☆2 【組織】内部

 ひかりは今現在、見たこともない部屋の中にいた。

 かなり広い部屋だった。スチール製のベッドがずらりと八つ、並んでいる。洸の目覚めたベッドは壁際の扉のすぐ横のもの。壁は牛乳のように真っ白で部屋には窓も無く、明るいが少し息苦しい。

 見覚えのない白いパジャマを身にまとい、洸は簡単な作りのベッドの上で、半身を起こした状態で座っていた。幸い、体に目に見えるような傷はなく、どこかが痛むということも無かった。あれほどの勢いで落ちたというのに、体調に少しも異変が無いというのは一体、と少し疑問に思わないでもないが、幸運には違いない。

 ほんの数分前に、洸は目を覚ましたところだった。

 起きてすぐにはほとんど何も分からず、周りはまったく見覚えのない部屋でパニックになりかけたが、直前の出来事を思い出して落ち着きを取り戻す。

 おそらくここが、龍己たつみの上司の居る場所なのだ。

 クラスメイト。それも、今まで全く縁の無かった男子の上司という存在がどういう者なのか、判断するには情報が少なすぎたが、多分その本拠地というか―――きっと、そんなようなものだ。

 ただひたすら真っ暗闇の中、すがる物も無く、下へ下へと落ちて行く感覚が蘇る。命綱も何も無しで、行き先も見えない。これは予想以上に恐ろしく、そこらのジェットコースターよりもよっぽど、何十倍も、いや何百倍も怖かった。

 洸は体を震わせる。彼女が覚えているのは、落下を怖いと思った所までで、そこから先は何も覚えていない。

 扉がノックされる。洸は反射的に、音のした方に顔を向けた。

「入ってもいいかしら?」

 声だけで判断すると、それは女性のようだった。

「……どうぞ」

 洸は一体誰だと思いつつ、返事を返した。扉は音も立てずに横に滑り、褐色の肌をした女性が現れた。ヒスパニック系だろうか? 黒い髪と黒い瞳に、肉感的な唇。洸は驚いた。

 彼女は日本語を完璧なアクセントで話した。

「あなたが、星村 洸さんね」

「はぁ、まぁ……そうですけど」

 洸は口ごもる。女性は軽く微笑むと、緩やかにウェーブのかかった黒髪を揺らして、こちらへ近寄った。見た目は二十代後半から、三十にかかるかどうか。目鼻立ちもはっきりしていて、美人、と評してもいい外見だ。

 オフィス用の飾り気のないヒールが硬い音を立てる。

 女性はベッドの脇まで来ると、いつの間にかそこにあったパイプ椅子に腰かけた。どうにもそれは、女性に似合っていなかった。服装もスーツで、メイクも最低限なのにこちらに香ってくるような女性的な雰囲気が洸を緊張させた。

 彼女は、謝罪から話を始めた。

「急にごめんなさい、混乱してるわよね。でも、元々あなたはここに来ることになっていたのだし……本当はもっと早くに連れてくるはずだったんだけれど、ちょっと、こっちも色々重なってしまって……」

 そこで、苦笑気味に微かに笑う。はぁと一応相槌を打ったが、女性の話はまるでぶつ切りで、洸はほとんど話の中身が理解できなかった。

「えっと、羽良君は、自分の上司が私に説明してくれるみたいなことを、言ってたんですけど……あなたが?」

 女性は声を立てて笑った。

「タツミは単語のチョイスが独特よね。まあ、間違ってはいないわ。挨拶が遅れたわね。私は『black・bear』。所謂、コードネームね。普段はB・Bと呼ばれているから、そう呼んでくれる?」

 にこりと優しげに微笑み、彼女は親しげに手を差し出した。綺麗に整えられた爪には、真っ赤なマニキュアが塗られていた。はいと再び気の抜けた声を出して、洸は応えないのは失礼だろうとB・Bと握手を交わす。

 しかし、内心彼女は眉をひそめていた。

(コードネーム?)

 ここは一体何の漫画の中だ、それとも映画の中だろうか、と洸は子供の遊びに付き合っているような気分になってきた。大人が真面目に、嘘ではなくコードネームを名乗る……会社?

