☆6 特訓開始
電子音が響いてうるさい。延々鳴り続けている。もちろんそれは起床させるためにあるものなので、止めない限り鳴り続ける。部屋の持ち主は、唸り声を上げた。
盛り上がった布団の中で、二、三度、中身の人間がめんどくさそうに寝返りを打ち、新品のベッドから手が伸びて、枕元をしばし探る。少しもしないうちに、手は目的のボタンを探り当て、勢いよく叩いた。
ボタンが引っ込んで、電子音が止まる。
もぞもぞと手が後退し、布団の中に滑り込んだ。しばらくして、掛け布団が静かに上下し始める。
その時だった。
「起きなさい!」
母親もかくやといった張りのある声が部屋を揺るがした。布団を豪快に引き剥がし、腰に手を当てた姿からは威厳が漂っている。
「無理、寒い……」
しかし、彼女は許さなかった。
甘い! と闘牛士のように軽やかに体を反転させて布団を翻し、手の届かないところへ遠ざける。
「駄目! あんたいつまで寝てる気なの!? もう皆着替えてるわよ。まだ寝てるのはあんたと龍巳だけ!」
それほど広くない部屋に、リタの声が響く。洸は小動物を思わせる動きでベッドの上に丸くなる。ここは洸に与えられた部屋だった。風呂もトイレも備え付け、何より、トレーニングで疲れた体力を回復するため、特別に設えたというベッドの寝心地は最高だ。
細めた目に、洸は自分から布団を取り上げた人物を捉えると、不機嫌そうな顔で呟いた。
「……あんた、誰?」
「はぁ? 何言ってんのよこのスカポンタン! リタ・アローズ! あんたのチームメイトでしょうが!」
そういえば、と洸は今更ながら、ここが自分の部屋と違うことに気付く。脳みそが大分覚醒してきたようだった。
「そうだ」
うん、ととぼけた態度で頷く洸に、リタは溜め息をついて布団に手を掛ける。
「思い出した? それじゃあ昨日、『明日になったら訓練があるから、みんなと一緒に来て頂戴ね』ってB・Bに言われたの、覚えてる?」
「そうだった」
何度も頷いて、戻ってきた記憶を確認した。訓練の前に、朝ご飯は食堂に連れて行ってもらうといいわ、とも言われていた。
「思い出した、よ」
「そう……だったらその、未練がましく布団にしがみついた手をとっとと放しなさい!」
「えっ、やだ、それは無理!」
「無理じゃないでしょ! 遅れちゃうのよ!」
必死に洸を布団から剥がそうとしているリタは、当然のごとく、もうとっくに着替えをすませていた。若草色の長袖Tシャツにデニムのパンツを身につけ、昨日と同じベルトを締めている。
スーがひょこっと扉から顔を出し、ベッドの上で布団の争奪戦を繰り広げているリタと洸に声を掛けた。
「
「ほらっ、あいつまで起きたのよ。いい加減にしなさい! これで起きなかったらあんただけ置いてくわよ」
すると、洸の動きが止まる。
「それはやだあ……」
「じゃあ起きなさい! まったくもう、聞き分けのない子供みたいよ」
「それもやだ、寒い!」
リタが布団から手を放した隙に、がばっと布団に潜る。あっ、このとリタは歯噛みし、布団を引っつかんだ。洸は元々朝が苦手なのだ。しかも、昨日の夜は遅くまでエアフィアと話をしていたので更に眠い。
「ね~か~せ~て~っ!」
「い~や~よ~っ!」
「洸さん、朝ご飯が食べられなくなっちゃいますよー?」
「あ」
『朝ご飯が食べられなくなる』
その言葉は洸に衝撃を与えた。再度唸る。
「ごはんたべたい」
まだ寝ていたい気持ちは凄くある。だが、腹の虫は十分な睡眠を済ませて、存分に空腹を訴えていた。それにこれから訓練があるというのに、朝食を食べられなければ、きっと後々辛いだろう。
