☆9 battle

 扉をくぐると、さっきのホールをサイズだけ機械にかけて縮小したような場所に出た。ただ一つ違うのは、壁に「209ブロックステーション」とされたプレートが張り出されている事くらいだ。

「早く来なさい! 置いてくわよ」

「わぁ! ごめん、待って!」

 当然、四人の姿はすでにそこにある。その中で、リタが腕を組んで待ち受けていた。彼女の冷ややかな視線を確認した瞬間、歩く速度が猛烈に上がる。いい加減遅過ぎるわとリタが鼻を鳴らして、ひかりは慌てて両手を合わせた。

「ごめんっ!」

「んーったくもう……あんたたちはねえ! こんな時に何してたのよ!」

「ごめんなさい! あー、その……龍巳たつみが、ゲームから離れなくて」

 それを聞いた途端、全員の顔が全く同時にまあそんなところだろうと呆れの表情を浮かべる所が、彼らが龍巳と共に過ごした時間の長さを物語っていた。要するに、あいつにどれだけ苦労させられたかと言う事がわかる。

「もー、まーったく龍巳には手を焼かされるわよ、いつも」

「確かに。―――でも」

「え?」

「ただね……あいつ、それでも場所はわきまえてると思うよ。うっとおしいことには変わりないけど」

「……そう?」

 うん、と頷く聡貴。やや不服そうな顔つきなのは、やはり自分の言った言葉の意味するところが気に食わないのだろう。龍巳を嫌っているはずの聡貴が発した、まるで弁護するようなセリフに、洸は眉を寄せた。感じた疑問をそのまま口に出そうとしたその時、目の前を緑の影が通り過ぎた。顔に風が吹き付けて、洸の左手の方向、少し離れた場所に龍巳が翼を数度はためかせて着地する。

 わざわざあれだけの距離を飛んでくるとは、絶対に見かけ重視だ。それとも、遅れている自覚があるからこそ、少しでも早く、と飛んできたのだろうか。

「……お・ま・た・せ☆」

「遅れている自覚」説は、洸の脳内で即座に却下された。「説」は頭蓋骨の中をバウンドし、すぐさま闇に葬られた。そんな情景が即座に浮ぶぐらいに馬鹿馬鹿しい。

「…………あんた、馬ッ鹿じゃない?」

「げっ、リタひっど!」

「悪いが俺も、今度ばかりはリタに賛成」

「左に同じ」

「……まあ、あたしも」

「うわ、何でこんな時ばっかり団結する? いっつもそーじゃん! 健気なたつみん一人をみんなでいじめくさって! ヒド星人!」

「ごめんなさい、ちょっと否定できません……」

「スーまで!? ひっど!」

 そんなあ。情けない声をあげてよよよと泣き崩れる龍巳。しかし誰も動揺しない。冷めた顔で、ただその様子を見やるだけだ。そんな中で唯一まだ好意的なのはスーだけだった。苦笑を交えた困り顔で、諭すように声をかける。

「龍巳さん、ほらもう、行かなきゃならないって知ってるでしょう? そろそろ行きますよ」

「はーい。ごめんなさーい」

「ったく、甘いわよスー。こういう奴には締める所はきちっと締めて、厳しく接しないと」

「お前も大概返事ばかりだよな。もうちょっと、こう、なんとかならないか……まぁ、ならないよな……」

「うわ、心外! んなことないぜー! お前らはまだ俺の本性をしらーん!」

 龍巳はえっへんと胸を張った。反り返った姿を見て、洸は首を左右に振った。ため息が出そうだ。まだこれからだというのに、気力が思い切りそがれていく。こんなんでやっていけるのかと、疲れたため息がやはり零れた。

「まあ……とにかく早く行こう。いいかげん時間も無駄にしちゃったし」

 あいつはほっといて。洸が歩き出すと、龍巳は殺生なーと言って泣きすがって来る。指はがっちりとジャケットの裾を捉えて離さなかった。それでも洸はずるずると龍巳を引きずって進んだ。うっとおしい。

「ひーちゃんってば、酷くない? ちゅーか酷いよね。寂しいよ俺は」

「あのさ、もうちょっと人の迷惑を考えてくれない? 重いんだけど」

 龍巳が名残惜しそうにジャケットを引っ張りながらしぶしぶ指を離して、ようやく荷物が取れた洸は、やっと前方に注意を向けた。

「あれ、あの扉は?」

「どうやらあれが出口みたいだな」

「とりあえず、ほらデリスト」

 返事代わりにデリストはステーションに一つしかない扉にカードを扉に差し込んだ。横開きの扉の中心に、カードが刺さる。ホールの広さを考えると、扉がぽつんっと一つしかないのはどうにもおかしかった。まあそれも、洸の知らない技術でどうにかなっているのだろう。

 扉が開くと、その中は丸い筒形の部屋だった。デパートにあるようなエレベーターを、一回り大きくしたぐらいの広さがある。

 ごくりと喉仏を上下させて、デリストが中に入った。他のメンバーもそれに続く。部屋の中へ入ってわかった。それは本当にエレベーターなのだった。壁一面にいくつもいくつもボタンがある。それぞれのボタンの下には、行き先が小さな字で書かれていた。

「ほら、今度は聡貴、あんたの番よ。わかるでしょ。一体どれなのよ」

「僕? ああ、ちょっと待ってよ。えーと確か、この構造には覚えがあるから………あの教材の………125ページ。今日の任務、待機位置に最も適した場所……と」

 並び順から考えてとぶつぶつ呟きながら目で追って、聡貴は一つのボタンを指差した。

「たぶんそれ。書いてあるだろ」

「〝リピスニア〟トングル一丁目 これでいいんですか?」

 スーは聡貴が首肯したの確認して、丸いボタンを押した。小さな唸りと共に扉が閉まり、軽い振動に体が包まれる。スーが天井を仰いだ。

「えっと、スー? ……何してるの」

「あっ、あたし、エレベーターは苦手なんですよ。上がるのも下がるのも……」

 こうしてると楽になるって聞いたことがあって。ぎこちなく微笑む。そうと洸は返事をして、寒くも無いのにジャケットの前を合わせた。スーの言う事は本当なのだろうけど、少しだけ言い訳のように聞こえた。初めての任務……不安なのだろう。洸には、自分を落ち着かせるため、あえてそうしているようにも思えた。その気持ちは、わかる。ジャケットの前に触れた手が、微かに震えていた。努力しても止めようが無く、小刻みに震えている。

 自分も緊張しているのだろう。認めたくは無いが、そう思うといつもより体も強張っている気がする。

 張り詰めた空気の中では、時間が停まっているのではないかと心配になる。だから、しばらくしてお馴染みのベルの音が鳴った時には、洸は急に現実に引き戻された気分になった。

「着いたみたいね」

 すると横開きだったはずの扉が、外側に向かって押し出された。一瞬みんなが当惑して、押せばいいのかなと一番扉に近い位置にいた洸は、ためらいがちに扉を押した。扉はほとんど抵抗無く、向こう側に向けて開いた。