 こんな風に連れて来られるとは思ってもみなかったが、まさか、身代金だとかそう言う類の話ではないだろう。

「あ、あの」

 意を決して、洸は話しかける。

 ここまで来たのも、全て情報のため。

 それさえあれば、ひとまず、後はどうとでもなればいい。

 洸はできる限り表情を引き締め、B・Bの目を見た。

「あたしがここに来たのは、ここに来れば、『情報』が得られると思って―――あなたたちの言う、『真実』を教えて貰えると聞いたからなんですけど」

 B・Bは先を促すように頷いた。

「ここがどこだとか、あなたが何者なのかとかは、この際、ほんとにどうでもいいんです。あたしは自分の知らないことが知りたいから、それだけのために……ここに来ました」

 自分は何を知るのだろう。心臓が鼓動を強くする。

 胸が、痛い。

 B・Bは何も言わなかった。瞳の深さに引きずられそうで、洸の手はいつの間にか掛け布団を掴んでいた。

 赤い口紅が塗られた形のいい唇が、彼女に告げるべく開かれる。

「そうね……あなたの気持ちはわかったわ」

 そう言って、B・Bは椅子に座りなおした。瞳がきらめく。

「なら、あなたの求める真実を率直に伝えましょう。順を追って、話すわ」

 そしていたわるような笑みを洸に向ける。その大事な物でも見るかのような表情に洸は戸惑う。

「大丈夫よ、そんなに緊張しないで……。と、言っても初対面だから、難しいでしょうね。でも、私たちは、あなたに危害を加えるつもりなんてこれっぽっちも無いの。それは安心して」

 洸は迷った後、背後の壁に身体を預けた。緊張した体の力はうまく抜けないが、体勢は楽になる。

 それを確認すると、B・Bは一つ頷いて話を始めた。

「さて、そうね。まず、あなたはこの場所や私についてはどうでもいいと言ったけれど、そこから始めましょうか。少なからず、あなたに関わって来ることでもあるから」

 B・Bはリラックスした様子で足を組み、その上に肘をついた。

「ここは〝栄光の貴鋼石ダイヤモンド・グローリー〟という組織よ。あなたの両親はこの組織の構成員だった。彼らの能力については話が長引くから省くけれど、二人はここで働いていた。とても仕事熱心で、勇敢で、幹部クラスを務めていた。偉ぶらなくて、誰にでも親身に接してくれる。みんなに愛されたカップルだったわ」

 B・Bは昔を懐かしむような眼差しをした。

 そして、と彼女は言葉を紡ぐ。

「詳しく言えば、あなたのご両親は、そうね、討伐隊……ではないのだけれど、そんなものをしていたのよ。余り知られていないけれど、実はこの世界に〝特殊能力者〟の数は少なくない。そして世界には能力を持つ故に虐げられている人達や、能力を悪用して罪を犯している人たちがいる。二人は、現場へ実際に出向いて行って、虐げられている人を助けたり、あるいは、罪を犯した人を捕らえたりといったことをするチームに所属していたの」

 特殊能力者による、特殊能力者のための場所。

 そして、自分の父母のしていた『仕事』。

 俄かには信じがたい話だ。

「あたしの親も、その能力があったの?」

「そうよ。そして、あなたにも」

 B・Bは至極当たり前のように、さらりと口にする。

「その髪の色は、生まれつきでしょう? それは、あなたが能力を有している証拠なのよ」

 B・Bの目から目を逸らし、洸は右手で自分の髪に触れてみる。髪を染めているのが急に恥ずかしくなってきた。それは防衛のためだ。父親が手ずから染めてくれた。けれど彼は、胸の内で本当はどう思っていたのだろうか。

 同じ青でも、海の色ではなくて、遠く高い、蒼空の。

 父親譲りの色。

星村ほしむら 飛雄ひおと、桐生きりゅう 素納多そなたの娘。遺伝したのは父方の能力のようね……きちんと調べてみなければ、はっきりそうとは言えないわね。でも、彼を思い出す」

