第3話 現実逃避の「現実」とは

 目を覚ます、時計を見る。時間という概念を、ちょうど家に一時的に飼っている犬に教えようとする。試みる。これが私のルーティーン。

 そういえば『持つ』という意味で用いる“have”は状態動詞だから現在型だけど、〜しているという一時的状態を表す場合は〜ing形になるのが一般的だ。私の場合はどうだろう。

 妄想を膨らませながら、コーヒーに食パンを浸します、というビジュアルで朝から頬張っているのはコーヒーに浸した食パンです。

 ああ、なんて当たり前なことを…。自分の頭の中の独り言が激しい。

「アイナナ通りなうー」

 通知サウンドが先日会った山代やましろから「オモチャみたい」といわれた携帯(玩具)から鳴る。画面バー状の定位置に移動するメッセージ。おい、独り言が多いやつはモテないぞ。もちろん女に。そんなことを私に言ったこともある山代の掲示板だ。彼の言う「アイナナ通り」は彼の通学路の途中の通りだろう。登校中に更新とは。

 しかし、「アイナナ通り」にはもう一つ意味がある。そちらが原義と呼ばれるものだが。そこについに赴く機会がやって来るとは思っていなかった。人里離れた、常識をも超越する世界に。信じがたい事実だが行くのにはある程度のリスクは伴う。覚悟を持って遂行しなければならない。閑静な住宅街を抜けた通りにあるとは訊いていた。

 気づいたら、家を出ていて、都会を肌で感じる雑踏を通る。

 電車に乗り遅れても間隔は2、3分運行ダイヤなので支障はないと思うが人混みは苦手だ。なんとか、乗り込んだ電車の中は快適とはいいがたい。

「もう少しで9さいなるからお願い。連れてってよ、Dランドにぃ。」

 隣席の子供がわめく。向かいの母親であろう人物に対して。

 -うっせえな、ホント-

 隣で立って、片手でスマホをいじる若い会社員の男性は不快感を顔にスタンプした様だ。

 -子供は甘やかすとよくねえな、欲求強まんし-

 ブルブル流れてくる愚痴に付き合ってる暇はなかった。

 意味もなく藍色のトートバッグから耳栓を取り出す。物理的遮断は効果はないが、集音感度を鈍らせてくれる。同時にバッグの中のハードカバーの本が目に入る。

『あの事件の真実⑬』こんな本を私は基本読まない。しかし、この⑬は読んだ。その中の一つの文章、何回も読んで暗誦できるぐらいの内容を思い出す。

 【街の大通りを一本、右に入ったアイナナ通りにある大きなアパートの703号室から、目覚ましの音が鳴り響く。この音は、11秒後にきっかり止まる。日本語に直せば「月夜の太陽 三番館」となる建て物の角を左に曲がる時、窓が勢いよく開く。これはいつも通り。そして住人である31歳の男が落ちて来る。これはいつも通りではない。というか、もう起き得ないであろう。希望の悪魔と呼ばれ続け、語り継がれるヘーゼ・ルナッツという男の人生では。】

 車窓から眺める風景が、単調だと思いながら山代の近況に思いを馳せる。

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