 そこは、砂色のレンガが広がる町並みの一角だった。細い路地の角で、人の姿は見えない。時刻は丁度日が暮れた後くらいだろう。辺りは薄青く翳っているが、まだ明るい。すぐ傍には涼やかな音を立てて流れる細い水路があった。

 洸は首だけ出してきょろきょろと辺りをうかがうと、素早く道に出て、早くと皆をせかした。全員が出ると、扉は触らなくとも勝手に閉じた。あっという間に扉があるなどとは想像もつかない、周りと変わらないレンガ壁になった。

「すーっげーっ」

 目を輝かせた龍巳がぺたぺた壁を触りまくっている。聡貴が鋭い目でそれを睨み付けた。

「龍巳、あんまり触るんじゃない。ほら見ろ、そこの傷のついた赤いレンガを押すと、またエレベーターを呼び出せるはずなんだ。下手にいじくって、扉が開いたところを人に見られたらどうする」

「うん! 気をつける! 気をつける!」

「お前マジ聞いてねぇな」

「あの……ここ、どこなんでしょう」

「ほんとね。ね、こう言うのは聡貴の役目よ。あんたでなきゃ駄目なんだから。そうでしょ」

 聡貴は自尊心を刺激されたのか、少しだけ顎を上げて鼻を高くし、得意そうに皆を手招きした。

「まあ、ね……ほら、みんなこっちに来て」

 皆が集まると、聡貴は身に着けた腕時計のボタンを押した。鋭い音を立てて、彼の腕の上に映像が浮かび上がる。緑の光でできた板の上には、縦横に走る線が並んでいる。そして赤い光点が六つ。

「この周辺の地図だよ。うん、丁度、B・Bの予想した範囲の傍みたいだ」

 聡貴の細い指が板の上を行き来して、光点(じぶんたち)と範囲の辺りの距離を示した。

「うわー。なんて便利! 欲っしー」

 龍己がすっげえぇと声を上げて、聡貴の腕時計を物欲しげに見つめ始める。エレベーターのときと同様、興味津々と言った様子で目がきらきらしている。聡貴は嫌そうに龍己から距離を置いた。

「お前なんかに使いこなせるもんか。前のやつを貸してやったら、ベルトの成れの果てと機械の残骸になって戻ってきたんだぞ。折角新しいのを貰えたんだ。渡すもんか」

「やっだなあ! 人は失敗するもんよ、さっちゃん。今度こそは大丈夫! 芸術的に改造してあげるから! 解剖させて!」

「駄目だっ! 触るな近づくな、近寄るな、お前は半径一メートル以内に入るなっ」

「い☆や」

「こら、お前ら騒いでる場合じゃないだろ」

「黙ってろノッポ!」

 この二人がこれほど綺麗にハモることなんか、もう金輪際二度と世界が消滅しても在り得ないのではなかろうか。ただし、龍巳の語尾には♪が着いていて、聡貴は物凄く目を吊り上げているという差はあったが。

 しかし、そう思わせるほどぴったりそろった二人の言葉は、デリストの堪忍袋の緒を見事に引き裂いた。

「だっれが……!」

「ああうるさいっ!」

 リタは拳を振りかぶって凄い勢いで男子組の頭に振り下ろした。ぴったし三発。鉄拳が男三人組の頭に決まった。龍巳の頭にはついでにもう一つ。平等でないと感じたのか、更に二人に一つずつおまけをつけた。

 鉄の棒同士をぶっつけたような強烈な音がして、ギャッと潰された蛙のような悲鳴をあげるデリストと龍巳。二人は頭から白い煙を出しながら地面に張り付いた。聡貴はまたもや声にならない苦悶の声をあげ、頭を抱えてのた打ち回っている。涙目でいもむしのように這いつくばっている姿は余りにも惨めだ。

 その光景は、見ていた洸たちに『かえって気絶できた方がマシだったかもしれない』と思わせるのに十分だった。そして『リタだけは怒らないようにしよう』と思わせるのにも。

「いつまでもべちゃくちゃべちゃくちゃ……いい加減黙りなさいよ! まったくもう。何でこいつらはこうなの!?」

「ちょちょ、ちょ、ちょっとリタ、落ち着いて」

「リタさん、そんなに怒っちゃ駄目ですよっ」

 リタはかんかんで、頭から本当に湯気が出そうだ。頭上に浮かんだ怒りマークが目に見える。まだまだ殴り足り無そうな彼女を二人は必死に押しとどめた。これ以上やったら、いくら龍巳達が丈夫で訓練を積んでいるとしても、本気のリタ、プラス防御のできない体制で、流血沙汰のスプラッタになりかねない。

「ねっ! いくら龍巳達でも頭割れちゃうって」

「だあってねぇ……!」


 リタの振り上げた拳をすりぬけ、生暖かい風が彼らの間を吹き抜けていった。


 すぐさま風の来た方向に目を向ける。ぴたりと計ったかのように丁度その方向で、灰色の煙が上がっていた。

 洸はレンガの道を蹴って、能力は使わず自らの脚力のみで傍の屋根に飛び乗った。高い位置から見ると、二つ向こうの通りでオレンジ色の炎が燃え盛っているのが見て取れる。

 ―――いや、そこだけじゃない!

 よくよく見ると、その左手奥でも煙が上がり始めていた。距離は一箇所目からかなり、離れている。まだ細いが、しかし確実に料理の煙などではない。

「リタ、二箇所! 火が上がってる!」

 洸が叫ぶより早く、仲間たちは次々と同じ屋根に飛び上がってきた。湧き上がる煙と朱の舌のような炎を確認し、即座に表情が引き締まる。

「デリスト、スー! 貴方たちは右手に! 煙の酷い方! すぐに向かって、火を止めて!」

「分かりました!」

「了ぉ解っ!」

 リタが指示を飛ばすと、デリストが長身を生かして大きく跳躍。屋根一つを軽がる飛び越えて行った。スーもそれに遅れじと背から下ろした楽器を鳴らして、風を巻き上げながら空を飛ぶ。

「リタ、何で二人だけなの? あたしたちはどうするのよ!」

 屋根の上に残ったのは龍巳、洸、リタ、そして聡貴の四人。リタは少しだけ間を空けて、はっきりとよく通る声で告げた。

「決まってるじゃない。あたし達は、向こうへ行くわ」

 彼女の指が指す先にあるのは、幾本にも増えてたなびく、細い煙の群れだった。不吉な、不穏な予兆のような、薄汚れた灰色。

「……標的を、捕まえるのよ」

 どくん、と心臓が強く打つ。

 気持ちが高ぶってきた。どきどきと胸の立てる音が次第に大きくなっていく気がする。初めての………任務。仕事。 …… 戦い。

 全員が同じ気持ちだっただろう。胸の奥の本能が、疼く。闇の中の眠りから目覚めて、うごめく。鎌首をもたげる。そして、その口を開いて吼える。歓喜なのか。闘争を好む獣の言葉はわからない。けれど、誰しもがきっと胸に秘めた、相手を降したい、欲望。