 そう言って、B・Bは笑う。

 洸は笑えない。

「あの、すみません」

 喉が渇いて、途切れがちの声が掠れる。。

 鼓動が早まって、口は、回らなくて、それでも、

「あの、『真実』って、それだけ、なんですか?」

 洸は、問う。

 沈む気持ちが抑えきれず、祈るように願うのを止められない。情報は、自分が思うよりも少ないかもしれないと予想はしていた。でも、やはり洸の心には、不満が渦巻いた。

 彼女の言葉の裏で、本当に聞きたかったのは。

「―――いいえ」

 届いた声に、心臓が跳ねる。洸はB・Bの、微笑みが消えた顔を初めて見た。

 抑制された声のトーン。

 気付かない振りをしていた不吉な予感が、胸に降りる。

「まだ、一つ。伝えなければならないことがあるわ」

 温度の無くなった顔は、急に彼女を老いさせて見せた。

 悪寒が背筋を駆け抜ける。言わないでと叫びそうだった。しかし洸の体は動かず、喉からは、どれだけ小さな声も出ない。

 ほんの一瞬表情が翳りを見せた。それでもう内容は伝わったようなものなのに。彼女は口を開く。

「洸さん、あなたのご両親は―――」

 喉をせりあがって来る悲鳴を堪えるため、洸は唇を噛んだ。


「もうすでに、お亡くなりになっているわ」


 無情に、無表情に告げられた宣告に、何の反応も、できなかった。

 ただ頭の中が真っ白になった。

 世界が急激に遠のいて、音が耳を通り過ぎる。

 言語が、理解できない。言っている意味がわからない。

 言葉にならない雑音が、耳障りな音を立てて周りを横切っていく。

 手を伸ばして、もう少しで触れられる。なのに希望は蛍みたいに、儚く弱く、消えてしまった。

 残酷だと彼女自身も感じているのだろう。けれど、誰かは伝えなければならない。嫌われ役になっても構わないと決めて臨んだのだろう。

 洸は自分一人だけが、真っ暗な空間に取り残された気がした。

「あなたの……そう、今から七年前、六歳の誕生日にご両親の遺体は確認されているわ。DNA鑑定もされているから、彼らの死は明らかだった」

 何て言ってるの?

 わからないよ。聞こえない。

「……そして、それはどうやら、この子がやったようなの」

 遠のきかけた意識の中で、音が、突然弾けて耳に響いた。爆発したような光が目を刺して、洸はがくんとこちらに戻された。

 遅ればせながら、脳が言葉を回想する。

 ――やったって、誰が? 何を?

 細い体に、辺りの空気が酷く重い。何年分かの疲れが一挙に押し寄せたようで、今にもその重さにつぶされてしまいそうだった。もうこれ以上話の続きなど聞いている余裕が無いと身体が喚く。早く眠らせて、永遠に目覚めなくてもいいからと、体が騒いでいるのを感じる。

(でも、これだけは、聞かなきゃいけないような気がする)

「ほら……これがその子よ」

 洸の目の前に、バインダーから取り出された写真が二枚晒される。

 一枚は繁華街を映したもので、もう一枚は拡大された人物の写真だ。

 場所はどこにでもあるような交差点だ。看板は日本語である。灰色の道路、灰色のビル。おまけに空も灰色。映っていた人物は子供だった。後姿だったし、髪で隠れて顔はほとんど分からない。身長が平均くらいの高さだとすれば、大よそ六歳ほどに見える。

 腰ほどまである長い髪の少女だった。少女は明らかに怯えている様子だったが、周りの人々も、彼女と同様かそれ以上に怯えているようだった。

 驚くべきは、少女の髪の色だ。

 赤い。

 少女の髪は、目の覚めるような色をしていた。斑になっているようだ。よく見れば、足やスカートにも同じような色が飛び散っている。

 写真の日付は間違いなく、七年前の洸の誕生日だった。

 洸は、思考する。

 こういうのを、因縁というのだろうか。

 精神が崩れる音を、初めて聞いた。自身が崩壊するのが、手に取るように分かった。

 憎しみが、傾きかけた心の中で煮える。自分の中にあるとは信じられない感情が激しく泡立ち、次々に湧いては、破裂していく。

 憎悪の泡が弾ける度に、心が、嫌な気持ちで波立った。

「名前は残念ながら分からないけれど、こんな目印があるんだもの。見つけられないはずが無いわ。大きな事件として、裏側では話題になったのよ。表ではもみ消されたけれど」

「でも……その。もし、これが血だとしたら……その、洗えば、取れてしまうんじゃ……ないですか?」

 声に憎しみを感じさせないように無理矢理抑えていたせいで、洸の声は少し震えた。

 自分の中の醜い憎悪を人前で見せてたまるかと、洸は唇を噛み締めた。

 質問にB・Bは緩やかに首を振って、否定する。

「当然の疑問ね。けれど………写真は、もう一枚あるのよ。ほら、これがそう」

 彼女が新たに取り出したもう一枚の写真は、日付が三年前になっていた。見た事も無い異国の町の、写真の左寄りに成長した少女が写っていた。頭には帽子を被っていたが、洸には何故か、すぐにその二人の少女が同一人物だと分かった。

「この子が六年前の事件の時に殺したのは、あなたの両親だけではないの。他にも、何人も被害にあっている。しかも、その殺し方は明らかに異常だった。能力を持たない人間にはできないようなやり方だから、私達は総力を上げて探していたの。これはある街で撮ったもので……この特徴的な髪の色は同じものだわ。テストしたけれど、この色はどの染料でも出せなかった。強力な能力の発動で、定着してしまったのね」

 少女はこの写真でも顔が分からなかったが、被っている帽子からは、鮮やか赤い髪が一房零れていた。

「事件の現場にいた目撃者によると、彼女は、当時五、六歳くらいの外見だったらしいわ。そして、事件のあった日と同日、現場付近のマンションで、同じような殺され方で死んでいた夫婦の遺体が発見されたの。遺体と呼べるかも怪しい状態だったらしいわ。この夫婦には、当時六歳の娘が一人いた。そして、彼女はその日から、消息不明になっている」

