第1章「悪魔の呼び声」Part.3
「....どうだ、成功したのか?」
眼下にある一軒家を見下ろしていた男―――――アーロン・ブレングスは、隣にいる仲間に声を掛けた。
辺りは完全に夜の帳が落ち、暗闇に包まれていたが、暗視ゴーグルを装着したブレングスは、左横およそ5メートル程離れた位置で自分と同様に待機している仲間の姿を正確に捉えている。
仲間の男も同様にゴーグルを装着している為、顔を僅かに此方に向けて応じた。
「確証はないがな....まだ撤退命令は出ていないから、成功したと考えた方が―――――おっと」
その時、ブレングスと仲間の男に、ほぼ同時で通信が入った。ブレングスは様々な機械が仕込まれたヘルメットの横、丁度耳がある部分に手を押し当てて通信の内容を聞く。
『―――――此方、エージェント・クロウβ1。クロウα2に通信する....「儀式」は、成功した。所定の行動を開始せよ』
「了解。予定通りクロウα1、α3、α4と合流地点に向かう」
通信が終わったことを確認したブレングスは、他にも自分達と同じように待機していた仲間が動き出すのに合わせて、目的地への移動を開始した。
彼らは皆、街中には相応しくない重装備に身を包んでおり、その装備品の一つ一つも全く同じもので統一されている。
ブレングスらは、寝静まった家々の屋上を静かに伝って移動し、住宅が立ち並ぶエリアから少し外れた一軒家まで辿り着いた。その家も、他の家屋と同じく灯りはついていない。
この屋内で「今まで起こっていたこと」を想像すると、むしろ静かすぎると思える程に、その家は静寂に包まれている。屋内でも、何かが動き回っている気配は感じられない。
『標的』の動きがないことを確認しつつ、死角を作らないように家の周囲を取り囲んでいく。
ブレングスは屋内の様子を伺おうとゴーグルの機能の一つを発動させるが、何かに阻害されたように視界全てが砂嵐で遮られてしまう。
だが、ブレングスはそんな事態にも特に驚くことなく、ただ小さく溜息を吐いただけであった。
ブレングスは勿論のこと、仲間である周囲を囲む者達は、それが魔術による作用だということを知っているのだ。
『合衆国特異能力管理局』
通称、能力管理局。合衆国において魔術をはじめとした超常の法則や力学について研究・調査し、様々な用途で運用・管理することを目的とした機関である。
元々はCIAの一部門に所属していたが、組織規模の拡大に応じて現在は傘下を離れて、一つの組織として独立していた。
所属先としては形式上、国家に属してはいるが、機関の長である局長の地位にある者は、たとえ合衆国大統領の命であっても場合によっては拒否できるという権限を持っている。
さらに、特定の分野においては国家をも上回る権力を行使できた。
ブレングス達はその組織の中の特殊部隊の一つに所属している。
彼ら一人一人は魔術師というわけではなく、過酷な任務をこなす為の特殊な訓練を受けてはいるが、何らかの超常の能力を扱うといったことはできない。
そんな彼らが魔術を扱う組織で部隊として機能しているのは、その装備に理由があった。
本来、魔術師しか使うことのできない「魔道具」を、一定以上の魔力を持っていない人間であっても使用できるように『調整』された武装の数々が、彼らを精鋭部隊たらしめているのだ。
今も、各々が複数の装備の機能を発動させながら、油断なく周辺の警戒に当たっている。
また、家の周囲に展開されている魔術は、外部からでも即時解除が容易な簡易術式のみであることは以前からの調査でわかっていた。
今のところ何もしない理由は、まず、標的への警戒というよりも、住宅密集地という人の目につきやすい場所で騒ぎになることを嫌ってのことだ。
標的である青年が、きわめて基礎的な魔術しか扱うことができない、魔術師としては下の下の実力しかないことも、当然調査済みである。
そして次に、これから先の作戦行動において、この魔術式を利用して標的にアプローチする必要があるからだった。
その作戦行動に移るのは、「儀式」を完了させた部隊が後方に撤退し支援体制を整え、逆に後方で「儀式」完了まで待機していた、標的確保を行う部隊が全て所定の位置に着いてからだ。
程なくして、全ての部隊が集結したことを伝える通信が入り、ブレングスらは気を引き締める。
自分達にとってはこれからの作戦行動こそが、今回の任務の中で最も重要なのだ。
初めに、張られている警報の魔術式を発動させることで、わざと此方の存在を標的に認識させる。
警報の魔術式は指定の範囲にしか音を発さず、周囲に気づかれることもないので、その辺りの心配をする必要がなかったのはブレングスらにとっても有り難かった。
ブレングス自身はその作戦行動には関与しないが、引き続き周囲への警戒を続ける。
事前に命じられていた隊員らが屋上に上がり、数回その場で足踏みをして、暫く待つ。
すると、家全体を包み込む被膜のようなものが浮かび上がり、ゆらりと揺れ、また直ぐに消えた。
魔法陣が正常に発動したことを確認した隊員らは、すぐさま屋上から離れて、所定の位置へと戻っていく。ここから先は、相手の出方を伺うことになる。
標的が自分達の存在を認識してどのような行動を起こすのかを観察し、それに応じて此方も幾つか用意してあるプランに則った動きをとることになっていた。
最も都合がいいのは、自ら家から出てきてくれることだ。更に、出来ればこの場から逃げ出すなりして別の場所に移動してくれると尚やりやすい。
一方で、逆に家の中に立てこもってしまわれると少々厄介なことになる。通常の任務であれば特に拘泥することなく強制突入しても良かったのだが、何せ今回は場所が場所だ。
どうしても大事になってしまうのは避けられず、都心部に近いということも考えると情報の揉み消しも容易ではない。
