★8 チケット


「嬢ちゃん、嬢ちゃん」

 紅い髪がふわりと揺れて、紅恋くれんが顔だけで振り向いた。狭い店内の中、中央の細い通路はかろうじて存在していると言った状態で、下手に動くとなだれを起こす大惨事になりかねない。腰を捻って変な体勢を取っているので、両腕で抱えた大きな紙袋がかなり危うい。 中身をこぼしそうだ。必死になって釣り合いを取る。大切なものが目一杯詰まっているのだ、だからこぼせない。今日明日の食材と、生活雑貨と、お小遣いで買った小さな小物。

 絶対に落とさないようにしなきゃとよろけた靴の踵が、床の木目を叩く。街角の小さな雑貨店。頻繁に店を訪れる紅恋は、この店の常連客になりつつあった。

「えっと、なーに? おじさん」

「お嬢ちゃん、今日もいっぱい買ってくれただろ?だから、ちょいとおまけだよ」

 にやりと、映画にでもいい脇役で出演できそうな笑みを見せる店主。彼が本来目指すとしているのは、鼻の下の髭が渋い凄みのある男……らしいのだが、陽気な丸顔と禿げ上がった頭では、どうみたって茶目っ気たっぷりのおじいちゃんだ。精々小人の親分が妥当である。

「ちょっとした、いいことを教えてやろう」

 紅恋は顔を輝かせて、慎重に体ごと雑貨屋の主人に向き直った。袖が籠の中のポストカードを掠め、ひっくり返しやしないかとひやひやする。会計台の上まで細かな物で埋まった隙間から、主人の丸い顔が覗いていた。

「ほんとに?」

 期待を顔中に広げて聞く紅恋に、主人はもったいぶって、壁際の使い込まれた戸棚の戸をわざと大きく軋ませる。じらそうという魂胆丸見えにいつもの三倍くらいの丁寧さで手前の小箱を台の上に並べ、その奥から一枚の細長い紙を取り出した。

「……紙?」

 袋を四苦八苦しながら片手で抱え、どうにか台の上に載せられた紙を手に取った。丁寧な装飾文字で、何やら文章が連ねてある。ええと、と紅恋は眉を寄せた。頑張れば、読めない事も無いはずだ。

 特殊な生活環境の中で育った故に、紅恋は数ヶ国語を操ることができる。だが、そのほとんどが日常会話を一歩か二歩過ぎるか過ぎないか……過ぎるのかなあ、と迷う程度の物で、こと話す事だけに限ればそれでも事足りるのだが、読み書きになってくると、もう、怪しい。

「えー……んー……?」

 読みはまだいいのだが、書くのが苦手なのだ。何せ文字を覚えるのが面倒なので、簡単な文章でも思い出しつつようやっと、である。これも勉強の一環だとの黒衣のお言葉で、魔術の一つも掛けてくれれば万事解決なのに、読み書きは本や書き取りで四苦八苦しながら、自分で「お勉強」して覚える以外に方法は無い。

 黒衣は昔から、どうしてなのかは知らないが、まれに凄く父親ぶった事を言う。たまーに、足音を忍ばせて部屋を覗くと、教育がどうたらこうたら、真面目くさった顔でぶつぶつ言っているのだ。そして大抵次の日には、そう言った類のお話がある。なのに、話を持ち出す段になったら妙にしゃちほこばってたりするものだから、紅恋なんかは首を傾げているのだけれど。

 多分彼なりの、紅恋を〝育てなければ〟と言う思いの表れなのだろうな、と判断して、紅恋は素直に従っている。勉強は少々面倒くさい事も無いが、やり始めればそれなりに集中してしまう。だからもうちょっとしたら、まだマシになるはず。未来の自分に期待しつつ、小さく唸りながら文字を追っていると、主人が椅子の上から身を乗り出して、机の物と物との渓谷から顔を突き出した。

「そいつはただの紙じゃないぞ」

「え、お金取るの?」

 店主はずっこけた。その際に肘でもぶっつけたのか、衝撃で山がどどっと崩れて、落胆の声が椅子から聞こえる。

「あーあー、全く……違う違う!」

「じゃあ何?」

 細々としたものを机の上に積み上げながら、店主は咳を一つした。

「いいかい? 明日、この辺で祭りみたいなモンがあるんだ。まあ、ただ騒ぐ口実が欲しい……みたいな所もあるが、さておき。それに合わせて出店もたんと出るわけだ。それで、ほれ、そこの広場でも細工物の市が開かれるんだよ。お嬢ちゃんみたいな年頃の子なら、興味があるだろ? 首飾りとか――腕輪や指輪なんかも置いてるだろうし」

 今度はそう簡単には崩れないように雑貨の塔を微調整している横で、紅恋はあごのしゃくられた方向に首を向け、ああ、あそこの、行きがけに通る広場の事かと軽く首を縦に振った。

