★7 美しい場所

「素敵!」

 紅恋くれんは喜びの声をあげた。

 リピスニアまで、何か乗り物を使う必要は無い。移動用の巻物を使えばあっと言う間だ。屋敷の中から使って人気の無い場所に降り立ったら、後はさりげなく道に出て歩き出せばよかった。

 黒衣こくいに案内された新しい家は、路地裏に隠れるようにある茶色い屋根の大きな館だった。古風でしゃれた雰囲気は、紅恋好みでもある。大きな扉をくぐった中も、凝ったつくりになっていた。

「お話に出てきそう……」

 派手ではないものの、丁寧なつくりの刺繍の施された美しいタペストリーにはうっとりしてしまう。二人は天井の高い館のエントランスに立っていた。見上げると天井には小さなシャンデリアが飾られていて、窓から差し込んだ光を反射しきらきらと光っていた。

 紅恋は自分の持ち物の入った鞄を肩から提げたまま、進んでいって飴色に磨かれた螺旋階段の手すりをなでる。壁際の、行く年月をも時を重ねた柱時計を見つめて。

「………いいな。凄く気に入った」

「それはよかった。確かに居心地もよさそうだしな」

 黒衣が大きなトランクと、それよりふた回りほど小さいトランクを床に置いた。すると回りに黒っぽい小さいものが集まってきて、トランクを持ち上げ、かさかさと動いて階段を上がり始めた。

「黒衣、ねぇ、中を見て回ってもいい?」

「構わないから、鞄は置いていけ。邪魔になるだろ」

「これくらいは大丈夫。見た目より軽いの。黒衣、あたしの分まで持ってくれたから」

 紅恋は動くトランクにありがとう、と礼を言って、落ち着いた色の絨毯のしかれた階段を気持ち駆け足で上っていった。

「わあっ」

 さすがに大きな邸な事はある。上がりきると、そこには扉が左右にずらりと並んでいた。

 すごいすごいとはやる心に引っ張られ、速い足取りで色々な部屋を見て回る。閉ざされたドアの向こうには何があるのか。開けていない扉は、中身の分からないプレゼントの包み紙と同じだった。

「図書室もあるんだ。あ、またバスルーム」

 これで三つ目。いくつあるんだろう、と紅恋は思った。

 あ、黒衣がきっと魔法で広げているんだ。二人しかいないっていうのに、広いところが好きだから。

 扉扉の間には上品な絵画が飾られ、贅沢に花がいけられた花瓶からはいい香りが漂ってくる。

「また、見えないお手伝いさんがいるのかな?」

 いけられた花の瑞々しさから、紅恋は呟いた。埃も廊下の隅に少し溜まっているくらいで、後は一つも見当たらない所を見ると、そうなのだろうと思えた。前の家では掃除をしなきゃと言えばいつの間にか埃が消えていて、汚れた皿を水につけておけば、いつのまにか綺麗になって食器棚に収まっているという事が多くあった。

 黒衣に聞くと、屋敷に住み込んでいる亡霊か何かだろ、との返事だった。

 亡霊。そう聞いて恐ろしく思った紅恋だったが、黒衣の話では邪悪なものでは無いらしいし(「そんなやつが掃除をするか?」)、片付いていたり掃除がされていたりするのは、やっぱりありがたい。自分に危害をくわえることは無いと知ってからは、もうそのような事にも驚きはしなかった。さっき鞄を運んでくれた物についてもそうだ。

 階段と同じ絨毯の敷かれた廊下を左端まで歩き、今度は右の端まで行くと、紅恋は壁際に不自然に引っ込んだ箇所があるのを見つけた。興味しんしんで顔を突っ込むと、そこには、ひっそりと隠れるように作られた昇りの階段があった。さっきの螺旋階段と比べると、格段に細い。

 何なんだろう?

 階段は上の方から光が差し込んでいるのか、上に行くほど一段一段がはっきり見えた。紅恋は登っていいものかためらった。少々悩んだものの、結局は好奇心が勝利を収めて、どきどきする胸を抱えながら階段を上がった。

 階段をあがりきると、壁についた小さな窓が眼に入った。そこから日が差し込んでいるのだ。天井が低く、普通の家くらいだった。そこはそれほど広くはない廊下だった。小ぶりの扉が、左右に二つある。

 右側の方を開いてみると、そちらは小さな――と言っても、一人でも足を伸ばして入れるほどの――バスタブの置かれた、バスルーム。青いタイルを踏みかけて、紅恋はぱっと足を戻した。

(じゃあ、こっちは?)