それに、日本は表面上は合衆国とは友好国という区分に入っている為、その国の中で、国家間に発展しそうな問題を起こすのも不味い。
今回の作戦に際しては、いつもであれば口を出してこない国の方も、流石に注意して行動するようにと言い含められていた。
日本政府に対して用意してある外交カードを切れば、強引な揉み消しもできなくはないが、出来れば今はまだ貴重な手札を使いたくないというのが本音なのだろう。
上の意向になど関わりのないブレングスからすれば、くだらないとしか言えない。そんな事情のせいで、作戦中に自分達はこのような面倒な手順を踏まされることになっているのだから。
管理局は今回は一応、合衆国政府のメンツを立てるということで了承したが、突っぱねることもできなくはなかったのだ。
今回の件で政府上層部に恩を売るという狙いもあったのだろうが、何方にせよ一介の構成員に過ぎないブレングスにしてみれば、至極どうでもいいことに変わりはなかった。
そもそも、今回の任務は最初からいつもとは違い、おかしかったのだ。
確かに「儀式」を行う際の条件として、ギリギリまで対象に自分達の存在を認識させてはいけないというのは納得できた。
だが、それにしても余りに長期間手を出さずに放置し続け、それ以外にも「儀式」の決行に先立って周囲への影響を与えない為に最大限の配慮をせよという命令が出されたことなど、過剰ともいえる程に慎重すぎるように感じる。
仲間から伝え聞いた話では、過去の重要案件に関わっていた対象でもあり、上層部にとっては絶対に失敗できない作戦であるらしいが、やはり下っ端根性の抜けないブレングスにはどうにも理解ができないことだった。
ブレングスは自身の中で苛つきが募っていくのを感じていた。
『....これより10分間のカウントを行う。その間に動きが無ければ追加措置を取る。各自の地点から監視しつつ、待機せよ』
唐突にブレングスの思考を遮ったのは、再び入った通信であった。
そうだ、まだ任務中だろうと自分を戒め、苛つきを抑え込み監視に集中する。
その後、5分程様子を見ていたがやはり直ぐには動けないようだ。相手の身になってみればそれも当然といえば当然だろう。
いきなり、何の関係もない「儀式」に巻き込まれ、さらには自分を監視している得体のしれない存在までいる始末だ。普通の人間なら、訳が分からなくなって混乱するのが道理というもの。
そういった心情も考慮して、10分という猶予を与えたのだ。
そこまで考えてから、ブレングスは「いや、違うか」と小さく独り言を呟く。
何の関係もない、というのは違う。
今回の標的たる青年が、「儀式」に巻き込まれたのは偶然でも不幸でもなく、必然だったからだ。
ブレングスら隊員は、今回の作戦前に標的のプロフィール、生い立ちといった本来は最重要機密に関する情報を知らされていた。
仮にも人間なのだから、哀れみの心も無いわけではないが、任務であれば致し方ない。そう割り切ることができる程度には、ブレングスは自身が人でなしだという自覚はあった。
そんなことを考えながら監視を続けていたブレングスは、そろそろ10分間が経過しそうな頃合いかと思い、目線だけ動かして手元のタイマーで時間を確かめる。
その瞬間、ブレングスは視界の端で何か動く影を捉えた。
「――――――――何ッ!?」
一瞬気を抜いてしまっていたブレングスは、慌ててその影を視線で追う。
夜間でも暗視と視覚補助装置によって明確にその姿を見て取ることができたので、身体的特徴から標的本人であるという確証は得られた。
既に他の隊員も気づいて報告を始めているが、いつ姿を現しても対処できるように構えていた面々も、ブレングスと同じく動揺した様子を見せている。
全ての出入り口を押さえていた筈の自分達の目を掻い潜り、一体何処から飛び出してきたのかという疑問は尽きなかったが、今はそんなことに気を回している余裕はない。
ブレングスは第一陣として追跡を行うグループに入っていたので、動き出している他の隊員の後を追って移動を開始する。
「――――――全く、手を焼かせてくれるぜ。ホントによ」
忌々し気に吐き捨てたブレングスは、人間には有り得ざる速度で走る、青年の後ろ姿を睨んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ハァッ!....ハァ、ハッ....!」
走る、走る、走る。ただ只管に、脇目も降らず、走り続ける。
視界の端で、見慣れた家々の風景が流れ去って行く。
自分が今一体どこにいるのかもわからなくなる程に、大地に足を付けているという自覚がない。
怜司は、かつて感じたことのない浮遊感に襲われていた。
『だからよォ―――――――今すぐ決めロ』
あの後、怜司は数分間もの間、一体自分がどうすればよいのか悩み続けることになった。
朝が来るまでこの家に立て籠もり続けるのか。
もしくは、ラバルの言う通りに、打って出るのか。
逃げるという選択肢は頭にはなかった。
こんなことをしでかした連中が、自分のことを逃がすようなヘマをするとも思えなかったし、何より根本的な解決にはならない。
怜司は思考の迷路に陥りそうになるが、その時不意に思い出されたのは、自分にとって大切だった人と、大切な人の顔だった。
何故今になって、思い出されたのか。怜司にはわからない。
だが、自分がこれからどうするべきなのか。それだけは、はっきりとわかった気がした。
「―――――ははっ....行くしかねぇのか」
怜司は、自分からの返答を待っているラバルへと向き直った。
家から飛び出した怜司は、自分を監視している者達の視線に気づき、戦慄した。
此方を見る、幾つもの目、目、目....
