★17 あなたが居ないのなら

 紅恋くれんの瞳は曇っていた。ただ薄く開いているだけの瞳は、人形の目にはまった無機質なガラス球と変わらない。

 黒衣こくいはもう帰って来ないのだろう。

 理由は分からないが、帰って来ない。

 あたしとの約束は簡単に破れるものだったのだ。

 酷く、それが悲しかった。

 もう涙すら零れない。乾くことが無いのだろうかと思った涙さえ、かれるほどに泣いたのだ。

 それともまだ余っているのだろうか。

 しかし余りに悲しみが大きすぎて、もう出て来る事が出来ないのだろうか。

 分からない。

 考えることも出来ない。空っぽ。

 紅恋はがらんどうで、虚ろで、何も無かった。

 自分が生きている事は、息をしているから、鼓動が聞こえるから分かっているが、生きていたくなんか無い。

 彼がもう帰ってこないなら。彼の声がもう二度と聞けないのなら。


 あなたの存在のみで命を保ってきた私。

 死んだって構わない。

 屋敷は広すぎる。

 あたしには、広い。

 二人なら十分だった。二人で笑っていられたから、ここだって楽しい隠れ家だった。

 けれど、あなたが居ないなら、ここは空っぽで虚ろで広すぎる。

 ふと、鮮やかな青い色が頭に閃いた。


 あたしは多くの罪を犯してきたのだ。

 きっと、そう、殺されたほうがいい。

 生きてなんか居ないほうがいい。

 また、あんなことを繰り返すのなら。

 彼が居ないのなら、この世界は意味が無い。

 投げやりになっているだけかもしれない。

 でも、でも丁度、いいじゃないか。

 この辺りで幕を引こう。殺人者の人生に終止符を打とう。

 あたし一人の命では償いきれないほどのことをやって来た事はわかっている、だけど、あたしには自分の命以外何も持ち合わせていない。

 支払える代金替わりのものは、これだけ。

 自分の持っている唯一の物を投げ打って、少しでも償えるとは思っていないけど。

 これは単なる自己満足なのかもしれないけど。

 だけど、あたしは何人もの人に恨まれているだろう。

 その人たちの辛さを、少しでも和らげることが出来たなら、それでいいし、それがおこがましいなら、これ以上罪を重ねないために、死神の腕に身を委ねよう。

 この世界には未練が無い。

 彼が居ないのなら。

 紅恋は心を決めて、そっと瞳を閉じた。

 しかし、彼女はすぐに目を開けることになった。


 扉が重く軋む音がした。


 紅恋は閉じたばかりの目を開き、体を勢いよく起こした。

 途端にめまいが襲ってきたが床に手をついて必死に体を支えた。

 扉に目をやる。

 そこには、

 目が熱くなる。

 涙が次々に溢れて、紅恋の頬を伝った。

「黒衣―――――――っ!!」

 そこには、待ち続けた彼の姿があった。

 紅恋はふらつきながらも立ち上がり、彼に駆け寄ると勢いよく抱きついた。

 言葉が口をついて次々に出てきた。

「黒衣ってば、今までどこに居たの? すぐに帰ってくるって言ったでしょ!? すごく、すっごく、心配したんだからあっ!」

「悪かったよ」

 何かがおかしい。

 ぞっとするほど投げやりな口調だった。

 どうでもよさげな言い方に、紅恋は言いようの無い不安を覚えて、顔を涙で濡らしたまま、彼を仰いだ。

「……黒衣?」

 ぞっとするほど無表情だった。

「こ……こ、くい? どうした、の?」

 紅恋は彼から体を離し、目で訴えかけた。

 彼はにやりと唇を歪めた。いつもの黒衣なら絶対にしないはずの表情を向けられ、紅恋はたじろいで一歩下がった。

「俺が何故帰ってこなかったか教えて欲しいだろ?」

 嫌だ。聞きたくない。

 紅恋は不吉な予感を感じて、首を左右に振った。黒衣はその動作を無視して続けた。

「知りたいだろう? ……教えてやるよ」

「いや……いやだ。やめて」

 紅恋は首を振り続けながら、さらに一歩、後ずさった。

「俺はな」

「聞きたくない―――!」

 紅恋は涙目で耳を塞いだ。

 彼の口から発せられる声は、嘲笑うような調子で塞いだ手の隙間から滑り込んできた。

「もう、うんざりなんだよ。お前の相手をするのがな」

 モウウンザリナンダヨ――

 まるで、心にナイフを突き立てられたようだった。

 紅恋の中で、確実に何かが壊れた音がした。

「何でわざわざ、お前みたいなガキの面倒を見なきゃならないんだ?自分の人生を棒に振ってまでさ」

 耳から手が離れ、だらりと両脇に垂れ下がった。

「お前を拾ってやったのなんか、ただの気まぐれだったってことさ。色んなことにむかついてたんだよ。勝手なことばかり言うまわりや親父に、反抗してやりたかったんだ。お前はその為に丁度よかった。それだけさ」

 体の力が抜けて、膝が折れ曲がった。

「俺は自分の過ちに気付いたんだ。そう簡単には許してもらえないだろうが、罰を食らう覚悟もできてる。それが終われば、また前みたいに暮らせるわけだ。ようするに――――」

 黒衣は言葉を切って、まるで紅恋が傷つくのを見ることを楽しむように、思い切り残酷な顔で笑った。

「お前はもう必要ない」

 糸が切れたように床に膝をついて座り込み、紅恋はうなだれた。

「俺が言いたかったのはそれだけ。ただ、俺もそこまで非道じゃない。仮にも、一応何年か一緒に生活したわけだしな。今更殺すってのもなんだから、生かしといてやるよ―――ありがたく思えよ」

