☆22 警告

 ひかりは足早に歩いていた。

 寄って行くとは言ったものの、紅恋くれん龍巳たつみがどうにも気になる。心配だ。もしかしたら、あたしは組織を、いや、その奥に隠れている黒幕を甘く見ているのかもしれない。

 ああは言ったけど、龍巳だってそれなりに戦えるし、大丈夫だとは思う。けど、紅恋は多分、あのままでは戦うことは出来ないだろう。

 何人もが来たりしたら、そこでアウトだ。

 ああ、もっとよく考えておけばよかった。

 とにかくさっさと事を片付け、部屋の様子を見に行きたい。その思いが洸の足を急がせていた。しかし、考えは道をそれてどんどん広がっていく。

 まさか、その「そういうこと」はないでしょうね。

 龍巳なら大丈夫だとは思う、けど。

 そこまで馬鹿じゃない……よね?

 でも……馬鹿だったらどうしよう。

 まさか、まさかね……。

 うーん……大丈夫だと……いいけど。

 あーっ! 馬鹿馬鹿っ! もっとよく考えるべきだったっ! ヤバイ。そこまで頭が回らなかった。ちょーっと、やっぱり、ヤバイよね。だって紅恋はとってもかわいいから。あたしには、ああいう、守りたくなるような雰囲気ってないし、いくら顔がそっくりでも。

 うわぁどうしよう。心配になってきた……

 もしまさかだったらぶん殴って吊るし上げてやるけど、でも取り返しがつかなかったりしたら……

 ていうか、あたしはなんてこと考えてるの!

 あーっ嫌だ! やだやだ。この脳みその馬鹿! 馬鹿馬鹿ぁっ!

「洸、アンタ何やってるのよ」

「へ?」

「さっきからずっと百面相してる」

 リタと聡貴さときは呆れ顔だ。デリストもやれやれと首を振ってるし、スーは苦笑している。洸は真っ赤になった。

「や、いや、なんでもないから。うん。ほんとに」

「……ほんとかな」

 聡貴は疑いの眼差しで見つめてきた。

 洸は目を逸らして、強引に会話の舵を切った。

「ま、まぁそれは置いといて! その部屋ってどこなの? もうこの辺じゃない?」

「そうですね」

「あ! あれじゃない?」

 リタの声に、途端に聡貴がざっと青ざめる。

「……ひぃ」

「そんなに嫌なら聡貴は外で待ってりゃいいだろ」

「そ、そうだよね」

 心配そうに声を掛けたデリストに、聡貴はそう言った。彼は哀れな程にがたがた震えていて、言った声も裏返っている。

「ここかぁ」

 小さな扉のプレートには「倉庫」と書かれている。

 洸はカードを取り出すと、プレートの下の差込口に入れた。〝ブーッ!〟と警告音がして、扉は開かないのにカードだけ戻ってきてしまった。

「あれ、開かない」

「あ!洸さん」

 よく見ると差込口の横の手のひらほどの黒い画面に、緑色の文字で、『使用不可』と表示されている。

「えっ」

「きっと、普通のカードでは開けないようにロックされてるんだ」

 聡貴は青ざめたままでそう言った。

「あら、それじゃ無理じゃないの」

「ううん。無理じゃない」

 リタは言ったが、聡貴は首を振った。

「昔どこかの国で一流のスパイだったって言う人の書いた、「スパイ入門」って本、読んだことがあるんだ。それのコンピュータに潜入するための章に書いてあったことを応用すれば、きっと出来ると思う」

「それはジョーク本じゃないの? 怪しすぎるし」

「本当だよ。一度読んでから、これ、ページが蛇腹に折って閉じてあるってことに気付いたんだ。それで紐を解いて開いて、ちょっと特殊な文字を出すための液体を使ったら、字が出てきた」

「その特殊な文字を出す液体ってのはどうしたんだよ」

 眉を片方持ち上げてデリストが口を挟むと、聡貴はすらすらと答えた。

「「特殊薬学 ~治療薬から爆薬まで~」って本に載ってた。前に、図書館で少しだけ隙間を見つけたんだけど、そこ、引っ張ったら扉になってて、それで隠し書庫があるってわかったんだ。凄いよ。組織にとってヤバそうな本ばっかりある。「スパイ入門」もそこで見つけた」

