6話 嫌われ者への敬虔性


「これが、海……!」


 アリアナは潮風香る港の桟橋までユーリを強引に引っ張ってきて、空と海の境界線、その向こうに思いを馳せていた。


「遊びや観光で来たんじゃねぇんだぞ」

「分かってます。後学の為の大事な経験です」

 ユーリは口を噤んだ。


 元々出自に適わない聡明さを持ち合わせるアリアナだったが、自身の関心を惹くものがあると、ユーリさえ反論できないような方便であちらへこちらへと連れ回す行動力をも兼ね備えていたことが分かった。

 三日に及ぶ移動の直後にも拘らず、アリアナの体力は若いという言葉で片付けられないほどに満ち溢れている。城下街では相当遠慮していたのだろう。

 他方でユーリは、既に疲労困憊であった。これは一晩宿を取る必要がありそうだ。


 桟橋で漁から帰ってきたと思しき村民達が、網などを片付けながらアリアナの様子に頬を綻ばせている。傍目には分からないが、誰も彼もが罹患りかん者である。彼女は実感がないのか、全く気にしていないふうであったが。


 結局日が沈むまで動こうとしなかったアリアナを引き摺るようにして、ユーリは村内の酒場に到着した。

 酒場は仕事を終えた屈強な漁師達で賑わっており、そこここで歓談やいさかいの声が上がっている。まずそこでユーリはカウンターで宿を取り、客室の鍵を受け取った。


 二階に設けられた客室で、ユーリはベッドの脇に荷物(といっても最低限ではあるが)を一旦置き、食事を摂りに一階に戻ろうと考える。

「アリアナ、飯だ。下りるぞ」

 貴重品類を懐に入れながら振り向くと、アリアナは扉の傍に座り、糸の切れた人形のように眠っていた。

 ユーリは溜め息をついて、アリアナの頬を叩く。

「おい、起きろ。飯を食いに行くぞ」

 ゆっくりと真っ白な睫毛を起こして、アリアナが目を覚ます。しかし睡魔には抗えないらしく、その目はぼんやりと焦点が定まっていない。少女は一度だけユーリの目を見ると、再び膝に顔を埋めて寝息を立て始めてしまった。


 この時ユーリの頭に二つの選択肢が浮かぶ。一つは、引き摺ってでも酒場に連れていき、何かしら食べさせること。もう一つは、このまま寝かせておいて、目が覚めた時に食べられるように食事を用意しておくこと。

 後のことを考えると面倒なのは後者だったが、前者を選んだところで食事中にまた寝てしまうのは目に見えている。実際彼女は疲れ果てているだろうし(そしてそれに付き合ったユーリも)、起きた時に軽くでも食事を摂るという形の方がいいだろう。


「……はぁ」

 ユーリは眠っているアリアナを抱き上げ、ベッドに寝かせてやる。それから毛布を掛けてやって、そっと部屋を出て鍵を閉めた。

 それから酒場のある一階に下り、喧騒に眉をしかめながら軽い食事を注文する。


 速く食事を済ませてこの猥雑な空間から逃れたい、そう考えながら運ばれてきた料理を口に運んでいると、顔を赤くした若者がふらつきながらユーリの元に現れた。

「おうそこの冴えないおっさん、こんな何もねぇ村に何の用だ?」

「…………」

 返答をするのも煩わしく、黙々と食を進める。

 無視された若者は、感情が昂っているのか、ユーリのその態度に腹を立てたらしかった。

「おいこら、耄碌もうろくして耳も遠くなったか? そこのお前だよ、余所者!」

 テーブルをばんばんと叩きながら若者が声を荒げる。

 ユーリは喚き立てる若者を一瞥すると、席を立った。その巨躯に若者は一瞬たじろぐが、引っ込みがつかないと威勢よくユーリに対峙する。辺りはその剣呑な雰囲気を感じ、喧嘩が始まるのかとどよめき始めた。彼の仲間らしき連中も、止めるどころか囃し立てて厄介事を助長している。


「……飯が不味くなった。アンタにくれてやるよ」

 ユーリはそう言い放ち、カウンターに移動してサンドイッチを注文した。

 意にも介さないその態度に若者は激情し、背後からユーリに掴みかかる。


 しかし、その手がユーリに届くことはなかった。

「あぁそれと」

 何故なら、ユーリがいつの間にか懐から取り出していた拳銃、その銃口が、背中を向けたままであるにも拘らず、寸分違わず若者の眉間を捉えていたからだ。

 ユーリは空いた手でサンドイッチを受け取りながら淡々と告げた。

「俺は慰師いしだ。この意味が分かるか?」

 途端に、若者だけでなく、そのやり取りを眺めていた客達が息を呑む。動揺が波紋のように他の客にも伝わり、この場の全員の視線がユーリに注がれる。


 ユーリはカウンターに食事の料金を置くと、ゆっくりと振り返り漁夫達を眺めた。

 数はおよそ三十。しかし誰も彼もが酩酊状態、取るに足らず、恐るるに足らず、脅威と看做すには値しないだろう。


「何かの……間違いだろ?」

 張り詰めた空気の中、目の前の若者が、一瞬で酔いが覚めたのか顔を青ざめさせていた。

 そしてそれに対する答えを、ユーリは黙して行う。

 かちゃりと、撃鉄を起こす音で。

 若者の顔は最早青を通り越して、黒くなりつつあった。さながら、いや、まさしく、罹患者の血肉である黒泥のそれだ。

「……先んじて慰藉いしゃを望む者は、前に出ろ」

 応じる者はないと知りつつ、形式として低い声で告げる。

 案の定、誰もが俯いて、じっとしたままだった。

 ユーリは照準を目の前の若者に合わせ、引き鉄に指を掛ける。


 するとどこからか、

「ようやく、慰藉されるのか……」

 と、嗄れた声が聞こえた。指を外さないまま目線を遣ると、顎髭を蓄えた浅黒い肌の偉丈夫がぼんやりと虚空を仰いでいた。

「『ようやく』?」

 全員を警戒しながらユーリは男に問うた。

「どういう意味だ」


「どうもこうも、そのままだよ」

 今度は別の、痩せた禿髪とくはつの男が答えた。

「俺達は自分達が罹患者であることを知っていた。そして、今日という日を待っていたんだ」

「どうやって知った」

黒憺病こくたんびょうっていうのは、詳しいことは分からないが、要は血が黒くなる病気なんだろう? 偶然怪我をした奴がそうだった。そして黒憺病は局地的に蔓延して、都から慰師が派遣される、そうだな?」

