第1章「悪魔の呼び声」Part.2
『悪魔』
それは人をかどわかし、欲望を焚き付け、呪われた契約によって魂を貪る怪物。
あらゆる悪の象徴であり、あらゆる善なるものを憎悪する闇の使徒。
あるいは、人間という生物そのものの浅ましさを皮肉る言葉だったか。
ともあれ、神話や人々の印象を寄せ集めれば、大方そのような概念に集約されるであろう存在。
しかし、こと魔術の世界においては必ずしもその表現では適切ではない。
いや、正しくないというよりは、それでは説明が不足しているといった方がわかりやすいだろう。
確かに、上記のような意味合いで用いられることもある。
例えば、魔術と色濃い関係を持つ宗教組織においては、悪魔とは邪なるものであり、討滅すべき対象であるとされていることが多い。
だが、魔術師の知的好奇心と研究的観点から真理を探っていった結果、そのルーツはこの世界の外側にあるということが判明した。
それは、魔術師以外の人間が知ることはない、秘匿された真実。
魔術師たちが知り得たところによれば、その成り立ちからして星に依存する生物とは異なり、その姿も有り様も、この地球上の生命体とは余りにもかけ離れているらしい。
「らしい」という言葉を用い、断定することができない理由は、その正確な全容を捉えた記録が残っていないからである。
無形。
あるいは不定形の球状。
一言では形容することのできない魔力の塊。
純粋な生命エネルギーによって身体を構築した高次の生命体。
それが、悪魔の正体であるとされている。
それも正確な記録ではなく、地上に現れた悪魔を見たという魔術師らによって語られた内容であり、その本質を捉えているとはいえなかった。
また、過去の人類史において大災厄と呼ばれるような出来事には、多くの場合、悪魔が関わっているという記録もあり、元々この星の「外」に属していた筈の彼らが、そのように人間世界に迷い込むことがあるという証拠として残っている。
それらが事実であれば、確かに「悪魔」と人々が称することにも納得がいく。
ただ、勘違いしてはいけないのは、その記録は後世に魔術師らによって綴られたものであり、必ずしも真実を語っているとは限らないということ。
魔術師とは、歴史の伝道者ではなく、この世にある「異」なるものを探求し、手に入れることに腐心する求道者の名である。
たとえどのような小さな情報や知識であっても、其処に絶対の真実があるとは限らない。
それでも、悪魔という存在が魔術師にとって特別な意味を持つ存在であることだけは確かなのだ。
それでは、逆に悪魔と聞いて魔術師以外の人々が思い浮かべるものは一体何なのか。
その姿形やイメージは、実は誤ったものだったのかと問われれば、そうとは言い切れない。
その原型は、決して何もないところから人間の妄想として具現したのではなく、実際に存在しているものなのだから。
人々が恐れる「悪魔」の正体とは、悪魔の発する魔力によって奇形に変異してしまった動物や、人間の成れの果て。
別称として、魔族や魔物とも呼ばれる生物である。
であるからこそ、それらに「悪魔」という呼称を用いることが完全に誤っているとはいえないのだ。
しかし結局のところ、再度繰り返す形になるが、魔術師にとって重要なことは、この世界の外側においては、人智を遥かに超えた力が渦巻いているという事実に違いない。
怜司は、ずっと昔に見た「悪魔」についての記述を思い返していた。
「悪、魔...」
『―――――その表情だと、知ってるみてェだな...つうことはァ、お前も魔術師ってヤツかァ?』
怜司は、ラバルの質問に素直に答えてよいものか、一瞬迷ったものの、ゆっくりと首肯した。
そう、桐生怜司は『魔術師』である。
もっとも、実際に使える魔術は少なく、それも基礎的なものばかりであることを踏まえると『魔術師見習い』の方が表現としては正しいかもしれない。
怜司の父、桐生修は同じく魔術師であったのに、あまり怜司に真剣に魔術を教えようとしなかったことが大きな原因なのだが、問題はそれ一つではなく、怜司自身にも魔術の才能がなかった。
