5話 生存と幸福の所在について
結局夜になってしまった。というよりは、いつの間にかうたた寝をしていたようで、気付いた時には夜だった。アリアナも眠っていたらしく(膝を抱えた姿勢のままで)、ユーリが動いてソファが軋む音で目を擦り始める。
重い腰を上げ、ユーリが
「おう、なんでそんなとこにいんだよ。ユーリの趣味か?」
現れたのは、金髪を後ろに撫でつけ、糊の利いたスーツを身に纏い、金刺繍の施された真っ赤なネクタイで決めた、高圧的で軽薄な男、ライオネルだった。
「邪魔するぜェ、ユーリ」
「邪魔するなら帰れ」
「用事が終わったらな」
「……何の用だ」
厨房に放置された皿を片付けるユーリに近寄ってきたライオネルは、にやにやと下卑た笑みを浮かべて耳打ちする。
「それより、使い心地はどォだったんだあの小娘は? いや、というより、勃ったのか?」
「何もしてねぇよ」
「奥手ちゃんめェ」
「本当に邪魔しにきただけだっていうなら、放り出すぞ」
凄んで横目で睨む。ライオネルはおどけて両手を挙げた。
「そんな恐い顔すんなよ。その頭に上った血を多少は下半身に……いや、放り出されてる場合じゃねェな。仕事の話だ。西へ三日、バルトメンデって小規模な漁村に向かってくれ」
「……分かった」
ユーリが軽い食事を作っている傍ら、ライオネルは置いてあった林檎を勝手に齧りながら、またも囁く。
「あの小娘はどうすんだ? お留守番か? 往復で六日はかかるが、その間ずっと?」
「アンタの所で面倒を見てくれ」
「前にも言っただろ。ウチは孤児院じゃねェ。手前ェのケツくらい手前ェで拭きやがれ」
彼の言っていることは至極真っ当だ。
橋の建設を始めたのなら対岸まで渡れるように続ける、子供を産んだのなら社会で自立した成人になるまで育てる、物語を綴るのなら
しかし、
「だからといって連れて行くわけにもいかんだろう。それじゃ連れて帰ってきた意味がない」
「知りゃしねェよそんなこと。そもそもどうせ放っときゃ死んでた身だ、家族の後を追うってのは本望だろ――」
「それ以上言ってみろ、アンタのスーツを真っ赤にしてやる」
野菜を刻んでいたナイフをライオネルの喉元に突きつける。
ライオネルは林檎を齧りかけた姿勢のまま固まり、目を瞠っている。
暫くして、ユーリはナイフを戻した。
「……優しい奴になったじゃねェか」
「優しくなどない、どこも、何も」
ただ、ユーリは自己の行為を否定されたくないだけだった。無意味だったと、徒労だったと、そう言われるのが耐えられないだけだった。
ユーリの否定の言葉は実際本心だ。昼過ぎのアリアナのあの叫びが、未だに頭蓋の中でがんがんと響き続けている。
自分の都合を勝手に押しつけて、年端もいかない少女を振り回そうというのは、相手からすれば随分な迷惑だろう。それでも自分の意志を通すことが、最終的に正しいことでありうるのか、今の彼には判別がつかなかった。
「んで、結局どうすんだよ、あの娘っ子は」
ライオネルは何事もなかったかのように再び林檎を齧りながら尋ねる。
ユーリは、どうしたものかと料理をしながら頭を捻った。
すると、
「連れていってください」
と、小さな声が。
振り向くと、いつの間に接近していたのか、すぐ後ろにアリアナが立っていた。
そのことに少し驚きつつも、ユーリは彼女の請願を拒否する。
「馬鹿を言うな。何の為にアンタを連れて帰ってきたと思ってる」
すると間髪入れず、アリアナは即答した。
「生きる為です。生きて、何故私の家族が殺されなければならなかったのか、
アリアナの赤い瞳は、檻の中で
「……しかし」
「しかしも何もありません。私、考えたんです。私は何の為に生き残ったのか、何故私だけ死なずにここに来たのかを」
言い淀むユーリを余所に、少女は真っ直ぐユーリの目を見据える。
「あんな扱いでも、それでも私のたった一つの大切な家族だった。そしてそれを奪った
そのあまりに毅然とした
この齢にして、生きる意味を自発的に考えるなど、そしてたった数時間でその問いに対して自分なりの答えを見つけるなど、この子は一体どれだけ聡明なのだろう。
アリアナのこの賢しさはどこからきたのだろうか。彼女の先天的な資質か、それとも彼女の出自がそうさせたのだろうか。
「……って言ってるが、どうすんだ、ユーリさんよ」
ユーリが言葉を返せずにいると、ライオネルが口火を切った。
「……アンタには、ちゃんとした家族を見つけてやって、ちゃんとした教育を受けさせてもらって、ちゃんとした人生を送ってもらうつもりだった」
そうすることが、少女の、アリアナの幸福に繋がると思っていたから。あの村での生活はさぞ苦痛だっただろうと当て推量で考え、真っ当な生活を望んでいると思い込んでいた。
しかしそれはどうやら間違いだったらしい。彼女は、ユーリが考え与える人生ではなく、自分で考え追い求める人生を望んでいたのだ。
「……だが、アンタが、アリアナがそうでない道を望むのなら、俺は止めはしない」
彼女の意志を枉げてまで自分の意志を通すことが、ましてやそれは他でもない彼女自身に関わることなのに、自分の尺度で測った人生観を押しつけることが、ユーリにはこの上なく傲慢で欺瞞であるよう思われた。
第一に考えるべきだったのは、自分が彼女にどうあってほしいかではなく、彼女がどうありたいかということとその手助けをすることだったのだと、今更ながらに思い至る。
ユーリの言葉に、アリアナは強ばらせていた肩の力を抜いた。
「では……」
「ああ、俺はアリアナの意志を尊重する。俺にそれを妨げる権利はないからな。だが、それとこれとは話が別だ」
安心したように頬を綻ばせていたアリアナの表情に影が差す。
「慰師は危険な仕事だ。俺の同期の何割が今も生きてるか、数えるのも忌々しい。だから、ついてきてもいいが、アンタが危ない時は、アンタの意志に関わらずアンタの安全を優先する。折角助けた命に簡単に死なれたら気分が悪いからな」
またもや一転、アリアナは曇らせていた顔色を明るくした。
「それと、学校にはちゃんと通ってもらう。アンタの意志がどうであれ、社会で生きる術や知識を学ぶことは必要だからだ。黒憺病の研究に従事するってんなら、尚更だ」
「……はい!」
アリアナは強く頷く。瞳の奥の
それからは、茶化すライオネルを自宅から蹴り出し、ユーリは二人分の食事を用意してアリアナと同じソファに座り平らげた。
そしてユーリは、ベッドで寝息を立てる少女を横目に、ソファに横になってゆっくり目を閉じた。
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