★3 鮮やかな紅
「……ッ、ぁあ!」
投げ出されるように、がくんと床に倒れこむ。足が、自分の物でないようだった。
「う、うぅ……」
がくがくと体中を震えが襲う。震えは鋭い痛みを伴って、あざ笑うように
紅の双眸の縁に、涙が溜まる。痛みのせいもあったが、恐れていたものが来てしまったという絶望の方が強かった。
今度こそは起こらないのではないかと願っていたのに、少女の淡い願いは、今回も簡単に踏みにじられたのだ。
歯を食いしばり、身体の中心から末端まで広がる痛みを堪える。体中が熱くなって、突き落とされるように冷たくなって、ぐるぐると天井と床が入れ替わった。目が回る。意識が朦朧として、蹲っているしかできない。痛みに何も分からなくなってきて、毎回感じる自分の無力さが嫌になった。
ただ耐えるしか、できない。
そんな自分。
その時、大きな音を立てて、素早く駆け込んでくる人影が見えた。顔を白くした
「紅恋!」
名前を叫び、黒衣は駆け寄った勢いのままで彼女の体を抱きしめる。
「………」
口を開くが声が出ない。自分も名前を呼びたいと、胸を引き裂かれそうな思いに駆られながら、紅恋は数度、口を開いては閉ざす行為を繰り返した。
涙を浮かべる紅恋の顔を見つつ、黒衣は彼女の身体を傷つけない為にも、全力は出せないと知りながら、震える身体を抱く力を更に強くした。そのまま数分が経過した。五分にも満たないはずなのに、普段一日を過ごすよりもよほど、精神的にも肉体的にも辛い時間だった。
始まった時と同様に、終わりが来るのも唐突だった。
波が引くように、震えは遠のいた。
体が、押さえつけていた巨大な手が無くなったみたいに、いきなり軽くなる。それに合わせて、紅恋は浅くしかできなかった呼吸を取り戻すように、深く息を吐いた。
「大丈夫か?」
「黒衣……」
細い喉から、ようやく声が出るようになる。それに次いで、体の感覚も戻ってきた。服の中を冷たい汗が流れ落ちるのが分かって―――自分の身体を、黒衣が強く抱きしめているのが分かる。彼女の顔はまだ青く、健康そうにはどうみても見えなかったが、それでもさきほどの様子に比べたら、数倍は調子が良さそうだった。
「……来たか」
黒衣の言葉に、頷くだけで答える。
昨日の午後に一度―――今朝に、一度。
震えの間隔が、短くなってきている。恐怖が、じわじわと胸を締め上げる。紅恋はつばを飲み込んだ。
今はまだ大丈夫だ。だが、あれはもうじき来るだろう。
服の裾を引きずり、絶望を連れて。
それも、近いうちに。
「黒衣……!」
紅恋はもう一度彼の名を呼んだ。
紅い目から、涙の雫が零れ始めた。
*
柔らかな絨毯を踏む、足音。紅恋はどこか暗い所を覗き込むような面持ちで、柔らかなソファに腰掛けていた。
隣に、静かに黒衣が腰を下ろした。紅恋の手には、暖かいミルクの入ったカップが握られている。握られているだけで、ミルクは減っている様子が無かった。
「落ち着いたか……?」
黒衣が声をかける。優しい声、いたわる気持ちが滲む言葉に紅恋は微かに頷く。
「……うん」
嘘だ。
ただ涙は止まったという、それだけのこと。黒衣も共に何度も、見て、そして経験してきたことだ。当然、紅恋の嘘も見抜いているだろう。彼は何も言わなかった。
どうあがこうが何をしようが、必ず起こる。ずっと部屋に閉じこもっていても駄目。予兆が出始めてから拘束しても駄目。幾度かの経験の末、手に入れられたのは、「何も出来ない」という、考えうる限り最悪な回答のみだった。
静かな諦めが、二人の間を満たしていた。
黒衣はそれ以上何かを追求することも無く、瞳を閉じると、そろそろ部屋へ戻れと紅恋に告げた。口を閉ざしたまま大人しく頷いて、彼女は冷めたカップをテーブルの上に戻し、一度黒衣へその目を向けてから、廊下の方に歩を進めた。重い扉を押し、外へ出る。金色のドアノブに手をかけて、再度扉を部屋に押し込む。
