★4 謎の男

 いつまでもこうしている訳にはいかない。黒衣こくいは顔を上げた。紅恋くれんは殺戮を終えた後、眠りに落ちた。今も、腕の中で静かに寝息を立てているが、空が永遠に暗く、彼らを隠していてくれる事は無いのだ。太陽が昇り日が差せば、おのずと、あの灰色の建物の中の人間も目を覚ますだろう。

 それにはまだ、やることがある。

 上着を脱いで紅恋の頭の下に敷くと、体を地面に横たえ立ち上がった。嫌がる自身をなだめいましめ、ゆっくりと背後を振り返る。そして嘆息。自分でも信じていない希望を信じ、瞳を一度閉ざしてみる。開けばそこはなんと、懐かしき自室―――

「な、訳が無いか」

 苦笑交じりに微笑んで、黒衣は今度こそしっかりと、現実と目を合わせた。

 

 そこには、暗い色の地面からいくつも湧き上がる、黒煙のような物があった。

 その姿は一見、吹く風にも簡単に散りそうに見える。だが散ることなど無いとでも言いたげに、一部が薄れてもすぐに元へと戻る。

 密度の濃い闇色の、実体を持った影のような。

 ただそれだけの姿なのに、それが現れただけで、辺りの空気が一転して張り詰めたのが分かる。肌に感じる殺気。ぬめるような負の感情が、でろりと頬を撫でていった。

「分かったよ―――逃げるつもりなんか、無い」

 そう答えて、右手を伸べつつ足を肩幅に開く。眠りについた紅恋の周りに防御の膜を作り、地面を踏んで、相対する。もう彼の顔に、笑みは無かった。

 

 これこそが、怨霊と呼ばれるもの。

 黒衣達死神の最大の敵であり、この世から葬り去らなければならない物。

 強い怨念、深い恨みを抱いて死んだ者は、その憎しみから姿を醜い怪物に変える。そして、彼らが狩り切れなかった魂も、元は清い姿を持っていたとしても、いずれそのほとんどが現世に対する思いに揺さぶられ、怨霊になる。

 その姿は様々で、今目の前にいるすぐ消えそうな物から、獣のような形まで実に多様である。しかしどれも同じなのは、全てが体に、色を持たないと言う事だ。曇り空の灰色からアスファルトまで、濃度は多彩、しかし、それらは完全に無彩なのだった。

 今回の相手の色は、黒。

 憎悪に満ちた―――最高レベル。

 黒衣は一つ息を吐いた。

 簡単にはいかないだろう。

 伸べた掌に現れた鎌を握り締め、鈍色のそれをぐんと引き寄せて身構える。手に馴染んだ感触に、思いつめた表情が顔に映った。

 もう後には、引けない。

 数拍を置いて、黒衣が吼える。

「………っ、来いっ!」

 同時に足をばねに大地を弾き飛ばした。それに気付いたのか、それまで頼りなさげにたなびいていた怨霊が、薄い体を包み込むように大きく広がらせる。

 黒い手が素早く伸びて、飛び込んでくる痩身を囲む。ゆらゆらと揺れる指は、彼を自分の一部にしたくてたまらないようだった。

 早く自分を、飲み込みたいのだろう。

 そう思いながら黒衣は、足を絡め取ろうとする腕を、右から一つ二つ、そして左から三つ目と避ける。頭上から特に巨大な手が伸びて、その下を、自在に泳ぐ魚に変化したようにくぐり抜け、飛ぶ。

 腕が体に迫り、そこから放たれる憎悪が肌に触れるたび、痛みが滲んだ。周囲に広がる怨霊の思念。ただ、相手の死のみを渇望する思いを思念と呼べるのなら、それは、そこにあるだけで、黒衣の衣服や肌に傷をつけた。

 勿論、彼の心にも傷をつくって。

 だからこそ、窺える。どれだけ、彼らの思念が深いか。

 目の前の敵を吸収する事のみ。相手を殺す事のみを望む、殺意の塊へと変貌した、醜い怪物。


〝コロセ……〟   

〝クラエ……〟   〝ウバエ……〟

〝ウバエ……〟   〝コロセ……〟    

 