洸はしぶしぶ、布団に別れを告げることを承諾した。
「わかったよ」
「よし!」
リタは執拗に布団を求める洸に対抗するため、能力で高く浮かせていた布団をどさっとベッドの上に落とした。
「まだ眠い……」
洸は不平を言いながら、着替え始めた。スタイルは昨日と同じ。ずっと同じ服を着ているわけにもいかないから、ヴィアのところに遠からずまた行くことになるだろう。
そう考えると、ドレスを手に嬉しそうなヴィアの姿が目に浮かび、鳥肌が立った。誰か一緒に行ってもらえるだろうか。まだ何も入っていないヒップバッグを腰に留め、ペンダントをして髪をとかす。洗面所に向かって蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく迸った。おかげで、顔を洗うとだいぶ目が覚めた。
欠伸をしつつ、ようやく洸は寝ぼけ眼で部屋を出る。
「あ、おはよう……」
「おう」
「おはようございます」
「おふぁよう~、ひ~ちゃぁん」
廊下ではもうチームの面々が顔を揃えていた。あいさつを交わして、まだ昨日会ったばかりなのに、しょっぱなから皆を待たせてしまったとわかると、少々罰の悪い気持ちになった。龍巳を見ると、喉の奥まで見えるくらいの大あくびをして、もともと癖のある髪が、いつもより激しく跳ね上がっている。
「まったく。あたしが起こさなかったら、一体いつまで寝てたかわからないわね」
リタは呆れたと連呼して、怒りながら部屋から出て来た。
洸が着替えている間に、めちゃくちゃになったベッドを整えていてくれたのだ。
「あはは……ごめん」
洸は苦笑いをし、頭に手をやって、申し訳なさそうに頭をかいた。
「もう、あれでも起きなかったら、最後には聡貴に噛み付いてもらおうかとも思ってたんだからね」
「えぇ!? ちょっとさ、待って。それすごく痛そう」
「そんなことしないよ。仲間なのに」
聡貴は、苦労が堪えないとでも言いたげに、大人びた溜め息をついた。当たり前のように、片手に本を持っている。
「あ、そうだよね、よかった」
「言っとくけど、私は嘘をつかないのを信条にしてるのよ」
「えぇっ! 噛まれるのは困る!」
これからは努力するから、と洸は謝罪の言葉を口にする。ずっと一緒に行動してきたかのように、素直に言葉が出てきていることに驚いた。
「毎朝あんな風に起こされてたら身が持たないよ」
「それはこっちのセリフでしょ」
毎日布団争奪戦なんかやりたくないもの、とリタは頭を振った。その様子にスーが、片手で口を覆って笑っている。
「大丈夫ですよ。龍己さんも、起こすのすっごく大変だったんですから」
「そうなの?」
「ええ、デリストさんにベッドを凍らせてもらってやっと」
「乱暴なんだよなー。そんなことする奴はモテないんだっつーに。すげぇ驚いたんだぞ、急に尻が冷たくなるから。霜焼けになったらどうすんだ」
龍己は立て続けに文句を並べた。歩くたびに、もつれた髪の毛があちこちにぴんぴんと跳ねる。それを聞くとデリストがむっとして反論した。
「お前が起きないからだろ。こっちだって、わざわざあんな事したくないんだよ」
「早起きは、脳の活性化にいいんだよ」
聡貴が口を挟んだ。本を読みながら平然と歩いている。
「別に本読んだからって頭いいわけじゃないだろ」
「少なくとも龍己よりはいいよ」
「んなことないっつーの!」
「ああもう、「頭がいい」と「勉強ができる」っていうのは、別問題ですよ?」
スーがいさめ、リタは面白いとばかりに問題を出した。
「それはともかく、じゃあ「勉強ができる」って視点で見てみようかしら。これできる?