 心の半分を表に返してみれば、反面後ろめたさ、虚しさ、それから痛みも、彼らの心の中にはある。当然の事ではあるが。殴れば相手は傷つく。殴った手が痛い。自分だって痛い。ただ、それは今裏側に沈んでいる。くるりと回転する舞台みたいに、隠れている。

 自分の手も目に見えて汚れず、何度でも生き返り、傷つかない画面の中では無い。本物だから、怪我をすれば痛い。傷もできる。

 自分の手も、汚れる。

 だがそう言う思いがあったとしても、今心は躍るだけ。目に見えない物は、目に見えない。そこにあるのは、冒険に望む、高揚とした気持ちだけ。

 スリル。興奮。血沸き、肉、躍る。――楽しい。

 ぞくぞく肌があわ立つ。それはきっと喜びだ。使命感に燃えるなんて、綺麗なものじゃなくて。

 いっそマンガか小説か、ゲームなんかだったら救われたかもしれない。――――いや、違うか。そうだとしたって、今自分はここにいる。人事になれるのは、それをやる人読む人だけ。どうあがいても逃れようのない世界なのだ。だったら、思う道を進めばいい。自分に誇れる道を進めばいい。少しでも、このセカイを楽しむのだ。


 洸はそこでふと振り向いて、自分の見た光景にぎょっとした。思わず、声が出る。相手の事を呼んでいた。

「……たつ、み?」

 龍巳は呼ばれて気がついたのか、体を強張らせて振り返る。瞳が揺れる。閃いた感情を読み取ることはできなかった。不自然な沈黙が二人の間に落ちた。

「ど……どうかしたの?」

 何か重要な場面でも見られてしまったかのように、息を呑んだ龍巳に洸は驚いて、訊ねた。リタと聡貴は屋根の上を飛び歩きながら、もう随分先に行ってしまっている。

「………いや、何でも無いー」

 沈黙の後で、龍巳は結局何も言わず、いつも通りに笑った。その顔は一見、いつもとなんら変わりの無い、陽気な笑顔だった。

 まだ腑に落ちないながら、ぎこちなくうなずいた。問い詰めるだけの時間が、今は無い。リタと聡貴はこっちの様子には気づかず、どんどん進んでいってしまう。先行くよと言うと、勢いをつけて隣の屋根に飛び移った。屋根の上を、そんな用心は必要ないかもしれないが――なにしろ、住人は出払っているらしい。もっとも、そうでなければ火事には気づいているだろうが――足音を立てないよう、微妙な力加減をしながら蹴る。彼女は考えた。

 さっき見たのは見間違いだったのか。いや、そうとは思えなかった。

 洸は見たのだ。龍巳が炎をじっと見つめている所を。

 いくつもの思いをないまぜにした、悲しみも寂しさも、あるいは怒りも、そして愛しんでいるとも見えるような、表情で。

 愁いを湛えた瞳。いつも明るく陽気な光を放つ彼の目が、火が消えたかのように真っ暗になっていた。――そんな目を見たのは、これが初めてだ。

 何だったのだろう。洸は龍巳の表情に、何故か一抹の不安を覚えた。


 *


 駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。

 屋根の上を、まさしく飛ぶように。

 デリストは駆けた。

 燃え盛る家の前に、スーより一足早く辿り着く。炎。立ち上る、火。燃える橙と朱と赤と金色の火花が交わり、ある種、手出しのできない雰囲気を作っている。手出しをすることなど、本来は不可能。人智を超えた物の力。自分の弱さを、あからさまに見せ付けられる気分になる。気圧される。

 圧倒的に、無力。そう、通告されるような。

「…………それが」

 彼はそんな存在を目の前にしてなお、低い声で呟いた。恐怖を感じていないのかと、思わず疑わずにはいられない。

 双眸をぎらぎらと光らせて、がっちり歯を噛み合わせるその姿は、唸る獣と重なって見えた。

「……それがそれがそれがぁああっっ! …………どうしたあぁあああああ!」

 一瞬、そこに居るのが彼だと、デリストだと信じられない。普段は温厚なはずの薄青の瞳が、夢かと疑う程に、目の前の炎に劣らない位に、燃えていた。真正面から立ち向かい、大声で咆哮しながら右手に構えた拳を炎に向かって突き出し――突き上げる。

 そして。


 ―――炎が、凍った。


 辺りがしん、と静まり返り、家一つ丸ごとを、炎ごと包み込んだ氷塊が立ち尽す。まるで、一つの像のごとく。

 それが仏の像かどうかまでは、わからないけれど。

 がくんと膝が崩れる。片手もつき、それでも体を支えきれず、もう片方の手をついた。激しい呼吸を繰り返して、脂汗が額を伝って道に滴り落ちる。そんなもの拭う余裕も無かった。だがデリストは胸を押さえて無理矢理顔を上げ、凍った家を、自分が凍らせた家の塊を見た。しかしまだ頭を支えていられる力が残っているはずも無く、ぐらりと視界が揺れて道路に落ちる。

 ガツン。落ちる音と同時に家が氷解した。彼が力を消費しつくしたがゆえだろう。辺りが一気に水浸しになる。固まっていた家だけが、そこだけ極局地的に洪水が起きたかのように、びしょ濡れだった。

「…………はっ……は……」

「デリストさんっ!」

 スーがようやく、その場に駆けつけた。彼女の息もかなり上がっている。どんどんスピードを上げるデリストを、必死に追いかけてきた結果だった。まず倒れているデリストに目をやり、それから足元を流れる水を見る。元を辿ってびしょ濡れになった家を見上げれば、デリストの能力も合わせて、彼が何をしたかは予測がついた。

 理解して、驚愕にスーは目を見開いた。

「な、あなたって人は、何してるんですか! こんな、無茶苦茶な力の使い方をするなんて……」

 自分の息も治まらぬまま傍らに駆け寄り、忙しく楽器を奏で始めた。身体の回復を促す、柔らかな曲調。弾いているうちに、焦りで速くなっていた調べはゆるやかになり、デリストの息も、少し治まる。

「わり……とまらなく、て………」

「そうですよ。私、凄くびっくりしました。――物凄い勢いで、駆けて行くんですから」

 スーは喉元まででかかった、鬼みたいに―――と言う言葉を飲み込んだ。

 だいぶデリストの呼吸が安定してきたところで、スーは曲を変えた。風を呼ぶ物に変更する。道路一面を浸した水を乾かすためだ。このままでは、いくらなんでも目立ち過ぎる。とはいえ、家も基本が石造りなのが幸いし、対応も早かったから燃え広がらずに済んだものの、いかんせん焼けたり黒くなったりしている箇所はごまかせない。そこで、ある程度視覚をいじる魔法も奏でておく。