 這いずるような音の、人の声とは思えない呪詛が耳に刺さった。変化のさまを見ていても、とても、これらが少し前までは人間であっただなんて、考えられなかった。

 彼の耳には呻きが哀切を帯びた苦しみの声に聞こえる。

 こんな物が聞こえるなら、耳を、切り取ってしまった方がいい気さえする。

 できもしない事に歯噛みをして、顔をしかめても動きは止めず、巻きつこうと近づく手の何本かを円の形に回転させた鎌で切り落とす。血も出ない上に、地面に着く前にはもう、手は元に戻ろうとしている。

 慣れるなんて考えられない、でも慣れてしまった。

 初めて怨霊に向き合った時からずっと、ついてまわる緊張感は拭えない。

 油断したら取り込まれる。それが、分かっているから。


 伸びる手をかわし、ある時は切り落とす。黒衣は空を駆けながら、心を平静にしようと勤めて、口の中で呪文を唱えた。それでも自然早口になるが、どうやら間違いは無かったようで、しっかと握り締めた鎌には白い光が纏わり、鈍色が白く輝きを帯びる。

 前方をしっかと見据え、速度を上げて一気に懐まで飛び込んだ。そこから上を向いて急角度に方向転換、ここぞとばかりに絡みつく腕も気にせずに高く、空を蹴った。

「ぁああああああああああっ!」

 頭上高くまで飛翔して、空気を唸らせ、鎌を振り上げる。空まで届き雲をも切り裂くような勢いで、鎌の切っ先は月の輝きを鋭く反射させた。

 狙うのは、怨霊の眉間の間で仄かに光る、青みがかった虹色。


 両断する。


 鈍色の刃が、体を護ろうとして傘のように翳された腕も切り裂いて、怪物の眉間を二つに分かつ。鎌はそこでとどまらず、怪物の中心まで、深く深く刃を食い込ませた。

 体が割れた怨霊の、聞くに堪えない断末魔の叫びに、黒衣は目を閉じる。苦痛は無いはず。これは、己の消滅を知ったが故の、口惜しさだ。そして、絶望からの叫びだ。

 空間を蹴飛ばして、何メートルか離れたところに降り立つ。足が土を叩いた所で、目を開く。

 叫びは時間が経つにつれて細く掠れ、黒い体は端から蒸発するように消えていく。もうすでに、それは薄っぺらな掛け布団ほどの大きさにまで、縮んでしまっていた。

 気は緩めずに、黒衣は今の位置から三歩ほど、怪物の成れの果てに近づいた。襲い掛かってくる気配が無いと十分に確認してから、更に警戒しつつ十歩近づいて、刃が下になるよう鎌を持ち替え、地面に食い込ませる。

 膝をつける。柄に手をかけ、祈祷するような姿で深く息を吸ってから――黒衣は再び、呪文を口に上らせた。

 静かな口調で唱えるうちに、消え続ける怨霊の周りに、鎌に差したのと似たような光が差し始める。白い光は、薄いベールのように怨霊の体にかかった。

 命の消滅。

 それは、この世に生を受けた時から決まっている、理。


 どんな生き物も、死せる時の悲しみは同一。

 程度は違っても、心が違っても、それが「悲哀」であることに、違いは無い。

 

 けれど、何かが死ぬごとに、また何かが生まれる。

 悲しくても、嘆くことは無いのだ。

 輪廻の輪は、お前を優しく迎えるだろう。

 だから、眠れ。

 全ての苦しみと全ての辛さと全ての痛みを忘れ、今は。

 また、輪が巡りこの世に生まれ来る時まで。


 黒衣は鎌に体重をかけ、頭をたれて瞑目した。そんなに、簡単なことじゃないと分かってる。でもこれが、過去から語り継がれた、全ての生きとし生けるものに言える死神の言葉なのだ。重ねた手が汗ばんで、全身が硬く張り詰めた。

 黒衣の身体が光に包まれ、一筋の光が黒衣と怨霊を繋ぐ。

 これからが、本番だ。

 彼らは滅多に素直に聞いてくれない。小さく縮んだ醜い姿で悪霊は、もう戻れないと分かっているだろうに、最後の抵抗を試みる。

 絶叫だ。口などどこにも見当たらない姿形をしていながら、辺りの空気も破壊しそうなほどに、絶叫する。僅か前の断末魔の声など取るに足らない、凄まじさを持っていた。

 燃え尽きる命の、最後に一際、強く。燃え上がる力の如き、響きだった。


 戦うことよりも、黒衣にとって一番辛いのがこの時だった。

 

