★2 居場所

「おかえり、黒衣こくい

 紅恋くれんは顔中で喜びを示しながら、黒衣を迎えた。笑顔を浮かべるなど、七年前は考えられなかったが、彼女は、ここ数年でよく笑うようになっていた。笑わないでいると、顔は凍りつく。その筋肉が解れるまでは、時間がかかるものだ。

 路地裏で震えていた少女も、もう十三歳になる。肌は滅多に外へ出ないせいで抜けるように白く、瞳はあの日から変わらずに、輝く紅の色をとどめていた。背丈も伸び、体つきもまだか細くはあるが、だんだんと大人に変わってゆくのが見て取れる。

 紅い髪は長く伸びて、膝の裏ほどまで届いていた。不思議なことに、新しく生えてくる髪ももう二度と黒くはならず、ずっと、鮮やかな赤のままだった。

「ああ。ただいま、紅恋」

 黒衣は目を細めた。黒衣の姿は、紅恋が初めて彼と出会った時から、少しも変わっていない。ただ、共に暮らし始めて月日を過ごすうち、その物腰は次第に柔らかくなっていった。

「本当に、大きくなったな」

「いつもそればっかり」

 黒衣は紅恋の頭を撫でて、紅恋はくすぐったそうに笑った。まるで黒衣が私のお父さんみたい、と付け加える。

 黒衣は育ての親みたいなもんだろ、と言って同じように笑った。

「ずっと、変わらないね」

「俺か。俺は……人間とは、違うからな」

「うん、知ってる」

 落ち着いた装いの広い部屋の中心まで行くと、黒衣は上着を脱いで背もたれにかけ、体をソファに沈み込ませた。紅恋はその隣に、身軽な様子で腰掛ける。

 そこで黒衣は顔を曇らせ、ためらいがちに話を切り出した。

「紅恋、調子はどうだ? もうそろそろだろう?」

「……うん、多分」

 紅恋は形のいい眉をひそめ、答える。彼女は項垂れてスカートの裾を掴む。

「いつも言うけれど、私、嫌だ。あんなこと……好きじゃないもの」

 口にするのも嫌だと言うように、下を向いて紅恋は呟く。黒衣は慰めるように口を開いた。

「好きな奴なんか、いないさ。そういう奴はどこかおかしいんだ。そうに決まってる。……仕方無いだろ。そうしないと、お前は自分を保てないんだ」

「それは、そうだけど……でも、やっぱり嫌。嫌なものは嫌なの……辛いの。人の命は一度限りのものなのに、それを………」

 私が、生きるために奪うなんて。

 紅恋は消え入りそうな声で言った。

 彼女はあの日から、数ヶ月に一度、どうしても人の命を奪わずにはいられない。例え家に閉じこもっていても、いつのまにか、両手が真っ赤に染まっているということが、今までに何度もあった。

(嫌なのに)

(あんなこと、もうたくさんなのに)

 いつのまにか握り締めていた両手が震えた。黒衣は何も言わずに手を伸ばし、彼女の身体を抱き寄せた。紅恋も、抗わずに彼の胸に顔を押し付ける。

 暖かい。

 歪めていた顔が緩む。

 彼女はそのまま、囁いた。

「私ね、思うんだけど。皆、黒衣のように、不老不死だったなら……それなら、きっと、きっと幸せだと思うの、私」

 紅恋は目を伏せた。そして震える声で、搾り出すように彼に言った。

「私、怖い。自分が死んでしまうのが……怖くて、たまらない」

 人を殺した私が、言うべき言葉ではないだろうけど。

 紅恋は細い体を小刻みに震わせる。黒衣は優しく言い聞かせるように声をかけた。

「紅恋になら、俺が力を分けてやると言ってるだろ。もう少し大きくなったら、時も止めてやるよ。今すぐがいいなら、それでもいい。ずっと、永遠に、死なないですむ」

「ううん、大丈夫。黒衣と一緒に居られるなら、それだけでいいの。だって、一緒に居ると、すごく幸せになるから」

 紅恋は泣きそうな顔から微笑んで、切なげな目をしたまま、心底嬉しそうに答えた。黒衣は愛おしそうに紅恋の身体を抱く腕を強くする。そして、軽く肩に手を置いて身体を離した。