 紅恋は左の扉を開けた。そして部屋の中を目にすると、彼女は目を見張って感嘆の声をあげた。

 可愛らしい部屋だった。明らかに女の子のための部屋で、壁についた棚には御伽話の本が何冊か並んでいる。その横にはクローゼットがあり、小さめではあるが、立派なベッドは天蓋つきだ。丸い鏡の化粧台まであった。

 紅恋は部屋に入って、ずっしりとした長いびろうどのカーテンを緊張した顔で引いた。

「……!」

 声も出なかった。

 そこからは、町の景色が一望できた。広がる町並み。迷路のようにそこかしこを這う水路。作り物のような協会の尖塔の上を、鳥が舞い飛んでいった。

 なんて綺麗、素敵な―――

 紅恋は窓の鍵を開けた。白いバルコニーに、一歩一歩足を踏み入れた。

「凄ぉい……」

 壮観だった。そこに立っているのが嘘のよう。眼に入る景色は、自分だけのものだった。ただただ、言葉を失くして見入っていると、爽やかな風に、紅い髪が踊った。

 すごいすごい。――こんな風になってるだなんて。

 紅恋はその光景に見惚れていた。そしてしばらく、そこから眼が離せなかった。


「……見つかったか」

 細い階段の下に立ち、腕を組んで黒衣は肩を揺らした。驚かそうと考えていたのに、まったく紅恋の感には負ける。

 喜ぶだろうと思っていた。気に入りそうなところを探したんだ。

 もくろみの成功に、彼はそっと小さく笑った。

 きっと、彼女はきらきらと目を輝かせて下りてくるだろうな。

 螺旋階段を静かに静かに、足を忍ばせ下り始める。

 もう少しの間は、一人で楽しませてやろう。


  *


 美しい景色から目を離すのは、どうしようもなくもったいない気がした。

 けれどどうしても伝えたくて階段を駆け下り黒衣に話すと、彼は笑いながら、街の方も見てきたらどうだと紅恋に薦めたのだった。

 だから、階下に下りた時には肩から掛けっぱなしだった鞄を置いて、今紅恋は、街を歩いているのだった。そうしていても、あの部屋で自分の荷物を広げることを考えると、今から楽しみでしょうがない。

 街は、間近で見るとよりいっそう魅力的だった。

 考え事をしていても、だんだん集中できなくなってくる。あっちこっちで、面白そうな物が紅恋を手招きするからだ。普通の、民家の並びなのに、無造作に置かれたものの一つ一つさえ、紅恋の目をひきつける。

 扉の前の階段に置かれた、錆びかけた緑のスコップ。角の陰から姿を現すしなやかな黒猫。影が多いのだ。不思議の匂いのする薄い影。砂色の壁に張り付いたその奥には、奇妙奇天烈な発見がつまっている。

 脇を、乳母車の中の子供に笑いかける母親が通り過ぎる。

 眼の色を隠すためとはいえ、サングラス越しなのが惜しくてたまらなかった。長い髪をまとめて押し込んだ帽子も窮屈で、広いつばが視界を狭め、翳っているのが残念過ぎる。慣れた事だとは言え、やっぱり嫌だ。

 丸い植木鉢を避けて、スカートがひらりと揺れる。

 大輪の鮮やかな花。飾られた花。背の高くて細い家がいくつもくっついて壁を作り、その壁に囲まれて、入り組んだ街の道は細い。迷路――みたいだった。

 迷路。

 その果てはどこに繋がっているのだろう。

 ――ううん、どこでなくてもいいんだ。

 浮き立った気持ちで、紅恋は考えた。

 だってここは街なのだ。美しくて人が通って微笑んで、いくつもいくつも縁のできる街なのだ。わざわざ出口を探す必要もないくらい、美しくて素敵。入る必要のある人には入り口があるだろう。出る必要のある人には出口があるだろう。そこから迷い込んで、あるいは外へ出て、そして何かができるよう、しっかりと街がそうなっているんだ。

 異国。そこはいつも不思議な気持ちにさせる。

 幾多の国を渡り歩いてなお、この街はまた、特別だった。

 砂色の街、リピスニア。

 ――素敵な場所。

 紅恋はいたくここを気に入ったのだった。十歩足らずで渡れそうな橋を軽々と渡って、紅恋は中央で澄み切った水を覗き込んだ。青だ。いくつもの色を重ねた青の色。ひやりと水を渡った冷気が肌に触れる。

 指先を触れようと伸ばしたが、もう少しと言うところで届かない。

 残念。

 指を引っ込め、紅恋はまた歩き出した。

「わあっ!」

 唐突に衝撃が体を襲う。視点が狂い、レンガの道の上にバランスを失ってしりもちをついた。何かにぶつかったのだ。その何かが“人”であると理解して、紅恋は慌てて起き上がり、「すみません!」と声を投げた。

 ただでさえ、まさかと思うようなところに道のある街だ。よそ見をしていたせいもあって、人が曲がり角から出てくることを予測していなかった。

 怪我をさせてないだろうか。

 胸がきゅうっと縮こまった。だが、心配はいらなかったようだ。ぶつかった細い人影も、しりもちをついた程度だったようで、頭を抑えつつ、無事に起き上がった。

「ごめんなさい、大丈夫でしたか?」

 あっと自分の言葉を確認する。英語でいいんだっけ?