 時間があれば、家の修復も可能だが――今はこれで、精一杯だ。

 残りは後でB・Bに頼むしかないだろう。

 そう判断したスーは、楽器を置き、デリストの傍に膝をついた。

「本当に、どうしてあんなに走り出したりしたんですか? すごく、いつもと違ってて……怖かった、です」

 俯くスー。彼女の曲が効いているのか、体は随分楽になった。デリストは上体を起こすと、年下の少女の顔を見つめた。スーは置いていかれて不安だったのか――それとも怯えてしまったのか、二つの瞳を潤ませていた。

 きっと、両方なのだろう。

 暴走してしまった自分に、反省の気持ちが湧いた。

「……ごめんな、スー」

 デリストは謝罪の気持ちで、軽くスーの頬に触れた。

 吟遊詩人の少女は涙ぐみ、しょうがないですねと苦笑した。

「はい。でも、そんな顔して謝るくらいなら、最初からしないで下さいよ」

 もう一度、悪かったと頭を下げる。

「それにしても、さっきも言いましたけど……どうしたんですか? まるっきり、普通じゃありませんでしたよ。何だか凄く怖い顔をして、どんどん、あんなに早く行ってしまって」

「ああ……悪い。早く向かわなきゃっていうのも勿論あったんだけどな、他にも、気になることがあって」

「気になる事、ですか?」

 頷いて表情を曇らせるデリストに、スーは首を傾げる。

「何ですか? そりゃ、初めてのことですし、心配事は一杯あるでしょうけど」

「お前は、わからないか?」

「え? 何の、事です?」

 すっと指が天を指し示す。沈黙の問いかける意味を考えるが、思いつかない。諦めて首を左右に振った。

「わかりません。何なんです?」

「お前も感覚の鋭い方だし――――わかると、思うけどな。ほらここ、静か過ぎるだろ?人の気配が感じられない……」

「でも、それは確かお祭りの準備で出払っているって」

「それでもだ、物音一つしないんだぜ。風も無い、動物も居ない。何の気配も、存在しない」

 そこで、スーは一つ何かに思い当たった表情を浮かべた。合点がいった。

「空間、閉鎖能力……ですか」

「多分な、そうだ」

「そうですね……ああ、はい。今なら、わかります。ここの空気の違和感が」

「今回の標的がその力を持っているのか、ひょっとしたら」

「他にも、あたし達の知らない仲間が居るかもしれないって事ですね」

「その通り、だ……随分、用意周到なことだな。だからかえって、違和感がある。あいつは確かに「燃やす事のみに興味があるようだ」とは言われた。だけど、かと言ってここまで人を寄せ付けないようにしてやる事に、意味があるのか? そりゃ、目撃されにくくはなるけど」

「でも、それは反面、非常に危険でもあります」

 スーは楽器を抱えなおして思考する。

「……そう言うの、授業で習いました。確かに、いい手段とは言えないですよね。だって、普通の人からは見つかりにくくはなるけど、私たちのような特殊能力を持った人には逆に、自分の居場所を教えているような物です」

 きちんと気づかれないようにカバーしていなければ、その異常を異常だと理解できる人間には、自分から手がかりを渡しているようなものだ。

 顔をあげて、言う。

「それに例えカバーされていたり、私たちが標的だったとしても、私たちは引っかかりにくいです。誤魔化されないとまでは言い切れなくとも。中に居ても外から見ても、普通の人よりは気づきやすいし、違和感があれば、そこから原因に予測をつけられる」

 普通の人間、一般人なら、もしも明らかにどこか違和感があっても、まさか「特殊能力者が何かをしている」とは思わないだろう。なぜなら、最初からそんな選択肢が無いからだ。存在しない、在り得ないとされている事を、本気で信じる者はいない。

 例えば風が吹いて、帽子が飛ばされたら。勿論すぐ傍に、うちわやら扇風機やらを持って風を起こしている人間が居るわけではない。何の違和感も無く、帽子を飛ばされた人は帽子を拾うだろう。不思議なくらい長く転がっても、原因が目に見えてわからなければ、そこまでだ。

 でも、帽子が飛んだ本当の理由は、その人の後ろで、透明になった能力者が扇風機を構えていたからだったとしたら? 遠くから使った風の魔法だってありうる。

 それでも、風のいたずらでおしまいだ。

 それが真実だとされているから。

「意図的なものなら、どんなに少しでも、不自然な気配が残ります」

「そうだ。それが不自然だった」

「……どうして」

 スーは相棒を見つめて、黙りこくってしまった。デリストはおもむろに立ち上がり、スーを元気付けるために語調を強くした。

「それ以上考えてても、何もわからないさ。大体それよりも先に、俺達にはやる事がある」

「え……」

「任務はまだ、終わった訳じゃない」

 鋭く、デリストはここからは見えない標的を見つめる。

「まだ他にも敵がいるかもしれないとわかった以上、あいつら四人だけじゃ、不安だろ。俺たちも行かないと」

「は、はい! そうですね」

 それじゃあ風を呼び戻さなきゃとスーは家に向き直る。デリストは、その場から動かず、視線も外さなかった。

 心配は、実はそれだけじゃない。

 龍巳。

 自分にリタのような力は無い。届くわけが無いと知っていても、もしかしたらと思う。少しでも、伝わればと願う。

 この状況。あいつの中の竜が、大人しくしてはいてくれないかもしれない。彼は龍巳の過去の行動と、その表情、目の色を思い出した。その時の背筋が凍り付くようなぞっとした感覚が蘇る。心の中で呟く。

(堪えろよ、龍巳)

 お前の中のドラゴンをセーブできるのは、お前しか居ないんだ。

「デリストさん?」

 心配そうに、スーが呼びかけている。振り向くと、スーはまた心細そうな顔をしていた。

「――あ」

「どうしたんですか? やっぱりまだ、何か」

「いや――何だか、心配でさ。あいつらの事」

「皆さんなら、きっと大丈夫ですよ! リタさんの指示は的確だし、龍巳さんも聡貴君も、それに洸さんも居るんですから」

 大丈夫ですよと繰り返すスーは、そうやって自分自身にも信じさせようとしているようだった。不安は無いと言ったら嘘になる。でも、彼らなら。

 デリストは微笑を浮かべて、そうだなと答えた。スーも、それでいくらか緊張が解けたようで、強く頷いた。

「さあそれじゃ、行きましょう」

「ああ。あいつらの事だ。きっと大丈夫だとは思うけど、何か変な様子もある。トラブルも、あるかもしれない。急ぐにこしたことは無いな」

 スーは唇をきつく結び、弦を弾いた。

「運んでどうか、永くから吹く風たち。友の場所へと。あなたの出せる限りの力で強く素早く。素早く、私と友を、みんなの場所へ」

 風が渦を巻いて二人の体を包み込み、空へと持ち上げた。

 そして、彼方へと飛び去った。


 *

 

「……やばい、かもな」

 龍巳は小さい声で言った。頬を風が撫でていく。

(大丈夫だと思っていたんだけど)

 やっぱり―――駄目だったか。

 自分たちが初めて追うターゲットが連続放火魔だという時点で、心配はあったのだ。案の定、だ。彼は、内在する血が騒ぎだすのを感じていた。

 炎のきらめきが、散る火花が、閃く色が、

 自分の心を掻き乱す。

 自分の心を狂わせる。

 内側にいる凶暴なドラゴンが、笑っている。お前なんてそんなもんさ。小さくて幼い馬鹿な子供よ。受け入れれば楽になるのに。

 自分を拒絶してなんになる?