「…………」

 ユーリは沈黙で以て是とする。


 だが一つ不可解なことがあった。何故彼らは自分達が罹患していると知っていながら、慰師であるユーリを前にしてこうも悠長に語っていられるのだろうかということだ。罹患者に死という慰めをもたらす者、慰師に怯え立ち竦んだり、激昂して襲いかかったりするならまだしも、これではまるで慰師が来るのを待っていたかのようだ。

 その答えは、わざわざ口に出して訊かずとも、先方から勝手に明らかにされた。

「俺達村の大人は集まって話し合い、小さな幸福より、大きな幸福、つまり国益を優先することにした。そりゃ反対する奴もいたが、多数決でそういうふうに決まったんだ、それがここの総意ということになった」

「……なるほど、こいつは反対していた側だったってことか」

 納得したふうに、ユーリは若者に向けていた銃を下ろす。けれども、警戒は怠らない。今聞いている話が真実ではなく策謀の一環で、油断を誘うという目的かもしれないからだ。尤も、今ここでユーリの殺害に成功したとして、この村の慰藉が達成されるまで慰師は派遣され続けるのだが。


「じゃあ質問だ。反対し続けた奴は、どうなった?」

 禿髪の男に問いかける。

 彼は、首を横に振った。

 つまり、慰藉したのだ。彼ら自身の手で。

 村の総意をより確固なものとする為に、意に沿わない者は片端から、排除されたのだ。

 この立ち惚ける若者が未だ生き永らえているのは、多数者の意向に服従したからだろう。


 ユーリは一笑した。

「はっ、それなら俺が来る必要もなかったんじゃないか」

 わざわざ遠方まで仕事をしに来なくても自発的に死んでくれるのなら、慰師など不要だったのだ。

 しかし禿髪の男はまたも首を横に振った。

「いいや、それは違う。俺達は、慰師に、あんたに、慰藉という救済を与えられる為に、今まで生きてきたんだ」

「救済? 一体何を言ってる。最近流行りのジョークか?」

「ジョークなのは、この世界の存在そのものだろう」


 男はいたって真剣に、顔をぴくりとも動かさずに続けた。

「この世界を蔓延る黒憺病ってのがどんな病気なのか詳しくは知らないが、ただでさえ世界は悲哀と苦痛に満ちてるのに、更にそんな訳の分からないものが発生してるなんて、どう考えたっておかしいじゃないか。どこまでも不幸になるばかりで、本当の幸せなんてどこにもありはしない。そして俺達は気付いたんだ。黒憺病や慰師ってのは、この世界のしがらみから解き放たれて、人類を更なる次元ステップに移行させる為の選別手段なんだと」


 どうやら彼は、そしてそれを聞く他の連中は、酔狂でそのようなことを信じ込んでいる様子ではなかった。その姿はまるで――、

「信仰、してるみたいだな」


「あぁ、そういうことになるのかもしれない。しかしこれなら何もかもが理に適う。この世界が苦痛に満ちているのは、次の世界に相応しい人間を選抜する為。黒憺病なんてものが人の身に降りかかるのは、選ばれたのだという祝福。その祝福を受けた者を解放する慰師は、次の世界への案内人。だから俺達は、慰師である貴方を大いに歓迎する」


 人を人でなくす奇病である黒憺病と、それを治療する方法がまだ発見されていないが故に、生命いのちの芽を摘み取るのを生業とする慰師。これを、人々を穢れた現世から解き放ち、美しい浄土へいざなう、そういう存在として捉えるというのは、これまでの宗教史の見地から俯瞰しても、何ら目新しい視点ではない。

 しかし、その対象とされるユーリには堪ったものではない。業務遂行においてあらゆる障害を撥ね除けるというのが彼の格率だが、こうも盲目的に崇拝されては、支障を来たしかねない。

 鰯の頭も信心からとは言うが、まさか自分がその信心を向けられるとは思いもしなかった。むしろ、忌まれ、嫌われ、厭われ、疎んじられる存在であると、そう自認すらしていた。

 彼とて普通の人間だ。敵対する者には容赦なく引き鉄を引けるが、無抵抗で自らを信奉する人間に弾丸をぶち込んで平気でいられるほど人でなしではない。


 いや、とユーリは考え直す。無抵抗であろうとなかろうと、罹患者は既に人ではないのだ。見てくれは確かに人のそれではあるが、中身は得体の知れぬ黒泥が渦巻く人ならざるモノなのだ。


「……まぁ」

 ユーリは、この場の全員を、自身が救いの導き手だと欠片も疑わない信者達を、カウンターにもたれかかって睥睨へいげいした。


「だからといって、俺のやる事に変わりはない」

 既に手にしている拳銃と、懐に納められていたもう一挺の拳銃、それらを構え、遠雷のように低く重々しく、宣言した。


「慰師、ユーリ=ザルツマン。これより王命に基づいて、慰藉を執行する」

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