☆15 最悪気分
銀色の床に、靴が硬い音を立てた。
そこには何本もの蛇のようなコードが這い回っている。部屋の奥は真っ白な煙でいっぱいで、そこだけが修正液で塗り潰されたかのように何も見えない。立ち込めた白い煙の間から、ぬっと人影が現れた。
「やぁ、B・Bじゃないかぁ……」
「こんにちは、ドクター」
「何の用だぁい?」
B・Bはにっこりと微笑むと、片手をつとのばし彼の目の上に翳した。
「え……?」
「ごめんなさいね。あなたにも協力してもらうわよ」
「なっ……び、B・B?」
驚いている彼の頭に、さぁっと霞が掛かって来た。
何だ?
これは何だ?
何故だ。
考えが真っ白に塗り潰されるように、どんどんと薄れていく。
なんなんだ。
助けてくれ
なぜ?
あのこたちがあぶない
逃げてくれ。にがさないと
それらがすっかりと消えた時、彼の目からは光が消えた。顔は空っぽになっていて、何の感情も読み取れない。口が、言葉を紡ぎだそうとしてどうしてもできず、中途半端に開いていた。彼は支えを失った人形のように膝を折って、銀色の床に倒れ込んだ。
B・Bは倒れそうになった笹舟の身体を支え、手近な椅子に荷物を投げ出すように座らせた。そして、彼女は嬉しそうに目をぎらつかせながら、その目を暗くなった彼の目と合わせた。
「笹舟博士? 返事をしなさい」
「……はい」
一拍置いて、半開きのままほとんど動く事無く、彼の口からもやっとした声が出た。彼の目はB・Bの目を見ているが、ぼんやりと曇っていて焦点が合っていない。
「それでいいわ。あなたにはこれからしばらく、私の言う事を聞いて欲しいの」
「……はい」
「あなたは、これから
「……はい」
B・Bはバッグから腕時計を取り出した。デザインは多少違うが、いつか聡貴が着けていた物と少し似ていた。
「これは何かしら?」
「……高機能腕時計」
「そうよ。あなたは洸が来たらこれを渡して、赤く光っている所が目指すものが在る所だと伝えなさい。使い方は分かってるわね」
「……はい」
「それから私がここから出て行ったら、私が来たこと、そして指示を与えたことは忘れなさい」
「……はい」
そう言うと彼女は唇の両端を吊り上げて、さらににんまりと笑った。そして、おもむろにきちんと手入れのされた手で、まだぼんやりとしている彼の白い頬に触れる。
「かつてあなたは私達の主人だった。けれど、今は私達があなたの主人なのよ」
そして唇が弧を描き、妖艶な動きで言葉を放つ。
「主人の命令は絶対……でしょう?」
「……はい」
B・Bは彼の目にしっかりと自分の目を合わせているが、彼の目はぼんやりと曇ったままで合っていない。見ているではなく、それは目に入っているだけ。翳んで曇った脳のほうには、ただ、大きな金色の強烈な光が焼きついているだけ。彼には、それがB・Bだとは分からない。その光から発せられる指令に従わなければならないと言う事しか、彼には分からないのだ。
「いい子ね」
B・Bは笹舟の頬から手を放し、時計を椅子の近くの机の上に置いた。
そしてまた靴音を響かせ、入り口に向かった。彼女はそこを出る前に振り返った。
「そうだわ、あの子には、自分は事情が分かっている。と言う振りをしなさい。どうせ知っているでしょ。あなた、見かけの割に頭が切れるから。私が記憶を消したのに、私のことにも、薄々勘づいていたみたいだしね。私たちの考えについて調べたデータは消去しなさい」
「……はい」
B・Bはそう言うと、声に出さずにまた、いい子ねと呟いてするりと蛇のような動きで入り口を出て行った。笹舟は彼女が出て行った直後にぱちりと目を開けた。
「あれ!? 僕はどうしていたんだ? おかしいな。実験をしていたはずなのに……」
笹舟は二度三度と瞬きをして、椅子から立ち上がると首を捻った。目には光が戻っている。しかし、その光はどこかおかしい。
「そうそう、洸ちゃんに手紙を書くんだっけ」
自分の口調が妙にきびきびとしている事に、彼は気付いていなかった。
そのまま机に向かって、メモ用紙を取ると書き出した。
「これでよし。青一、これを持って行ってくれないかい?」
青一はいやいやをするように身体を震わせた。
「どうしたんだい? 青二まで?」
青二も揺ら揺らと不安げに火が大きく揺らいでいる。
「おかしな奴らだな。ほら、頼むよ」
彼は普段からは想像も出来ないように爽やかに笑うと、青一にメモ用紙を押し付けた。一瞬燃え上がるかのように火が強くなったが、メモは青一の身体の中で、動きに合わせて上下している。
