第4話
「……ちくしょう」
息も荒く、腕に体重をかけて壁にもたれる。家の中――薄暗い。電気のスイッチが見つからなかったからだ。――やっぱり、二駅分も突っ走ってくるのは無茶だった。足ががくがく震えている。どうやってここまで帰って来たのかも、記憶に無い。
どうにか鍵を開けて扉をくぐって、玄関で途方にくれている。とりあえず杜若は靴を脱ぎ捨て廊下に上がった。バランスを崩して、壁に肩がぶつかる。呻きながら進んだ。
鍵が掛かっていた事からも分かるが、誰もいないようだ。いつものことだけど。台所に目をやり、すぐ逸らした。多分何かあるだろうが、食べる気がしない。空腹感はあるのになぜか、喉がつまる。
階段をあがる。ぶら下げた鞄ががったんがたん、段にぶつかるが気にもとめない。二階の廊下手前の扉を大きく開けて、一歩二歩三歩、ベッドに倒れ込んだ。鞄が手から落ちて、脱力する。
「……うああ」
寝返りを打って天井を向く。全身投げ出すように、体を埋めた。頭の中をやろうとしていた事、やってしまった事とやらなければならない事が暴風雨のように荒れ狂っていた。脳の中が竜巻状態。どこから手をつければいいのか。
―――どうして。
どうしてあそこで動けなかったんだろう。
何で、この手が動けなかった? この手が、この足が。まるで全身鎖で縛られたみたいに、身動きが取れなかったなんて。腕の中で硬直していた小さい体。目の前で起こった出来事。子供には目に映りやすいと言っていた。死神とは言え、薄くなっているだけだから、完全に見えなくなった訳では無いと。
それでも普通人間には認識されないらしいが、けれど褪衣も鳩羽もかなり激しく動いていたし……そう、これもミスだ。もっと早く認識不可能にしておけば良かった。悔やんでも悔やんでも足りない。腕で目の前を覆う、視界を暗闇に閉ざす。
「ちくしょう」
呟いた。
もう仕事、止められてるかもしれない。
その瞬間、暗闇が唸った。最初のうちは気付かなかったが、静かな中でその音は大きく響く。杜若は体を起こし、辺りを見回して鞄から音がしているのに気付いた。鞄から? はっとして鞄を引き寄せ、中身を取り出す。自身の携帯電話が震えていた。
やばっ。慌てて開いて、通話ボタンを押す。
「もしも……」
『ちょっとぉ! 杜若君どうしたの? 何かあったの!?』
きん、と耳に響いた。褪衣に負けず劣らずの大声である。かなり動揺して、興奮しているようで大声でまくし立ててくる。
『今さっき、
「む、
『ねえっどうしたの? とりあえず大丈夫? 怪我とか……今、どこ?』
杜若は溜息をつき、どうやってこの心配症の下宿人を宥めようかと思案した。
「あー……今、家だよ。で、大丈夫。怪我とかしてないから、俺は」
―――俺は。
相手は無事を確かめたかっただけのようで、それを聞くと安心したかのように突っかかる様子を収めた。
『そっ、か……よかったー』
はー、なんて息を吐いている。
「だからさ、気にしないでよ。家にいるし、何とも無いし」
だろ? そう続けた杜若に、うんでもと返事を返しながら、
『でも、
それなら私は仕事をしなきゃ。
杜若君、よく聞いて。
情報屋組合会『
『飛天組』『
今回のアフターケアの後、それ以外に請け負っている仕事は代任者が引き続き提供にあたります。よって、その間情報屋の仕事は行う事を停止し、作業のためのデータは引き出し不能になります。返答を』
「……………」
仕事を止められる。今まで食らったことは無くとも、それは予想していた事だった。だが、一ヶ月。それは予想より長い期間だった。
「……分かりました」
『今回のような失敗を繰り返さないよう、期間が明けた際は意識して力を尽くすように。それが能力の向上につながります。……以上。厳しいけど、仕方ないね』
村雨の言葉も、いたわるような雰囲気を帯びる。
『じゃあ私、仕事に戻るね。ごめん。今日また、遅くなりそうなんだよ。燕君とか、
「いや、それはいいよ」
言葉を遮る。
「大丈夫。別に、みんな仕事あんだし。気にしなくっていーから」
『そう? 無理しないでね』
それじゃあ―――明日もまたご飯つくるから、と通話が切れる。ぱたんと閉じて、寝転がる。気が抜けた。