 痛みに、苦しみ。怒り。抗えない、死、無への――恐怖。

 全ての苦痛が、分かってしまう。

 涙がまなじりから流れて、落ちる。

 繋がった状態にいるから、否が応でも伝わってきてしまう、その思い。

 そこを、どうにか乗り越えなければ、天へ彼らを送る事ができない。未練が多いほどに、また個々の思いの強さによって苦痛は肥大する。普段意識していない思いまで、魂だけの状態は露にしてしまう。

(何で)

 その言葉がつい、口をつきかけて、気付いた瞬間思考の隅に追いやった。

 それでも、どこかで思いは組み上げられていく。

(――何で自分が、自分達だけが、わざわざそんな苦しみを、何度も何度も、味わわなくちゃならないんだ)

 望んだわけじゃないのに、そう生まれついたと言うだけで。

 物心ついた時からの、黒衣の最大の疑問だ。

 だが、今考えるべきでは無い問題だった。息を吐き出す間にも満たない、一さじほどの余分な思考でがくんと大きく柄がぶれる。ほんの少し、微かだけ意識が緩んだ手の下で、鎌の先端が地面からはずれかけ、暴れ出しそうになるのを上から押さえ込む。

 圧殺されるような錯覚すら起こす、重さが体にのしかかって、その間も耳には劈くような声が鳴り響いて止まない。

 こっちの方がよほど、叫び出したい。

 唇に血が微かに浮かんだ所で、彼は、願いの言葉を発する。

「頼むから。どうか、頼むから。天へ上ってくれ。悪いのは、俺だけど」

(俺が、紅恋にあんた達を差し出したけど)

(俺は紅恋の方が大切だけど)

(でも、自分の尻拭いは自分でする。紅恋に降りかかる災厄は自分が受ける。その尻拭いも全力でする)

(全部、一人で賄うと決めたから)

 命を持ったかのように、激しく振動する鈍色の鎌を押さえ込んだ手に全身の力をかけて、ついていた膝も立て、すがるように捕まえて必死に祈る彼の前で、白い光の中、小さく残った最後の黒い影が、自ら退くように取り払われる。


 そこから現れたのは、美しい、虹色の宝玉だった。

 

 手のひらほどの、雨の雫の透明さで、貝殻の虹色を映した宝玉だ。青い炎に包まれて、柔らかく揺らいでいる。その中で、ちらちらと様々に色を変えていた。

 魂は浄化された。

 理解した黒衣は安堵し、笑みを零した。心の底からの、安心。安堵。

 これで、これ以上暴れることも、害することもない。

 この浄化の過程で失敗した事も多い。なにより自分の未熟さで、天へ返しきれず全身に酷い傷を負って、その上逃してしまった事もあるのだ。

 今回も、うまくいくかどうかはわからなかった。

 黒衣は立ち上がり、鎌を地面から離し回転させる。位置を正して、高く掲げる。いつのまにか東の空は白んでいて、太陽が金色の輝きを現していた。太陽と月。輝ける星々に見守られ、黒衣は魂を天へ送る。

 差し上げた鎌の先端に光が見え、彼の元へと降りて、様々な色の命を受け取った。

 澄み切った空気の中、魂が空を昇る。

 小さな光が遠く消えるまで、黒衣は両手を真っ直ぐに伸ばして、鎌を高く掲げていた。

「……よかった」

 一言、疲れたような笑みに乗せて、彼は言った。

 疲れた体で紅恋の方へ歩み寄り、防護の膜を解いて彼女を抱き上げる。来た時と同じように二人を、先程の物とは種類の違う白い光がくるむ。

 苦しみに喜びに辛さに怒りに、憎しみに。何種類もの感情がないまぜになった表情で、黒衣は笑った。

「ありがとう」

 彼はそう言って光に包まれ、消えた。


 *      


 行く先は自分の邸のはずだった。なのに。

(ここはどこだ?)