2(x-1) +3(y-3) =0
連立方程式。{2y+3x=4 」
リタの出した問題に、龍己はあんぐりと口を開けた。龍巳には申し訳ないが、こういうのをあほ面と言うんだろうなと洸は思った。
「……それは人間の考えだした物か!?」
「そうよ。ちなみに中二の問題」
X=-2
「出来たよ。答えは{ y=5 」
聡貴は、掛け算を答えるくらいのあっさり加減で答えた。
「あら、さすが聡貴、ご名答」
「何だよ。別に簡単じゃないか」
怪訝そうに眉をひそめ、聡貴は本に目を移した。
龍己とデリストは額を寄せ合って、ひそひそと言葉を交わした。
「あ、ありえねぇ……」
「おい、今聞いたのだと、何だか呪文みたいにしか聞こえなかったぞ………」
龍巳が言う。デリストは嫌な汗をかいていて、思いつめたような表情を浮かべていた。
「やだ、デリストってばわかんないの」
リタがけらけらと笑う。そういう彼女も答えがわかっているということは、暗算でそれをやってのけたらしかった。
「えーっと、問題何だっけ? 2エックス」
洸は上を向いて、手の平に問題を書き始める。
「そんな難しい問題やるんですか……!」
スーの声は悲鳴に聞こえた。
どうやら、聡貴は頭が切れるようだった。顔つきだけなら、小学生には見えないような表情を浮かべている時もある。顔の作りは幼いのだが、大人びた表情なのだった。よく言えば賢そうと言うか、悪く言えば小生意気だと言うか。
「へえ……聡貴は頭いいんだ。あ、『勉強ができる』のも含めて」
世の中には凄い人が居るもんだ、と感心した眼差しで洸は聡貴を見つめた。そんな洸に、聡貴は軽く肩をすくめる。一々動作が小学生とは思えない。
「別に、大した事じゃないよ。これくらいできる人間なんて、ざらにいるさ。もっと凄いことのできる奴だって大勢居る。僕の場合は……本のおかげが大きいかな。それに、ここではやりたいと思った勉強ができるからね。数学は結構好きだよ。あとは理科、物理の方とかも。もっとも、好んで読むのは小説だけど」
そう言うと、聡貴は龍己を鼻で笑った。
「これに懲りたら、本の一冊でも読んだらどうだい? ゲド戦記なんかお勧めするよ」
やっぱり小説から始めたらいいんじゃないかな。などと聡貴は偉そうに言った。龍巳は負けたという思いにぎりぎりと歯軋りをして、聡貴を睨み付けた。彼の目には聡貴は相当鼻持ちがならなく見えたのだろう。呪いをかけるように呟いた。
「くそう……毒舌頭でっかち蛇野郎め」
そんな龍巳を尻目に、洸は顔を輝かせ、聡貴の肩を遠慮がちに叩いた。
「ねぇ、聡貴。あのさ、ミヒャエル・エンデ、好き?」
「うん」
即座に頷く。洸はそれに笑顔を見せた。
「ほんと? あたし『モモ』が好きなんだー」
「そうか、エンデのでは『はてしない物語』かな。僕はあれが好きだよ。『ナルニア物語』のシリーズは読んだ?」
「あー、わかる! あの本、すごくいいよね。ナルニアもいいなー。あたし、『朝開き丸東の海へ』が好きなんだよ」
「うん。不思議な島の話、面白いよね。僕は『魔術師のおい』かな。白い魔女が、怖いけど、面白いんだ。僕ミステリも読むけど、好きな本はある?」
「ミステリ? 推理小説は、ちょっと苦手意識があるなあ」
「でも、あの人のならいいと思うけどな」
「え! 誰々?」
洸は聡貴と一緒に、本について楽しげに話し始めた。聡貴も心無しか雰囲気が明るい。
なにぶん、深入りすることを良しとしないことが多かった生活だ。洸も友達と話すより、図書館や図書室、本屋などに居る方が、心が休まることが多かった。
「嬉しいー。本について話せる人ってなかなか居ないんだよね」