「ねぇ、聡貴」

 洸の言葉に、聡貴は頷いた。

「うん。僕も前々からどこかダイヤモンド・グローリーには怪しいところがあると思ってた」

「そうなのか? 俺は別に気にならなかったけどな。まぁたしかに、たまに、おかしいと思ったこともあったけど」

 デリストは記憶を辿り、歯切れ悪く首を捻っている。

「とにかく、ちょっとやらせて」

 聡貴は扉に近寄るのも嫌そうだったが、それよりも悩みが解決しないことのほうが気になるようだ。

「うん、うん。やっぱり」

 何かを確認するように頷くと、背中からザックを下ろしてなにやら機械や工具のようなものを出すと、かちゃかちゃとやり始めた。

「うん……うん、ん。あ、そうか」

 ぶつぶつと一人呟きながら、聡貴は手を動かしている。

 洸は何だか時間がかかりそうだと思い、ふと思いつくと、隣にいたリタに遠慮がちに話しかけた。

「あの……リタ」

「何?」

「あの、龍巳の話って……」

 リタは苦笑すると、自分の髪に指を絡ませた。

「あい、もしょーがないやつだよね。人のこと話すなんて」

「ごめんなさい。本当は、ちゃんと本人から聞いた方がいいことだったのに」

「いいのよ。事実は事実だし、そりゃ、何も関係無い人とかに話したらあたしだって怒るけど、洸だもの」

「それで……あの」

 リタは目を細めた。

「聞きたい?」

「……うん」

 洸が頷いたのを見て、リタは天井を見上げると話し始めた。

「あたしはね、よくは覚えていないんだけど、全部が灰色のところで暮らしてたの。回りは自分と同じくらいから、デリストより少し年上くらいの子供と、後は白い服を来た大人。大人はあたしたちにとって脅威だったわ。四六時中付きまとって、少しでも笑い声を立てたりとか、大声を出したりとかして集団を乱す子がいたら、その子に白くて長い棒を当てるの。それを当てると、当てられた子は動かなくなって、どこかへ連れて行かれてしまう。そして、大抵そうやって連れて行かれた子には、もう会ったことが無いか、それでもなければ、無表情な人形のような顔になって戻ってきたかのどっちかね」

 リタは悲しそうに言った。

「いつも移動のときは、二列で行進させられるの。ある時、服の裾を踏んで転んじゃった子がいたんだけど、その子のところだけを残してすっと皆が避けるの。皆、見向きもしないで進むか、ちらりと哀れみの表情を浮かべるだけで進まなければならない。そうしないと、自分が罰せられるから。

 だけどあたしは我慢ができなくて、恐怖の余りにがたがた震えて、必死に立とうとしている子に手を差し伸べちゃった。そしたら、どうなったと思う?

 その子はあたしの手を引っつかんで立ち上がって、その流れの中へ駆け戻って行って、何事も無いように流れの中へ紛れていった。

 あたしはその勢いに負けて床に転んじゃって、呆然とそれを見送っていた。今度はあたしがみんなの流れから取り残されていて、そして、皆行ってしまったの。その後は、無表情な大人があたしを見下ろしていた……百発は殴られたような気がするわ。これは無表情になるなぁって、痛みの合間にぼんやりと思ってた」

 凄い環境でしょ。今思うとぞっとするわ。と身を震わせて笑ったが、洸はまったく笑えなかった。リタは肩をすくめると続けた。

「それで、超能力の訓練もまた酷いの。凄いスパルタで、失敗するとすぐぶたれるでしょ。しかも、絶対に気絶だけはさせてくれない。ものすごい痛みのなかで、失敗するなってほうが無理だと思うんだけど、どうなのかしら。