「……黙れっ」

 今にも顔を出しそうになる。真っ赤な舌を躍らせ、喜びに顔を染めて鍵爪を開いて。

 炎なんて嫌いだ。

 呪文のように呟く。だがそれは封印の呪文になりえず、本能は求める。紅き宝石と同じ位かそれ以上の価値ある物として求めるのだ。

 いつまで持つだろうか。

 彼は顔を歪ませていた。洸たちよりだいぶ上空を飛んでいるからこそ、出せる顔だ。みんなにはこんな顔見せたくない。一人の空は、誰もいない一人の空は、龍巳にとって唯一拘束を逃れられる場所だった。頬を優しくなでる風、様々な色に変化する空。

 暗いところは思い出したくなんか無い。辛いだけだ。皆に打ち明ければ楽になるだろうか。まさか。そんなの、頼ってるだけだ。それに皆楽しそうなのに、わざわざ言い出すのは気が引ける。やはり、できない。

 明るい所では、暗い所なんか薄っぺらく感じる。その分、独りきりになると暗い所はより暗く、色濃く自分に迫る。

 皆が馬鹿にする? そんな事は無いだろう。けれど、皆にだってきっと辛い事はある。それを表に出さず、楽しく明るくしているのに、自分がそこに石を投じてしまっていいのだろうか?

 それよりも、皆と一緒に、皆以上に陽気にふるまって、ふざけて、そうしていれば楽しいじゃないか。それに忘れていられる。

 俺は陽気な龍巳だぜ。本当を誇張して自分にもそう思い込ませて、闇を押し込めていられる。

 わざと道化の仮面を被って、それで自分さえも隠す。

 自分にさえも嘘をつく。

「俺、弱いな。馬鹿みたいだ」

 静かに自分を嘲笑う。

 抱えきれない辛さも抱え込むしか出来ないほど。さらけ出すのも怖がって、抱えている辛さに苦しんで。言ったら、必死に作った堤防が崩れて、辛さが心に流れ込んで、ぼろぼろになってしまうような気がする。

 同時に、いつか破裂してしまいそうな恐怖に怯えているのにだ。

 洸が組織に来たばかりの時、自分の話を少しだけ打ち明けたのさえ、龍巳は洸よりも驚いていたのだ。

「―――――龍巳!」

 頭の中に飛び込んだ声に、考え事から首根っこを掴まれ引き起こされた。リタのテレパスだ。下を見ると、彼女はいつの間にか自分の下にいた。龍巳を見上げている。

「あ、リタか、どうした?」

「どうしたじゃないわよ、しゃんと仕事しなさい! そこから見えないの? ナトル! 煙立ってる家の傍! あいつ探して! 徹底的によ!」

「へいへい、いやあリタは元気一杯だな。そんなにびっくりマーク連発して」

 軽口を叩きつつ、片手をひさしに辺りを見渡す。役立つかどうかではなくて、これは気分の問題だ。

「居ない居ない………いや、居た! 煙の家のまん前だ」

 揺れる煙に隠れているが、風の度にその隙間から見える。いけすかねぇ顔してんぜと推測で言い切りつつ、煙の間から見える炎に、人知れず顔を歪ませる。

「……分かった! すぐ向かう! あんたも行くのよ!」

「へいへいってば。了解しましたよ、しれーかん」

 龍巳はふざけてそう返答した。聞こえたかどうかは分からないが。龍巳の方から連絡を取ることはできないのだ。彼女が意識を繋いでいてくれれば言葉を返すことは可能なのだが。

 まあきっと思考を切ってるだろうな。

 龍巳は翼を羽ばたかせてスピードを上げた。

 闇は、もう見ている時間が無くなった。それは幸運な事だった。今は。


 *

 

 炎が上がる家を見て、標的―――ヒューレスト・ナトルは笑っていた。

「燃えろ、燃えろおぉ! くあはははははぁ!」

 血走った目をぎょろつかせ、口をかっと開いて笑う姿は、まるで怪物か妖怪だ。到底人だとは思えない。

「狂人め!」

 僕はあんな奴大っ嫌いだと聡貴は眉をしかめて毒づいた。眉間に皴が三本も寄っている。

 ナトルとの距離は十五m足らず。現場に近づく前には屋根から下り、裏通りを通って今は通りの向かい、少し離れた場所の家の影に隠れている。ここからは、高笑いをする後姿や横顔が良く見えた。

 聡貴の眉間の皴を見て、洸はふと考えた。聡貴はしょっちゅう不機嫌な顔をしてるな。それか無表情だ。まだ本の話をしている時は楽しそうだったのに。

 雑念を追い払って、傍らに立つリタに向かって小声で話しかける。

「リタ、ねえ、どうするの?」

「考えはあるわ。聞いて、聡貴も」

 まずあたしがここから出るわと、リタは自分の胸に手を置いて言った。

「ここからじゃ、あと少しなんだけど、能力が届かないのよ。だから力を使うためには、その少しの分走らなきゃならない。でも、そうしたらあいつの頭に強烈なショックを送ってやれる。今なら油断しているだろうし―――」

 壁から横目を走らせる。いまだ彼は炎の前で笑い声をあげて、調子に乗ってさらに火を吹きかけている。

「ショックが届いたら、三秒かうまくいけば五秒。まるきり身動きがとれなくなるわ。そこを狙って二人が飛び掛って。洸がまず先に、能力を使って、あいつの相手をしてちょうだい」

 リタが洸の目を見据える。洸は頷いた。

「それで隙を見計らって、聡貴が噛み付く。思いっきり毒を流し込んでやるのよ。そうすればあいつは完璧に動けなくなって、任務終了、そして成功よ。いい?」

 二人は黙って頷いた。リタはそれを確認すると、にっと笑って前に向き直った。通りを見て、「行くわよ!」影から一気に飛び出した。

 ショックの波動は頭の中で組み立て済みである。ナトルはまだ自分の世界に浸りきっていて、侵入者には気づいていない。距離はもう少し。後一歩。そして、送りつける!