黒衣の姿が焦げ茶のドアの向こうに消え、かちりと扉の閉まる音を聞くと、紅恋は顔を歪めて両手で覆った。
耐え切れない。
これから起こることを思うと、もう、何も手につかないだろう。簡単に予測がついた。そして、彼女は今まで繰り返し思ってきたことを、また思う。
何でこんなことになってしまったのだろう。
何であたしはこんな目に遭わなければならないのだろう。
こんなこと、ちっとも望んでいないのに――――
廊下は静かだった。それ故に、彼女の堪えても漏れる微かな嗚咽は聞こえてしまっていた。扉の向こう側から聞こえる声に、黒衣は俯いた。悲しげな紅恋の声は、自分の無力さを否が応でも知らしめた。
*
そのモノが、紅恋の所へ訪れたのは、その日の夜だった。
紅恋は青ざめた不安そうな顔で、それでも少し休もうと、着替えている所だった。
悪寒。
唐突な、しかし慣れ親しんだ感覚にぞっとした瞬間、どこからともなく冷え冷えとした風が吹き、紅恋は体温が一気に下がるような感覚を覚えた。
いつも通り、泣きたいような気持ちに陥った。
あれが来るのは、決まって夜だ。『来る』予兆が現れ始めると、夜が来るのが嫌で嫌でたまらない。自分に時を止める力があったらといつも、思う。
これも、今日限りになってしまうな。軽く溜め息をつき、纏った服の裾をふわりと広げた。
白くて軽いワンピース。着心地がいいので寝巻き代わりにしているのだが――きっと、これも明日からは着られなくなってしまう。
そんなある種どうでもいい事を考えて、少しでもこれから来る苦しみを忘れようと勤めてみた。そうでもしていないと、耐え切れるものではなかった。
どくん、と―――
数時間前と全く同じに心臓が大きく脈打って、それを合図に震えが連なって体を襲った。思わず膝をつく。
数時間前とは比べ物にならないほどの、激しい苦痛。
自分一人だけが、大地震の真っ只中にいるように感じるほど、強く体を揺さぶられる。
止まらない。
止まらない………!
全身の骨が外れそうなほどに、体が揺れた。これを、震えと呼べるのだろうか。こんなに恐ろしく強烈で、これほどの痛みをもたらすものを。思わず悲鳴が口から溢れかけ、唇を噛み締めた。唇は裂けて、赤い血が滲む。
そして、永久に苦痛に捕らわれるのではないかという予感がした時に、鋭い痛みが閃光のように閃き、細い体を貫いた。痛みが声になる暇も無く、あれほど激しかった震えが止まり、体が支えを失ってぐらりと傾いた。
このままでは床にぶつかると言う寸前に、細い腕が伸びて身体を支える。
「…………」
長く紅い髪が揺れて、流れるように床に落ちた。
「……ふふ」
柔らかそうな唇が開いて笑いを漏らし、髪の隙間から、紅い目が光った。双眸は、鮮やかな深紅に輝いていた。それは、すでに。
紅恋では無かった。
開かれた唇から舌が現れ、滲んだ血を舐め取る。
彼女は立ち上がると、扉を静かに開け放って部屋を出て行った。自信に満ちた、権力を湛えた女王の如き足取りで、彼女が向かった先は、黒衣の部屋だった。
軽く扉を叩く。
「どうした……」
扉の向こうから現れた黒衣の言葉は不自然に途中で途切れ、硬く唇が閉ざされる。彼女の目を見て、黒衣は瞬時に理解した。
また、彼女の中の彼女(、、、、、、、)が、その姿を現したのだと。
「……やぁ、死神」
「久し振りだな」
彼女は微笑む。再び発せられた黒衣の声からは、紅恋に対する時の暖かさが嘘のように、微塵も残らず消え失せていた。どこか心配そうだった顔も、今や、冷たい仮面のようだ。楽しげな声からは幼さが無くなり、大人のような滑らかさで、彼女は喋った。
いつ見ても、これだけは慣れない――黒衣は暗い気持ちで彼女を見ている。彼女は問うた。
「今度は、どこ?」
「……分かっている。来い」
数瞬の空白を置いてから答え、彼女を部屋の中へと導く。その間、黒衣の声、そしてその振る舞い全てから、見事なほどに温度が無くなった。完璧に事務的に動きながら、黒衣は胸の内で、紅恋の中の存在をとてつもなく嫌悪していた。こうしていても、吐き気がこみ上げてくるほどに。
