☆20 洸の思い

 破裂音が響いた。

 鋭い音を立てて、少女の頬が叩かれた。彼女はびっくりして目を開けた。すると、自分と同じ顔をした少女は、その青い目に涙を浮かべ、唇を噛み締めていた。

 剣はいつのまにか彼女の手から消えている。

 ひかりは床に膝をつきぼろぼろと涙を流しながら叫んだ。

「馬鹿っ!」

 少女は何故自分が怒鳴られなければならないのか分からず、きょとんとして彼女に叩かれた頬を押さえている。

「やっぱりできない、無理。駄目っ! あなたは、死んだら……駄目っ!」

「……でも、あなたは」

 少女の口から発せられた言葉の先は、言われなくても分かった。

 あたしを憎んでいたんじゃないの?

 殺したいと思っていたんじゃないの?

 そう、そうよ。

 たしかにあたしはあなたが憎かった。

 けど、

「こんなの、間違ってるっ……」

 洸は俯いて涙を零した。

 さっき、殺してと言った少女は、ぼろぼろになって、疲れきっているように見えた。

 目の前の女の子は憎たらしい、狂った殺人鬼ではなく、ただの、悩みを抱えた自分と同じだと洸は悟った。そして、その悩みによって疲れてしまった彼女は、命を絶って楽になろうとした。見ていてそれがわかった。

「死んでどうするの? どうなるの? 本当に、状況がよくなるの?」

 そうすれば、一応罪を償ったことになり、自分の心が楽になる。それに、もう、悩まなくてもいいだろう。

「それが、本当にあなたのやりたいことなの? あなたは幸せなの!?」

「だって……」

 少女は顔を絨毯に伏せた。

 彼女もまた顔をくしゃくしゃにして、泣き出していた。

「だって、辛かったんだもの!」

 絨毯に二人の少女の雫が染み込んでいく。

「ずっと、ずっとあたしを支えてくれた人が、居なくなって……。好きなの。どうしようもなく、好きなの。だけど、もう、彼がいないなら、……生きていたって仕方ないのっ」

「だから馬鹿なのよっ!」

 洸が怒鳴りつけた。

「あなたは、そんなことをしたって、結局そうやって決めたことで苦しむだけ」

「そんなことない! だって、死んでしまえばあたしはもうこの世とは関係なくなる。こんな辛い思い、しなくてよくなるの」

「あなたは、絶対損する。あなたが、死んだことで悲しむ人は!? いないの? 本当に? 誰一人も?」

 その言葉は紅恋に突き刺さった。

「あたしの事なんか、死んでも、誰も、悲しまないよ……」

 紅恋は震えながら言った。

「あなたのことを支えてくれた、その人は」

「黒衣はっ」

 また涙がこみ上げる。

「黒衣はあたしのことなんかもう、どうでもいいのぉっ!」

 少女は泣き叫んだ。

「あたしは単に都合のいい道具で、必要がなくなったらもういらない、それだけで、あたしのことなんかっ……いらないのっ」

 言葉が引きつって、泣き声に変わる。

 洸はその姿を、自分も涙を流しながら見つめていた。

 あたしも、こんな風に悲しんでいたのだろうか。

 あたしの悲しんでいる姿も、こんな風に見えたのかな?

 お父さんと、お母さんが居なくなったとき、自分の一番の支えを無くしたとき。

 この子だってそうだ。心の中にはただの悲しみしかない。

 洸の逃げ道は、幸せを奪った、その犯人を憎むことだった。彼女の逃げ道は、自分の犯した罪を償う為に死ぬこと。

 だけど、それでは間違っている。

 洸は、龍巳たちと共に過ごし、共に笑ったことでそのことに気付いていた。彼女に本当に必要なのは、冷たい死ではなく、暖かい手が差し伸べられることだ。

 人は、間違うのだから。

 洸はうつ伏せになって泣き続ける少女の傍に膝を付いた。

「あたしのことなんか……」

「そんなこと、ないでしょ?」

 洸は手を伸ばし、そっと少女の震える背中に触れた。

 触れたのだ。

 少女は、その手から電気が流れたかのようにがばっと顔を上げた。洸は手を動かして、泣く子供を落ち着かせるように少女の背中を撫でた。

「大丈夫。そんなことない。きっと、その人はあなたが死んだことで凄く悲しむよ。あなたは、その人の事が好きなんでしょ?」

 少女は頷いた。

「好き、誰よりも、大切なの。本当に」

「だったらその人が悲しむことは、きっとあなたにとっても凄く悲しいはず。だから、そんなことしちゃいけないの」

 少女は顔をゆがめ、体を起こすと、洸に向かって自分の体を投げ出した。背中に手を回し、声をあげて泣き出す。

「ごめんなさい……あたし、いっぱい、いっぱい殺した。そうしないと、生きて来られなくて、そのために何人殺したのか、覚えていない。それが、とてもつらかった」

「うん、そうだったんだよね」

 今なら分かる。

 この子も、辛かったのだ。

 追い込まれてしまった結果、人を殺めてしまった。その辛さを、一緒に支えてくれていた人を無くし、心が崩れてしまったのだ。

 あたしは両親をなくした。この子に殺された。憎しみもやるせなさも、まだある。けれど、この子は放っておけない。

「一緒に行こう」

 洸は少女に言った。少女は涙を止めて顔を上げ、洸を見つめた。さっきまで曇っていたのが嘘のように、瞳は涙に濡れて光る。

 きれいな色だ。

 血の色なんかじゃない。今ならそうと分かった。

 この色は、夕焼け、露を乗せた紅い薔薇。

 燦然と輝く清い光を宿したルビー。

「あたしが、探してあげる」

 そう、あなたの支えを取り戻してあげる。

 洸はそう続けた。そして、少女を見つめて言った。

「あなたを、本当の意味では、一生許せないかもしれない。だけど、今、あたしはあなたを助けたい。だから、一緒に行こう。ねっ」

 洸は、自分も涙で頬を濡らしながら笑いかけた。

 少女は、頷いた。

「うんっ……」

 そして紅い目を笑みに細め、彼女は花開くように笑った。

 涙に濡れて輝きを増す、美しい紅色。

 あなたが支えを取り戻すまで、あたしが代わりになってあげる。

 だから、もう、大丈夫。


 大丈夫だよ。


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