「………ええ、大丈夫よ」

 ハンドバッグを抱えなおして、その人から答えが返ってきた。よかった。通じたらしい。

「あの、本当にごめんなさい、よそ見していて」

「いいのよ、分かりにくい道ですものね。よくあることだわ」

 目深に被った布の帽子のせいで、鼻から上は見えなかった。しかし彼女は口だけで微笑を作った。そう、彼女は、女性だった。

「そうですか……でもあの、ほんとに」

「もういいわよ、あなたこそ大丈夫?」

 紅恋がはいと返事をすると、女性はもう一度笑って、

「それじゃあ、気をつけて」

 さよなら――頷いて長い服の裾を翻し、去っていってしまった。

 ほっそりとした体を、灰色と白のゆとりのあるワンピースが包んでいる。裾が足元まであって、そして同じ、長い布を使った帽子……

 ――修道女シスター、なのかしら?

 紅恋は何とはなしにその後ろ姿を目で追った。そして、彼女の帽子の下から覗いたものを見てしまった。

 長い、黒髪。長い長い黒い髪。流れる黒色。艶やかな。黒衣とは違う、あっても不思議じゃない、普通の、きれいな。長い、髪。

「―――!」

 その物自体は、驚くに値しない、目を引くけどそれだけの。だけど。

 鍵だった。

 即座に嫌な記憶が湧き上がって戻ってこようとするのを押さえつける。底の底の方から、怒涛のようにのたうって湧き上がってきた。押さえなければ。けれど過去はうねり、紅恋の中で暴れ狂った。しっかりと封じていなければならないのだ。気を許せばその瞬間には、あっというまにあふれ出てくるのだから。

 帽子を握り締めた手が震えた。脂汗が肌を伝う。苦しみに体を曲げて、手にはさらに強く力が込められた。彼女は呪文のように繰り返した。

 何にも考えない。何も考えない。考えない考えない考えない………………全部忘れるの。全部、全部全部全部全部…………何もかも。全て、思考の中から消し去るの。過去は鍵を掛けてしまっておく。その鍵も隅へと投げ捨てておいて。わざとどこかへ放り隠すの。

 だっていらないから。そんなもの生きていくのには邪魔だから。苦しすぎて、堪えられないから。


 ―――――そう、何をしに来たんだっけ?

 そうだ、街の探検だ。

 思い出した思い出した、と紅恋は顔を上げた。額の上に滲んだ不自然な汗を拭う。やだ、何で? そんなにさっき、緊張したっけ? ものすごく暑いわけでもないのに。

 うん、黒衣が薦めてくれたから、何か面白いものが無いかなって。可愛い小物のお店があったら嬉しいなと思ったんだ。商店街は家からも意外と近いって言ってたし、そうそう、どこの角だっけ、すっかり夢中になっちゃった。

 足を進める。さっき、女性が曲がってきた角を曲がって、その向こうで――

「わあ!」

 そこが商店街だった。道が大きく広がっていて、買い物をしている人もいる。看板が並んでいる中に、テーブルが。カフェもあるのだ。

 ここなら、目当ての雑貨屋などもありそうだ。紅恋は通りを見始めた。自身の嫌な記憶から逃げようとでもしているかのような速さで、通りのレンガを踏みしめた。


 *


「――――あの子?」

「そうみたいだ」

「あら…………やっぱり」

「楽しみだろ?」

「……そんなこと無い癖に、無理して」

「はは、悪い癖だ。だけど直す気も無い」

「だから直らないわよね。ずっと」

「だが、あながち、嘘でもないんだぜ」

「楽しみだってこと?」

「ああ」

「……ほんとに?」

「そうだろ……お前も」

「そうね……、大きなことになるのは、確かでしょうね」

「ほらな」

「でも、大変なことに変わりは無いわ」

「…………まあな」

「起こって欲しくないとも、思っているの。まだ、今でも」

「……そうだな――頷ける」

「でも、起こるのよね。起こって、何か変わるのは確実」

「いい方にいくか、悪い方にいくかはわからないが、か」

「このまま、放っておくわけにはいかないでしょう」

「ほっておいても、うまくいくかもしれないがね」

「うまくいかないかもしれない。うまくいくにしても、今のままじゃ……時間がかかるわ」

「だから、いわばひっくり返してみるわけだ。淀んでいるもの、溜まっているものを」

「全部ね」

「……時間が無いのは、痛いな。お互い、あいつらにも」

「そう…………そうよね。それが、悲しいわ」

「でもな、もう動き出しちまってるから」

「止めることができたとしても、しないで行こうと決めたものね」

「このままじゃ、何もしないで終わる、からな。可能性に賭けて、動こうってな」

「そうね、それじゃ、行きましょうか」

「そうだな。………………ほら」

「………………ええ」

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