紅恋から出て行けと叫びたかった。彼女を傷つけるな、と。紅恋が救われるのなら、喉から血が出ようと叫び続ける。しかし、黒衣が何度怒鳴ろうと、彼女は絶対に出て行かないだろうし、出て行けない。結局、紅恋の負担を減らすために、黒衣は協力する以外ないのだ。
それに、彼女はかえって笑うだろう。
必死になって叫ぶ彼を、面白い見世物でも見るように。
完璧な笑顔で、完璧に冷めた目で。
紅恋の顔と、紅恋の声で。
高らかに、冷笑。
あるいは、声も出さずに嘲笑。
黒衣は、ただ彼女に従うことしかできない。
紅恋を悲しませる彼女に、紅恋を護るために従う。
でも彼が従っているという事実は、紅恋を苦しめる。
それを最悪の循環と呼ばずに、何と呼べるだろうか。
黒衣は扉を閉じると、無言で書物の並ぶ棚のガラス扉を開き、その中から一つ巻物を取り出した。留め金をぱきんと弾くようにして外す。すると巻物は勝手に紙の体をくねらせ、するすると解けていった。解けていくに従って、巻物の内側に書かれた、不可思議な文字や記号が次々と空中に浮かび上がる。ある程度まで巻物が広がると、それを、彼は円を描くように自分たちの周りに広げた。
彼女は何をするでもなく、ただ、完全に揺らぐことの無い力を持った者だけが浮かべられる、絶対的な余裕を含んだ笑みを浮かべて眺めていた。巻物と空中の文字は、円を作ると白く発光し始め、二人は薄い光のベールに包まれるような形になった。黒衣が二、三単語を呟くと、白い光は帯のように広がり、二人の体を包み込んだ。
*
辺り一面が白一色に染まり、次の瞬間、二人はまるでどこかの運動場のような、広く開けた場所にいた。
遠く離れた場所に、ただの箱を、ぽんと誰かが無造作に置いただけのような、灰色の建物が建っている。大きさ以外に、それを「建物」だとはっきり判別できるものは、周りには無かった。
だからそれは、もしかしたら本当に「ただの箱」なのかもしれない。しかし、例えその建物がただの箱だったとしても、彼らには何の関係も無いし、何の影響もないのだった。
空は見ているだけで気分の沈んでくるような深い灰色で、浮かんだ開いた目のような月が広場を見下ろしていた。月は美しいレモン色をしていて、唯一その光で、暗い灰色を寄せ付けなかった。
そして、月の光が照らし出す先。
そこには黒衣と彼女、それから十人程の男女がいる。
年齢も体型もばらばらの、彼らの共通点をあげるとすればまず、今の空にそっくりな、何の工夫も無い、揃いの灰色の服と、その表情。
荒みきった表情だった。
「この人たち?」
彼らを一瞥してから、彼女は黒衣を振り返り、澄んだ声で聞いた。声には何の感情も無く、黒衣は軽く頷いた。
「ああ、それだけ居れば十分だろう」
彼女は一瞬不服そうな顔を浮かべたが、すぐに集団に向き直った。
集団は二人のやり取りを不審そうな顔つきで見ていたが、そのうち一人が、まるで信じられないといった様子で黒衣に確認を取った。
「おい、あんたの話じゃ、俺たちは、『あんたの連れてきた奴と戦って勝てば、このうっとうしい所から出られる』んだったよな……?」
「そうだ」
黒衣は彼らに向けて頷いた。
「まさか……じゃあまさか、冗談でしょ? そこのチビガキが、私らの相手だって言うの!」
充血した目をした女が、半笑いのような引きつった表情を浮かべ、彼女の事を指差して叫ぶ。
彼女は飄々と、腕を組んで失礼ねと呟いた。
「そうだ―――何か問題でも?」
黒衣は平然と答え、数瞬の間が開いた。
彼らは、爆発したかのように笑い出した。戦うまでも無い。結果は目に見えている。嵐のような哄笑の中、そんな声が幾つも上がった。口を笑みの形に歪めながら、若い男が黒衣に叫ぶ。続けざまに、いくつも声が飛んだ。
「そんなガキぃ連れてきて、後悔すんじゃねぇぞ!」