脳が危険を認識するよりも早く、本能によって怜司は走り出そうとする。
自分を脅かす存在がいるということを前もって知っていたとしても、直にその姿を目にするということがどれだけの恐怖を伴うのか、怜司は身を以て理解した。
直後、背後で息を呑む声が聞こえた気がしたが、幻聴の類いかもしれない。
ただ、本当に驚いていたとしても無理はないだろう。
怜司が使った出口は、この家に住んでいた父と自分しか知らない脱出口だった。
家に隣接した小型ジムの地下には、父の修が使っていた魔術の工房があり、その周囲には様々な改造が施されているのだ。
その内の一つが、実験の失敗などによって事故が発生した場合、すぐに工房から離れることができるようにと作られた地下通路と脱出口である。
当然、ジムの地下に工房があること自体が外部の人間には秘匿されており、脱出口や地下通路なども同じく外部の人間が知る由もない。
ただ結局のところ、修が他界する時まで事故や不測の事態が起こることはなく、これまで一度も使われてこなかったのだが、まさかこんな形で使う羽目になるとは怜司は思いもしなかった。
実際、あの場面で咄嗟にその存在を思い出すことができたのは奇跡に近い。
そうして、見えざる敵の目から少しでも逃れようとその脱出口から外に飛び出してきた怜司だったが、走り出して直ぐ、あることに驚愕させられることとなった。
それは、自身の脚力。
多少身体を鍛えていたとはいえ、それこそ陸上部に所属するような人間には到底叶わない。
それが今ではどうだろう。
大地を一歩踏みしめるごとに、目の前の景色が一変していく。耳元では風を切る音が絶えず鳴り響き、顔にも突風が打ち付けてくる。
それは、余りにも異常な速さだった。
そして同時に怜司は気がつく。
これこそが、自分が人間ではなく悪魔に取り憑かれた証拠なのだと。
嘘でも夢でもなく、本当に自分は人間以外の「何か」になってしまったのだと、怜司は自覚した。
だが、今はそんな事実に対して途方に暮れることすら許されない。
怜司は未だ動揺する己の意思を抑えられなかったが、それでも後方から自分を追いかけてくる追跡者たちの気配は感じることができた。
両者の距離こそ大分離れているが、怜司にはこのまま逃げ切れるという希望的観測は全く浮かばなかった。
きっと、何時かは追い付かれる。
そうなったら、最後。一体どうすればいいのだろうか?
怜司の脳裏に、家を出る前にラバルが言っていたことが過ぎったが、「有り得ない」とすぐさまその選択肢を振り払う。
たとえ肉体が人間以外のモノに支配されることになったとしても、残った自分の精神までもが、人間をやめるわけにはいかない。
そう強く決意した怜司は、追っ手から逃げ回るのをやめて、とある場所に向かうことを決めた。
立ち並ぶ家々の間を抜けて大通りに出た怜司は、少し離れたところに小高い丘が見える、北の方へと進む方向を変える。
怜司は、本当にいるかどうかもわからない神に祈った。
どうか、相手の中の誰かに、良心を持った「人間」がいてくれることを。
そして、ラバルはそんな都合のいい怜司の考えを嘲笑う。
この段階になってもまだ、人間の悪性から目を背け、偽りの善性に縋ろうとする愚かさを。
自身にとっても現在の状況は決して良いものとはいえないにも関わらず、ラバルは人間の愚劣さを貪るという、悪魔の本性を抑えることはなかった。
『―――――――――カカカッ、本当に愚かだねェ。ニンゲンは』
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