「ひーちゃんって、本好きなんだねえ」
「うん、それに、本が好きってほら、大人受けは良かったりするけど、ちょっと言い出しにくかったりするじゃん。だから、クラスでは本読まないようにもしてるし」
洸は、話が途切れたところで、しばらく歩いたことに気付いた。
「リタ、ねえ、結構歩いたけど、その、食堂はまだかな?」
「これから行くのは『アカデミー』よ。あたしたちの学び舎。ああ、朝ご飯ね、あたしたちはもう食べたもの」
「え!? 俺食ってねぇよ」
「あ、大丈夫です。龍己さんと洸さんにはこれ、どうぞ」
スーから手渡されたのは、アルミホイルにくるまれた塊が二つずつ。そして、ペットボトルが二本だった。
「えっと、おにぎりです。右が梅干で、左がおかかだそうです」
「……これ?」
「うへー、足りねーって」
「仕方ないでしょ。あんたたちが早く起きれば一緒にランチルームに行って食べられたのに、起きなかったんだもの」
あるだけありがたいと思いなさいよと、リタに諭されて、洸と龍己は肩身を狭く感じながら食べ始めた。おにぎりは美味しかったが、食堂で食事を摂れると思っていたのが覆されたことを考えると、物足りない気がしたのも確かだった。悲惨なのは龍巳の方だろう。足りない足りないと泣きそうな顔をして、腹を押さえていた。
「それじゃさ、リタ。もうちょっと詳しく、教えてくれない?」
「何について?」
「あ、その『アカデミー』? だっけ」
「わかった。じゃちょっと、予備知識あげるわ」
洸はおにぎりを咀嚼しながら、話を聞く体勢を作った。
リタはすらすらと話し始めた。
「あたしたちはね、まず、『組織』の中で行動は大体がチーム単位なんだけど、『アカデミー』の中だけは例外と言ってもいいわね。主に、個人を高めることを中心としてプログラムが組まれているの。それで、皆それぞれの能力に合わせて、色々なクラスに所属しているのよ。あたしなら念動力。スーなら音楽だし、龍巳なら飛行訓練とかね。でも一人一つのクラスって限定されているわけじゃなくて、それ以外に、平均は、五つか六つ、初めのほうは三つか四つくらいかしら。体術は必修科目だけど、後は自分の興味あることのクラスを取れるのよ。それで後は、各クラスでは毎回、他のクラスとも調整しつつ課題が出されるの。その課題の正確さとか、発想とか、完成度とか、どのくらいの時間でできたかとか、そう言うのを総合した評価と合わせて、ご褒美としてポイントがもらえることになってるのよ」
「ポイントっていうのは?」
長い説明に置いていかれないようにしながら、洸は問いかけた。とりあえず、雰囲気だけでも把握しておこう。今説明するわ、とリタは応えた。
「ポイントっていうのは、つまりはお小遣いよ。ある程度の衣食は組織が出してくれるけど、ほら、他にももっと色々、アクセサリーとか、服とか、本なんかも欲しいでしょ。だけどその分は自分で稼がなきゃ駄目なの。欲しい物の分だけ貯めたらお金に換えてもらって、後はどこへでも好きなところへ行って買い物ができるわ」
「へええ」
「さぁて……着いたわよ」
唇を笑みの形にしたリタの台詞に、皆が足を止める。いつのまにか、彼らは巨大な入り口の前に立っていた。龍巳が腕をぐるんと回した。スーが背負った楽器を揺すりあげる。デリストが満足げに両腕を組んで、聡貴がぽんと音を立てて本を閉じた。背中のナップザックをおろして、その中に本をしまう。
「うわぁ………」
口からひとりでに驚嘆の声が漏れる。
驚かずに居られるものか。
そこはとても広い、天井の高いホールだった。建物を三、四階ぶち抜いて使用しているのだろう。壁も天井も、全てが青い銀色に光っている。