「馬鹿じゃねぇのか! 手加減なんかしねえからな!」
「ありがとねーえ、おにーさん。あたしらを助けてくれてさぁ! 命の恩人だよぉ!」
しかし、黒衣はあくまで無表情で広場の端に移動し、そこを囲っている高い壁に体を預けた。彼女はその場から動かず、笑い続ける彼らを見ている。
そして。
次の瞬間、彼女は唇を吊り上げて、美しく笑んだ。笑みを見た者全てに、彼女がまだ年端も行かない少女だと言う事を忘れさせてしまう程、妖艶だった。
彼らの顔からは笑いが消え、戸惑うかあるいはほうけた顔で、まるで人ならざる者に出会ったように彼女を見ていた。黒衣はどうしても堪えきれず、目を閉じ、顔を背けて彼女の姿を視界から追い出した。紅恋の顔が、そんな風に歪むのを見ていたくなかった。
彼女の笑みは美しく、それでいて、どこかが歪んでいた。
覗き込んでも闇が広がるばかりの深淵のような、暗く暗い瞳のせいか。
そんな彼女の背の上でさえも光る、煌き煌く髪のせいか。
彼には分からなかった。
ただ一つ分かるのは、それが確実に普段の紅恋ではないということ。黒衣は、いつもの紅恋の無邪気な笑顔を思い出し、僅かに慰められた。
「それじゃあちょっと、遊んであげましょうか…………」
彼女はその右手を、天に向けて高く掲げた。彼女の周りの空気が、まるで静かな水面のようになる。空気が揺らめく。
同時に、ようやく笑いが止まった集団の一人が凶暴な笑みを貼り付け、彼女に向かって、一直線に駆け出した。空気が変わっている事に、まるで気がついていない。
そのすぐ後を追って、何も知らない幾つもの足が地面を蹴る。暗い色をした地面の破片が弾け飛んだ。彼女は、一人目が自分のすぐ近くまで、抱擁でも交わそうとしているかのように、大きく腕を広げて走ってくるのを見届けると、笑みを崩さずにその腕を、彼に向かって勢いよく振り下ろした。
黒衣の目には、彼女の右腕が血の通っている肉体の一部ではなく、無表情で無機質な鋼の刃に映った。
彼女に襲い掛かった彼は、死と抱擁したのだ。彼女がその手を振り下ろしてから、何秒か経っただろうか。
まず、一人目が赤い霧だけを残して消えた。彼らは驚きを隠せなかったが、動き出した足を止める事はできず、やけになったのか更にスピードを上げた。
彼女は襲い来る彼らの間を、優雅に通り過ぎる。
笑みを絶やさず舞い踊り、彼女の紅い髪も動きに合わせて揺れ、うねり、舞う度に更に紅く染め上げられた。
実際は、彼女の動きはとても素早い。しかし、その場にいる全ての人間の目には、とてもゆっくりと、止まっているようにさえ映った。
瞬きを一度か二度する間だ。その内に、立っているのは――黒衣と紅恋。二人だけになった。
彼らは悲鳴を上げる暇も与えられず、紅い霧になって吹いた風に霧散した。
「さぁ……これで、お仕舞い、ね………」
彼女は満足げに笑った。頬には紅が散っている。
紅恋が惜しんでいた白いワンピースは紅く染まり、全身に紅い花が咲いているかのようだった。その鮮やかさを楽しむように、くるりと彼女は軽やかに、一度回る。
「この人たち、きっと、人を見かけで判断しちゃいけません、って習わなかったのね」
「そうかもしれないな」
無表情で、黒衣は満面の笑みで歩み寄ってきた紅恋に相槌を打った。黒衣はとうとう我慢が出来ず、苛立ちを露わにして言った。だが出た声は、怒りの声と呼ぶよりもむしろ懇願に近かった。
「紅恋の中から、出て行ってくれ! 頼むから……お前のせいで、紅恋の傷は治らない。それどころか、お前がそんな事を繰り返すから、どんどんと広がっているんだ!」
そんな黒衣に心外そうに、彼女は笑みを収めた。
「やぁね……そんなにこの子が心配? あたしとあの子は同じ者。あたしの方が、この子のコピーかもしれないわ。もういい加減長い付き合いなんだから、それくらいあなたにもわかっているでしょう?」
それなのに、あたしに出てけって言うの?
