★6 不安な予兆

 シックな部屋に無機質な電子音が響く。

 黒衣こくいは振り向いて、机の上に置かれたパソコンに目をやった。足元には必要な物を全て収めたトランクが広げられ、後はそのパソコンを入れるばかりになっていた。部屋一面に巡らされた本棚も、今はがらんと口を広げている。

 膨大な書物や巻物といった物は、術を使って一つの巻物に纏めた所だ。音を立てて、金の留め金を嵌める。その気になれば全ての持ち物を小さく一つに纏めることも可能だが、いつ何時非常事態になるかもわからないので、魔力の無駄遣いは極力避けることにしている。油断は禁物だ。追手がかかっている身分として、常に気を張っていても、後少しで見つかってしまいそうになったこともある。

 あそこでもし、魔力の値が底を尽きかけていれば、捕まっていたかもしれない。

 切り抜けた過去を回想しつつ、折り曲げていた膝を伸ばし、黒衣は机に片手をついてパソコンに向かった。画面には新しいメッセージが表示されていた。『未開封のメールが来ています』。差出人のアドレスは、情報屋のものだった。登録したメールマガジンだ。

「……もう来たのか」

 黒衣はメールを開いた。

 中身は『組織』の情報を徹底的に網羅した文書である。

 初めて内容を見た時は驚いた。情報屋がここまでだとは、侮っていたと思い知らされた。

 父親も使っていた程だから、ある程度は予想していたがしかし、予想以上に役立っている。なるほどこれなら儲かるな。そう一人納得したものだ。組織と関係を絶っている者達にとっては、重宝するだろう。

(にしても、やはりどこにでも小ずるいことを考える者はいるものだな。あの『組織』の中にしても同じ――か)

 ページには極秘の情報員が探っていると書いてあったが、おそらく、組織に所属している者が小金目当てで情報を横流ししているのだろうと黒衣は推測している。

 引っ越しの仕度もしなければならないし、目を通すだけで済ませるつもりで、黒衣はキーに指を置いた。

「……ん?」

 画面をスクロールしていた手を止める。

 何だか、妙なものが目に入った気がした。

 黒衣はおかしな胸騒ぎに駆られて、画面をゆっくりと戻した。画面を見て、黒衣は絶句した。一人でよかったと思った。部屋の中では、家具だけが黙って彼を見つめている。白く光る画面の前で、キーボードの上の手が汗ばんていく。

 しばしの沈黙の後、確認するように呟く。

「……く……れん?」

 黒衣の目の先には、紅恋くれんの姿が映っていた。

「いや……」

(違う)

 無意識に首を横に振った。

 画面に写っていた少女の髪は、肩を過ぎる程度の長さしかない。紅恋よりはるかに短かく、それに、色も違う。

 彼女の髪の色は、青い。

 真っ青だ。

 空のような、あるいは、海のようだと言ってもいい。

 それでいて、その容貌は紅恋に正に瓜二つだった。

 黒衣は身の毛がよだつ思いをした。

 少女の面差しは、見れば見るほど紅恋と重なって見える。

 紅恋を映した鏡の内側から抜け出して、髪を染めて目の色を変えて、好き勝手に遊びまわっている幻―――。画面の中の少女が嗤いながら町を駆け回っているのが目に浮んで、めまいを感じた。

 世界が揺れる。

 倒れ込むように机の上に伏して、体を支える。この前、あの見知らぬ男と出会ったときのように、体の奥がざわめいていた。

(異常事態だ)

 自身の感覚が、はっきりとそう告げていた。

 この少女には、注意をしなくてはならない。

「もっとも、会うこともないだろうが……」

 自分を庇うように、口にする。

 黒衣は汗で滑るペンを捕らえて、握り締めた。

(この、心を掻き乱されるような悪寒は何だ?)

 得体の知れない不安を打ち消すように、乱暴にパソコンの電源を切った。

(この少女は、何者だ)

 目を閉じて記憶の糸を手繰るが、少女は一向に現れない。同じ姿の、紅恋の顔が出てくるばかりだった。頭の中を隅々まで探っても、結果は捗々しくない。

 紅恋そっくりで、全く色が違うのに何故か、彼女に似た瞳をしている。形だけの問題じゃない。

 黒衣は感づいた。

 あの瞳は、紅恋と、そして黒衣の忌避する紅恋の中の者との両方に似ている。ひたすら透明に、透き通った瞳だ。

 そしてどこまでも暗く、深く陰りを帯びている。二つを持ち合わせた、紅ではない蒼の瞳を持つ少女に、黒衣は胸の内で問いかける。

(お前は、いったい何者なんだ)

 途方にくれて、両目を覆う。

 視界が暗闇に閉ざされる。何も、見えない。


「黒衣ー」


 暗闇に声が飛び込んできた。

 その声を聞いて、黒衣は閉じた目を開け、パソコンの黒衣を映す画面を僅かに眺め、閉じる。気づかないうちに浮いていた額の汗を払って、扉へ向かった。

 開けば、そこには紅い髪の少女が居る。彼女は微笑んだ。

 自分も、柔らかく微笑み返す。

 平静を装えているだろうか?