「………一ヶ月か」
長いと思う。頭では納得がいくのに、体が納得しない。
何もしたくない。そんなふてくされた思いを抱いて、溜息をついた。しょうがないか。鞄から手帳を取り出した。
そんじゃ、後始末に取り掛かろう。
しかし、いざ手帳を開くと七転八倒だった。嫌なのだ。中途半端に終わってしまった今回のリストをまとめ、報告書を書いて提出するだけなのに、そのだけがどうしてもできない。
もうヒマラヤに逃げたい。唐突に登頂を決心して押入れから登山用のリュックを取り出したりもした。山に篭りたいなんてどんな逃避だ、と自分に突っ込みを入れて、しまいなおし、根性で二つを書き上げた。
唸りながら手帳からケータイに送り、呻きながらメールに添付し、送信。指先で押す、それだけの動作なのに、終えた瞬間には大きな仕事をやり遂げたかのように、脱力してベッドに倒れた。
それから、電話をかけるのにもう一苦労だった。うーうー言いながら、リストから番号を呼び出す。
コール音。
『御電話ありがとうございます。申し訳のないことですが、ただ今電話にでることができません。よろしければ鈴の音の後に、伝言を吹き込んで下さいまし』
鈴を振るような声とはこのことだろう。驚くほどに軽やかで。そして、いつもいつも丁寧な物言いだと思う。杜若は姿勢を正した。
『それでは、失礼致します』
耳を澄ませる。
――――。
「情報屋の駿です。……二代目の方です。この間は薬をありがとうございました」
さっき報告書にまとめたことを、杜若は再び電話に語る。
「……それでまた、薬をお願いできますか。何度も、間を置かないで頼んで、申し訳ないんですが……。不明なことがあったら、連絡下さい。それじゃ、すいません」
宜しくお願いします、とベッドの上で頭を下げる。いつの間にか正座だった。叩き込まれた動作が、こういう時に出る。うっとおしい気もするが。
これで、全部終わった。
ケータイの電源を切り、鞄の上に手帳とまとめて落とす。やる事無いな。から笑いして、寝返りを打った。
一ヶ月間、これから触れることが減るだろう。情報収集は禁止されていないようだし、普通にメールも電話もできるけど。指が枕を捉えて、掴む。仕事が無ければ、あの二人に会うことも無い。それが嬉しいことなのか、辛いことなのか。
瞼が勝手に閉じようとする。
それに逆らえず、逆らおうともせず、枕を掴んだ手が緩む。足元から飲み込むように、打ち寄せる波が体をさらう。意識が呑まれる。闇に落ちる。
呼吸が緩やかに、胸が静かに上下する。
杜若は眠りに落ちた。
※
それは黒いフィルムを連想させる。屋根の上を滑る影。足元に繋がっていた。持ち主が動くたび、そっくり真似て同じに動く。足音も密やかな獣のように、屋根を飛び歩く。纏った衣が翻る。真白が、月光を反射する。
夜が物音一つしないなんて、誰が言ったのだろう。少なくともここは違う。
辺りには点々と灯りがつき、家々から漏れ聞こえる物音。風に木は葉を揺らし、二輪に四輪が空気を唸らせる。獣は影に身を潜めて啼き、虫が声を喚く。
そいつは飛ぶ。
影を被った家々は、急に偽物めいて見える。明りを夜にともすから、影はそれ以上に色を濃くする。そして、夜はかくまう。見えない何かをその中に。
見えない姿の不気味さと、姿の見えない安心感。何物にも構わず、だから何も見つからない。
見咎める者は、いない。
そいつの姿も。
足を止めた。軽く飛び、飛び渡った屋根の上。一つの窓の正面。布が出入りを繰り返している。窓枠を掴み、飛び上がって足を並べる。被ったフードが背に落ちて、白髪が月下に晒された。その横顔は若い。窓の中をしゃがみこむように覗き込み、髪や衣服が動作にそって揺れる。今にも落ちそうなバランスの中、微動だにしないその様子は、彫刻に例えてもおかしくなかった。
ふと首だけ動かして、部屋の中を見回す。
よくあるような部屋の中で、目を引くのはラックに載せられた機械類だった。目にするような機会も無い、一風変わった大きな画面。打鍵台に印刷機。何やら鼠は三つ以上あるようだ。ディスクも円盤から角盤までがぎっしり棚に収まって、間から飛び出している。
