★5 舞台変換

 堪えきれず、深いため息が零れる。ため息をつくことなど、いつもの自分とは縁遠いものだ。なのに、いつもこうだった。

 あの翌日は、いつもこう。

(大丈夫でしょ、紅恋くれん

 自分に向かって呼びかける。あなたは、元気でしょ。そうでなくとも、もう元気になるって決めたんでしょ。

 わかってる。

 もう一度ため息を吐き出して、紅恋は椅子から腰を上げた。前は、酷く気に病んだものだった。ベッドに臥せって、病気になってしまったみたいに食べ物も受け付けない。笑顔も影を潜めてしまって、また笑えるようになるには時間がかかり、自分でもそれは当然だと受け止めてはいるが、黒衣こくいを狼狽えさせた。

 このままだと本当に病気になってしまうと、心配した彼は家から連れ出してもくれたのだが、少しでも楽しいと思ってしまうと、今度はその楽しいと思ってしまった自分を嫌悪してしまう。

 やったことを思えば、当然かもしれない。人の命を奪うということは、年若い少女が一人で抱えるには重すぎる。

 だからもう、やめたのだ。嘆きに浸ることをやめた。今は、生きることを決めた。選んだ。だから、それならいつまでも悩むことや悲しむことは、私のすべきことじゃない。

 紅恋が苦しんでいることを、黒衣は喜ばない、彼を苦しめたくはない。彼の苦しむ姿は見たくない。自分にとっても嬉しくないし、楽しくない。時折、苦しいと思うことも、死にたいと思うこともある。それは、止めようと思っても止められなかった。だから、止めようとも思えない。

 本当は、死んだほうがいいのかもしれない。そんな気持ちが胸を過ぎる日もある。

 だけど、少なくとも黒衣はそう思ってはいない。

 紅恋は考える。

 罪を償えるのなら、償いたい。死ぬことで償えるなら、死ぬ覚悟だってある。でも『紅恋』は、黒衣と共に生きると決めた。彼の手を取った。

 だから、今は。

 逃げているのかもしれなくても。罪の意識に苛まれることがあっても。

 ただ、黒衣の傍に居たいから。

 生きる理由が見つかるまでは。

「紅恋」

 紅恋はいきなり名を呼ばれて飛び上がった。呼んだのはもちろん黒衣で、彼は部屋のドア尾を開けて、紅恋の傍まで近づいてきていた。

「わっ、びっくりした。どうしたの?」

 紅恋は体の向きを変え、首を傾げた。

(何の用だろう?)

「いや、そろそろ、この場所も移ろうかと思ったんだ」

 部屋を見やり、だいぶ飽きてきたしなと黒衣は呟いた。

 唐突に切り出されても、紅恋は別に驚きはしなかった。今までも、何度も唐突に引っ越すことはあったのだ。

 何も理由が無くとも住まいを移すこともあるが、やはり紅恋が一度人を殺めてからのことが多い。殺人が起こった場所は、きちんと処理を終えていても、どことなく居心地が悪くなってしまう。否が応でもその時を回想するからだ。