 黒衣は視線をあちこちに飛ばす。見覚えのない街角だった。歪んだ十字路の中心に立っていることを知った黒衣は、慌てて紅恋を隠すように抱きしめる。卍に近い入り組んだ道で、彼の位置からは曲がり角が遮って、人の姿を見ることはできない。

 しばらく時間が経過しても、通っておかしくないはずの人間が、誰一人として通らなかった。強い違和感を得た黒衣は細かく周囲に目を配る。褪せた朱や黄の土壁に、四方を、いやもっと多くを囲まれている。足元は硬く、薄茶の地面だ。時間帯は昼間のようではあるが、太陽の光は弱い。季節の特定もできず、顔を上向ければ、曇ったガラスを隔てたような、不自然に薄い空の色が迎える。

 これはもしや、意図的な閉鎖か。

 脳を猛烈な勢いで情報が駆け巡って、一つの予測をはじき出す。

(特殊能力者!)

 その瞬間、首筋に視線を感じた。

「おう、来たな」

 後方から投げられた低い声に、黒衣は振り返って、飛び上がった心臓を押しつける。不明瞭な悪寒のせいで、動悸がする。どうやら、左手の曲がり角から現れたらしい。顔と上半身の半分だけを覗かせた、男だった。

 姿が視界に入った瞬間、黒衣は唱えていた呪文の最後を鋭く呟く。移動呪文だ。これで今度こそ二人は邸に戻っている。そのはずだった。一ミリも変わっていない風景に対し、舌打ちする。

「悪いけど、移動呪文は通じない。全て阻むようになっているんだ」

 そいつは壁の向こうに隠した体も黒衣の前に晒した。不審に思いながら、男の姿を眺める。ぶしつけな視線も、男は意に介さないようだった。

 汚れた金髪は肩までかかり、顔には遊ぶような笑みを浮かべている。偽物めいた碧眼はコンタクトレンズだろう。ある物を適当に着てきたようなシンプルな服装で、ちょっと買い物に出たんだと言われても納得できる。今のような状況でなければ、だが。

 こんな見たことも無い、街なのかどうかもはっきりしない土地で、親しげに声をかけてくるような知り合いが存在するわけが無かった。

 三十代半ばくらい。外見年齢は男の方が上だが、言うまでも無く実年齢は長命人種でもなければ、黒衣よりもかなり下に位置する。

 背丈はほぼ同じだが、見知らぬ男の方が僅かに高い。そこまで見とめて、目線を合わすために黒衣は少し胸を張り、背筋をそらせた。

「……何の用だ」

「やれやれ、死神って言うのはずいぶん傲慢だ」

 質問に答えず、肩をすくめる男。黒衣が言い返そうとすると、「冗談だよ」と手を上げた。

「警戒するのは当然だ。反応がいいし、合格点。俺が声をかける前に気配に気付けるなら、そいつはかなり賞賛ものだ」

 これでも弱めていたんだと男は続ける。黒衣は何の反応も返さなかった。死神の体質上、気配を絶っていても消せない〝魂の脈動〟を察知して、生物の存在を知ることができる。その体質が、告げていた。

 この男、異質だ。

 気配が――おかしい。

「どうした?」

 男が聞くが、答えない。関わらない方がいいと本能が警鐘を鳴らす。紅恋を守るように、抱きかかえた腕に力がこもる。そう、そもそも血まみれの紅恋の姿を見て、驚かないことがすでに異常だった。

「そっちが先に、質問に答えなかっただろ」

 移動呪文は唱えても無駄だろう。それに、黒衣は腕の中に目を落とした。紅恋を抱えての戦闘は避けたい。できることなら、戦わずにすませたかった。彼は、決して戦いが好きなわけではない。

 様子を見て、相手の動きによって対応する。そう決めた黒衣は男に視線を向ける。

 男は声を立てて笑った。

「そうか、それもそうだった。悪い、人をからかうのが趣味なんだ」

「そいつは何て素敵な趣味だろうな」

「ありがとう。皮肉と分かっていても、最高の褒め言葉だよ」

 どこまでもマイペースだ。付き合うのが嫌になってくる。黒衣は苦い顔をした。いつまでこの状況を引き延ばすつもりだろうか。紅恋がいつ目を覚ますかも分からないし、早く帰りたい。体に溜まった疲労のせいで、黒衣は堪え切れずにいらだちを見せた。