そのため、熱心に独学で研究をしてみても、大した成果は上がっていない。
改めて自分の非才に嘆くのも束の間、怜司の答えを確認したラバルは、すぐさまに次なる問いを投げかけてくる。
『ンン...じゃアァ、オ前がオレヲ喚んだんじゃねェのかよォ?』
「―――――なっ!?...ふ、ふざけんな!そんな訳ないだろうが!」
そんな問いに対して、怜司は現在の状況すら忘れて、思わず声を荒げて叫んでいた。
ラバルは何気ない調子で放ったその言葉は、一方で怜司の心を掻き乱すには十分な効果があった。
魔術師にとっての悪魔召喚、降魔術とは、一纏まりで『黒魔術』に分類される魔術の一種だ。
ただ、そのほとんどは真なる悪魔そのものではなく、「悪魔の魔力」の影響を受けたと思しき魔族を召喚する類のものである。
中には、真なる悪魔を召喚することが可能な術式もあるとされているが、どれも確証のないものばかりというのが実際の内容だった。
しかも、そういった黒魔術という魔術体系では、術者が何らかの代償を払い、その代償の大きさによって強大な力を行使することができるようになるという原則があり、謂わば禁忌の術だった。
だからこそ、正統な魔術師であるという自負を持つ怜司は、絶対に違う、と強く否定する。
「...そもそも、俺が五体満足で、特に身体に異常もないなら、術者は別にいるってことだろ?」
自分がやったわけではない、と証明する為にあれこれと言葉を尽くしていた最中、怜司はふと何か違和感を覚えた。
以前、怜司が読んだ黒魔術の概要を記した書物には、悪魔召喚について何と書かれていただろうか。
そう云えば、悪魔召喚に際しては代償として何かを差し出すだけでなく、悪魔を降ろす肉体の側にも、何かしら重度の副作用が起こると記述されていた筈だ。
副作用の種類は様々だが、肉体の変形・異形化、人格の変容、最悪は自我が消滅して肉体を支配されるなど、およそ元々の人間の姿を保つことができなくなる。
しかし、今のところ自分にはそのような症状は出ていなかった。
ただし、自分だけが例外であり、特異な体質によって副作用が発生しなかったと考えるのは楽観的すぎるだろう。
あくまでも現在は顕在化していないだけであって、これから起こってくるという可能性はある。
怜司は頭の中で、そうであった場合に導き出される最悪の結末を、即座に振り払った。
正直なところ、怜司は、どんなものでも構わないから、自分の身にこれ以上の災厄が降りかかることはないという確証がほしかったのだ。
だが、今の自分では何もわからない。
これから自分がどうなるのかも、どうするべきなのかも、何故こんなことが起きているのかも。
怜司は、未だ自身が五里霧中の危機的状況にあることを認識して、歯噛みしそうになるのを何とか堪える。
その状況を生み出す原因になったラバルを見やると、何故か、くくくっと小さな笑い声を漏らしていた。
「な、なにが可笑しい。俺の言ってることが間違ってるとでもいいたいのかよ?」
『...ちげェヨ。第一、オレは人間の使う魔術なんぞ知らネェ。それヨリ気になるのはヨォ...お前の話じゃアァ―――――――オレを喚んで、わざわざお前に憑依させやがった奴がいるってことになるンだがァ?』
その言葉に、怜司は全身を強張らせた。
意図的に、この魔術を行使した存在がいること。
それも、禁忌である降魔術を行使した、危険な魔術師。
それが、自分のすぐ近くまで迫っているという事実。
何故、どうして自分がこんな目に遭わされなければいけないのか、という理不尽への憤慨と共に、それとは背反するような、想像もつかない異常者に対しての潜在的な恐怖が、怜司の心を塗り潰していく。
「...なんでだよ。なんで俺なんだよ!?意味が分からねぇよ、糞が...」
絞り出すように漏れ出した言葉は、最後には消え入るような声になり、怜司は姿すら見えない怨敵に対して、溢れんばかりの怨嗟を叫ぶ。
今の自分を助けてくれる人など、きっと、どこにもいないのだろう。