青一と青二はどうしようと顔を見合わせてそこに浮かんでいたが、しばらくすると諦めたかのようにふうっと入り口から出て行った。
*
真っ白が目に飛び込んできた。
「うっ……」
洸は腕を上げて目をかばい、目が慣れるのを少し待った。
何度か目を瞬かせてからあたりを見ると、そこは彼女の部屋だった。
(あたし、どうなったんだっけ)
「洸」
「B・B……」
聞きなれた声だった。見なくても分かる。彼女が部屋の中にいることに気付かなかった。急に現れたB・Bに目をやり、洸はまただと思った。体を起こして、顔には出さないように勤めたが、洸はだんだんとB・Bに対する不信感を抱き始めていた。
何故、いつもこんな風に気配を感じさせないのだろう。
任務中ならわかるけれど、今は必要だとも思えないのに。
洸の疑問に答えるわけでもなく、B・Bはいつも通りの口調で聞いた。
「気分はどう?」
「……まぁ、まぁ」
「そう」
よかったと彼女は笑みを作った。何度も見ているその笑みも、どこか作り物のようで安心することが出来ない。今はなおさらだった。
「あなた達があそこで出会うなんて私にとっても予想外で、あんな風に力が暴走するとは思っていなかったから……貴方の体に影響を与えていないと良いんだけど」
その言葉で、堰を切ったかのように記憶が流れ込んできた。断片的に一瞬ずつ、映っては消える。
紅い色……
紅くて、長い髪……
紅い瞳……
驚いた表情……
全く、
同じ顔……
「洸!」
はっとして洸は顔を上げた。B・Bは少しだけ青ざめて、驚いたような顔をしている。
「どうしたの? やはり体調が悪いのかしら」
「B・B!」
洸は叫んだ。激しすぎる声音だった。
「あいつを追わせて! 今すぐ!」
逃げられる。あいつに逃げられてしまう。
そう思うと、一瞬たりともじっとしていられない気持ちになった。
「洸、落ち着いて……」
「あたしなら大丈夫だから!」
洸は体に掛かっていた布団を乱暴に跳ね除け、ベッドから飛び降りるようにしながらブーツを履いた。
「待ちなさい!」
「待てない!」
「待ちなさいっ!」
今すぐに追わなくては追わなくては追わなくては追わなくては……追わなくてはいけないいけないいけない、それだけがあたしの役割でやらなければならないことで
「待ちなさい!!」
B・Bは鋭い声を投げた。
即座に身体の芯を揺さぶられるような衝撃が洸を襲う。声が体にナイフのように突き刺さったみたいだった。
「うぁあっ!」
「待ちなさいと言ったのに」
そのショックに思わず叫び声をあげる。体中が痛い! 体が動かず、なすすべなく床に倒れこむ。骨に響く痛みと痺れで、立つことが出来ない。歯がゆくてどうしようもないが、すぐには動けそうになかった。
洸はB・Bが苛立ちを抑えた表情で近寄ってきて、自分を抱き上げ、ベッドの上に座らせた事にも反発しなかった。彼女はベッドに腰掛け、凛とした声を発した。
「少し落ち着きなさい」
「落ち着けないっ! こんな時に……」
「落ち着きなさい!」
強い声を聞かされて、またショックを与えられてはかなわない。と洸はしぶしぶ口をつぐんだ。
「落ち着きなさい。こんな時だからこそ」
「……あなたは、あたしがここに来た時、あいつを追うことができると言った」
「いい、洸」
B・Bは真剣な表情で、説得するように言い聞かせた。
「あなたはあそこであった事でパニックを起こして、興奮しているのよ」
「そんな事無い! お願い今すぐ……」
「黙りなさい」
洸は黙る気がないのに何故か黙らなければならなかった。
唇が動かないし、舌も、まったく力が入らない。
これが彼女の能力なのだろうか。
「……あなたはあの子を追ってどうするつもり?」
洸は目を逸らした。
「両親の仇を討つ」
ぐっと洸は唇を噛んだ。
「……そんな事考えてないわよね?」
洸はB・Bを睨みつけた。納得できない、という意思表示だった。
「いい、洸。ここでは殺人は不名誉なことだわ。あなたがそんな事をしたら、私はあなたを軽蔑するでしょう。そして、それを知ったら……チームメイト達はどう思うでしょうね」
胸が詰まった。
「洸、確かに私は追ってもいいと言ったわ。けれど、そんな風に考えて欲しくなかった。ここに来たばかりの頃、あの時のあなたは張り詰めていて、触れたら壊れそうだった。あんな状態から救いたかったの。その為に、追ってもいいと言ったのよ」
洸は黙ったままだった。
B・Bは優しさを装っているのか?