「早く言えよ。ここにいる用件は、何なんだ。俺に用があるなら、さっさと済ませろ」

「ああ、すまない」

 男は頭をかいて、よれた砂色のズボンから何か取り出す。握った右手を手首で曲げて、振った瞬間持っていた物が飛んで来る。普段の習慣から、黒衣は考える前に紅恋を抱えて飛び退っていた。飛んできた物は、彼の背後の壁にぶつかって落ちる。静かだからこそやっと聞こえる、小さな落下音がする。金属質では無い、軽さ。

 しばしの間があって、爆発、閃光、毒ガス、その他もろもろ、想像できるどんなことも起こらない。

 黒衣が一息つく。男は少し傷ついたような顔をしていた。初めて見る笑顔では無い顔だった。彼は歩いていって、自身の投げた物を取り上げる。手の中に、小さな白の長方形がある。指でつまんだ薄さ加減からして、何らかのカードのようだった。

「――大丈夫、何も起こらないから」

「本人以外が触れたら反応するかもしれないのに?」

「警戒心は満点だな。でもそれじゃ人には好かれないぞ」

 男は困ったのか、悩む表情で片手を首に引っ掛けた。

「受け取ってもらわないと、用事が済まないんだが」

「要約すると『死ね』ってことか?」

「深読みのしすぎだな。満点にプラス1。だけど僕の気分的にはマイナス3」

「ふざけるのもいい加減にしろ! 質問に答えるんだ」

「……殺す気は無い。これを渡すように言われたから、来たんだ」

 黒衣が本気で怒っていることに気付いて、男はしぶしぶと、ため息のように言葉を吐き出した。お菓子を諦めろと言われた子供のようだった。

「とりあえず俺は、このカードであんたが死ぬ事は無いって保証できる。選ぶのはあんただが、疑っていたら切がないぞ。それはつまり、いつまでたってもここから出られないってことだ」

 黒衣は俯いて思考を巡らした。数十秒、時間が流れてから、黒衣は男の方へ手を差し出した。満足そうに頷き、男がその上にカードを乗せる。手のひらに触れたカードに、反射的に手を引き戻しそうになる。実際にはぴくりと少し手がゆれただけで、落とすことなくカードを受け取る。

 硬い、名刺大のカードは手のひらの上に大人しく乗っている。

 何も起こらない。

 男がやれやれと伸びをした。

「受け取ってくれて安心したよ。よし、これで俺も帰れる。悪かったよ、引きとめて」

 じゃあ、また。

 男は角を曲がって、消えてしまった。

 一体、何の用だったんだと、黒衣は姿を消した男を思い返しながら、その場に立ち尽くしていた。

 まあいい、早く帰りたい。結界が解けているのなら、移動の呪文は使えるはず。そう思った時、空気が急に変化する。周囲の温度が一気に上る。暑い。空を見上げると、途端に光が目を突き刺した。回りを覆っていた箱が取り去られたように、人の気配が、町のざわめきが戻ってくる。それが、重い。空気が重い。何もかもが―――重い。

 お前は、ここに居るべきではない。そう周り中が叫んでいるようだ。拒否される。拒絶される。

 お前はここに居るべきものではない。

 黒衣は追われるように移動の呪文を口にした。身体を引っ張られるような感覚が体を包む。幸いなことに、誰の目にもとまらないうちに、彼らは移動することができた。

 黒衣はわけが分からなかった。頭が割れそうだった。脳内に、頭の中の引き出しを全部ぶちまけ、自分の持っている情報を全てごたまぜにされたような感覚だ。新しいものから、今までずっと考えてきたことまで、答えの出せていない問題がひっくり返されて頭の中に広がる。

 あの男は、何だ。

 なぜ、怨霊と戦わなければいけないんだ。

 紅恋がどうして、人を殺さなければいけないんだ。

 どうして、紅恋と共に、静かに暮らさせてくれないんだ。

 些細な、願いじゃないのか。

 ただ、それだけでいいのに。


 死神になんか、生まれたくなかった。


 混乱していた。やたらと胸が苦しくて、頭が痛む。

 ようやく着いた懐かしい部屋の床に膝を折り、未だ目覚めない紅恋の体を抱きしめた。そうしていなければ、自分自身の思考に振り回されてしまう。

(もう、放っておいてくれ)