足元にはプラスチックのコーティングファイルが散乱し、スクラップブックに古新聞、雑誌が本棚の前に積み上げられていた。本棚の中身は足元にあるのと同じような雑誌スクラップブックノート、機械の取り扱い説明書のような物。大分数は減るが、漫画本やら文庫本、単行本も一段を埋めている。
壁には切り抜きと、ポスターが一枚貼ってあった。貰い物のようで、下に大きく劇場のスタンプが押されている。机の上には文房具。シャープペンボールペン赤ペン、修正液、スティックのり、付箋。広げられたノートと切抜きが散らばったその下になっている。そして。
机に目を止めて、そいつは指を振るった。鞭の打ち鳴らされるような音。窓から机の間の超えようの無い距離を飛んで、狙ったものはそいつの手に落ちる。上下左右に表裏。
掲げて下ろして、ためつすがめつしてそれを見て、はまったガラスを爪先で叩いても見る。
木枠のついた、写真立て。
その中身と窓の下の、足元の顔を見比べる。
窓の下にはベッドがあり、その上で少年が寝ている。普通の服で横になり、寝苦しそうに身じろいだ。
そいつは写真立てをぞんざいに放ったが、それは過(あやま)たず机のほとんど同じ位置に落ちる。体を前に倒して覗き込み、少年の様子を窺った。
寝息を立てている。目を覚ましそうに無い。
そいつは腕を差し伸べた。白い袖から細い指先が覗いた。
白く白い、間違い無く蝋のような。少年の肩に触れる。
肩から、這い登って首へ。手前から奥へ、なぞるように指を動かす。体を傾けてこめかみに手を添え、頭を浮かせて、奥から手前。
まるで円を描くかのように。
一周して、輪が閉じて。
首に炎が燃え上がる。
少年の手が跳ね上がり、反射的に首元を押さえようとしたのを掴んで押しとどめる。身をよじり苦しそうにあえいで、必死に首に手をやろうとする。暴れる体を手一本で押さえ込んで、そいつは少年の顔を舐める黒い炎を見据えた。
火はすぐに収まった。現れたときと同じく唐突に、何も無かったみたいに消える。まるで何も無かったみたいに―――けれど首には、黒い円が残っている。火傷の痕のようにくすぶる黒い円。少年は顔を引きつらせ、額に汗を浮かべていた。しかしそれも、手を差し伸べて軽く振ると、溶けるように一瞬色を濃くして、消えた。
肌には何の痕も残っていない。
掴んだ手首が重くなる。離して体を起こし、窓枠を蹴った。飛び上がって屋根に着地する。影は
口元を押さえて、もどかしそうにうまくいかない微笑を。不恰好にゆがめた唇で、言葉を紡いだ。
そう、それは磁器の様に灰の様に時の様に雪の様に花の様に真っ白な。
真白の影。
純白と言うには穢(けが)れて、潔白と言うには汚れた。
そしてそいつは口を開く。
「
と囁いた。
※
胸を押さえるような圧迫感。がばっと飛び起きて杜若はやべ、パソコン、と呟いた。振り向いてその機械の塔を見て、見なくても構わなかったことを思い出した。拍子抜けした。
窓から差し込む朝日が眩しい。
瞬きしながらケータイを探して、鞄から取り出し時間を確認。目覚ましはまだ鳴っていないとはいえ……いつもより十分かそこら早いだけだ。これじゃ、シャワー浴びてる暇も無い。何となくべとつく体がうっとおしかった。昨日のままで結局眠ってしまったのだ。そう、やけに寝苦しかった。暑さのせいか疲れのせいか。
二度寝したら起きられなくなるのは確実だったので、杜若はあくびをしつつベッドから降りる。
足の下にコーティングファイル。
「――――っだあ!?」
ずぉっ。盛大に滑って後頭部をベッドのふちに、思い切りぶつけた。痛みの余り奇声を発してうずくまる。最悪だ。
指の下がずっきずき痛む。
「………つぉぉ」痛ぇー。
頭を抱えて、四つんばいでふすまに辿り着く。どうにか立ち上がって開け、針金に吊るしたハンガーを取った。ちょっと改造して、
規定の半袖シャツ、規定のズボン、ベルト。昨日のジーパンやTシャツを蹴飛ばし、代わりに着込む。その延長で学校鞄を拾って、教科書ノート類を放り込む。ペンケースに散らかした文房具を詰めていると、写真立てが目に付いた。
ん?