 だから、組織が助けに来てくれた時は、本当に救われたって感じよね。

 器具が処分される様子や、優しい、「大人」じゃない人に手を引かれて、燃えるあの建物を見たときは、そこがとてもちっぽけに見えたわ。凄い開放感。自由になれたって喜び……今でも時々あそこを夢に見るの。凄く真に迫っていて、たまにこっちが夢じゃないかと心配になるの。いつか目が覚めて、あたしは、まだあそこに居たらって……でも、最近ね、こう思うようになったのよ。幸せなら、たとえこっちが夢だとしてもいいじゃないって。とりあえず、今はあそこはもう無くて、あたしには仲間が居て、それで……とても、幸せだからってね」

「リタ……」

「洸ってば、やだ、なにそんな顔して。大丈夫よ。あたしはなんでもないって。ほら、大好きよーっ。安心してーっ」

 洸はリタの話に胸を締め付けられて、今にも泣き出しそうだった。どんなに酷い環境だっただろう。怖かっただろう、辛かっただろう、苦しかっただろう……。

 リタは、洸の体に腕を回して、背中を優しく叩いた。

「ほーら、そんな顔しないで。そう言う事をしてる暇だって無いでしょ。だーいじょうぶっ。大丈夫だって」

「……うん」

「……リタも、夢に見るのか」

 聡貴がぽつりと呟いた。

 え、と洸が振り返ると、聡貴は機械のコードやネジや、その他訳の分からない物を見つめ手を動かしながら、続けた。

「僕も、見るんだ。時々だけど……凄く、鮮明で、鮮やかな奴を」

 彼は右手を壁に開いた穴から引っ張り出し、手の甲で額に浮かんだ汗を拭った。

「髪の長い女の人が、『さよなら』って行って、背の高い男の人と一緒に行ってしまうんだ。僕は途方に暮れて、そこから動けなくて、ずっとその姿が遠くなるのを見ているんだけど、ごつごつしていて節くれだった手に、手を掴まれて、強引に檻の中へ閉じ込められるんだ」

 皆、静かに聡貴の話に耳を傾けていた。

「檻の中から、僕は外を見てるんだ。周りには、大きな動物がいっぱいいて、唸り声とかが聞こえて、めちゃくちゃ怖かった。食べ物は、一日に一回か、運がいいと二回だけど、やっぱり忘れるのか、何にも無いってこともたまにあった。

 それで、僕は時々、檻に入ったままでものすごい明かりの下へ押し出されて、その下で、檻から出てみろって言われるんだ。扉は鍵が掛かっていて、格子は間が20cmくらいかな。その間から出るには、体を歪ませなきゃならなかった。言うとおりにしないとぶたれるって分かってたから、僕は出た。

 そうすると、それを見た観客が、キャーとか、ヒェーとか変な声をあげるんだ。怖いのか、面白がってるのかは分からないけどね。そうだな……正直つまらなかった。退屈してたし、団員達によく苛められた。化け物呼ばわりされて、蹴ったり殴ったりされたり。だから……うん。組織には感謝してるよ」

「聡貴……」

「やっぱり、そんなのを見るとうなされるよね。だからさ、こんなこと、絶対あいつの前じゃ言ってやらないけど、龍巳の顔。物凄い間の抜けた笑顔だけど、あれ見ると……ちょっと、ほんのちょっとだけ、ほっとするんだ。皆と居ても、そうだけど」