無理な話よと彼女は、流れるような動作で肩を竦める。
黒衣は彼女の様子にさっと頭に血が上り、怒りに任せて彼女を怒鳴りつけた。
「そんな事言うな! お前のような血濡れた女と紅恋は別の者だ」
彼女は、呆れたように口を開ける。次に、哀れむような笑みを顔に浮かべた。
「あたしが、〝あの子と同じだ〟って言ったのが、そんなに腹が立った? それにしても、ただの女の子をえらく庇うのね。恥ずかしいと思わないの? 死神の癖に」
「それがどうした!」
あはははははと声を立てて彼女は笑った。紅恋の顔で、絶対にできない表情で。その顔は至極美しく、だからこそ、頬に血液の紅をつけた姿は、どこまでも醜かった。
「いいえ、別にどうもしないわ。だけどね、おかしくてしょうがないのよ。こんな子供のために、死神が、今この瞬間にさえあたしの命を奪える死神が、あたしに地面に膝さえつきそうな勢いで懇願している。名前すら持たないこのあたしに、あの子の中にいて、僅かな時間しか外へ出ることを許されないこのあたしに、死神が願っている!」
彼女は高らかに声を上げた。紅い花を散らした服を纏って。
「腹が立てば奪えばいい。怒るのなら殺せばいい。あなたにはそれができるのに、できない。なぜならばそれは、あたしが紅恋の中にいるもので、あたしを殺せば、それはすなわち紅恋も殺すということだから」
「俺達は自らの感情に任せて、魂を狩ったりしない!」
彼女は微笑を浮かべて滑らかな動作で黒衣に詰め寄り、彼の顔を高慢な表情で見上げた。
「〝俺達〟ではないでしょう。自らの感情に任せて魂を狩らないのは〝死神〟。あなたは誰? 『黒衣』一人の者は怒りに任せて、恨みに任せて人を殺すわ。あたしは貴方に尋ねているのよ」
歯を食いしばって黙した黒衣に、彼女は意気揚々と腕を大きく広げた。
無防備な体を、月の光の下に晒す。輝く月に照らされた一人の少女。それはさながら、一枚の絵画のような構図だった。
「さあ、殺してみなさいよ! このあたしを殺してみせろ! この命を奪ってみせろ! 苛立ちの対象を、どこまでも消滅させてみせろ! …………あはははははは、できないでしょう!」
彼女は狂ったように叫び、笑った。
高く声を上げて、全ての存在をあざ笑う。次第に声を静めていき、最後にとてもいやらしい笑みを浮かべた。人の弱みを握っているものが出来る、嫌な笑顔だった。
それでさえも、醜いと思うと同時に、美しいと思わせる。
一体、何故だろう。
「それに、例えこの私だけを殺せたとしても、紅恋の中から跡形も無く抹消することができたとしても、どちらにしろ、紅恋は死ぬわ」
微笑に見つめられて、黒衣は手を強く握りしめた。
「私がいるから紅恋は苦しむ。けれど、私がいなくなれば紅恋は死ぬ。紅恋が死ねば私はいなくなるが、あなたは、私を殺せない。あなたは、紅恋を殺せないから」
彼女はうっとりとそう言い連ねた。そして紅い模様のついた、もはや白いとは呼べない服の裾を軽くつまむ。
「さあ、それではあたしの出番もそろそろ終わり。せいぜい、自分の無力さを嘆くことね」
紅い瞳を輝かせ、紅い髪を艶めかせ。
彼女は、優雅に華麗に、完璧に礼をしてみせた。
と、糸が切れたように、その体がぐらりと崩れ落ちる。地面にぶつかりそうになった体を、黒衣は膝をつき、慌てて抱きとめた。
続けて、彼女の顔を覗き込む。
―――そこには、穏やかな顔で寝息を立てる、紅恋の顔があった。安堵に息をつき、黒衣は彼女の体を抱え直した。
細い体に腕を回し、紅い髪に顔をうずめて、呟く。
「ごめん………」
(俺に、救える力が無くて)
紅恋の寝顔は安らかで、何の不安も無いように見える。
しかし、その顔が穏やかであればあるほど、黒衣の胸は痛んだ。この裏側で、紅恋はどれほど辛い思いをしているのだろう。どれだけ、涙を流しているのだろう。
自然と、抱きしめる腕に力がこもる。
「…………ごめん」
謝ることしかできない自分が、どうしようも無く嫌になった。彼女がわざわざ言わなくとも、もう彼は、十分過ぎるほどに嘆いていた。解決方法は、見つからない。
愛する少女一人救えないのなら、死神の力も大したことはない。役に立たない力なら、あっても同じだ。
人間と同じ無力さを持って、黒衣は思う。
どうすれば、紅恋の力になれる?
抱きしめた少女の顔に目を落とすと、月の光に照らされた紅恋は、悲しげに、しかしそれでも、かすかに笑顔を浮かべているように見えた。
そんなこと、気にしなくてもいいよ、と言うかのように。
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