「支度、大体できたよ」

「そうか、ここをまた売りに出す準備も出来たから、明日か明後日には出発だな」

「リピスニアに向けて!」

 紅恋は楽しそうに、やったあと両手をあげた。

 しかし、ふと手を下ろすと紅恋は聞いた。顔に見たことも無い不安を覗かせている。

「ねぇ黒衣、前から思ってたんだけど、あたしたちってお金あるの?」

「何だ突然。あるに決まってるだろ。紅恋には、いつも買い物をして来て貰ってるじゃないか」

「あ、そう言う事じゃなくて」

 首を振って否定し、人差し指を右のこめかみに当てた。

「引っ越す時は家を売っちゃうから、それでお金が入ってくるのはわかるけど、すぐまた立派な家を買うでしょ? 家には家具もついてる。でも食べ物やあたしの服だって買うし。それに、黒衣の働いている所なんて、一度も見たことないもの。けど、働かないとお金は入って来ないし……」

 だから、ひょっとしていっぱいあるのかなって。紅恋は言って、答えを待ち受けて黒衣の顔を覗き込んだ。

 そんな事を考えていたのか、と黒衣は、どこぞの店先で働く自分を想像し、危うく吹き出しそうになった。

 その代わりに軽く笑って、彼女に言う。

「紅恋は心配しなくていい」

「だって気になるんだもの……」

「大丈夫さ。俺は有り余るほど金を持ってるんだ」

「どうして……まさか」

 紅恋は何かに感づいたかのように口を押さえた。

「黒衣、なにか……銀行強盗かなにかやったの?」

 それを聞いてはどうにも堪えきれず、黒衣はぶはっと吹き出して勢いよく笑い出した。

 さも面白そうに笑い続ける彼を目の前に、紅恋はおろおろとうろたえて、顔を紅潮させた。笑われてもしかたないことを言ったと分かってはいるようだが、どうやら本人、多少なりとも真面目であったようだ。それがなおさらおかしかった。

「わ、笑わないでよっ」

「はは……いや、面白いこと言うな、紅恋」

「こっちは真剣なの!」

「悪かった、悪かったって。けど、本当に大丈夫だから」

「じゃあちゃんと教えて!」

 きっと睨み付けられて、黒衣はわざとらしいため息を吐いた。そんな顔をしたってちっとも怖く無い。いかにも白状しますという顔を作って彼は言う。

「虹のふもとの宝物を見つけたんだよ。だから平気なんだ」

「嘘! それくらい、すぐにわかるんだから!」

 紅恋は引き下がらない。それはそうだ。黒衣の顔はまだおかしそうに緩んでいて、笑いを堪えているのが丸分かりに唇が震えている。どうにか笑いを抑えて、両手の平を紅恋に向け、胸の前で軽く腕を折った。拳を握り締めている紅恋を、押さえて押さえて、と宥めるポーズ。そして、「とにかく」と続けた。

「とにかく俺は銀行強盗も泥棒もかっぱらいもやってないから。その点は安心しろ。他にも、誰かが困るようなことはしてない」

「本当に?」

「もちろんだって、誓うよ」

 困っているのは親くらいの物だろう。

 それくらいなら、数に入れなくてもいいと思った。

 紅恋はまだ疑わしそうに彼の顔を見ていたが、黒衣はくすくす笑うばかりだ。結局何も分からなかったので、絶対にそういうことはしちゃ駄目だからね、と釘を刺してから、部屋に戻って行く。後ろ髪を引かれる思いをしているのが、後姿でもよく分かった。

 はいはいと手を振って見送り、黒衣は机の脇から大きな砂時計のようなものを取り出した。

 木の枠が、薄青の真ん中がくびれたガラス瓶を覆っている。一番くびれた部分のところに輝く石がはまっていて、軽く振ると、下になっている方の口から、小さな金のかけらがさらさらとこぼれた。

 手を受け皿にして欠片を受ける。

「大丈夫だって」

 まだまだ、十二分に余裕がある。

 父親の元から奪ってきた宝の一部だ。これは本当にそのうちの一つで、倉庫には宝物が唸っている。貴金属に目が無いドラゴンのように、父親がため込んだものを拝借するのは、泥棒の内には入らないだろうと黒衣は微笑んだ。


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