん言ってみ」

「さ・ざ・れ・お兄様っ☆」

「お兄様かー、………悪くないな。よしっ、しばらくそう呼べ。俺はお兄様だ」

「何、漫才してるのよ」

 二人の後から背の高い女が肩をはたいた。片手に鎌を提げた二人と同じ姿である。ゆるく髪を結って背中に流していた。苦笑して「論点が違うわ」と言う。

「褪衣、あなたソトに影響され過ぎよ。行き過ぎると注意の対象になっちゃうでしょ、いくら面白くってもね。それに……そもそも、その知識は間違ってない? スクールの日本二ホン記録データだって完全では無いのだし」

 なかなか最近の流行にまでついていくのは難しいわ。女は腕組みをして褪衣の鼻先で指を振った。褪衣はにへらとしてやだなぁもう、と手を振った。

「やだな、施流せる姉貴。じゃお姉様って呼んであげようか。ほんとは、ポジション的にむしろ氷褪ひさめ姉貴なんだけどさーあ」

 そういう問題じゃないわねー、と困ったように額を押さえる。弥っ! 階上から思い切り怒鳴り声が降ってきて、弥は手すりから転げ落ちそうになった。

「ったくもう、おいこら。聞き分けの無いチビだね」

 足音荒く降りてきて背後から首をきめられ、少年がばしばし腕を叩く。それを物ともしないで、ぎりぎりと少女は締め上げた。

「何度言ったら分かる! 手すりにの・ん・な!」

「うわぁあ、分かってるよォ、氷褪ねえっ」

 腕の隙間からどうにか頭を抜き出すと、弥は階段を三段飛び上がって逃げた。

「あたしらは名前似てんだからね! あんたのお陰であたしの評判まで下がっちゃ困るわ」

「ゲェーっ! 自分の為かよ!」

「それの何が悪い! あんただって危ないでしょう」

 うわうわひっでぇー。いぃーっと歯をむき出す弥に少女はふんと淡い短髪を振って、褪衣に向かって通話器を突き出した。目の前数センチで止まる。

 恐ろしい吊り目。びっくりするほど痩せている。腕をむき出しにした服を着て、わざわざ裾を裂いていた。褪衣はそれを見て、認識を訂正した。ちょっとこの姉が「お姉様」などと言っている様子は想像がつかない。

「褪衣、あんたにだって。今来てるわよ。あの、超優秀な相棒」

「へぇあ! まじで、やっべーっ」

 思わず奇声を発して、受け取って通話器に向かって「もしもし!」と叫んだ。押し付けた耳に、鳩羽が笑っているのが聞こえる。

「誰ェー?」

 階段から飛び降りて来て訪ねる弥をしっしと追っ払い、褪衣は通話器を耳に当てたまま段を駆け上がった。

「鳩羽? 何!?」

『褪衣……スクールから連絡が来た。手紙だ。お前の所にも行ってるんじゃないか?』

 手すりから身を乗り出して、階下に向かって叫ぶ。

「なぁ俺宛に手紙来てない?」

「これか?」

 郵便受けから山ほど封筒を取り出している沙戯が、葉書位の一枚を掲げた。

「それだそれ、くれーっ」

 スクールの封蝋を認めた褪衣は手すりに足の甲を引っ掛け、全身ぶら下がって呼んだ。しゃあねぇなーっと弥が手紙をくわえて、沙戯の肩を踏み台にして飛び上がった。ばしぃっ! 思いっきり伸ばした二人の手が互いの腕を掴み、ぎしんと手すりが軋んで体重に耐える。