 前髪が額に張り付いた。冷や汗をかいている。邪魔だ。だが、払いのけるまで手を動かせなかった。紅恋を抱きしめた手が離せない。蜂のように悩みがうるさく音を立てて頭の周りを回っている。一時だって忘れさせてやらない。いつでもいつまでも、ずっとずっと考えていろと、まるで呪うように。

 紅恋を抱えたまま床に倒れた。長い髪が揺れる。床の上に紅い川ができて、黒衣はそれに指を絡ませた。体が少し楽になった。紅い川が、全ての悩みを流してくれる。頭の中が、ゆっくりと、ぼやける。

(今だけで、いい)

 黒衣は呟いた。今がずっと続けばいいんだ。このまま全部消えてしまえばいいんだ。自分と紅恋以外は全部全部消えてしまえばいいんだ。

「紅恋……」

 紅恋の体を抱きしめる。


 ――世界の終わりまで、一緒に居よう。


 腕が緩む。頭を、柔らかな絨毯に横たえて、黒衣の意識は、静かに闇の中に落ちて行った。

 

 *

 

「………?」

 目が覚める。目線の先には高い天井がある。細かな彫刻の施された柱に支えられた天井だ。いつ、誰が作ったのかもわからない、芸術的な作品だった。

 だが、それは自分の部屋の天井ではない。嫌な予感が走り抜け、続けて、昨日がどんな日だったかを回想する。

 そして、思い出した。

(ああ、そうだ。昨日は―――)

 紅恋は両手で顔を覆った。指先に乾いた感触が伝わり、強く目を閉じる。

 嫌だ。

 目を開きたくなかった。

 なぜなら、自分の身体がまた、名前も知らない人の血液で、真っ赤に染まっているだろうと容易に、想像がついたからだ。それでも紅恋は恐る恐る目を開き、彼の名を呼んだ。

「黒衣……」

 不安で、不安で堪らなかった。

 辺りを見回すと、やはりそこは黒衣の部屋だった。周囲を一面ぐるりと、見覚えのある本棚が囲んでいる。部屋の持ち主は、彼女のすぐ横に座っていた。黒衣は、穏やかで優しげな眼差しをしていた。彼女の痛みを、知り尽くしている瞳だった。苦痛も秘めていたが、それは、彼が紅恋の心情に心を痛めているからに他ならない。

 黒衣は意識的に優しい声をかけた。

「何だ?」

「あたし、あたし……また……っ」

 紅恋の紅い両目から涙が溢れた。とめどなく零れて、まだらになった服に滴り落ちた。体に震えが襲ってきた。今度の震えは恐怖からの物だったが、紅恋は一瞬体を強張らせ、痛みが襲ってこないことに安堵する。紅恋は黒衣の胸に飛び込んだ。彼の服を握り締めて、紅恋は声の限りに泣き出した。

「うあぁっ……こくいぃっ!」

「わかってる。いくら泣いたって、構わない」

 言葉の温かさに喉が詰まって、せき止められていたものが決壊するように溢れ出す。

「いやあいやぁっ……! もうやだぁあ! なんで! なんであたしがあぁっ……こんな………こんな、ことぉっ」

 怖い夢を見た子供に戻ってしまったかのように、紅恋は泣き続ける。黒衣は腕の中にある震える細い体をしっかりと、きつく抱きしめた。やや強く、紅恋がしっかり抱きしめられていると感じられるくらいに。そうしていなければ、紅恋の体が壊れてしまいそうに見えたからだ。

 普段気丈にふるまっている少女の、本心からの叫びを、受け止める。

「なんでなんでなんでなんでなんでぇ………? あたし……やだぁぁあっ!」

 泣きながら、叫びながら、紅恋が激しく左右に首を振ると乱れた紅い髪が暴れる。紅恋の中から〝彼女〟が現れたのは、黒衣と暮らし始めてしばらく経った時だった。

 それまでは何事も無かったのに、唐突に、突如としか言いようのないような形で現れた。そして彼女は、紅恋の肉体に顕現する度に、流血を求める。それも、人の血でなければ駄目だ。そうしなければ、いつまで経っても紅恋の精神が戻って来ることはない。食事も全く摂らないため、肉体の方がまいってしまう。