 悲鳴と共にナトルの回りにスパークが散って、その体が丸太のように硬直する。

「二人共!」

 声とほぼ同時に洸と聡貴が飛び出して、標的に向かって突進した。しかし、ミスだった。

「っ!」

「え!」

 たまたま立ち位置の関係で、聡貴の方がナトルに近かった。駆けつけやすかった。そのせいか、聡貴はそのまま直進した。ナトルはまだ固まったままだ。状況も把握しきれていないだろう。聡貴は、間に合うと踏んだ。洸が相手にするはずが、隙を作るはずが、そのまま勢いに任せて飛びかかり、首筋に噛み付こうと口を大きく開いた。

 その瞬間白目を剥いていたナトルの瞳が、ぐるりとこちらを向いた。

「…………っらア!」

 生気を取り戻したのだ。己の置かれている状況を瞬時に把握すると、ナトルは大きく腕を振って聡貴を地面に叩きつけた。聡貴は反射的に体を丸めたが、背中から道路にぶち当たって、苦しそうに呻いたきり動かない。

 僅か遅れて駆けつけた洸が腕を振り上げる。エアフィアの力が、手の先に集まって具現化されている。それを使って、洸は切りかかった。

 両手で振り抜いた刃が服の端を掠めた。飛び退った足がざっと道を擦って、唇を無理矢理捻じ曲げたような笑みを浮かべる。一つ口笛を吹く、咎人。

「あぶねぇな、クソガキ! 剣を持つにゃまだ五年ははえぇんだよ!」

「そんなの、あんたになんか言われたくない。……連続放火魔!」

 右手に下げたのは青白い、剣(つるぎ)。けれども、かろうじてそう見える程度の物だった。刃の形にとどまっているものの、そのままの形でいる事に抵抗するように、ちらちら青い光を飛び散らせている。

 それは能力の消費を抑えるためもあるが、相手を「捕獲する」という今回の目的の事もある。相手を切る事は、今回必要が無い。痺れさせればいい。洸は剣の柄のあたりを強く握り締めた。動けなくすれば、それでいい。ぎちりと奥歯が鳴った。緊張している。指の先まで張り詰めている。

「おいおい、どうした? ちびりそうなのかい? とっとと帰れよ、ガキ。コロシには興味がねぇし――……逃げれば、命が無事で済むぜ?」

 皮肉な笑顔を顔に貼り付け、両目が三日月に眇められる。でもその奥は笑っていない。嗤っている。嘲笑っている。

 挑発には乗らない。代わりにセリフをスタートダッシュの合図に変えて、洸は駆け出した。

 相手は逃げる。逃げる所を予想して追い上げる。筋肉の動きを感じる。血の巡りを感じる。風を感じる。どう動けばいいのかを、頭ではなく体で感じる。お手本の線が目に見えるようだ。このまま行けば、うまくできますよ。

 

 なぞるようにナトルの傍まで進む。何の障害も無い。お手本どおり。手本どおりに手順を踏んで、習ったとおりに地面を踏んで、一瞬の誤差も無く、一秒のずれも無く、筋肉が動いて骨を持ち上げ腕が上がって刃があがる。青白い光の先端が煌いて。

 だけど。

 振り下ろそうとしたその瞬間、刃は、ぴたりと停止した。

 力を抜いて弱く形にしてあるだけだから、当たっても痺れがあるだけで切れはしない。けれど、刃が鈍る。振り上げてそして、急に鈍る。人の体に刃を突き立てる事への若干のためらい。最高に悪い時に、そいつが顔を出したのだ。それがいけなかった。好調だった流れが淀む。絶好だったチャンスを逃す。指の間をすり抜けて、あっという間に逃げていく。

 サヨナラの挨拶。振ったハンカチが残像で残っている間に鞍替えし、近すぎる引越しを終えて、次に微笑んだのは、目の前の男の肩の上。

 目の前で男の口元が三日月形に歪むのを見た。

 洸の体は、一気にオレンジ色の炎に包まれて燃え上がる。

「洸ぃっ!」

「ははははははぁ! こっんなガキをよこすなんてな! 組織も落ちぶれたもんだぜぇ」

 この俺がガキなんかに負けてたまるかよ、とナトルはもう一度高く笑い、逃げるためにそそくさと壁に飛びついた。

「じゃあなあ! 組織にはちゃんと炭の塊を持って帰ってやれよ!」

 しかし彼の耳を声が打った。

「ちょい待ち、おっさん」

「なにっ!?」

 声は未だに燃えている炎の塊から聞こえる。炎は、なぜかぐるぐるとゆるやかに回転している。だんだん、小さくなっていく。

 燃える炎の間からは、漆黒の瞳が覗いた。

「ガキでも舐めたら………痛い目見るぜー? おーけーです?」

 龍巳の手のひらに渦を巻いて炎は収まっていった。目には獰猛な光を湛え、口端を吊り上げている。不自然に引き連れていて似合わない、鈎針で引き上げたような笑い方。

 洸は道路に膝を付いて、下から龍巳の姿を見上げていた。

「龍巳……」

 声をかけながら、何かがおかしいと感じた。漠然と、それだけがわかる。わかるのに、なぜかどうしても動けない。なぜなら、おかしな所など無いからだ。空に待機していた龍巳が、ピンチを察して助けに来た。どこもおかしくない。でも―――。

 何の反応もできない洸の方を向いて、龍巳が小さく笑った。いつもどおり。そのはず。

「ひーちゃん、もう大丈夫だよ」

「た、龍巳!」

「どーよどーよ。なかなか俺もかっこよかったんじゃん?」

 龍巳はそう言って、にやにやしながらナトルに向き直った。ナトルは顔をしかめている。明らかに炎の効かない人間の登場に、うろたえているようだ。

「さ、て、と。おっさんそろそろ年貢の納め時だから。ちなみにさっき家燃やしてた火も、もち、俺が取り込んじゃったんで。そこんとこヨロシク」

「くそっ! てめえ……ドラゴンだな!」

 ナトルは『ドラゴン』の部分を苦いものでも吐き出すみたいに発音する。目にさっきとは違う色が混ざっていた。諦めとか、恐怖とか、ひやりと首筋を撫でるような、逃げられない可能性。それを知覚した色。

「そうだよ。俺はドラゴンなんだ。炎の最高ランク、王様級さ。あんたは見たとこ、火蜥蜴(サラマンダー)だろ。三つか四つは格下だなあ。それがどういうことか、わかってる?」

 龍巳は口を曲げた。いつもとは違う表情に、炎が濃い陰影を作っている。すっかり竦んでいる男とは正反対に、甘美な果物でも口にするような口調で、最後通告を言い渡す。

「あんたは俺に、敵わないってことさ。そゆこと。手荒なことはしたくないし、さっさと降参してくんない?」

 ナトルはしばし口を噤んだ。沈黙が不自然に思えてきた頃、体が小刻みに震えだす。と、俯いていた顔ががばっとあがった。

「……そんなこと言われて、はいそうですかって降参するやつが何処にいるんだよ!」

 炎を吐き出し、壁を見事な素早さで駆け上っていく。

 ちぇっと一つ舌打ちし、龍巳は容易く炎を受けると、膝を曲げて翼をはためかせ、空に浮んだ。その手を右に左に大きく広げ、何かを抱えるかのように鍵爪状にする。

「おっさん、サラマンダーで火系だろ?」

 だから当然、炎浴びたって死ぬこたないんだよね。

 彼は笑って、両手に炎の塊を呼び出した。炎はぼうっと燃え上がり、徐々に大きくなっていく。龍巳は体を走る感覚に酔っていた。唇が勝手に笑みを作る。楽しい。ナトルの怯えきった気配。体を舐める柔らかい炎の感触。蛍光灯や太陽とは違う、オレンジの赤の黄色の炎。その明るさ。