行きかう人々を囲むように、壁一面に大きな扉がずらりと並び、扉のふちの色はそれぞれ違った色に塗られていた。人を乗せた昇降床がいくつも忙しく稼動して、人々を色の違う扉へと運んでいる。
そこを、数百人という大人や子供が目的にそって動いていた。人たちは皆、活気にみなぎっていて、明らかに不思議な所が一つはある。おまけに人と思えない者も、大勢居る。洸は唾を飲み込んだ。自分がやはり違う世界にいることを実感し、そこに踏み込むことに、緊張を覚える。
今自分が立っている場所に、かつて、父母が立っていたのだろうか。少しの間、そう考える。
自分の知らなかった父母の世界に居る。
「やっと来たのね」
向こうの方から、一人の少年と話をしていたB・Bが、ハイヒールの踵を鳴らして歩み寄ってきた。少年は問題が解決したようで、晴れ晴れとした笑顔で茶色の尾を揺らしながら去っていった。
B・Bは洸たちの傍まで来ると、傍らに抱えたバッグから、龍巳たちの持っているのと同じ、一枚の金色のカードを取り出した。
「はい、洸。昨日は渡し忘れてしまったけど、これがあなたのカードだから」
洸はB・Bからカードを受け取った。
つやつやとした明かりを反射して光る表面に、ローマ字で洸の名前が表記されている。裏側には黒い線が一本通っていて、線の上は灰色に塗られていた。
「これはここでの生活で、最も重要なものよ。何せ、大抵の場所はその鍵で開けるようになっているし、買い物にも必要になっているから。使い方はすぐに分かるだろうけど、分からないことがあったら、私でも、チームの皆にでも聞いてちょうだい」
はい、と洸がうなずくと、B・Bは声を大きくしてみんなに呼びかけた。
「さあ、それじゃあ洸の事は私に任せて、今日はいつもの通り、各自のクラスに移ってちょうだい。ちゃんと覚えてる? リタは体術、デリストは能力の訓練ね。聡貴は歴史。スーは音楽で、龍巳は飛行訓練。アイズがあなたのこと楽しみにしてたわ」
笑顔を向けられて、龍巳はうげーと顔をゆがめた。
「なーに言われんのかなー。怖ぇなー。おい聡貴、俺に万が一何かあった時には、骨はきちんと拾って海に撒いてくれよ」
「やだよそんなの、お断りだ」
「任せろ龍巳、俺がオホーツク海に沈めてやるから」
「何でそうそんな寒そうなとこを選らぶ。嫌がらせだなてめー。どうせならほら、どっか南国、地上の天国と呼ばれるようなだなー」
そんな風に軽口を叩きつつ、龍巳たちはそこから散らばりはじめた。ひょい、と振り返って、龍巳が片手を高くあげる。
「じゃーなひーちゃん。また後で会おーぜー。ぐっどらっくっ!」
洸はやや緊張した面持ちで、手を振り返した。その脇を、スーが足取り軽くすり抜けて行く。
「それじゃ、洸さん、私も行きますね。頑張って下さいね!」
「あ、うん。ありがとう」
答えると、スーははにかみながら微笑んで、正面の昇降床に向かっていく。
「あたしも行くわ。頑張ってね」
リタも頭の後ろで腕を組み、鼻歌を歌いながらさっそうと歩いてゆく。B・Bと二人取り残された洸は、僅かばかりの寂しさを感じていた。
「それじゃ、私たちも行くことにしましょうか」
そう言う彼女に黙って頷き、洸は急に不安になって、ポケットの上から石を押さえた。
すると、エアフィアは励ますように手にほのかな暖かさを伝えてきて、少し気持ちが和らいだ。
「あなたはこっちよ」
洸はB・Bに連れられて、並んだ扉のうちの一つへと歩を進めた。洸は興味深げにあちらこちらへ目をやった。その眺めは凄かった。目から、うろこがぼたぼたと零れて落ちているような気がしてくる。真っ青な肌をした男の人が横を通り過ぎて行き、向こうの方では金髪で耳が尖っている女の人が、偽物とは思えない剣をつって立っている。ヴィアと同じエルフだろうか。