「何かあったら、すぐに俺に言えよ」

「わかってる。じゃあ、もう寝ようかな」

「そうか」

「あ、そうだ。黒衣はいつも忘れるけど、ごはん、ちゃんと食べないと駄目だよ。いくら要らないからって言っても、食べて欲しいな」

「ああ」

「じゃあね、お休み」

「……お休み」

 紅恋は柔らかな動作で立ち上がり、自分の部屋へと歩いていった。

 彼女は頬を赤く染めて微笑んだ。

 大好きと聞こえないように、心の中で呟く。


 あたし、ずっと孤独だった。

 独りだった。寂しかった。

 

 でも、あなたが来てくれた。

 それで、あたしはここにいて、

 あなたの、隣に居る事ができて、

 

 あなたと、笑うことができるから。

 だから、あたしは。

 

 あなたと、どこまでも行けるんだ。


 *


 黒衣は額に手をやって、何をするでもなく、高い天井を見上げていた。

 そして、低く自嘲の声を漏らす。

「不老不死とはな………」

 よく言ったもんだ。

 紅恋は、幼い頃によく泣いた。

 死を身近に感じて、余りにも簡単にもたらされる事を知ったからか、死にたくないと毎晩のように泣いた。

 独りになりたくないと言う。もう、たくさんだと。

 あの日、死んでもいいと言っていた少女が、死にたくないと言った。

 まだこんなに小さいんだ、そんなにすぐ死ぬわけが無いといくら宥めても泣きやまなかった。

 たとえすぐでないとしても、いつかは必ず訪れる。

 死が訪れる日を思うと、どうしても嫌だと紅恋は泣いた。

 黒衣は延々と泣き続ける紅恋の様子に途方に暮れて、その場しのぎで、紅恋に自分は不老不死だと告げたのだ。だから自分の力を分けて、紅恋も死なないようにしてやると彼は、そう言った。

 すると、紅恋は泣くのをやめて、涙をいっぱいに溜めた目でようやく微笑んだ。

 それなら、ずっと一緒にいられるね。


(本当は、不老不死なんかじゃない)


 笑顔を見てしまってから、自分がミスを犯したことに気が付いた。気詰まりに感じたのは嘘じゃない。しかし紅恋が泣き止んだから、黒衣はそれでよしとしてしまった。

「いつまで、俺は嘘つきでいればいいんだ……」

 ばれたら、嫌われるのだろうか。そうされても、仕方ないのかもしれない。

 確かに自分は人より遥かに長く生きる。『神』と名にあるとおり、人には無い強靭な生命力で、傷の治りもとても早い。だがしかし彼とて、とてもゆっくりとだが、終わりは近づいて来ているのだった。

 いつか必ず死は訪れ、何も残さず消滅する。

 時が来れば体が薄く透き通って、消える。

 全く何にも、骨の欠片も残さずに。

 黒衣は、過去を回想する。

 ある日起きてみると、祖父の姿が消えていた。

 家中全ての扉を開いても、姿がどこにも無い。祖父が居た証は写真に写る姿と、彼の持ち物しかなくなってしまった。まだ幼かった自分は、初めて喪失感というものを得た。

 自分を叱ったり、微笑みかけてくれたり、時には助けてくれた祖父の姿が急に消えた。

 淹れたばかりのコーヒーを入れたマグカップがテーブルに置かれていた。まだ湯気を立てていた。彼はその嗜好品を口にしながら、本を読むことが好きだった。

 死と消失。至極当たり前なことなのに、黒衣には、理不尽だとしか思えなかった。

 何の予兆も見せずに、昨日会話した人が消えてしまう。そんなことが、あっていいのか?

 別れを告げる暇もなく、いくら悲しんでも、もう二度と戻ってこない。いくら嫌だとわめいても、自分にも必ず訪れる。本当は、不老不死になりたいと願うのは自分なのかもしれない。紅恋に力を分け与えて、彼女を自分と同じように、長く生きられるようにする。

 現に、そうして暮らしている実例も知っている。

 だけど、いつか別れなければならないのなら。死んで、別れなければならないのだとしたら、そんな力は、何の意味も持たないのではないか。

 彼もまた、死に近いところで生きてきたからか、何年、何十年も前から死に強い恐怖を感じていた。そう。自分は怖がりなのだ。

 紅恋といつまでも、共に居られればいいのに。

 それが実現しない願いなのだという事も、彼は知っているのだった。


 すっかり暗くなった気分を紛らわせるために、椅子から立ち上がった。

 食事や水分は全く取らなくても死なない。死神は生命エネルギーを摂取するので、紅恋が傍にいればそれで十分なのだ。けれど、味覚や消化器官はあるので食品も取ることに問題はない。

 気分転換にはなる、とキッチンに向かった。

 それと、可愛らしい少女の心配を拭い去ることも少しはできるはずだ。


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