「よっしゃあ……行け!」

 塊が膨れ上がった風船のように揺れ動くと、両手を前に突き出した。

 炎が爆発し、必死で逃げる背中に向かう。さながらそれは、獲物を飲み込もうとする炎の大蛇。切れることなく龍巳の手から伸び続け、向かっていく。

「炎の綱」

 炎はナトルの体にぶつかると、一気にその身体を飲み込み、縄をよじるように踊り絡めとった。龍巳が手を強く後ろに引くと、動きに連なって地面に叩きつけられた。

「ぐあっ!」

「ちょっちお仕置きだよー。聡貴の分ね」

 龍巳は笑う。いつもの底抜けに明るい笑い。それ故に龍巳の心が暗く、冷えている事が浮き彫りになる笑いだった。

 何も言えなかった。

 龍巳の様子を見ていて、地面にへたり込んでいる洸、彫像になったみたいに動けず、固まったリタも。二人とも、呆然とその様子を眺めていた。いつもの龍巳とは遥かに違う姿を見て驚いていたし、それに、同時に恐怖を覚えていた。寒気が体を走り抜けた。背骨に沿って駆け上がる気配に、洸は強い怯えを感じた。

「どう? ―――あ、口きく余裕ないか」

「…………ぐ……くそったれ」

「皆!」

 声に目を向ければ、スーとデリストがようやく屋根の向こうから姿を現した所だった。二人は包む風が解けるのを待つのももどかしいといった様子で、駆けてくる。

「風がおかしくって、来るのに手間取ってしまって。やっと見つけられました……龍巳さんは、どうしちゃったんですか?」

「スー。あ、あたしにも何だか」

「……ったくよ」

 デリストは苦々しげに顔を歪めると、龍巳につかつかと近寄って、笑顔を一発引っぱたいた。

「って! てめぇ……何すんだよ」

「何すんだよじゃねえよ。おら、正気に戻れ」

 龍巳は恐ろしい顔でデリストを睨み付けた。しかしデリストは動じることなく、そのまま手を龍巳の頭に置いた。その手を忌々しげに払いのける。

「おい!」

「っせーなあ! こいつ、見ろよ。こいつがどんな事したかわかってんのかよ! 聡貴やひーちゃんにまで乱暴したんだぜ?」

「お前は!」

 デリストが怒鳴る。

「お前はそれを理由に、ただ、こいつを痛めつけたいだけだろ」

「……別に。やられたからやりかえしてやるだけじゃんか」

「今回は捕まえるだけのはずだ。痛めつけるのは必要ない。罰則が必要でも、それをやるのは俺たちの役目じゃない。B・Bたちのだ」

 龍巳は空笑いして、デリストの目を見る。

「いいじゃん。別に。誰がやろうと。ほら、まだ足りない。ひーちゃんの分」

 ぶんと足を引いて、うずくまった体を蹴っ飛ばす。ナトルがうめいて、デリストは龍巳の肩を掴んだ。

「龍巳!」

「次、この辺の家燃やした分。ほら、いーち、にーい」

 足を動かし続ける龍巳に、馬鹿野郎と怒鳴って、デリストが無理矢理自分の方を向かせた。つまらなそうな顔を演じて、龍巳は笑っている。

「なあんで? デリスト、顔真っ赤。怒り過ぎは、体に毒だよ」

「………誰が怒らせてると……」

「あっは! 俺? デリが勝手に怒ってるだけじゃあん」

 それじゃあさあ。龍巳はにっこりと微笑み、足先で道端に倒れているナトルをつついた。

「どう? ストレス発散すれば?」

 ――――こいつで。

 さっとデリストの顔が赤らむ。歯を強く噛み締め、その間から「誰が!」と吐き出す。面白がってけたけた笑う。それからすぐに、すっと消えた。

「そう、デリストはやらない。じゃあ俺がやればいい。俺なら適役だろ。どうせドラゴン。炎に塗れた―――」

 そこから先は、龍巳の唇の中に消えた。僅かな言葉の切れ端を悟ったデリストが腕を掴もうとする。けれど、龍巳がまた足を振り上げるのには間に合わない。

「龍巳」

 名前が呼ばれた。龍巳の足がぴたりと止まる。

「……おう、気づいた? さっちん」

「お蔭様で。誰かさんたちが、大声で言い争いしてるもんだから」

 聡貴が立っていた。スーが今まで介抱していたのだ。それで少しは、力を取り戻したらしかった。絶対まだ苦しいだろうに、表情には痛みがかけらも表れていない。真っ直ぐに、前を見据えて、口元に小さな笑みさえ浮かべていた。

「龍巳、もういい」

「え? おいおい、さっちゃんまで……そういうワケ?」

「ああ、僕は元気だ。ぴんぴんしてる。つまり、そいつの攻撃はへぼで効かなかったわけだ」

「……だから?」

「だから、必要ない」

 多分、立っているのもやっとのはずだ。しっかり、膝が震えている。ゆらり体が揺れそうになるのを、足を踏ん張ってようやく支えて。そんな癖をして、聡貴は。

「だから――――」

 笑う。

「僕のために、お前がそう言う事をしてくれる必要は無い」

「……」

「龍巳が―――」

 その先を言う前に、聡貴は倒れ込んでしまった。気力を使い果たしたようだ。リタと洸は傍に駆け寄り、スーが慌てて名前を呼んでいる。それにも反応しない。

「で、デリストさん! 聡貴さん、気を失ってます。氷を!」

「……お、おうっ」

 デリストの右手に次々青い雫が滴って、氷の塊が現れる。ぐっと、その手が掴まれた。

「な、何――」

「わりーぃ……デリスト。聡貴には、新しい氷出してやって―――」

 手を掴んだ右手に左手を添えて、龍巳は、頭をそらした。デリストは、戸惑っている。

(あーあ。俺、馬鹿だなあ)

 もう、すごいバカだよ。

 物凄い音を立てて、龍巳の頭が氷にぶつかった。自らぶつけたのだ。氷が割れて、デリストが「おい!」と大声で叫んだ。でもその声も聞こえていない。龍巳もまた、気絶したようだった。

「ちょっと!?」

 龍巳の方の様子にも洸は気づき、立ち上がろうとした。でもうまく立てない。足が震えていた。まだショックが残っているせいなのか。顔をしかめ、ふらつく足取りで龍巳の元に走った。デリストはどうしたもんだか訳が分からなくなりかけながらも、龍巳を必死に呼んでいた。

「おい、おいってば! くそっ、龍巳!」

「龍巳も気絶したの?」

「ああ、そうらしい。おい、おいって!」

「デリストさん! 氷を早く!」

「あ?あ、ああ! ……今行く!」

 デリストはどうしても起きない龍巳の体を担ぎ上げ、洸も手伝って押し上げた。

 自分も行こうとした所で、洸は気がついた。

 