小さな少女と少年が、仲良さそうに縄跳びをしている。広いから人にぶつかる心配もなくできるのだろう、と思ったら、その飛んでいる縄がお互いの腕なのだから、目玉が床に落ちるかと思った。
そう思った瞬間、洸の足に何かが当たり、ふと下を見るとブーツの先に目玉が落ちているではないか。
「!?」
全身が総毛だった。すると杖をついた老人が近寄ってきて、その目玉を拾い上げると汚れを払い、自分の右の真っ暗な眼窩へと、ごく自然にはめ込んだ。老人は、何事もなかったかのように、杖を突いて歩いてゆく。
仰天して身動きがとれなくなっている洸に、B・Bは振り返って笑った。
「凄いでしょ?」
「は、はあ……」
凄いなんてもんじゃないけど。
洸は思い出したようにB・Bに聞いた。
「あの、リタが『初心者は三つか四つのクラスに入っている』って言ってたんですけど、あたしも、自分で選ぶんですか?」
「ああ、うーん、悪いけれど、選択クラスを取れるようになるには、まだ時間がかかるわ。何しろ、あなたは転入生みたいなものだから。今まで全く何も、能力について知らなかった子がいきなり、チームに所属すると言うのはね、想像よりも難しいことなのよ」
洸は頷いた。簡単では無いだろうことは、わかる。
「だからあなたが受けるのは、まず基礎体力の向上のクラス。それから特殊能力のコントロールに……ドクターには会ったわよね? 彼から送られてきた能力のリストを見ると、飛翔能力があるみたいだから、飛行訓練もとらなくてはいけないし。後は体術。と、言っても護身が主になるのだけれど。受身を取る練習とか。もうこれで四つよ。ひとまずは……そうね、そんな所かしら」
なるほど、確かにそれらは必須と思えた。洸は、他の特殊能力を持つ子供達よりも、出遅れている。基礎的な強化は避けては通れないだろう。
「もちろん、途中から入る子も多いのよ。後々から能力が発見される場合も、多いわ。だけれどあなたのチームはもう、みんなある程度力を持っている子達だから」
説明を聞きつつ、やはりゲームか漫画のようだと洸は唸った。信じきれない気持ちが、まだ微かにある。
ここまで大掛かりな嘘も無いだろう。これは確かに、真実なのだ。それにこうなった以上、文句を言っていられない。これは、父母の為でもあるのだ。
両親の仇を討つ。
それこそが、洸の目標だ。
(その為には、どんなに大変だろうと、あたしはやる)
手を強く握りしめる。自分へ、覚悟を染み込ませる為だ。
頷いたまま俯き、そのまま考えを巡らせていた洸に、B・Bはほらと呼びかける。
「しっかりして。考え事してる暇なんか無いわよ。あなたは今日凄くハードなんだから。今の時点でどれくらいの力量があるかを図るテストが三つもあるわ」
「……はい」
おやとB・Bは不思議そうに、至って静かに答えた洸を見つめた。伏せられた青い目の奥はまるで静かな水面のようで、さきほどの楽しそうな様子とは打って変わって、近寄りづらい雰囲気が発せられている。
軽く首を傾げ、まぁいいわとB・Bは足を進めた。
二人か三人くらいしか乗れない小さな昇降床に乗る。壁と同じ色の硬い金属でできた床が、壁に沿って滑らかに上がっていく。B・Bが手すりについたキーを操作して、行き先へと動かした。上がっていた床が止まり、今度は横に滑っていく。小さな振動と共に着いたのは、肌色で縁取られた扉の前だった。
「エントリーをどうぞ」
明るい声に顔を上げると、いつの間にかそこは扉の前で、受付の女性が見事な業務用の笑顔を浮かべていた。お手本のような笑顔だ。