「こらぁっ! このいたずら坊主どもっ、家が壊れたらどうすんのよ!」

 氷褪に怒られつつも、褪衣がもがきながら気合で引き上げる。

「毎度おなじみだなぁ、こりゃ、家が狭いからできるんだよな。空中曲芸(アクロバット)ってとこか」

「そんな事言ってないで兄貴も叱ってよ! もうあたしばっかり! いつも怒鳴ってるんだから」

 ほらよと弥が手紙を吐き出して、褪衣の手に突っ込む。

「ありがとな、じゃこれ土産。ちゃんと皆で分けろよ」

「任せとけ! おーいすずーっ、せい連れて来いよぉ! じんにぃーっ! 褪衣が土産だってー!」

 受け取った袋を抱えて、早速大声で弥は呼ばわり始めた。

 それを避けて、褪衣は部屋まで駆け上がる。屋根裏の手前から四番目の扉を開けて、飛び込んだ。

「お待たせ、悪かった」

『もういいのか?』

「ああ、いくらでも喋ってみろ。どんと来いだ!」


 ※


「――――令状だ。新しい指令の」

 一枚切りの書類を手にとって、鳩羽は語り掛ける。

「どうやら……大変なことになったらしい」

『何だっつうんだよ』

「その前に、お前まだ開けてないだろう。まず開けろ、読めば分かる」

 ちぇーと電話の向こうで何やらごそごそし始める。

 眉根を寄せる。不機嫌な表情になっている事が自分でもわかる。こつこつと指が窓枠を叩いた。

「事態は酷く深刻だ」


 〝白の死神〟が脱走した。


 褪衣が息をつめるのがわかった。彼もまた驚きに絶句する。

『………うっそだろ』

「事実だ」

 嘘だったら、どんなに良かったか。にわかに事の重大さがわかったらしく、褪衣は焦りを見せた。声がどんどん上ずっていく。

『……ま、ずいだろ。それは。マジでかぁ? おい……〝白の死神〟……って、あれじゃんか』

 ? そうだと答える前にマジかよーと呻く。頭を抱えている様子が浮んだ。

『え、ええー………っとにかく、それが俺らと何の関係があるわけ?』

 呆れた。自分の立場がわかっていないのだろうか。鳩羽は溜息をついた。

「褪衣、開いたら読まなければならないんだぞ。それ位わからないのか」

『えぇえ? そんなもん?』

「もう、いい。音読しろ。そうした方がお前も理解できる」

 言っとくけど俺読むのへたくそだかんな。前置きして、褪衣がつっかえつっかえ読み始めた。

『えー……と、

 捜索任命書 

 今回危険度における捜索者不足の為、ミドルスクール 戦闘、戦闘魔術、特別戦闘、以上のクラス所属生は攻撃に置ける最高位〝黒〟の命の元に任務に補助として参加し、その解決の為に心血を注ぐべし。

 第一特別戦闘クラス 所属ナンバーⅫ 褪衣。

 現在の担当地区およびその周辺における〝白の死神〟捜索を任命する……』

 ってはぁー!? 褪衣の叫びに耳に指を突っ込み、指を外してから言葉を続ける。

「そう言う事だ。白の死神が逃げたと知ったら町中が混乱する。だから通常の仕事も、普段と変わりなく続けなければならない。そのためには捕縛の術が使える死神が必要不可欠だ……いくら大事だとは言え、かかずらってはいられないというのが本音なのだろう」

『だぁから俺らが駆り出されるってわけー? 冗談キツいっつの』

「詳しい話はまた、明日スクールでしよう。その時に担任からも説明があるはずだ」

 納得してない様子だが一応、了解ーと返事がくる。ふと思い出した。

「褪衣、お前怪我は? 大丈夫なのか」

『あ? ああ、さっきの? 全然。何ともないって。ちゃんと薬張って貰ったし』

「そうか……よかった。余り無理するなよ」

『褪衣ー! 飯だー! 後、これ姉ちゃんが持ってけって』

『おう、ごくろー。つーか、何だこりゃ……あれ、薬? 杜若か!』

 褪衣は少し黙った。何事か考えている時、褪衣はいつも黙る。

『鳩羽ぁ』「何だ」

『あんま、杜若責めるんじゃねぇよ』

 普段のあいつならあんな失敗しない。

『様子、何か変だったろ? あってるか微妙だけど、さすがに杜若ならあんなミスしねーし。俺ピンピンしてるしな』

「………ああ」

 褪衣の笑いが通話器の向こうで弾ける。

『心配かけちまったな! 俺もまだまだ修行が足りないねこりゃ。そんじゃあな。裏門だろ?』

「ああ、明日、な」

 しっかり飯食えよー。などと変な気遣いをして、通話が切れる。鳩羽は通話器を窓辺に置き、そのまま横になった。

 褪衣。こちらこそ悪かった。

 心の中で謝る。よほど心配して聞こえたのか、お前にも気を使わせた。私ばかり熱くなってどうするんだ。怪我をしたのは褪衣なのに。

 扉にノックがあった。開いている、と声をかけると一人の少女が滑り込んできた。

「お片付けしておきますね」

 そう言って、扉の近くの木箱に投げ掛けたままの墨の長衣を手に取った。肩の辺りで髪を揃えた、鳩羽よりもまだ幼い姿で背も低い。しかしそんな子供でも、丈の長いスカートの小間使いの制服を着ていた。慣れた手つきで手早く畳むと、ぴょんぴょんと物の隙間を縫って近づいてきた。

