★9 約束
(どうしよう)
汗ばむ手を握り締めた。不安でたまらない。それは確かだ。でも、あたしはいつも
深紅の絨毯を踏みしめ、台の上の陶器の花瓶、白い花に問いかけるように見つめられる。
言った方がいいのだろうか。下手な心労を抱かせるだけではないのだろうか。もう赤ん坊ではない、甘えてばかりでは居たくない。
そう思った瞬間に、氷の塊を飲み下したような感覚に陥る。下腹部が冷える。足元の支えを外されたみたいに、不安になった。顔をゆがめる。自分の呼吸を確かめる為に、口で息を繰り返した。
ひょっとしたら勘違いかもしれない。
勝手に敏感になっているだけかも。
そう、特に自分には空想癖がある。たまに、被害妄想とも呼べるような。
―――紅恋はいつも、俺には思いつかない事を言う。そう言って、黒衣も笑っていた。
黒衣の笑顔を思い出したら、速くなった呼吸が落ち着いた。滲んだ汗をスカートに擦り付けて拭う。もう大丈夫だ。ちょっとだけ強くなったような気持ちで、口の端に小さく笑みを浮かべて、紅恋は扉を振り仰いだ。言わない事にしよう。ゆっくり、扉の手前で一度手を止めてから、二度控えめに扉を叩く。
「どうぞ」
返事の後、紅恋は部屋の中に滑り込んで、後ろ手に扉を閉めた。手には雑貨屋の店主からもらったチケットが、しっかりと握り締められている。
「黒衣、ただいま。買い物してきたよ」
そうか、と振り向いて疲れたようにまぶたを押さえる。きっと、何か魔術の作業でもしていたのだろう。
「欲しい物は買えたか?」
「うん、ちゃんと、足りない物全部買ったよ。あと、それでね、雑貨屋さんにも寄ったの。ほら、石鹸とか、足りなくなってたし」
「……それで?」
からかうような少し語尾をあげた訊ね方。
「……あ、他にも、ちょっと、買ったけど」
「また妙で不思議な物を買ったんだろ」
「い、いーじゃない。可愛いんだよ。可愛いんだから」
「まあね、それくらい構わない。なんなら家を動物園にしてもいいぞ。あの、部屋にごっそり並べてある不思議な生物で」
「黒衣!」
けらけらけらけら、と明るく笑う。顔を赤くして怒っているのに、ちっとも迫力が出ないせいか、お腹を抱えてくの字になっていた。
「あはははははぁー………あの紫のブタウシはなんだよ。縞模様だったぞ、しまもよう。あと、緑色した、犬ウサギ」
「か、勝手に覗かないでよ! 可愛いんだから、いいの!」
「あはははは」
「黒衣ってば! 怒るよ!」
「もう怒ってる」
「そうじゃなくて!」
黒衣はひいひいぜいぜい喘いでいた。それでも途切れ途切れに笑いが挟まる辺り、ツボに嵌ってしまって抜けられないのだろう。紅恋が真っ赤になって足を踏み鳴らすと、ようやく体を起こして、滲んだ涙を指でこすった。
「ふう……それで?」
「黒衣ってばもう、やだよ。なんでそんなに笑うの?」
「いや、それは勿論おかしかったからなんだが。……あー、すまなかった。ごめん」
むすぅっとした顔をしてやったら、真面目くさって頭を下げた。しかし当然冗談半分だ。だって、まだ、肩が震えている。手もきつく握り締めているのに、膝の上でぶるぶるしていた。気分的にすんなりとは行かなかったが、ここで意地を張ったってしょうがない、むしろ馬鹿馬鹿しい。紅恋は一歩譲る事にした。
「それで、おじさんがチケットをくれたの」
「そうか、なんの券だ?」
笑みが顔に浮かんだ。想像の賑やかさが鮮やかにまぶたの裏にはじける。
「明日、お祭りがあるんだって! それで、広場で細工物市をやるの。銀細工とかもあって、雑貨屋のおじさんの知り合いの人もお店を出すんだって。そのサービス券なんだって言ってた! ねえ、行こう! ……あ、黒衣が外苦手なのはわかってるよ。でも、夕方になってから行けば……いいでしょ?」
ねぇねぇと問いかける紅恋に、黒衣はしばし考えるような仕種をしてから、顔を上げた。笑顔だった。紅恋は顔を輝かせた。
「いいだろ。たまには気晴らしが必要だしな」
「やったぁ!」
紅恋は両手を挙げて万歳の姿勢をとった。その後、はっと気づいたように叫んだ。
「いけない! 買ったもの置きっぱなしだった!」
だっと部屋から走り出ていく。だが、姿が消えたと思ったら、すぐに部屋の入り口から顔を覗かせる。満面の笑みで、こう言った。
「ありがとうっ!」
黒衣は微笑み返すと扉に背を向けて机に向かった。扉が閉まる音。扉を挟んで、紅恋の走っていく足音が聞こえた。そして、何かが静かに近寄ってくる気配がした。
「ああ、コーヒーを頼む」
黒衣は振り返りもせずに頼む。黒衣の背後にはふわふわと漂う白いものがいた。白いものは、するすると伸びて姿を長いドレスを着た給仕に変えると、霧のような声で「わかりました」と答え、軽く頭を下げるとその姿勢のまま床に沈んでいった。
ちなみに、黒衣の部屋の下は、台所だった。
主人の指示に動く従僕は、珍しく主人が上機嫌であることを感じ取っていた。
ふわ、とわずかに浮き立った気持ちがドレスの裾に現れた。
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