「洸、彼女にカードを渡して」
「あっ、はい」
洸は慌ててポケットを探り、先ほどもらったカードを引っ張り出すと、女性に差し出した。笑顔のまま彼女は受け取ると、パソコンの画面の横にある機械に、慣れた手つきでカードを通した。ピンポーンとチャイムが鳴って、目の前の扉が開いていく。
「体力テスト、02にエントリーですね。それではどうぞ」
女性に笑顔でカードを返され、洸はポケットにしまった。
「さ、行きましょう」
「あなたも来るんですか?」
洸はB・Bに聞いた。テストと聞いていたし、一人で入るものとばかり思っていたからだ。
「テストだからよ。受ける人間のチーム・マネージャーも入るの。あなたのメニューを考えるのに、私が見ないでどうするの?」
それもそうかと思い、扉の中に一歩足を踏み出した。緊張に、心臓が爆発しそうになる。
部屋の中は暗かった。
だが、暗かったのは一瞬で、奥から順番にライトが付き、すぐに明るい部屋と様々な機械の群れが目に飛び込んできた。座席のついたマシーンは、自転車型の物から、椅子のように腰掛けるものまで様々だ。
単なる飾りではないかと思ってしまうほど大きなバーベルが、壁際に置かれた台に乗せられている。だが、きっと実際に使用するのだろう。
部屋の中央に、動きやすそうなジャージを着た男性が居る。背が低く、筋肉質な体つきだ。彼の頭には、特徴的な緑色のとさかが生えていた。洸はぎょっとしたが、段々と適応してきているのか、その驚きは小さい。
「ようこそ体力テストへ。『体力向上』クラスのコーチ、ガーディアンがお相手しよう」
ガーディと呼んでくれ、と名乗った男性は、はきはきと口上を述べる。差し出された緑色の手を取ると、ひやりとして冷たく、陶器の置物でも触っているような心地で、よく見ると、彼の手は細かいうろこに覆われていた。
「ガーディはトカゲの血統を持つ種族よ」
「とっ、トカゲ!?」
「そう。トカゲ人間ってこと」
ガーディは筋肉の盛り上がった肩を竦めて、笑った。そして、手を打ち鳴らした。
「さて、おしゃべりをしている時間はないな。まずは腹筋と背筋から。二十秒以内に何回出来るか。さぁ、ぼーっとするな、早くそこのマットに横になって」
洸は慌ててバッグを外し、床に置いてマットの上に寝転がった。ジャケットも脱ぐ! と飛んできた声に、上着を脱ぐとバッグの上にほうった。
ガーディは胸から下げたホイッスルを銜え、短く吹き鳴らす。すると、銀色のアームがマットの両側から姿を現して、洸の足を掴んで固定した。金属の冷たさが足に直に伝わってくる。
「わっ」
「腕は胸の前で交差させて、はい、始め」
驚いている暇も無く、ガーディがホイッスルを吹き、とにかく腹筋を開始した。運動は得意というほどでもないが、苦手でもない。ガーディの笛が再度ピーッと音を立てると、アームは解除され、洸は足首をさすった。
「どれどれ」
ガーディアンが手元のノートほどの大きさのタブレットを眺める。どうやら、直接タブレットに今の結果が表示されるらしい。
ざっと眺めると、ガーディはまた笛を取った。
「じゃあ次、背筋」
洸は体を裏返し、無言で背筋を開始した。
*
部屋に来てから、一時間が経過していた。洸は肩で息をしながら、冷たい床にへたり込んでいる。
「よーし、終わったぞ。ご苦労。さて、結果は」
「ぜぇ、ぜぇ……はぁ……」
ガーディはタブレットを確認し、洸はやっと一息つけると仰向けに床に倒れこんだ。
「うーん………ま、及第点だな。普通の人間の子供にしては、素質は悪くない。中の上。上の下にぎりぎり入るかどうか、ってとこか」