「やりたくない……やりたくないよ……いくら、覚えていなくたって、こんなこと……」

 肩を震わせ、紅恋はすすり泣いた。紅恋の中には、彼女が現れている時の記憶は無い。それこそ記憶があったら、紅恋の心は壊れてしまうだろうが。

 だが、しかし。

「覚えてなくても……覚えてるの! ……あたしの体が、あたしの心が、命を奪った感触を、覚えてるのぉっ……残ってるの……いやぁああぁぁ……やだぁ………」

 紅恋の目はどこも見ていない。涙に濡れて、自分の中の暗闇を、あの日の事を思い出しているのだ。

 過去の記憶のフラッシュバック。フィルムを巻き戻すように、記憶が蘇る。

 この手に残っている。食い込んだ感触。命を奪った、瞬間。血のにおい。むせ返るような紅。

 あの日から、始終自分に纏わりついて、消えない。

 相手の顔も覚えていない。その場所の様子も見ていない。

 何も覚えていない。何も知らない。

 何も目には映らない。

 どこで殺したのか。どうやって殺したのか。誰を、どんな人を殺したのか。

 思い出せない。

 でも、残っている。

 感触だけが、しっかりと根を張るように、この両腕に。

 この体に、この心に。誰かを殺したと言うその事実が、呪いのように染み付いている。

 暖かくなど無いのに、未だに被った血の生温さをそのまま、感じられる。血の感触が、肉の感触が、残っている。


 涙を流す紅恋を、黒衣は抱きしめていることしかできなかった。頷いて、抱きしめて、それだけしかできない。

 どうにか、痛みを分かち合いたいのに。負えるものなら、彼女の痛みを、自分が負ってやりたいのに。

 彼女の苦痛を、彼女の悲嘆を自分が負ってやりたいのに。

 自分が代わってやりたいといくら願っても、できない。

 黒衣は回している腕に力を込めた。紅恋は、まだ泣き止まない。彼女の悲痛な叫びを聞くほど、辛い事があるだろうか。黒衣は無力な自分に酷く怒りを感じていた。運命というものがあるのなら、彼女をこんな場所に追い込んだ運命を殺してやりたいくらいの憎しみが胸に煮えたぎった。

 紅恋は自分を抱きしめる腕に、込められた力を感じていた。腕が、僅かに震えていることも知っていた。きっと彼はいつものように、自分を責めているのだろう。

(あたしは、こんなにも助けてもらっているのに)

 決して黒衣は、紅恋が感謝していることに気付かないのだ。腕に込められた力から彼の思いも伝わってくるようで、紅恋の涙はもう静かに流れるだけだった。

「黒衣……」

 そっと囁いた。それは、彼女にとってお守りのような言葉であり、宝物のような、何よりも大切な人の名前なのだった。そして、目を合わせて、言う。

「ありがとう。……もう、大丈夫」

 紅恋は、両頬で無理に笑みを作った。

(これ以上、彼に心配はかけたくない)

 見せ掛けでもいい、とにかく笑わなければ。顔には涙の後が残っていたが、それは間違いなく華やかな笑顔だった。こんな顔はもう一人の彼女には決して出来ないだろう。

 黒衣はその顔を見て、もう一度強く抱きしめると彼女を解放した。

「お風呂に入ってくる。結局眠れなかったから、お風呂から上がったら、寝直すね」

 紅恋は黒衣から名残惜しげに身体を離した。その時、不安や恐怖が一瞬身体を支配しそうになったが、黒衣の顔を見たらそんなものは消し飛んでしまった。

 黒衣はとても心配していた。不安そうな顔をしていた。まるで、今にも壊れてしまいそうな硝子細工を見ているような顔で、紅恋は彼を安心させようと、もう一度微笑んだ。  

 今度は決して、無理に笑った笑顔ではなかった。

「大丈夫。黒衣、あたしは大丈夫だから」

(あなたの思いは、受け取っているから)

(辛いけど、だけどもう、大丈夫だよ)