「そいつは……うちの知り合いの店の、サービス券なのさ」

 銀細工の店だ。ソーセージのような指が、ちょいと手元のチケットを示す。

 全体のバランスを少し体を遠ざけて眺め、またちょこっと塔をいじる。再度眺めて、満足したのか、店主は体を椅子に沈めた。

「俺には使い道もないし、どうせ誰かにあげようと思っていた所だ。おまけってことで貰っておくれ」

「えっ…………わぁー、いいの?」

 紅恋はチケットを握り、さっきと態度を変えて、目をきらきらさせて見つめていた。急に手に入った券を、確かめるように裏返してみる。また表に返すと、綺麗な文字が並んで紅恋を誘っていた。

 わあ、とまた声に出して、紅恋は微笑んだ。

「ありがとう! 嬉しいなあ」

 紅恋はもう明日が待ちきれないといった様子で、小さく飛び跳ねながら大切そうにチケットをポケットの中に差し込む。顔だけを残して身を翻し、袋はしっかりと抱えたまま、小さく手を振った。

「おじさん、ほんと、ありがとうね。明日行ってみる!」

 じゃあまたね。紅恋は手を振って店の扉をくぐった。足が自然と、うきうきした気分をステップに映して楽しげに弾む。喜びは消えるどころか更に高まって、足に導かれるように一回くるりと回転した。くすくす笑ってしまう。こんな風に振舞ったら、黒衣が苦笑するだろう。ほんとはそんなに困ってないくせに、恥ずかしいのか頬を緩めて、大きい手をこっちに伸ばすんだ。

 帰ったらすぐ、黒衣を誘おう。まだ動きたがる足を宥めて、紅恋は紙袋に顔をうずめた。不思議な匂い。紙袋と、中の色々なものと、それから、何だろう?

 くすっ、と微笑むのを止められない。お気に入りのこの街は、毎日会うたび表情が違う。今日はとっても楽しそうだ。誰のうちかもわからない玄関の前で、植木鉢の淡い桃色をした花が揺れている。葉っぱが、まるで手を振っているみたい。

 明日のお祭りが楽しみなのかな、それとも、あたしが楽しいから?

 ますます気持ちは高揚し、ちょっとだけ気取ってあごをつんとあげてみる。すぐにおかしくって笑い出してしまった。

 そのまま足を進めていると、突然。

「――――あっ!?」

 目の前に布が広がり、肩に鈍い衝撃が走った。痛みは無い、が、抱えた紙袋は手を離れて、いっぱいに入っていた中身が無残に道路に広がった。

「わああ! ちょ、何する――」

 紅恋は悲鳴をあげ、振り返った。今はもう、ぶつかったのが人間であるとわかっていた。ぶつかってきた男は急いでいるのか、すたこらと見る間に遠ざかっていく。かなり距離が開いてから、こっちを向いて、何事か大声を出していた。言っている言葉は、はっきりと聞き取れない。ごめんな、だろうか。何だか、謝る言葉であるような気はする。

 かっとして怒鳴ってやろうと口を開いたが、その言葉は出ずに終わった。

 

 一陣の風が、吹きつける。

 

 吹き抜けるではなく、吹き付ける。大きな一塊の風が、まるで紅恋だけを狙い澄ましたみたいに、噛み付くようにぶつかった。さっきのものとは比べ物にならない悲鳴があがる。足元がふらつき帽子がはね飛びそうに―――、

 いけない!

 それだけはと紅恋は帽子のつばを引っ掴み、ぐっと引っ張って頭に押し付けた。

 風が治まった。

 ほっとして、恐る恐る、つばから手を離す。その頃には、男の姿は消えていた。影も形も、見えない。

「―――――――」

 紅恋は怒る気力を根こそぎ奪われて、道路に座り込んだ。いや、座り込むと言うより、へたり込んだと言った方が、より、正しい。

 胸の中には、訳の分からない不安が満ちていた。

 今のは、何? 一体―――

 今になって、風が何事かの警告のような気がしてきた。あの男に関わるな―――と、そういう、こと? 紅恋は今になって気がついたように、素早く自分の周りの小物をかき集めた。風のせいで、余計に散らばってしまっている。壊れる事を気にする余裕も無く、順番も一向に気にしない乱暴さで、紙袋に入れ終えた瞬間走り出す。焦りが背中を押していく。不安が押し寄せる。

 早く、帰ろう。うちに帰れば、黒衣がいる。何にも心配は要らない。

 何度言い聞かせても、得体の知れない気持ちは体の中を蝕んでいく。これ以上、来ないで。紅恋は胸のうちで叫んだ。もう、これ以上他の事で悩ませないで。

 しかし、その願いは叶えられないのだった。

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