微妙な違和感がある。そういえば、少し――
傾いている、だろうか。
取り上げてちょっと位置を直し、眺めた。
正直、よくある話だと思う。どこの話だとも思うけど。
「―――行ってきます」
笑って、鞄を肩に、扉を開けて段を下りる音がする。
木枠の中には四人の姿があった。大柄な男性と、細身の女性。幼い少年と、そして少女。
男性に担ぎ上げられた少年の頭には、揃いのチームの野球帽。少女の方は白いワンピースで、女性に抱きしめられていた。
こっちに向かって笑ってる。それは、かつての。
階段を下りて洗面所に向かう途中、いい匂いがしてきた。じゃらりと玉のれんを退けて台所を覗く。
女がフライパン片手に、小さく鼻歌を歌っていた。振り向くと、眩しいくらいの笑顔。
「おっはよう! 杜若君」
「………はよ、村雨」
村雨はくるくるとフライ返しを回して、こんがり焼けたベーコンエッグをテーブルの皿に移した。丈の長い、太いボーダーのTシャツにハーフパンツ。茶髪を肩の辺りで二つにくくって、バンダナを海賊巻きに。どこの船の乗組員ですかと、思わず尋ねたくなるようなラフな格好。
「つーか、元気だね……」
「ん、さっきまで仮眠取ってたからね」
杜若は驚き半分で椅子の傍に鞄を置いた。あ、と村雨が声をあげる。
「昨日、そう言えばご飯食べなかったんでしょ? 親子丼作っといたやつ、帰ってきた時燕君が食べちゃったよ。腹減った死ぬーって」
笑って、まったくと軽くため息。つきながらも、手は止めない。
「ご飯だけは食べてよ。お腹減ってちゃ、戦もできずなんだからさ」
ネギを刻んで、湯気を噴く味噌汁の鍋にざらっと開ける。答える前に、ほら、早く顔洗ってきなと台所を追い出されてしまった。仕方無い。洗面所で顔を洗って、ついでについてた寝癖を取るため、頭も水道の下に突っ込んで、タオルでわしわし拭きながら戻ると、台所の入り口に立ちはだかっていた塗り壁と遭遇した。
「………燕ぇ」
「……………おう、かき」
はよう。もそもそと足を掻きながら、のっそりとそのスエットの塊が振り向いた。金髪にピアス。目がいつもの半分以下になっている。いいから退いてくれよ。ただでさえ身長のある燕が、緩い部屋着を来て前に立つと、入り口が無くなる。
「飴、飯」
「あっ……ったく、燕君! もう起きたの?」
「仕方ねえだろ。目え覚めちまったんだよ」
燕は手近な椅子にどっかと座り、お玉を構えて村雨が追っ払うように手を振った。
「燕君は居間! 居間行ってて。杜若君がもう出るんだから、優先。アタシも明ちゃん帰って来たら食べるんだし、ほら! 布巾。食べる前に支度手伝ってよ」
「あー? そうか、かき、学校か。しかし面倒くせ」
「食べたくなきゃいいんだよっ」
はいはいとぶつくさ言いながら、燕は布巾を手に奥の部屋に消える。杜若も勝手にしゃもじを取り、適当に食べ始めた。目の前に味噌汁の器を置いた村雨に聞く。
「明、まだ帰ってないの?」
「ああそう。あの子も昨日厄介な客に捕まったみたいで、アタシが帰ってくる頃には半泣きでレポート書いてた。だから、もうすぐ帰ってこられると思うんだけど」
もぐもぐと朝食を食べる横で、村雨の菜箸があっちこっちへ行ったり来たりする。その手が急に止まる。怪訝な表情だ。
「そんなのんびり食べてていいの? 時間見てよ、ヤバいんじゃない?」
ふと時計を見て、戦慄してしまった。いつのまに。慌ててお茶を飲み干して手を合わせる。
「ごちそうさまー」
「待った、ほらおべんとっ」
たった今包んだ包みを渡される。サンキュと鞄の中に入れて、行ってきますと玄関へ向かう。行ってらっしゃい、気をつけてね! と背後に声が追いかけてきた。
規定のスニーカーを履いて、玄関脇の自転車のかごに鞄を入れ、表に引っ張り出した。またがり、ペダルを踏む。
走り出してから、自然、手が首元を押さえていた。
