★16 喪失感

 体が沈む柔らかさが嫌になって、紅恋くれんは広間の床に横たわっていた。柔らかいソファに体を沈めているより、固い床のほうがいい。体の下に、絨毯の柔らかさと床の硬さを感じながら、思う。

 黒衣こくいはまだ帰ってこない。

 どうしたんだろう。呟く気さえも起こらない。声が消え去ってしまったかのようだ。

 魔女に売り渡してしまった記憶は、決して無いのに。

 彼女はぼんやりとした何も無い顔をしていて、宝石のようにきらめいていた瞳は曇っている。

 何か食べなくちゃ。体によくない。そう思っても、身体が動かない。彼女の脇には、もう冷め切ってしまった朝食が置かれていた。それは置かれた時のままで、手はまったく付けられていない。

 すると、白い従者が滑ってきて、どうしよう、とためらうように少しそこにとどまっていた。結局、彼女はトレイを持ち上げて冷めた朝食を下げていった。紅恋は止めなかった。顔だけを扉に向けて、彼が早く帰ってこないかと祈るだけだ。

 昨日も何も食べていない。

 食べる気などしなかった。

 あの後また寝てしまって、起きたのは夕方だったけれど、黒衣は何処にもいなかった。邸を隅から隅まで探したのに、何処にも。

 そう、居ないなどと思いたくないけど、もし居ないと分かったら絶望が波のように押し寄せるだろうが、探さずにはいられなかった。

 どこ?

 あなたはどこ?

 探しているの。大切なあなた。

 ねぇあたしは寂しいわ。どこに居るの?

 意地悪しないで。出てきてよ。


 一つ一つ、扉の前に立ち、彼は居るだろうかと期待して扉を開く。

 そこに人影は無い。

 一つ扉を開ける度に、開けていない扉が、また一つ減る度に、不安が大きくなる。

 彼はどこにもいないんじゃないか。

 もう、ここにはいないんじゃないか。

 居ないんじゃないかという不安、居て欲しいという期待が胸を締め付けた。


(黒衣、黒衣、黒衣、黒衣)


 心の中で愛しい人の名前を呼ぶ。口に出すと寂しさがこみ上げる。だから、口には出さず、心で悲痛に声をあげる。そして、最後の扉になった。最後の最後に回した、彼の部屋だった。居るとすればここだろう。ならば、ここに居なければ、彼は居ないと言う事が自分の中で決定的になる。

 早く見たい。けれど見たくない。そう思って、ずっと最後に回した扉のドアノブに、そっと手を掛ける。

 深呼吸をして、扉を開く。


 空っぽだった。


 そこには、誰も居なかった。

 真っ直ぐ、目の前にある彼の椅子。

 普段なら、すぐにくるりとそれが回り、そこに座っている人物が立ち上がって、彼女に向かって声を掛けるはずなのに、

「どうした? 紅恋」

 声は無い。

 椅子は、いくら見つめても動かない。

 紅恋は駆け寄って、椅子を動かした。空だった。影も形もない。

 それで彼がここに居ないことが決定的になった。信じたくなかったのに、空っぽの彼の居ない空間はその事実を知らしめるばかり。

 痛いくらいの無音が体に突き刺さった。


 どうしたの?

 何で帰ってこないの?

 どうしたの?

 あたしのことが嫌いになったの?

 どうしたの? どうして?


「あたしは、あなたが居なければ、駄目なのに」

 紅恋は部屋を出た。

 絶望に打ちのめされ、ふらふらとおぼつかない足取りで階段を降りて広間の床に崩折れた。

「こくい……」

 孤独感に負けて口に出してしまった。やはり寂しさを増大させるだけだった。

 限りなく小さく囁かれた名前は、広すぎる空間に吸い込まれていって、消えた。

 この屋敷が、こんなにも広いとは思っていなかった。

 広すぎる、あなたが居ないだけで。

 霧でできた従者が昼食を持ってきた。それは横たわったままの紅恋の脇に置かれたが、彼女は扉を見つめたまま手を伸ばさなかった。


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