 そう言うと、聡貴は大人のように、子供のように、唇を柔らかくカーブさせて、ふっと笑った。

「みんなそうなんだよな……色々、大変なことがあってさ」

 デリストが少し悲さを滲ませて笑った。

「まぁ……俺はその中でもましな部類に入るかな」

「そんな風に言わないでください! ……あたしが、一番、ましだと思います」

 スーが訴え、洸に向かって言った。

「あたしのことは……知ってますよね。ごめんなさい、あたしはまだ、自分からは言いたくないんです」

 スーは俯いて、辛そうに顔をゆがめた。それを見ると、デリストはにこりと笑って、ぽんと大きな手でスーの頭を撫でた。

「ありがとな」

「ましだとかなんだとか、そんなのどうだっていいじゃない。比べちゃだめよ。今、ここにいるんだから、関係ないでしょ」

「そうだな……とにかく俺は、皆知ってる通り、親に売られたって訳だ」

 デリストは懐かしそうに目を細めた。

「親父もお袋も元気にやってるかな。俺が育ったのは寒いところなんだ……あいつ、親父にちゃんと金を払ったかな。まったく、二人とも人がいいんだもんな」

 デリストは皆に顔を向けると、にかっと笑いかけて言った。

「ほんと、恨んでなんか居ないぜ。両親のことはこれっぽっちも。役に立てて嬉しいってもんだ。うちは本当に貧乏だったんだよ。一日の飯が一回あれば万々歳って感じでさ。親父は漁師をやってて、俺は小さい頃から船の舳へ座って大波を宥めたり、ちっこい氷の塊を脇へそらしたりして活躍してたんだ。

 時には海へ潜って、魚を追い立てたりとかもしたな。どんなに冷たい海だろうが、俺にとってはなんとも無い。

 親父は俺の力を喜んで喜んで。「お前の力は海神様からの賜りものだから、大切にしなければな」って言っては、目の周りにしわを寄せて笑ってくれた。頭を撫でられて、俺も誇らしかったよ。だけど、ある時ぱったりと魚が取れなくなって、俺が海へ潜っても、魚は影も形も無いんだ。思えば、あれも何かあいつの策略だったのかもしれないけど、とにかく俺らは、食料を借りなければならなくなっちまって……あいつってのは、その街の権力者さ。商売人でね、そいつが大きな倉庫をいっぱい持ってて、商売を管理していた。それで、借りた食料の代金に、俺をよこせと言ってきたんだな。

 そりゃあ親父もお袋も反対したけど、食べ物が無いのにいくらも生きられる訳は無いし、俺は自分から行くと言って出てきたんだ。めちゃめちゃ働かされたけど、二人には時々会わせてもらえたし……と言っても、遠くから二人を見るだけなんだけどな。そうすると、やっぱり悲しそうだったけど、とりあえずいっぱい食べられて、前よりもよっぽど血色がよかった。それで十分だよ」

 そして、またデリストは微笑んだ。

「それで、そいつはここじゃこれ以上の収益は見込めない、業務拡大をするからこの辺りにはもう用が無いって引っ越すことにしたんだ。俺はてっきり家に帰してもらえると思ったんだが、そうは問屋がおろさないってな。お前は役に立つからって、逃げられないように枷をはめられて、連れて行かれて……その途中で、俺たちの乗っていた船が爆発、ぶっ壊れて、俺は海へ投げ出された。これ幸いと俺は海に助けてもらって、しばらく漂ってたんだけど、そうしたらその船の事故を見に来たダイヤモンド・グローリーの人たちに拾われたんだ。それで、今は楽しくやってるってこったな。うん」