 それに、あちこちへ移り住むというのも、旅行を繰り返しているようで、紅恋は好きだった。生活に新鮮な楽しさを与えてくれる。二人共、基本的にはこの生活を楽しんでいる。

 辛いこともあるが、喜びも多い。

「そう? 今度はどこへ行くの?」

「そうだな。まあ、結局はどこでもいいんだが、ああ、そう言えば紅恋は肌が弱いんだったか」

 前に日焼けをして大変だった、と黒衣は見つめてくる。紅恋は些細なことも覚えていてくれる黒衣の気遣いに、胸が暖かくなるのを感じた。

「うん? あ、ううん、今は平気よ。日焼け止めも持ってるし、長袖の服を着ていれば大丈夫」

 そうか? と黒衣は尋ねたが、紅恋が頷くと、また思案する。

「やっぱり、どこか田舎の方がいいかな。景色のいいところもいい。それとも、この際だ。あまり行ったことが無い、都会へでも出てみるか」

「……んー。うるさい所はあまり好きじゃないな。人が多いと、隠すのも大変だし」

 紅恋は長い髪の毛を押さえる。紅が揺れる。

「でも、黒衣が行きたい所で……あ! そうだ」

 紅恋は思い出したと手を打った。本棚に駆け寄り、目当ての本を探してきた彼女の手には、写真集があった。

「あたし、ここに行きたい! ねぇ、見て見て。すごく綺麗なの」

 色々な町の姿が集められた、見るも鮮やかな写真集だった。買い物に出掛けたついでに本屋で見かけて、我慢できずに買って来た物だ。

 紅恋の指が忙しなく美しい景色を切り取ったページを繰り、一枚の写真のところで止まる。そこを、目いっぱいに広げて黒衣に見せた。

 まばゆい青い空、明るい日差しの下、砂色のレンガでできた道が曲線を描きながら続いている。物語の挿絵のようなしゃれた作りの家が建ち並び、家の窓には必ずと言っていいほど花が飾られていた。花は、写真でも瑞々しさを失わず、写真に彩りを加えている。よくよく見れば、レンガの道はどうやら橋になっているようで、隙間からは水の青が見えた。 

 レンガの黄色と空の青、水の青。

 涼やかな風が今にも肌に触れるようだ。

 紅恋の好きそうな、美しい町並みだった。

 写真の端には白い文字で『RPISNIA』と文字が入っている。

「リピスニア、か。ギリシャの方だな」

 黒衣は顎に手をやって考えていたが、期待に輝く紅恋の瞳を見ると、微笑みを零して頷いた。

「そうか、いいだろう。ここにしよう」

「やった! 嬉しい」

 紅恋は喜んで、祈るように両手を組んだ。

「ねぇ、今すぐ支度する? 色々買い物もしたいなぁ。あ! そうだ。寝るときの服が、もう、駄目になっちゃったし」

「……紅恋」

 黒衣の労わるような声に、紅恋は表情を強張らせ、おずおずと困ったように笑った。余分なことを言うつもりは無かったのに、口が滑った。悔しい。まだ、自分は悔やんでいるのだ。そう簡単には忘れさせてくれない。

 笑顔のまま、紅恋は瞳を悲しみの色に陰らせて言った。

「いつまでも、悲しんでいても仕方ないでしょ」

 黒衣が声をかけようとすると、彼の言葉を撥ね付けるように悲しみの色を消し去った。

「買ってもいいなら、一緒にワンピースでも買おうかな。ね、黒衣、早く支度しよう」

 笑った彼女を見て、黒衣も無理矢理に微笑んだ。

「ああ」

 手を密かに握り締めた。拳は白くなっていた。


 *


 紅恋と寝る前の挨拶を交わした部屋の窓からは、月が見下ろしているのが良く見えた。今日の夕飯は紅恋が腕を振るった。彼女は料理をすることは好きだと言う。何年か前に、黒衣が料理をしていると張り付いてきたので教えてみたのだが、やらせてみたらすぐに上達した。

 今は、交代で食事を作っている。食事を摂らないことも多い黒衣だが、紅恋が作る時は、普段より多く食べた。自分のことを考えて作ってくれた料理を残すのは、忍びない。


 料理の匂いを感じて、唇に残っていた肉のソースを指先で拭った。黒衣はキーを打つのを再開した。

 目の前にあるのは、黒いデスクトップ型のパソコンだった。しかし、それは良く聞かれるメーカーの物ではなく、それどころか、一般に流通している物では無い。形状も、良く見る物とは違っている。

 まず、長い指を走らせているキーボードに並んでいるキーには、アルファベットではなく、見たことも無い文字が書かれていた。画面に表示されているのも、同じ文字だった。ワイヤレスのキーボードの上に、画面がホログラフィで表示されている。

 画面には、いくつかの家の写真が出ている。吟味するように目を眇めて眺めながら、表示された文字を読んでいた。脇に、プリントアウトされた紙が何枚か重ねてある。いくつかの家の写真に赤い丸がついていた。

「リピスニア……タルグ地区……三番地……と」

 黒いペンをタブレットに走らせると、画面の端に走り書きの勢いのまま文字が書き込まれる。キーを叩くと、画面の上部に設置されたスリットから、写真が印刷された紙が吐き出された。

 ほんとに便利になったよなと呟いて、明日だけでここを全部回れるか、彼はたった今吐き出された紙を手に取ると、もう一度目を通した。

 ふと顔を上げて、黒衣はブラウンの机の上の隅に、危なっかしげに乗っている小さなカードに目をとめた。

 紅恋を連れて帰る際に遭遇した、怪しげな男が寄越したカードだった。汚れた金髪に、笑みを浮かべた男。無言で取り上げて、何度も見たカードをもう一度、確認する。

[ ここを見ろ ]