この言葉は真実なのか?
筋道は通っているように感じるし、態度も真摯に見える。
けど……
「同じ年頃の子達と一緒にいれば、あなたも変われるんじゃないかと思ったのよ。現に、今、楽しいでしょう?」
そのとおりだ。
あの時から、いつも一人だった。自分が嫌だった。弱い自分が。その弱さを見せないために、精一杯強がっている自分が嫌いだった。そして、そうでもしなければ自分を保っていられなかった自分が嫌いだった。
一人抱えているのが辛かった。
この青い髪。
綺麗だと思う。自分でも好きだ。けれど、やはり何も知らない人からの目は必ずここに向かい、そして、たいていの人に眉をひそめられる。誰もあたしのことを分かってくれない。何一つ事情を知らないのだ。仕方ないとは思う。
だけど。
その思いはいつも付き纏う。だから、やっぱりどこかで嫌いだった。
普通の黒い髪でよかったのに。
どこかでそう思っていた。
中学に入ってすぐクラスの人間に感じたことは、なんて低レベルなんだろうと言う事だけだ。いじめを見て見ぬ振りをして、そこに本人が居ないかのように目の前で悪口を言って、下品な笑い声を上げて。
今思えば、彼らも辛かったのかもしれない。そうしなければ自分を保てなかったのかもしれない。けれど、やはり彼らとは自分は違う。
少しだけ、淡い希望を抱いていた。打ち砕かれてそれが分かった。マンガや小説の読みすぎだと自分に呆れ、苦笑しながら心で泣いた。
彼らは浅すぎる。彼らは浅瀬でふざけ合い、あたしは、深いところで膝を抱えて一人待つ。待っていてもどうにもならないと諦めていたが、でも、やはり待つことを諦めきれずに。誰か、誰か、分かって欲しい。
訴えても、空ろな木霊さえ帰ってこない。それに耐えられなくて、時折、ほんの少しだけ顔を上げて助けを求めてみたりする。だけどそれは、やっぱり口には出していないから。誰も、気付いてくれなくて。心のあたしは、悲しそうにまた、抱えた膝に顔を埋める。そして、また耐えられなくて、口を開く。
その繰り返し。
だけど、だけど、
オレンジと紺のグラデーションが掛かった空に、緑色の一対の翼があたしをさらう。怯えるあたしに目を開かせる。
ほら、見てみなよ。
振り向いて歯を見せる。
君は決して一人じゃない。
涙で濡れた顔を拭いて、嘘みたいと思いながら、光を見つめる。けど、目が覚めるのを恐れて動けない。こんなもの、ほんとはあたしを期待させて消える、そう、夢と希望でできた泡みたいなものなんでしょ?
問いかけるあたしに強情だなぁと彼は笑って、手を差し伸べる。その手を取り、ちょっとだけ勇気を出して、こわごわと立ち上がると……そこには、笑顔と深いところまで迎えに来てくれた仲間がいた。
チームの皆と一緒にいて、どれだけ楽しかっただろう。
ここに連れて来られる前の何年かよりずっと、最近の数ヶ月の方が充実したものだった。その、皆に嫌われる?
リタ。
快活で気が強くて、それで頼れる人。揺れる銅色の髪は楽しげに、あたしが怖がる暇も無いくらい、ぐいぐいと引っ張ってってくれる。
怖がってたら、楽しい事だって手に入らないのよ?