 デリストは笑った。

「俺は、幸運だと思うよ。この能力をもったことを感謝しなくちゃな」

「……うん」

「そうだね」

「そうですよね」

 皆は頷いた。リタも頷き、言った。

「……そうよね。このちからがあったからこそ、あたしたちはここに来れて、それで、みんなに会えたんだもの」

「そうだよね。この場所が、あたしを前向きにしてくれた。……だからさ、今、この中で起きてる事件を、解決しなきゃって……あたし思うんだ」

 洸の言葉に、皆はそれぞれ真剣な顔で頷いた。

「まぁ、ここを調べたら、すぐに龍巳とその子を迎えに行くって事で……」

 作業を終えたのか、膝を払って聡貴が立ち上がった。

「これでいいと思う」

 聡貴は自分のカードを取り出すと、すっかり元通りになった差込口に押し込んだ。

 電子音を立てて画面に何やら画像が浮かんだが、ピーッと音がすると、扉はすんなりと開いた。

「すげー……」

 デリストがみんなの声を代表して言った。

「ほら」

 聡貴は胸を張ったが、次の瞬間ばっとデリストの後ろに飛び込んだ。

「うぉ!? 何すんだ」

「い、い、い、今っ、う、う、うな、うな」

「は? うな丼か? うな重か? 食いたいのか?」

「んなわけないだろ! お前は龍巳か!?」

「じゃあなんだよ」

「う、唸り声がしたんだよっ! 昨日聞いたみたいな……ぎゃあぁあああっ! また聞こえたぁあああっ!」

 聡貴はぎゃあぎゃあ喚き散らした。

「なんなんだよぉぉおっ! 幽霊なら成仏しろよーっ!」

「あらら……まったく聡貴もこうすると、やっぱりまだ子供なのよね」

「ううううるさいっ! てゆーかリタたちだって大人だって訳じゃないだろぉっ!」

「もー、言葉のあやって奴よ。気にしない気にしない」

「ねぇ、ここでこうやってても仕方ないし、中に入ってみようよ」

 洸は声を掛け、それに聡貴は信じられないとでも言いたげに怯え切った。

「入るのか!? こ、こんなとこに入るのか!?」

「そうですね。大丈夫、私も一緒に行きますよ」

「なぁ! 本当に入るのか!? こんな、こんな暗いとこに!?」

「だから、聡貴は待ってりゃいいだろ。俺は見てみてーから行くけどよ」

「嫌だ! 一人なんてぜぇえったいに嫌だ!」

「じゃ、我慢してついて来いよ」

 洸はそんな二人を尻目にすたすたと部屋の中に入り、リタとスーもその後に続く。デリストは服にひしっとしがみついている聡貴を、重そうに引きずりながらだ。

「リタもスーも平気なの?」

 洸は大きな箱や長細い筒などの間を通りながら聞いた。

「大丈夫ですね」

「そーよ。こんなの」

 リタは鼻で笑った。その様子はなんとも頼りになりそうで、洸は少しほっとした。

「……にしても暗いな。電気ないの?」

「天井にライト自体が付いてないみたいですよ」

「っ、二人とも。今、聞こえた?」

 リタは二人に声を掛けた。

「え!? ほんとに?」

「ぎゃぁあーっ!」

「うっせーなぁ。だから外に居ろって」

「や、やだよっ」

「黙ってよ聡貴! 聞こえない!」

 リタはしっと言って彼を睨み付け、皆息を潜めた。聡貴は真っ青を通り越して真っ白になっている。

 聞こえる。

 確かに低い呻き声が部屋の奥から聞こえてきた。

「……これ、人の声よね?」

「誰か閉じ込められてたって事?」

「えぇっ! じゃあ、早く助けてあげなきゃですよ!」

 洸たちは駆け出した。デリストはまだ怯える聡貴に半ば怒鳴るように言い聞かせ、遅れて後を追う。 


 一番早く辿り着いたのは洸だった。リタやスーとはほとんど一緒に駆け出したのに、何故か、いつのまにか彼女は一人だった。しかし、それを疑問に思えるほどの余裕は持ち合わせていなかった。一際大きい箱の手前に、足を投げ出して座っている男と、その横に立っている男の二人がいる。座っている方は、暗いのと深く頭を垂れているせいで、顔が分からない。立っているほうも、顔をその座っている男のほうに向けているので、やはり顔は分からない。

 立っているほうの男が、振り返らないまま言った。

「ああ、来たのか」

 洸の胸が、どくんと大きく打った。

 聞き覚えがある。

 忘れかけていた。けれど、聞いて一気に蘇った。

 そうだ。でも、

 まさか。

「嘘だ……」

 洸は青ざめて、力無く首を振った。

「嘘じゃない。洸」

 立っているほうの男は青い髪だ。

 自分より深い、海のような、薄い夜のような青。

 男はゆっくりと振り返った。洸がずっと見たいと思っていた人間の顔だった。ぞっとするような笑顔で、彼女に声を掛けた。

「久しぶりだな、洸」

 声が出なかった。冷や汗が伝う。

 違う。

 男の顔は紛れもなく父親のものだったが、洸は、彼を呼ぶことが出来なかった。声は途中で凍りつき、首を振った。

 お父さんは、こんな顔をしない。

 顔を見ても喜びは一向に湧かなかった。あれほどに、会いたいと願ったのに、あるのは恐怖。

 なぜ?