ガーディは難しそうな顔をして、とさかをかきながら隣に立つB・Bにそう告げる。
「普通の生活を送るのなら全く問題はない、という運動能力だな」
「でも、彼女が送るのは普通の生活じゃないわ」
二人は会話を続ける。B・Bはタブレットを覗き込んだ。洸は上半身を起こして、二人を見ていた。健康には自信がある。自慢じゃないが、ここ二年くらいは風邪も引いていない。だが、今の時点では、チームに課せられる任務に就けるほどの能力は足りていないだろうことは予想できた。
「早く任務につきたい、と」
「そう。なるべく早く力をつけないと」
「うーん……」
ガーディは頭をかく。
「わかった。だが、この子の訓練は、かなりハードなものになりそうだな」
「それは本人も承知の上だと思うわ」
「ああ、無理をして後で体に不具合が出ないように、適宜様子を見よう」
ガーディは洸に向かって振り返った。
「お疲れ。単刀直入に言おう。君の素質は悪くない」
「はぁ、はい」
洸は床に座りなおした。
「でも、犯罪者を追うチームに所属するには、明らかに能力不足だ」
ガーディは壁に備え付けられた引き出しから、洸の足元に向かって、黒い物体をほうり投げた。
物凄い音を立てて、硬い床にその物体が着地する。
「……何ですかこれ」
「錘だ。能力の強化には一番役に立つ」
「いったい何キロくらいの……」
「そうだな、それは俺が使っているものだが、確か五百くらいだったかな」
「ご……!」
洸は、冷や汗が流れ出すのを感じた。言葉が出口を塞がれたかのように出てこない。ガーディは軽くため息をついて洸を見つめた。
「最初からそんなのが持てたら、即戦力だ。不可能な無茶をしろとは言わん。何より体に無理をさせるのはよくない」
リストバンドを四つ、そして、掌に乗るくらいの長方形のカードを二つ、ガーディは洸に手渡した。とても支え切れない。
「一つ五百グラムだ。腕と足につけて」
「ご、五百グラム……」
「大丈夫だ、普通の錘ではなくて、ちゃんと体に負荷が分散してかかるようになっている。ちょっと太ったとでも思えばいい」
「ふとっ……! て、五百×六で、三キロですか」
「心配しなくとも、すぐに増やす。何か文句でも?」
「いいえ! 分かりましたっ!」
洸は焦ってリストバンドを身に着けた。カード型の錘も、ズボンのポケットに入れる。つけ終えた瞬間、ずしんと体が重くなる。
「うっ……」
「これくらいなら、多分すぐに慣れる」
たかが三キロとはいえ、手も足もいつものスピードでは動かせない。普通に歩きたくとも、空気に粘り気があるように遅くなってしまう。足を上げるのにいつもよりもっと力を要するからだ。
思った以上に大変かもしれない。
(絶対にやめるもんか)
洸は歯を食いしばる。
「防水してあるから、風呂やシャワーでも外すな」
「ええ!?」
「もう少し負荷を多くしようか?」
「いえ! 結構です!」
「じゃあテストは終了だ。これからよろしく」
「はい…………」
洸は疲れた顔で、また開いた扉に入った。
「重い……」
動きが鈍くなった洸は、足を引きずるように動かした。足が鉛になったみたいとはこういうことか。というか足に錘がついているのだけれど。
「疲れた……」
「じゃあ洸、次は筆記試験よ」
B・Bの容赦ない言葉に打ちのめされながらも、洸はしぶしぶ歩を進めた。仕方ない。吹っ切ろうと思って、洸は顔を上げた。自分がトレーニングの後に、どれほど変わっているかが楽しみだと、虚勢を張った。
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