まるで、そこが痛むかのように。
※
「………マジですか」
イン・ザ・ジュニアハイスクール。
杜若のクラス3‐2では、クラスメイト達が好き勝手堂々とわいわいやっていた。教師が来ない程度に抑えながらも、お喋り、ゲーム、漫画などなどがあちこちでやりとりされ、とってもルーズな光景が繰り広げられている。
間に合わない間に合わない、と突っ走って階段三段飛ばしで駆け上がってきたのに。
がくりと肩を落とす。気が抜けたまま廊下窓際の席に着くと、前から振り向いて声をかけてきた。
「珍しいな、おい」
彼は面白がっているかのように、後ろ向きに椅子に腰掛けて背もたれに腕を乗せる。鞄を机の脇にかける杜若を見上げて猫のように笑った。
「何だ? どした?」
「別に。何でもねーよ」
「面白味の無い奴だな。担任、出張だってよ。もうちっと喜べよ」
「そんな余裕無い」
機嫌が悪いのを察したのか、彼は少し黙る。両腕を肩の高さで開いて、やれやれと呆れたポーズを取った。
「杜若よ、今日が何の日か忘れたか」
「あー?」
黙って鞄の中から、薄い長方形の紙袋を取り出す。表面には〝渉部書店〟と刷られている。
「………今日? 来たのか」
「ザッツ、ラーイト」
自慢げに机の上にそれを置く。背後の時計を振り返って、彼はもうじきのはずだと呟いた。時計の針は朝のホームルームの終了を知らせていた。
目の前、鼻先を手が掠めた。
前髪が風に舞い上がり、バランスを崩して必死に椅子を掴む。突き出された腕が緩く曲がって窓枠に置かれ、その上から顔が突き出された。意地の悪い笑顔。
「よお」
「や、や、ヤタ」
「よし、これからもそうやって突き出せよ。杜若が転ぶから」
「転ばねえよっ」
言い返したところで、その隣からひょっこり別の頭が覗く。
「はよーっす! ミチ、カキぃ」
「あー、はよ。ヨシ」
杜若の前でミチも軽く手を上げる。ヤタは中三の中でも長身の部類に入る身体を屈めて、窓枠にもたれた。こいつは何でこんなに目つきが悪いんだ、と杜若はいつも不思議に思う。
「おいミチ、わざわざ来てやったんだぜ。早くしろよ」
「当然、ヤタの気が短いのは知ってるからな」
「やべえ、これ?」
ヨシは小柄な体に似合った細い腕を伸ばして、紙袋を掴み取っていた。その色の黒い腕を鋭くミチがひっぱたく。ってぇ! とヨシは声をあげた。
「何すんだよぉ!」
「待て! まだ触るな!」
唇を突き出して不満そうにヨシは手を引っ込めた。ポケットから、ミチはもったいぶってダイスを取り出す。一番オーソドックスな六面のタイプ、それが置かれて、白地に赤い1の目が上を向いている。
「これは厳粛な儀式である」
ミチは不釣合いなほど厳かに切り出した。
「我々はここに誓った同士として、唯一つの不正も行わないことを宣言する。四人の掟の下に従い、四人を決して裏切らない。
その約束の下に、私は今日これを提供する」
流れるような言葉の後、指が紙袋の上に置かれる。
「ここにあるのは、昨日届いたばっかりの天下の
おう、とかわかってら、とかの返事があった。頷いてミチは紙袋を机の端によけ、指をダイスの方へと移動させた。
「さあてと、始めるぞ。この間は確か――」「俺だ」「そう、ヤタが最後だったな。じゃ今回は最初。宣言だ」
どうぞとばかりに、手のひらで指し示す。ヤタは僅かな沈黙の後「5」と言った。
「はいはいはい! 次俺!」
「……違うだろ」
「次は俺。柴犬は黙ってろ、そしたら後でお菓子でもくれてやるから」
犬じゃねーし! またも唇を尖らせてヨシは文句を言った。ミチはきれいに流して、宣言する。
「2だな」
「じゃ俺3!」
間髪をいれずに叫ぶ。杜若はえっと、と頭を掻いた。
「さて、最後はどうだ」
「代わりに決めてやってもいいぜ」
「決める、決めるよ。―――1」
よし、とミチが頷いて四人の顔を見渡す。