まるで、そう言ってるみたいに。
スー。
同い年なのに、どこか年下のような気がする。けれど時々、大人のように優しく笑う。その笑顔は、あたしにお母さんを思い出させる。彼女が笑うたび、お母さんの優しい思い出が蘇る。大人しくて、心配性。自分よりも他の人を気に掛ける、とっても優しい女の子。そんなところに、少し、憧れてる。
あたしよりも二つ年下で、身長だって頭一つ分も下なのに、そこから見上げてくるつり上がり気味な目とへの字の口はいつだって偉そう。
細い首で支えた頭は鋭く切れる。それには凄く驚かされた。クールに決めてて、しかもそれが似合ってるのに龍巳と言い争ってる姿は歳相応で、弟みたいで、可愛いかもしれないって思う。
デリスト。
あたしより三つ年上だから、大人っぽいといえば当たり前なんだけど、背が高くて手が大きくて、失礼かなと思いつつ、お父さんみたいだとつい思ってしまったこともある。
ところがその背を気にしてたり、一番の年長という立場だからかみんなの世話を焼こうとしては失敗したり。お父さんみたい。でも、お兄さんみたいでもある。
そして、そう。勿論、
ひーちゃん!
「
ふと、零れる様に口をついて出た名前。
うっとおしいけど、面白かった。腹を立てて、けど、心は笑う。呆れてみるけど、少しだけ、感心する。いつもいつも笑っていて、笑わせてくれて。ただ陽気な彼に救われたところも、少なくは無い。
龍巳のおかげでいつも笑っていられた。
皆と一緒に……
それなのに、
それが、今の関係が壊れてしまうの?
あたしが敵を追って行くから……
嫌だ。
皆に嫌われるなんて、耐えられない……。
「……ね? 分かったでしょう?」
B・Bは俯いた洸に、ことさら優しげに微笑んだ。
「今日はゆっくり休みなさい。明日の様子では、休みをとってもいいわ。また相談しましょう。あなたには休養が必要だものね」
彼女は立ち上がって、ゆっくり休みなさい。と言うと出て行った。洸は目を伏せて考えた。皆には嫌われたくない。
けど、お父さんとお母さんを殺したあいつ……
強く手を握り締める。
あいつは、けして許せない。
黙って見過ごすなんて……できない。
……絶対に。
どうしたらいいの?
「誰か教えてよ……」
そう言って、身体をベッドに倒した。
口を歪めて自分を笑う。分かってる。自分の道を決めるのは、自分にしかできない。そんな事分かってる。でも、それはとても難しい……。とても面倒に思えてしまう。億劫だ。このまま、眠ってしまって全てが終わってしまえばいいのに。
その時、目の端に動く青い物が見えた。洸は体を起こした。そこに居たのは、ふわふわと漂う二つの青い人魂たちだった。
「あ。あんた達、笹舟博士のとこの……」
人魂はぴょこぴょこと上下して、肯定の意を示した。
「えーと……どっちがどっちだったっけ?」
右の人魂が一度上下し、左の方が二度上下した。
「あ、そっちが青一。で、こっちが青二か」
彼らはぴょこぴょこと動いた。
そして、青一の方が洸の所に来ると、彼女の膝の上に、ぽとん、と彼の体の中に入っていた物を落とした。
「え? 何、これ」
四つ折になっているメモ用紙だった。洸はそれを摘み上げて、はてなマークを頭に浮かべたが、迷わずすぐメモ用紙を開いた。
「!」
細い字で書かれた文章は短い物だった。
「洸ちゃんへ
渡したいものがあるんだ。能力開発室に来て欲しい。
笹舟
追伸
君がもし彼女を追いたいのならば、これはきっと役に立つはずだ」
しばらくそれを見ていたが、おもむろに立ち上がると、脇に置かれていたバッグを取ってメモを入れた。
「青一、青二。ありがとね……能力開発室に、連れてってくれる?」
青一、青二は洸の青く輝いている目を見るとしばらく戸惑っていたが、燃える体を翻すと、先に立って飛び始めた。
どうしても、とめられないんだ。
服を握り締めて、洸は開発室への道を急いだ。
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