 動けなかった。その時、座っているほうの男が辛そうに頭を上げた。黒い服で身を包み、憂いと葛藤が目の底に滲む男だった。直感的に彼こそが紅恋の探している人間だと悟った。

 顔が血に汚れて腫れている。あれも父さんがやったのだろうか。だとしたら、やはり違う。父さんはとても温厚な性格だった。

 彼は苦しそうに口を開き、かすれた声で怒鳴った。

「逃げろ!」

「逃げるわけがないだろう。洸は俺の娘だ」

 驚いたように、男は片方だけ開いている目を見張った。もう片方は、腫れてしまっていて開かないのだ。

 リタとスーはどこにいるんだろう。ここがそんなに広い訳がない。デリストに聡貴は? 洸は辺りを見回した。気配は見当たらない。

「友達のことを探しているのか?」

 父ではない父の目が光る。彼の口元にはずっと皮肉な笑みが浮かんでいる。そんな表情など見たことがない。

「心配するな、来やしない。俺のシエラが空間を歪めているからな」

 その言葉と共に、白く光る人影が現れる。エアと同じだ。星の精霊。しかし、彼女のほうが冷たい顔をしている。

 嘘だ。

 いつも父さんと共にあった気配は、優しいものだった。

 こんな、氷みたいに寒々しいオーラなんて嘘だ。

「純星は、空間を操ることも出来るんだよ。光の力と、空間を操ること。この二つが星の持つ能力だ。そう、洸もその空間を操る力で、空を飛ぶことが出来たんだったな」

 優しげに微笑んでいる。でも目の奥は氷みたいに冷たい。洸はぐっと唾を飲み込むと、半歩後ずさった。そして次の瞬間、床を蹴って駆け出した。

 笑ったままで追って来ない。

 おかしいと思いつつも洸は足を止めなかった。

 どうしよう。とにかく逃げないと。

「エア!」

「どうした?」

 エアフィアはポケットの石からすぐに出てきた。

「早く! 逃げたいの!」

 エアフィアは声の調子からただならぬ気配を察して、洸を取り巻いた。

 足が浮かんで、あっと言う間にスピードが上がる。

 何回か曲がる。入り口だったと思われる方向にどんどんと飛ぶ。それなのに、男がまた目の前で微笑している。

「お帰り」

 そこはまたさっきと同じところだった。

「な……」

「言っただろ? シエラが空間を歪めていると」

 今度こそ洸は動けなかった。男がやけにゆっくりと近づいてくる。

「洸!」

(リタ?)

 叫び声が聞こえた。振り向こうとした途端に足下の床がなくなって体がぽっかりと口を開けた空間に吸い込まれる。

 嫌だ! 

 叫べたのかどうかもわからないまま、闇が閉じた。


 *


 笹舟ささぶねは足を急がせた。汗が滴る。日頃パソコンや書物の前にばかり座っていたことを、彼は今になって後悔した。

「こんな……ことに……っなるなら、もっと、運動を、する、べき……だったな」

 荒い息の間にそう言葉を搾り出す。

 無理をして声を出したせいで、さらに息があがり、喉からは声にならない隙間風のような音が出る。

 自分の足を励まし、どうにか倉庫の前に辿り着いた。

 その前で少し止まり、息を整える。しかし心臓は跳ね続けていて、汗が走っているときよりもかえって多く顔と体を伝い落ちた。

 扉は開いている。全ての記憶が戻った彼には、そこが倉庫を装ってはいるが、捉えた人間を一時入れておく牢屋だと言う事が分かっていた。

「ひかりぃいー!」

「洸さぁあん!」

 中からはあのチームの子供たちの声が聞こえる。

 笹舟は倉庫に飛び込んだ。

「君たち!」

 チームの面々は灰色の壁を力の限り叩いたり、力を使って壊そうとしたりしていたが、突然聞こえてきた声に振り返った。

「あんた誰よ! まさか、こんなことした張本人じゃないでしょうね!」

 同じくらい汗を垂らしながら、リタが声を張り上げた。興奮しきっていて、怒りと戸惑いと混乱のままに、怒鳴り散らしている。

 彼はふと気付くと、胸のポケットから眼鏡を取り出してそれをかけた。

「こうすれば分かってくれるかな?」

「さ、笹舟博士!」

 聡貴が声をあげる。

 彼の能力では壁を壊すことが出来ないので、聡貴でさえもなりふり構わず壁を蹴ったり殴ったりしていた。

 笹舟は眼鏡をかけていなかった。不必要なものだったのだ。本来は、彼の目は悪くない。裸眼でも十分だった。

 B・Bが暗示をかける際に彼の記憶の大半を封印しなければならなかったので、彼女の力だけでは不十分だった。物を使うことで足りない分の力を補ったのだ。一度記憶が目覚めてしまえば只の伊達眼鏡にすぎなかった。

