★23 悪夢

 紅恋くれんは倒れて行く黒衣こくいの体をただ呆然と眺めていた。

「あなた! 何やっているの!?」

 素納多そなたが驚いて声をあげ、夫を振り返る。彼の手には白く光る石があった。

「いや……俺にも、何が何だか」

 紅恋は首を振った。

(いや、いや。うそよ。)

 こんなの嘘だ。

「黒衣……嘘でしょう?」

 こくい、と名前を蒼白な顔のまま唇に乗せる。手を伸べる。届かないのがわかっていても。

「だってあなたにしか空間を歪めることはできないはず! 洸にはその力は、まだ使えないのよ!?」

「そうだ……でも、俺はやろうとしてやったんじゃない! 何故か……何故か勝手に」

 紅恋が撃たれる瞬間、黒衣と紅恋の位置が変わったのだ。そんなことができるのは、空間を歪める力を持つ彼以外には居ないはずだ。しかし、彼はそんなことをする理由がない。なのに、何故?

 紅恋は黒衣に駆け寄ると、彼の体に触れた。暖かさがどんどん引いていく。彼は動かない。

 反射的に口に手をやる。

 息、してない――――

 理解した途端、がたがたと、突然体が震え始めた。

(ああ、そうだ……)

 すっかり忘れていた。もうそろそろ、彼女が血を求める日だったはずだ。そう思った瞬間、貫かれる痛みと同時に、ぶつりと電源を切るように彼女の意識は無くなった。


 ×


 彼女は俯いていたが、しばらくして立ち上がった。二人は即座に体制を整える。どんな戦闘になっても、対応できるように。紅恋は静かに彼らに向かって歩いて行った。

 飛雄の前まで行くと、彼の目を見上げて、口を開いた。

 二人は、とっくに射程距離になっているのに動くことが出来なかった。明らかに、さっきとは違う。

 何も出来ない、あの少女ではない。

 下手をしたら―――――殺されるかも、しれない。

 そう本能が告げていた。飛雄は目が逸らせなくなっていた。どこまでも深く暗い色を湛えた真紅に。目を外すことを許さない瞳に。

「ここを開けて」

 彼はすぐに従った。逆らうことは思い浮かばなかった。

 立ち上がっていた灰色の壁が床に戻る。紅恋はそこを越えて歩き出した。真紅の眼差しが外されると、入っているのにも気付かなかった肩の力が抜けるのを感じた。

(いったい何なんだ。あいつは……)

「あなた……」

 素納多が飛雄の傍に来ていた。肩に置かれた妻の手に自分の手を重ね、二人は彼女の姿を静かに目で追った。

 揺らぎない足取りで紅恋は歩いていった。

「くれん……!?」

 洸は声を掛けてきたが、紅恋の違いに気付いたようだ。すくみ上がって、固まってしまった。彼女はゆったりと微笑むと歩き続けた。龍巳の前を通るとき、彼にだけ聞こえるように言った。

「この前はごめんなさい」

「!」

 龍巳は彼女がこの前とは微妙に違うことを感じた。そう、どこか、どこか優しくなっているような。どこか、穏やかになっているような。あの恐ろしい殺気が無くなっているような。皆、そこに居る全ての人間は動けなかった。

 彼女はB・Bの前に立った。

「こんにちは」

「こんにちは」

 紅恋は笑顔で挨拶した。B・Bも微笑むと挨拶を返した。

「これで、きっと終わるわよ」

「……そう、よかったわ」

「ええ……」

 二人は短い会話をした。その場に居る人間は皆動けなかった。空気が、張り詰めていた。

「洸」

 紅恋が良く通る声で呼びかけた。洸はびくんとして彼女を見つめた。何かが異常だった。紅恋はにっこりと真紅の目を細めて、言った。

「あたしは居なくなるから、この子を―――よろしくね」

 え、と洸の口から疑問の声が出た。

 時間がゆっくりと動いた。紅恋はB・Bに向き直った。

 B・Bは受け入れるように瞼を閉じた。紅恋は右手を大きく後ろに引いた。彼女の腕を絶えず渦巻く白いものが包み、紅恋の腕を巻き込んで丸ごと白く透明な刃に変えた。

 そして右手は前に突き出された。


 紅恋の腕が、

 B・Bの体を貫いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る