「これで全員が出揃った。残りが出たら、再度チャレンジ………」
ゆっくりと、握られた拳が机の上に置かれる。それにつながって、次々と他の三つも置かれた。ダイスを歪んだ四角形が囲む。
「賭けは真剣勝負。ためらいも茶化しもいらない」
全員が息をつめて、真剣な表情を見せていた。
「運命のダイス!」
せぇのっ! 掛け声と共に四つの拳が振り上げられ、そして、思いっきり机に叩きつけられた。ダイスが跳ね上がる。宙で回転して、机の上に落ちて何度か転がる。
現れた目は、
「よっしゃあぁーあ!」
ガッツポーズをしたのはヨシだった。両手を振り上げて喜んでいる。杜若は期待していただけあってがっかりの度合いも大きかった。
「やったやったやったやりー! いっちばんのりィー!」
いえーい! と叫んで、ヤタに「うるせぇ」とどつかれた。軽く肩をすくめてからミチは紙袋を手に取り、窓からヨシに渡した。
「コングラッチュレーション、ヨシヒロ・ヨウタ。よし、お前に贈呈(ぞうてい)だ」
「やった! 中見てもいいよな?」
楽しそうに袋の口をとめたテープを剥がし、中身を確認してまたすっげーと叫んだ。見せてみろなんてヤタが覗いてくるのをよけて、紙袋を身体の後ろに隠す。
「俺が、一番!」
「けっ、運のいいやつ」
と、教室の中を覗き込んだヤタが面倒くさそうに眉を寄せた。
「おい、
「あ、やべえまた怒られる」
頭の後ろに手をやって、ヨシはそんじゃあとポケットに手を突っ込んで、硬直した。あちゃあという表情になって、おそるおそる杜若に向かっていった。
「かーきぃー」
「何だよ?」
「わり! また持ってきちゃったー。預かっといてくんない?」
またかぁ? と杜若も呆れた声を出す。両手を合わせて、ミチは面目ないと頭を下げた。
「この通り! じゃそろそろマズいから」
「あ、おいこら」
「ヨロシクぅー」
ポケットから出した物を、ぽいっと投げ込んで小走りで駆け出す。紙袋をぶら下げて、あっという間に飛んでいってしまった。
ったく、と頬杖をつく杜若の机の上には、チョコレートのパッケージが転がっている。
「あいつー、何であんなに腹減ってんだよ」
「量食べる訳じゃないけどな。何かしら持ってんだよな」
ぶつくさ鞄の中敷を持ち上げ、外からは見えない隠しポケットにねじ込む。まだ前のやつ残ってるし。
「おい」
思い出したかのように、ヤタも杜若を振り向いた。
「ん?」
「これ。手、出せ」
握った手のひらを、杜若の手に押し付けてくる。かさり、と折りたたんだ紙の感触。
「伝言」
あの人からもらった。囁くような声で言う。それに杜若も答えて。
「―――ん。わかった、ありがと。よろしく言っといて」
「おう、じゃ俺もそろそろ」
「おいおい、何の話だ?」
「あ? 依頼だと。何か調子わりぃとかで、杜若の電気オタクを見込んで話が来たらしい」
「ははーん。なる」
「―――は? オタクは無いだろ、何だよ! 言いがかりだぞそれ」
「中三の分際であんだけ部屋に機械積んどいてよく言う」
「だからってなあ!」
じゃ、俺もう行くわと話を切り上げ、遅れてヨシの後を追うようにヤタも歩いて行ってしまった。
「だあもう………」
どうしてこう誤解されるのだ。確かに、部屋にある機材はかさばるし、派手かもしれないけども、別に俺はちょっと詳しいだけで。でも、周囲にそうと理解してもらうのは、道は厳しく遠い。
「さーて授業の支度でもするかね」
猫のように伸びをして、眼鏡を押し上げ前に向き直る。
そして、駿杜若。
いつもの奴らとのやりあいの後、今日も学校の一日が始まる。
頭の上を流れていく鐘の音が、怒涛のカウントダウンの幕開けになるのを、杜若はまだ知らない。
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