 そう記された下に、意味を成さない記号が幾つも並んでいる。二つとも、機械で印刷されたものだった。記された文字は、キーボードと、画面に表示された文字と同一だった。そこから推し量るに、このカードを置いて行った相手は、黒衣が人間ではないと知っている。向こうもそれは同じことだ。この文字を扱えるというのであれば、相手も少なくとも普通の人間ではないと、自ら語っているも同然だ。

 何者だろう。今はまだ、敵か味方かもわからない。何の意図があってメッセージを寄越したのかも。父の差し向けた追っ手でなければ、通常の者は、理由も無く他人と関わることを是としない。何の訳も無くわざわざ相手を破滅に陥れようなんてことはしない。するはずがない。

(何故、関わってくる?)

 黒衣は、カードに並べられた記号を確認する。黒衣のようにパソコンを使う者になら、一見何の意味も無く見える記号が、メテオ・ネットのページアドレスだと分かるだろう。ウイルス等は、わざわざ人を使って渡してくるなんて手間のかかる方法を使うくらいだ、除外していいだろう。あの男もそこそこの使い手だという気がしたし、遊びといった風でもなかった。

 可能性があるとすれば、アクセスしたところから黒衣の居場所を探ろうという魂胆くらいのものか。だが、すると疑問が発生する。何故なら、父の送ってきた死神なら、自分の気配くらい探ろうと思えば探れるからだ。こんな回りくどいやり方をしなくても、魂の気配を辿ればいい。死神独特の波動は、同士ならばすぐにわかる。それも踏まえて、黒衣は常に足跡を分かりづらくし、できる限りの結界を張っているのだ。

 それ以前に、父ならばそんな小ざかしい真似は好まないと思うが。

(とすると、奴は情報屋の関係者か?)

 黒衣は思考を飛躍させた。

 武器や薬、他にも様々な情報をあちらからこちらへ移動させる専門家だ。今使っているのは、まだ現世に来る前に、念には念を入れて、普段は使わないありふれた使い魔に買わせたパソコンだ。黒衣が身分を出せば通常出回っていないほど高性能なものを買うこともできるのだが、そうはしていない。

 黒衣の状況を考えれば、情報屋が客を増やそうと声をかけてくるのは理解できる。人を使うのも、その方が確実だからだろう。それとも、情報屋ならさっさと理由を説明してくるだろうか? 

(捻くれ者の多い世界だからな)

 情報屋はドライな性格の職種だ。仕事は正確だが、依頼があれば、友人の情報でさえ渡す。そして、仕事になりそうなことには良く鼻が利く。

 黒衣の状況をどこからか耳にした情報屋が、黒衣がよりうまく立ち回れるようにコンタクトを取ろうとしてくる。その裏にあるのは、死神界の情報を手に入れたいという目的だろう。その線を有力の棚に置きつつ、何度も繰り返した問いを、また繰り返す。

(大丈夫か?)

 黒衣に二の足を踏ませるのは、やはり紅恋の存在だった。

 余計な争いに巻き込まないだろうか。彼女は、本来表に出てはいけない人間なのだ。できるものなら絶対に人の目に触れない場所で、一生を過ごした方がいいくらいだ。

 過去に、何十人もの人間を殺した。

 紅恋の名は犯罪者として、話に聞く『異能者の組織』のリストに、確実に記されているだろう。組織の名前はすぐに思い出せなかった。何か、最大手は宝石の名前がついていたような気がする。

 おそらく、紅恋の名前には上級、あるいは最上級のランクがついている。

 紅恋が未だに捕まっていないのは、黒衣の存在が大きい。彼は神経を使って、自分にかけているもの以上の強力な結界を、紅恋の周りに張り巡らせている。

「紅恋」

 大切な名前を口にする。

 だが、このアドレスが気になることも確かだった。情報屋は顧客第一を信条としている。金を弾めば、自分達の命が危うくならない限り、取引先の身元を明かすことは無いとも聞いている。

 黒衣は大きく息を吸い込んで覚悟を決めてから、カードに記されたアドレスをメテオ・ネットのフォームに打ち込んだ。最後にキーを一つ叩くと、あっという間にそのページに黒衣を連れて行ってくれた。