 ナトルが居ない。

 

 慌てて叫ぶと、気がついている全員がこちらを向いた。

「みっ、皆! あいつっ、ナトルが居ない!」

 一様にぎょっとした顔に変わり、スーは特に、あからさまに動揺していた。一番対応が早かったのがリタで、今居る場所から一気に駆け出した。

「デリスト、スー! そこで聡貴たちを介抱して! 洸、行くわよ!」

 来てと言う声に気圧され、考える前に体が従った。考えている暇など無いとわかっていたからかもしれない。二人は屋根の上に飛び上がり、全速力で駆け出した。

「ちくしょう!」

 ちくしょうちくしょう。延々とリタは繰り返して、力の限り駆けていた。

「りっ、リタ! なんで、あたしが?」

「わかりきった事じゃない! あそこに居たって、あたしたちにできる事は少ないわよ!それなら手の空いている人が行くのが当然!」

 黙った洸をよそに、独り言のようにリタは喋り続けた。目は怒りに燃え、歯を食いしばっている。

「くそっ! 龍巳のバカ、バカ、バカ! あたしもバカよ! 反応が悪すぎる! 位置確認ぐらいしとくべきだったわよ、くそったれ! もっと、状況把握していれば! ああっ、舞い上がってたわ! 龍巳も! 聡貴もっ!」

 次々こみ上げる怒りに対応しきれなくなったのか、ぎりぎり歯軋りをしながらリタは黙った。表現できるだけの語彙が見つからないのだろう。洸はリタに着いていくのに必死で、でも、彼女の言葉が身にしみた。

 そうだ。あたしも、完璧に舞い上がっていた。調子に乗ってた。本当の空気の中で。戦闘中で、自分の甘さが身にしみた。皆分散してしまった。分解だ。気が散ってしまったのだ。今までの訓練は、何だったのだろう。洸は思った。唇をきつく噛んで、痛みでぼやけた心を覚まそうとした。

 それがこれだ。現実の厳しさって奴。こんなに憎い物だとは思わなかった。無性に、腹が立つ。悪かったのは自分だ。だけど、だからこそ、憎らしくて溜まらない。

 ――――悔しい。

 こんなんじゃ、駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ。駄目なのに。

 街が夕闇に包まれて、夜の帳が下りてくる。いつのまにか、もうとっくに日は見えない。風が妙に冷たかった。きっと洸を責めている。過ちを知らずに駆け出してしまった幼い子供を叱るみたいにただ静かに、諌めている。心だけが氷付けにされていく。―――そんな風に、冷えていく。

 聡貴は苦しそうだった。龍巳も、どうしてあんな風になってしまったんだろう。あたしがしっかり戦えていれば、こんな風には、ならなかったのだろうか。考えてもしょうがない事ばかり頭の中を回る。暗い色の鎖が心にのしかかって締め上がる。嘘みたいに吐き気がした。

 倒れた二人の顔を思い出す。二人とも、酷い顔をしていた。青ざめて、確実にどこか傷を負っていた。そう、まるで、何かを失ったような顔をしていた。どこか、心の奥に抱えていた物。きっと、体以上に心が傷ついたに違いない。デリストだって、スーだって。幾ら体に傷が無くても、傷ついていないはずが無い。

 あたしだって。

 痛い。こんなにも。

「―――ねえ、聞いて洸!」

 リタが叫んでよこす。前を向いたまま、顔もこちらに向けないで、叫ぶように、怒鳴る。

「あたし、本当は、少しだけうまく行かないんじゃないかって思ってたの!」

 前を見据えて、視線を逸らさず、それが後ろめたい事みたいに、リタは言う。

「……どうして?」

「どうしてって、あたしたちが「まだ子供」、お子様だったって事よ。いくら訓練を受けてたって言っても、相手は人形だった。本当の修羅場で戦ってたわけじゃない。………結局、おのんきな勉強の一環だったって事!」

 無理矢理笑い飛ばして、リタは思いを吐き出すように叫んだ。

「ばっかみたい! B・Bが、「危険を感じたら逃げなさい」って言ってる時点で、本気で言ってるんじゃないってわかったわよ。任務や指令より、命が最優先? そりゃそうかもしれないわ。でも、任務なら、最優先なのは付近の住民のはずよ。B・Bは! あいつはっ! 逃がしてもいいって言ったのよ! 敵じゃなかったの? 捕まえなきゃならない奴じゃなかったの!?」

 洸は何も言えなかった。リタの怒りに、思いにそれ程圧倒されていた。つい注意がおざなりになって、足を屋根瓦に引っ掛けそうになる。

 だから、と搾り出すように言う。

「でも、だから、あたしはここで……捕まえなくちゃならないのよ! 捕まえれば、皆を納得させられるじゃない! あたしたちの凄さを、思い知らせてやれるじゃない! ……認めさせてやれるじゃない!」

 捕まえれば今日の失敗は全部帳消しになるから。

 だから、捕まえなければならない。

 リタはそういうけれど、洸はなぜか納得がいかなかった。ここでも感じる、すれ違い。

 何か自分の知らないどこかに、リタだけが居るような。龍巳も、また別の所に自分が見た事の無い景色を見ているような。掛ける言葉が見つからない。下手をすればここ、この場所で立ち止まってしまいそうだった。さっきみたいに、何かに足をとられて動けなくなりそうだった。ただ、傍だけは離れたくない。離れたらそれこそ、自分の知らない場所に行ってしまいそうだったから。そしてそのまま、帰ってきてくれないような気がしたから。


 一度だけ唇を開いた。でも名前も呼べない。呼んでも、続ける言葉が見つからない。でも、彼女はとても危なっかしい位置にいる。連れ戻した方がいい。そうしなきゃ、そうしなきゃ、でないと―――――


 瞬間、強い風が吹いた。突風と呼ぶにふさわしい風。いくら全速力で走っているといえども、二人とも立ち止まらざるをえなかった。遮る壁ができたみたいに、進めない。

 風が止んで、二人は顔を上げた。その前にある物を見た。自分たちの前に立つ、その人物を目に入れた。たなびく黒髪が肩の上に落ちる。黒いスーツにハイヒール。足元には猿轡を噛まされ両手両足を縛られた、ナトルの姿―――

 黒い瞳。褐色の肌。鮮やかな唇がぬめって輝く。開いて動く。


「ゲームセット、よ」

 

 どうあがいても視界に入れる事を拒めない。拒もうとする事を許さない。

 B・Bが二人の前に立ちはだかっていた。

 目を大きく見開いて、リタの体がくずおれる。魂が抜けてしまったかのように、だらりと体の脇に手を下げて。指先が瓦に落ちるそれだけの動きがなぜか、どうしようもなく哀れだった。どうして。無言の問いが口から零れて、洸もその場に立ったまま、気絶するように目を閉じた。気絶はしなかったし、問いかける事もしなかった。

 ただ切に、訪れない暗闇を待って願っていた。


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