「ドクターがなんでこんなところに?」

 デリストは汗をびっしょりかきながら驚いている。

 両手には、巨大な氷の塊が浮かんでいた。どうやら連続して壁にぶつけていたらしい。

「それより、龍巳君は?」

「あいつは紅恋って言う子のボディーガードに残してきたって、洸が」

 B・Bにとって紅恋は洸と同じ邪魔者のはずだ。と言う事は、龍巳も紅恋と共に、もうすでに連れ去られていると考えられる。

「やはり急がなくては……」

「博士! 洸さんが、洸さんだけが中に閉じ込められてるんです!」

「ちょっと退いていてくれないか」

 彼はスーとデリストの間に入り、壁に手を当てた。

 やはりこれは飛雄のシエラの能力によるものだ。

 笹舟の脇に青い炎の翼を持つ鷲が現れた。

青一あおいち!」

 一言そう名前を呼ぶだけで十分だった。

 本来の姿を取り戻した青一は、翼で火花の散る風を起こすと、それを壁に叩きつけた。壁に風がぶつかると、壁は青い火に巻かれて消え去った。

「洸!」

 リタが叫んで、先頭を切って駆け出す。皆すぐにその後を追った。笹舟も彼らを共に追う。

 すぐに開けた空間に出た。丁度四角く床が消え、洸と黒髪の青年、そして一人の男が暗闇に落ちるところだった。

飛雄ひお!」

 笹舟は叫んだ。青い髪の男―――飛雄は笹舟のほうを向くと、にやりと笑って消えた。彼らが消えると同時に、床も元に戻った。

 リタが叫ぶ。

「ドクター! 洸は!? どこにいるのっ!」

「……大変だ。B・Bは洸ちゃんのことを殺す気だぞ」

「えぇっ!?」

「っな……」

「何よそれ!」

 皆が絶句するなか、リタは血相を変えて叫び、笹舟に詰め寄った。

「いったいどう言う事? それに、ヒユウって……あの男は誰なの!?」

「待ってくれ、説明するから」

 笹舟はリタを宥め、皆のほうを向いた。

「さっきの男は星村飛雄。―――洸ちゃんの実の父親だ」

 リタと聡貴はそのまま絶句し、スーはまるで叫び声を堪えるように両手で口を押さえた。

 笹舟はぐっと口を結んだ。デリストが驚いて聞いた。

「ちょっと待てよ。洸の親父さんは、あいつの話だとたしか紅恋て子に、もう……」

「そうだよ。僕自身そう思っていた。しかし、B・Bが魂を呼び出して復元させたんだろう」

「そんなことできるの!?」

「ああ、おぞましい術だけどね。ある程度の知識と、あとは材料があれば。彼女はきっと洸ちゃんを自分の計画に邪魔だと思ったんだ」

「計画、ですか?」

「そうだ。今は細かいところまで説明出来ない。とにかく急がなくちゃ。青二あおじ!」

 彼が呼ぶと今度は大きな青い犬が現れた。

「狼?」

「詳しく言えば山犬だよ」

 笹舟が腕を動かすと、床に複雑な模様の描かれた円が姿を現した。青二が遠吠えをする。その声に円が光ると、さっきと同じような黒い穴が開いた。笹舟は青二の背に跨り、リタたちに声を掛けた。

「こっちは即興で繋いだ道だから時間がかかる。行くのなら、今しかない。来るんだったら青二に乗って!」

 皆は躊躇わず次々に乗った。一人乗るたびに青二は大きくなり、五人乗っても十分余裕がある。

「行け!」

 彼が言うと、青二は暗闇に身を投げた。


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