 ポケットから銀のくしを取り出し、鳩羽の髪に手を触れようとする。小さい手を感じて、頭を揺らし振り払った。

「――――いい。触らないで」

「そんな。くしゃくしゃになってしまいます」

「それでもいいんだ」

 困ったように首を傾げて、少女は両手を握り締めた。

「鳩羽様。殊守しゅすは鳩羽様のお手伝いとしてここに居ります。仕事がなければ、ここには居られません」

「放っておいてくれ……殊守。そもそも、私は手伝いなど持たなくてもやってきたんだ」

 小間使い。急にあてがわれて、鳩羽づきだと言われた。

 今さら手伝いと言われても、困るのに。

「それじゃ、あの、もしよろしかったら」

 急に恥らうように殊守はスカートをいじり始めた。

「あの、姉様って呼んでもよろしいですか?」

「――――――は?」

「殊守には、姉妹が居りません」

 照れてしまったのか下を向いて、殊守は指先をそわそわと握りしめた。

「その、鳩羽様はお手伝いが必要ないとおっしゃいますし、もちろんご迷惑でなかったらなんですが」

「別に……好きにしていいけれど」

 ありがとうございます! 殊守は顔を輝かせた。瞳をきらきらさせて喜ぶその様子に、鳩羽は戸惑った。……何だ、この子。

「それでは、鳩羽様! ……いいえ、鳩羽姉様! やっぱり御髪おぐし、とかしましょう」

「え? だから、いいって」

「いけませんっ」

 意固地に殊守は首を振った。てこでも動かないという顔をしている。

「姉様がきちんとしていない格好をしていれば、ご主人様達は、もっと鳩羽様に辛く当たります。口実を与えるだけです。姉様が綺麗な格好をしていることは、そのまま鳩羽姉様の身を守ることに通じるんですから!」

「………小さいのに、鋭いんだな」

 まくし立てられ、度肝を抜かれた鳩羽は呆然として言った。

「これでも、第二の翼家では三年程使っていただいておりますから」

 それに、と小さな小間使いは微笑んだ。

「せっかくそんなに綺麗な御髪なんですから、もったいないですよ」

 何だか急に毒気を抜かれて、鳩羽はその後殊守に大人しく従った。生き生きとよく喋るこの少女と、自分はこの家のどこかで会っただろうか、と考えながら。


 ※


 鳩羽は翌日、日が昇る前に起き支度をした。殊守が鳩羽から明日の予定を聞き出して、喜んで用意してくれたパンを鞄に詰める。礼状とそれから、珠。必要になるかもしれない。上から長衣を羽織れば隠れてしまう、使い勝手のいい小さな物だ。

 大きいと、動くのに邪魔になる。

 足音を忍ばせて素早く階段を下りる。もうじきに、この大きな館のあちこちで使用人達が仕事を始めるだろう。朝から誰かに会うのはごめんだ。そのために、毎日早く出るようにしているんだから。

 一階の扉で区切られた厨房の中を通ると、急に廊下の幅が変わる。こっちには使用人部屋しかない。洗濯室の横の扉が、裏門である。食料や生活雑貨を運び込む為のもので、朝早くから開いている。それに、もし見つかったとしても咎められはしないのだ。使用人たちにとっても、鳩羽は空気のようなもの。

 左手の階段の前を通り過ぎ、右手が洗濯室だ。扉の窓を押し開けて、長方形の切れ目から褪衣の姿を確認する。いた。鉄柵の前で手を振っている。

 

 冷えたドアノブに触れ、扉を開けようとした。

「―――鼠か」

 ばっ、と振り返った。腕組みをして立つ墨色の。鳩羽の背後に彼はいた。

 いつのまに。

「長衣を。取りに来た。俺も今朝は早出でな」

 右手に、壁一面がクローゼットの洗濯室。手にした衣。

 洗濯室の中に? 階段から下りてきたのだろうか。どちらにしても、それは分からない。鳩羽は黙っていた。体が震えるのを感じた。

 ひるんだら、負けだ。立ち竦む体を、手を握り締めて叱った。

「術士鼠――符術の一族。確かに希少価値は高い」

 分析するように顎に手をやる。

「お前に鼠を飼う趣味があったとはな―――だが、いかんせん

 潰すか。

 唇には冷えきった微笑が乗っていた。思わず言葉が口をついた。

「ッ……褪衣には、何の関係もありません!」

「ならば切り捨てろ」

 あんなやからとは付き合うな。

 お前が関わらないのなら――――何の関係も無いのだからな。

 扉の向こうには褪衣がいる。

 鳩羽は冷笑する世鷹の言葉を、どんな気持ちで聞いただろう。

「手は、早めに下す事だな」

 そうでなければ、俺が自らこの手で潰しておく。それだけを伝えて、振り向き彼は去った。その姿を見送ってから、扉に飛びついた。ドアノブにかけた手が震えていた。そして、鳩羽は扉を開けるのをためらった。

 世鷹が。彼が口にした事で、実現しなかった事は無い。

 私と共にいる者も、削除される。


 唇を噛み締めて鳩羽は扉を開けた。友の笑顔に迎えられて、鳩羽は考えた。

 褪衣と彼の家族を守る為に、自分に何ができるだろうと。


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