[ 情報屋組合主催 ネットワーク ]


 表示された白抜きの文字に、緊張していた胸が躍った。よしと頷いてから、慎重に画面をスクロールさせる。上から順番に、下から次々と現れてくる興味深い文字を追った。かつて若さゆえの興味が湧いて、こっそりと父親のパソコンを使ってこのページを探したこともあったのだが、その時はどんなに探しても見つからなかった。

 それがが今ここにあるというのは、黒衣を皮肉な気持ちにさせた。

「やっぱり、パソコンにフィルターかけてあったか。クソ親父」

 毒づいて、背筋を伸ばして深く息を吸う。

 気になったページを開くために、ペンを板の上で二度弾ませた。

 画面が切り替わり、そこには [ 情報メール配信 ] と太字で書かれていた。

 ここだ、と画面を下げる。慎重に、一文字も見逃さないように舐めるように見ていく。

[武器取引]違う。

[麻薬売買]違う。

[密造]

「違うっ!」

 どれも、黒衣が求める物とは違う。もっと下の方なのかと手を急がせる。

 [組織情報]

「組織情報?」

 思わず声に出して呟いていた。手を止め、文字を目で追う。焦らなくていい。まだ夜は明けない。逸る気持ちを抑えるために、自分に言い聞かせる。

 そこに並んでいた文章は、こうだ。

[『異能力者組織』と縁の無い人に有用。我が潜入員が手に入れた、『組織』の内部情報をいち早くお知らせいたします。情報屋をご利用頂くということは、やはり多少後ろ暗いところもおありでしょう]

「うるさいやつだな」

 眉をひそめた。だがその通りなだけに何も言えない。

[パトロールルートや、どの班が誰をターゲットにしているか、新規メンバーのリストまで。内部の状況を逐一お伝えします。登録の際は、ページ最下部のリンクから]

 黒衣は登録する前に一度[詳しい情報はこちら]とされたページに目を通した。オプションを選択しておけば、地図つきで、誰がどこをパトロールするのか時間単位で教えてくれることもわかった。登録者に危険が迫っている場合や、重要な速報は、特別にメールを送ってくれることもあるらしい。緊急でどうしてもすぐに情報屋と連絡が取りたい場合は、[緊急メール]と称して別のメールアドレスがあり、そちらであれば専用のスタッフが対応しており、いつでも一時間以内に返信することができるとも記載されていた。

 値段は、それなりに高い。オプションをつければ、元の金額に更にその四分の一が上乗せされる。若干の思案の後に、黒衣は結局登録のリンクを押した。配信は一週間に一度、月曜日の十時にある。

 幾ら金があっても、死んでしまっては使えない。

 紅恋と引き離されたら、死んだも同じだ。

 それを考えれば、多少の出費で身を守る壁を硬くできるなら、選ばないという選択肢は無かった。

[登録が完了しました。確認のメールが届きますので、そこに表記されている講座に料金をお支払いください]

 無事に登録が完了し、黒衣が椅子の上で大きく伸びをすると電子音が鳴った。メールを開いて確認し、ネット経由で料金を支払う。

 料金の振り込みを確認しました、とメールが来る。

 そこまでの一連の動作を終わらせて、黒衣は椅子の背もたれに寄りかかった。

(いささか疲れた)

 パソコンの電源を落とすと、ホログラフィの画面が消失する。キーボードとペンとタブレットを一緒くたにして机の端に寄せると、立ち上がって瞼を押さえた。時計を見ると、もう明け方だった。そう言えば、鳥のさえずる声も窓の隙間から聞こえてくる。夜が終わることが少し惜しく思えた。彼は夜の静寂が好きだったのだ。にぎやかな昼も嫌いではないが、ただ、うるさく響くこともある。そんな時、夜は気持ちを落ち着かせてくれた。

 部屋の端に、使うことの方が少ないベッドがある。こういう時のためのものだ。いくら眠らないで済むといっても疲れた時は、眠りが一番疲れを癒してくれる。

 窓の外が明るくなってきたのを見てから、ベッドの方へ歩き出した。

 靴を蹴飛ばし、素足になって、ベッドの上に体を投げ出す。

 瞼に日の光が映るのを、煩わしいと思って眉間に皺を寄せたか否かの瞬間に、彼は眠りの中へと引き込まれていった。


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