 黒衣は踵を返して扉に手を掛けた。

 そして、ああそれと、と扉の前で振り返るなりまた口を開いた。

 笑ったままだ。ずっと、紅恋をあざ笑い続けている。

「ここに住んでてもいいけど、近いうちに空き家ってことでまた売りに出されるからな。俺の荷物はもう処分した。お前の物は、取り上げる気も無いし好きにしろよ。それだけ」

 彼は最後にまた笑うと、手を振って外へ出て行った。

 また、扉が軋んで、閉じる音がいやに大きく響いた。

 紅恋は動かなかった。

 両目から涙が流れていた。

 あたしはもう必要ないんだ。

 あたしという存在は、彼にとって、それだけの物だったんだ。

 でも、それが悲しいんじゃない。

 だって彼は笑いかけてくれて、抱きしめてくれて、あたしのために、顔を苦痛に歪めてくれたのに。まるで、彼の体も痛むかのように。


 あたしは、一緒に居て、そのまま、ずっとそうしていられればよかった。

 彼にとって、それだけの存在でよかったのに。

 ペットのように寄り添い続ける。それ以上なんて望まない。


 雫が絨毯に染み込んだ。

 あのままで居させて欲しかった。

 残酷な真実よりも、優しい嘘のままでいさせて欲しかった。

 だって、真実はこんなにも痛いんだもの。

「……あはは」

 唇から、笑いが漏れた。

「黙ってて欲しかったな。あたしはもう必要ないんだ。はは……うふふ」

 馬鹿みたい。

 馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい。

 馬鹿みたい―――

「でも、ある意味よかったのかな」

 紅恋はたがが外れたみたいな、調子はずれの明るい声を発した。

 これで、本当に未練は無くなった。楽に死ねる。

「ねぇ黒衣、あなたにとって、あたしは「目的の為の道具」でしかなかったのかもしれないけど、大好きだったよ。

 ううん、今でも、あなたが大好き。

 あなたに裏切られたとは思う。

 だけどそれでも大好きなんだ。

 役に立てなくてごめんなさい。

 ごめんなさい……」

 ふと紅恋は顔を上げて、扉を見つめた。

 彼女の顔は涙で濡れていたが、笑っていた。辛そうな笑顔だ。それでも笑顔に変わりはない。

「ごめんなさい」

「大好きだよ」

「好きなの」

「ありがとう」

 笑顔のまま、彼女は扉に向かって言った。

 彼が去っていってしまった扉に向かって、彼の姿を思い浮かべて。

 世界で一番大切な人に向かって、聞こえないのに、届かないのに、訴え続けた。

「ごめんね。……大好きだよ、黒衣」

 最後の言葉だった。紅恋は目を閉じ、巻かれたねじが切れた人形のように床に倒れた。

 ごめんなさい。

 あたしは罪を犯しました。

 だからもう、殺してください。


 *


「うあああああああああっ!」

 黒衣は激しい苦痛と心を締め付ける苦しさに、床にうずくまってのた打ち回った。

「ああ、あああ、うああああああっ! 紅恋、紅恋、紅恋、紅恋っ……! くれん!」

 嫌だと頭を振って拒否を示す。

 耳を押さえた手が、微かに震えていた。

 何故、言わなければならなかった。

 自分の意思とは関係なく、彼女を傷つけなければならなかった。

 愕然としていた。

 辛い思いをさせないと誓ったばかりなのに、何故、どうして裏切らなければならないのだ。信じられなかった。