自分に憑依したラバルも、本当に悪魔であるならば味方かどうかなど怪しいし、そもそも生理的嫌悪を催す奴を、仲間だと思いたくない。
それでも一瞬、脳裏に誰かの姿がチラついたような気がしたが、直ぐにその可能性も消し去った。
そんな怜司の様子を眺めながら、ラバルは再び下卑た笑い声を漏らす。
まるで、不安に駆られる人間の様子を嘲笑うようなその笑い声に、怜司は耳を貸すのも嫌になる。
一頻り笑い続けたラバルだったが、不意に口を噤むと、ぽつりと呟いた。
『...だがァ、そうやって悲観してる場合でもねェみたいだなァ』
何のことだと怜司が問い質すよりも早く、次の瞬間には、家中にけたたましい音が鳴り響いた。
「なッ...!?」
驚愕の余りに絶句してしまった怜司は、音の発生源である天井を見上げる。
怜司は、人の焦燥感を駆り立てるその音に、聞き覚えがあった。
怜司が過去に一度だけ耳にしたことがあった、その音が指し示すメッセージは――――――――
「周囲に危険、あり...?」
それは、簡易のルーンを用いた警報の術式。
家のあちこちに仕込むことで、敵意を持って周囲に接近してきた何者かを察知することができるという仕掛けである。
ただ、怜司の家に展開されているのは簡易的な術式であるため、より上位の術式で妨害することもできた。
つまり、ある程度の魔術師であればこの術式に感付かれることなく接近できてしまう。
それに、侵入者に対する迎撃の機能なども持たないので、文字通り警報として使うぐらいしか、ほぼ役に立たない代物だ。
だが、今、必要な情報としては、それだけでも十分だったといえる。
このようなタイミングで現れたような相手、それはつまり取りも直さず怜司をこんな目に遭わせた当事者に他ならない。
そして、黒魔術の中でも高位に位置する召喚術を行使できる者が、この程度の術式を無効化できないとは考えられない。
考えられるのは一つ。
自分達の存在を、この家の主である怜司に認識させる意図があったから。
さらにいえば、警報を無効化させてから侵入するのではなく、わざわざ自分達の存在を知らせてきた意味とは何なのか。
加えて、未だ屋内に侵入してきた気配もないことから、恐らくは警報音の出所である屋上付近、屋外にて待機しているのはどういうことか。
怜司は混乱した頭でも、何とかそこまで考えを巡らせてから、その意図するところを察する。
相手は、出来れば事を荒立てたくはないと思っているのだろう。
そうでなかったのなら、未だ直接手を出してこない理由が見当たらない。
だが、当然怜司を見逃してくれる気などない筈だ。
怜司がずっと家に閉じ篭っていれば、業を煮やして突入してくる可能性は高い。
それに、場合によっては周囲の家々まで巻き込まれるかもしれない。
想定される最悪の可能性が、怜司の頭を過ぎる。
この警報音が意味すること、相手が伝えてくる内容を把握した怜司は、まるで目の前が真っ暗になったような感覚を覚えた。
混乱と恐怖が交じり合い、顔を引き攣らせた怜司は、震える声で呟く。
「...どうすれば、いいんだよ」
その問いに対して、直ぐにはラバルの答えは返ってこなかった。
鳴り響く警報の音だけが場を支配する数瞬の間が、異様なほど長く感じられる。
実際には数秒程であった沈黙の後。返ってきたのは非常に短く、簡潔な言葉だった。
『...簡単な話ダ。殺せばイイ』
ラバルの口調は、それまでと比べて驚くほど平坦なものだ。
そうすることが、至極当然であるように。
「...冗談、だろ?」
怜司は今の自分の顔が、引き攣っているのか、笑っているのか、最早見当もつかない。
平然と、人殺しを提案してくるこの異形のモノの考え方が、怜司には到底理解できなかった。
対照的に、ラバルの反応は淡泊で、落ち着き払ったものだった。
『ワリィがテメェの無駄口に付き合う気はねェ。そして、オレもこんなところで消える気もねェ。だからよォ――――――――今すぐ決めロ』
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