★9 約束

 紅恋くれんは買った物を自分の部屋に慌ただしく置いて、身を翻して廊下を走った。こんな時、絨毯の存在はありがたい。足音が響かないからだ。黒衣の部屋の前、飴色をした厚手の木のドアの前に立って、急にノックしようとした手がためらう。

(どうしよう)

 汗ばむ手を握り締めた。不安でたまらない。それは確かだ。でも、あたしはいつも黒衣こくいに頼ってばかりだ。その思いが手を絡めとり、今ここにとどめている。

 深紅の絨毯を踏みしめ、台の上の陶器の花瓶、白い花に問いかけるように見つめられる。

 言った方がいいのだろうか。下手な心労を抱かせるだけではないのだろうか。もう赤ん坊ではない、甘えてばかりでは居たくない。

 そう思った瞬間に、氷の塊を飲み下したような感覚に陥る。下腹部が冷える。足元の支えを外されたみたいに、不安になった。顔をゆがめる。自分の呼吸を確かめる為に、口で息を繰り返した。

 ひょっとしたら勘違いかもしれない。

 勝手に敏感になっているだけかも。

 そう、特に自分には空想癖がある。たまに、被害妄想とも呼べるような。

 ―――紅恋はいつも、俺には思いつかない事を言う。そう言って、黒衣も笑っていた。

 黒衣の笑顔を思い出したら、速くなった呼吸が落ち着いた。滲んだ汗をスカートに擦り付けて拭う。もう大丈夫だ。ちょっとだけ強くなったような気持ちで、口の端に小さく笑みを浮かべて、紅恋は扉を振り仰いだ。言わない事にしよう。ゆっくり、扉の手前で一度手を止めてから、二度控えめに扉を叩く。

「どうぞ」

 返事の後、紅恋は部屋の中に滑り込んで、後ろ手に扉を閉めた。手には雑貨屋の店主からもらったチケットが、しっかりと握り締められている。

「黒衣、ただいま。買い物してきたよ」

 そうか、と振り向いて疲れたようにまぶたを押さえる。きっと、何か魔術の作業でもしていたのだろう。

「欲しい物は買えたか?」

「うん、ちゃんと、足りない物全部買ったよ。あと、それでね、雑貨屋さんにも寄ったの。ほら、石鹸とか、足りなくなってたし」

「……それで?」

 からかうような少し語尾をあげた訊ね方。

「……あ、他にも、ちょっと、買ったけど」

「また妙で不思議な物を買ったんだろ」

「い、いーじゃない。可愛いんだよ。可愛いんだから」

「まあね、それくらい構わない。なんなら家を動物園にしてもいいぞ。あの、部屋にごっそり並べてある不思議な生物で」

「黒衣!」

 けらけらけらけら、と明るく笑う。顔を赤くして怒っているのに、ちっとも迫力が出ないせいか、お腹を抱えてくの字になっていた。

「あはははははぁー………あの紫のブタウシはなんだよ。縞模様だったぞ、しまもよう。あと、緑色した、犬ウサギ」

「か、勝手に覗かないでよ! 可愛いんだから、いいの!」

「あはははは」

「黒衣ってば! 怒るよ!」

「もう怒ってる」

「そうじゃなくて!」

 黒衣はひいひいぜいぜい喘いでいた。それでも途切れ途切れに笑いが挟まる辺り、ツボに嵌ってしまって抜けられないのだろう。紅恋が真っ赤になって足を踏み鳴らすと、ようやく体を起こして、滲んだ涙を指でこすった。

「ふう……それで?」

「黒衣ってばもう、やだよ。なんでそんなに笑うの?」

「いや、それは勿論おかしかったからなんだが。……あー、すまなかった。ごめん」

 むすぅっとした顔をしてやったら、真面目くさって頭を下げた。しかし当然冗談半分だ。だって、まだ、肩が震えている。手もきつく握り締めているのに、膝の上でぶるぶるしていた。気分的にすんなりとは行かなかったが、ここで意地を張ったってしょうがない、むしろ馬鹿馬鹿しい。紅恋は一歩譲る事にした。

「それで、おじさんがチケットをくれたの」

「そうか、なんの券だ?」

 笑みが顔に浮かんだ。想像の賑やかさが鮮やかにまぶたの裏にはじける。

「明日、お祭りがあるんだって! それで、広場で細工物市をやるの。銀細工とかもあって、雑貨屋のおじさんの知り合いの人もお店を出すんだって。そのサービス券なんだって言ってた! ねえ、行こう! ……あ、黒衣が外苦手なのはわかってるよ。でも、夕方になってから行けば……いいでしょ?」

 ねぇねぇと問いかける紅恋に、黒衣はしばし考えるような仕種をしてから、顔を上げた。笑顔だった。紅恋は顔を輝かせた。

「いいだろ。たまには気晴らしが必要だしな」

「やったぁ!」

 紅恋は両手を挙げて万歳の姿勢をとった。その後、はっと気づいたように叫んだ。

「いけない! 買ったもの置きっぱなしだった!」

 だっと部屋から走り出ていく。だが、姿が消えたと思ったら、すぐに部屋の入り口から顔を覗かせる。満面の笑みで、こう言った。

「ありがとうっ!」

 黒衣は微笑み返すと扉に背を向けて机に向かった。扉が閉まる音。扉を挟んで、紅恋の走っていく足音が聞こえた。そして、何かが静かに近寄ってくる気配がした。

「ああ、コーヒーを頼む」

 黒衣は振り返りもせずに頼む。黒衣の背後にはふわふわと漂う白いものがいた。白いものは、するすると伸びて姿を長いドレスを着た給仕に変えると、霧のような声で「わかりました」と答え、軽く頭を下げるとその姿勢のまま床に沈んでいった。

 ちなみに、黒衣の部屋の下は、台所だった。

 主人の指示に動く従僕は、珍しく主人が上機嫌であることを感じ取っていた。

 ふわ、とわずかに浮き立った気持ちがドレスの裾に現れた。


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