 紅恋は耳元に花弁の一片のような唇を寄せて、言葉を落とした。

 あなたが居ればあたしは、幸せなの。

 だから、どうかそんなに悲しまないで。


 *


 あの日、目の前で笑っていた紅恋が、糸が切れたかのように倒れた。驚いている間に彼女は起き上がり、紅恋の顔で、にやりと笑った。

 紅恋は絶対にしない表情だった。紅恋と名前を呼んでも、返事をしない。ただ、つかつかと近寄って来て、小さな右手を自分に向かって伸ばした。

 そしてあいつはまた笑った。

 至極、楽しそうに。嬉しそうに。

 危険を感じた瞬間、伸ばされた手から鋭い何かが飛び出して、壁に突き刺さった。その何かを目で確認することはできなかったが、頬に痛みが走り、刹那遅れて、その何かが起こした風が顔に当たった。壁に、硬い刃の突き刺さった音がする。音と、頬と壁に残った傷跡が、刃物の存在を証明していた。唇から発せられた声は、普段の紅恋からは考え付かないような声音だった。

 あたしのために、人をちょうだい。

 さもなければ、この子は死ぬことになるわ。

 そう言って、壁まで歩いて行くと、突き刺さった見えない刃物を抜き取り、首元に近づけた。例え目には見えなくとも、彼女の動作で、剣のような物らしいと予測がついた。

 試してみる?

 あいつはそう問いかけると、右手を、更に刃が首に近づくように動かした。

 紅恋の細い喉元に、見えない刃が突きつけられている。薄く、皮が切れて、赤い血が肌の上を伝った。

 わかったと、気がついたら返事をしていた。

 あいつは満足げに右手を下ろした。

 あたしたちは、協力していかなきゃならないの。

 それはこの子の命を護るため。

 わかった?

 偉そうな、上から物を言う口調だった。だが、黒衣は拒否できなかった。彼女は目を閉じた。途端に体はくず折れて、その体を、慌てて支えた。黒衣が体を支えると、紅恋は目を薄く開けて、聞いてきた。どうしたの? と尋ねる紅恋に、どんな言葉も返せなかった。紅恋を傷つけず、驚かせないために、どういうセリフを口にすればいいのかわからなかった。彼女は、『護るため』と言った。その単語が、黒衣の脳内に強く刻まれた。

 そのまま何事もなく数日が過ぎて、また、彼女が現れた。

 そして、それが初めて彼女が人を襲った日になった。目を覚まして紅恋は、真っ赤になった自分の姿を見て、呆然と呟いた。

 また、やっちゃったの?

 あたしはまた、やってしまったの?

 全身で彼女は聞いてきた。自分を見つめてくる紅恋に、彼は答えることが出来なかった。答えないことがもう答えになってしまっていた。紅恋は顔を歪ませて泣き出した。

 黒衣はただ、今回と同じく彼女を抱きしめることしかできなかった。回数を重ねるごとに、紅恋は起こる前に酷い痛みを訴えるようになった。痛みで、それの来る時期を知ることが出来たが、紅恋は、また行為を繰り返してしまうという思いに酷く苦しんだ。黒衣自身も、彼女の殺害が回数を重ねるごとに、胸の痛みが酷くなる。病気でも怪我でもないのに、痛くて、苦しい。少しでも心を軽くできたらと、彼女の供物にはいつも、処刑が決まっている罪を犯した人間達を選んだ。だがそれが、自分の罪悪感を軽くするためもある事も、知っていた。

 例え殺されるのが何人もの人を苦しめ、悲しませてきた犯罪者だとしても、紅恋は真っ赤に染まった自分の姿を見て、幼い日の、あのことを思い出す。

 悲しみ、紅恋は罪に苛まれる。誰を選ぼうと、結果は変わらないのだ。

 このままでは、心がどうにかなってしまうだろう。かといって、解決策は未だ思いつかない。

(自分も同じ罪を被らなくては)

 黒衣は思った。

 罪を犯した人間を騙して、助かることは無いのに逃げられると思わせ、目の前に嘘でできた餌をぶら下げて、死への階段を上らせる。

 紅恋が泣く姿を見るくらいなら、なんだってしてやるのに。紅恋の存在に救われている。

 だから、黒衣は悲しませたくないと思う。

 無音の空間は、嘲笑うように彼に圧力をかけた。

 静かだからこそ、気を紛らわすことができない。

 彼はしばらくの間、そのままでいた。

 何もできずに、無力感を噛み締めていた。


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