「くれ、ん……」

 名前を呼んでも、彼女は現れるはずも無く。

 ぼたぼたと、頬を伝っては落ちる。

 もうとうに枯れ果てたはずの、泣くことなどないはずのこの体なのに。

 涙がとめどなく流れ落ちる。

「いいざま」

 嘲笑を声に滲ませて、彼女は黒衣に言葉を投げつけた。

 見なくとも、それが誰かくらいは分かる。

 激しい怒りが沸きたって、黒衣は床を蹴って立ち上がると、恐ろしい形相で彼女の首へ手を伸ばした。絞め殺してやろうと、伸ばしたはずなのに。

「駄目、あなたは痛みにのた打ち回って居ればいいのよ。無様にね」

 途端に激痛が脳天から足に向かって駆け下りた。

「ぐあああああっ!」

 立っていられない。

 床に倒れこみ、頭を押さえたが痛みは止まらない。

 紅恋の笑顔が脳裏をよぎる。

 涙が止まらない。

 俺はいったい何をしてる?

 護ると誓ったはずなのに。

 美しい長い髪に、輝くような瞳に、花開くような笑顔に。

 なのに、俺が与えたのは、

 愕然とした表情が語る。

 全身をえぐられるような絶望だ。深い、表現しきれない悲しみがあった。

 裏切ったのは、自分だ。

「う、ああああああ……」

「は! これだから、馬鹿なのよね。あなたはいったい何を考えているの? 私なんかよりよっぽど長く生きているのに、馬鹿な誓いをたてて、しかも、破って嘆いて。出来が悪いのねえ。あの子はよっぽど心が広いのね……いいえ、違うわ。拾われたから、反抗もできないのよ。それとも、諦めているのかしら」

「お前は……」

 黒衣は声を絞り出し、目の前で笑う悪女に向かって言った。

「な、んで、こんなことを、するんだ……っ」

「あらら、とうとう頭がおかしくなったの? そんなことどうでもいいでしょう」

 しかし、彼女は唇の両端を上げると、そうねと呟いた。

「単なる私の趣味かしら。だけど、人殺しが普通の少女を装ってにこにこ笑ってるなんて、異常にもほどがあるでしょ。罪を犯した者にはそれ相応の罰を与える。それが道理ってものじゃない?」

「だからって」

「あなた、まだ私に逆らえるとでも思ってるの?」

 B・Bは不機嫌そうにため息をつくと、気だるげに手を上げた。黒衣はまた痛みに襲われると思い身構えたが、彼女は不意に手を止めると後ろの暗闇を振り返った。

「もうこんなこと、飽き飽き。それに私にもやることがあるし……あなたに任せるわ」

 声に応じるように、暗がりから人影がゆらりと現れた。

 黒衣は体を持ち上げようと試みたが、腕は重い体を支えてはくれず、彼は体を床に横たえたままその男を向かえることになった。

 その男は長身で、顔が影になっていて見づらかったが、どうやら自分を嘲笑っているような表情を浮かべていることは分かった。

 黒衣はもう嘲笑われることに慣れてしまっていた。

 自分なら、どうなったっていいんだ。

 もう、元のようには戻れない。

 紅恋はもう、俺のことを振り返って笑ってはくれないだろう。

「……どうにでもなれ」

 黒衣は目を閉じ、平坦で冷たく、硬い灰色の床に顔をつけた。

 しかし、彼もまた、すぐに目を開くことになるのだった。

「やぁ、どうも。俺のことは知らないだろうが、お前は俺を殺した奴のことならよく知っているんだろう?」


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