 B・Bは、先に出した写真の方を、再度洸に見せる。

「私たちの目から見ても、この子は五、六歳に見える。だから、私たちはその娘が犯人だという線で捜査を進めている……当時六歳だと仮定すると、彼女は今、十三歳……つまり、あなたと同い年ね」

 同い年。なんて、偶然だ。

 馬鹿みたいな酷い、運命の気まぐれさがもたらした偶然。

「それに、もう一つ彼女には特徴があるの」

 B・Bはアルトの声を、さらに低める。瞳を指し示して言う。

「瞳が、真っ赤なのだそうよ。これも当時の目撃者から聞いたのだけれど……髪の毛と同じ血のような色だったと、皆が言っているわ」

 そこで、B・Bは静かに口を噤んだ。洸は、ただ黙って写真を見つめていた。

 一枚目。不安に怯える、六歳の少女。

 でも、同情はかけらも湧いてこない。

 二枚目。紅い髪を僅かに覗かせた、十歳の少女。

 そして今、彼女は。

 憎しみが洸の中で煮えたぎった。

 体が、火がついたように熱くなり、燃えるような怒りが身を焦がす。すさまじい怒りに我を忘れて、狂ったように吼えたくなった。

 そこでB・Bが、彫像になったように身動きしない洸の肩に触れた。はっとして意識が戻って来る。囁くように洸に声をかける。

 真摯な表情だ。誰かの力になりたいと、そう心底思っているような。

「もう分かっていると思うけれど、私も特殊な能力をもった人間を教育したり、その生活をサポートしたりする役目を担った、この組織の一員なのよ。あなたをここに呼んだのは、真実を伝えるべき時期が来たと思ったから。自分に特殊な能力があると知り、その上でこれからの人生を生きるため、どんな道を選ぶか。それを、選べる年齢になったと判断されたからよ。急すぎる話で、ごめんなさい。私には謝ることしかできないけれど………今、あなたに選べる道は……そう、多分二つ」

 細い指を二本伸ばし、洸に提示する。

「一つはここで教育を受ける。今はまだ、分かっていないでしょう。この年齢まで能力の暴発が起こらなかったことは、とても幸運なのよ。あなたの力は暴走したら、あなたの想像もしない事故を引き起こす可能性がある。だから力が暴走しないように、それを上手く操る方法を身につける必要があるわ。その後はここに残るのでも、あなたが今まで居た所に戻って人生を送るのでもどちらでもいい」

 洸はB・Bの言葉を聞いていたが、頷けなかった。

 B・Bは構わず続ける。

「もう一つは、力を完全に封印して、今までと同じ生活に戻る。私たちと関わりたくない、今までの生活を愛している人達もいる。それを否定はしないわ。ただし、力が暴走する時の事を考えて、絶対に目覚めないように力の芽を切り取ってしまわないといけない。あなただってこの子と同じ、殺人者になんかなりたくないでしょう?」

 B・Bは写真をバインダーにしまう。B・Bは真剣そのものだった。嘘を言っているようには、見えない。

「能力は、とても便利であると同時に、とても恐ろしい物よ」

 B・Bは続ける。

「その強力な力は、使い方によってはとんでもない事態を引き起こす。力がセーブできないと、その力の持ち主さえ、力が殺してしまうこともある」

 B・Bはバインダーをバッグにしまって、椅子から立ち上がった。

「これはあなたが決めることで、私達は選択を強要しないわ。とは言っても、道は二つしかないけれど。ここにはあなたと同じような能力を持った同年代の子たちも居るし、普通の学校に通うよりは、楽しいと思うわよ。それに、あなたの力は恐ろしい凶器にもなるけれど、同時に、使い方によっては、とても便利であなたの助けになる。あなた自身にはその力を上手く開くことはできないと思うけど、私たちにならその能力を開花させることができる」

 B・Bは自らを誇るように言う。

「この組織〝栄光の貴鋼石ダイヤモンド・グローリー〟の名前の由来はね、私達の持つ特殊能力が、生まれ持った贈り物……ギフトだということから来ているの。決して、自分を卑下しないように。他人と違うことで自分を嫌いにならないように。ここに、私達のダイヤモンドがある」

 胸を押さえるB・B。ギフト。ダイヤモンド。その言葉は、輝いているようだった。

 そうそれに。

 彼女はそこで、思い出したように身を屈めた。

「あなたがやりたいと思えばだけど、私は、あなたを勧誘しようと思って来たのよ。特殊能力を持った人間にしか出来ない、チーム。もちろんその種類は色々あるけれど……さっきも、言ったわよね?」

 B・Bは微笑んだ。ただ柔和なだけではない。裏に幾つもの感情を内包していそうな表情だった。

「御両親が所属していたのは、犯罪者を捕らえるためのチーム……。能力次第で、そこに所属することができるのよ……あなたも」

 洸は射抜かれたらこういう気持ちがするのだろうか、と思った。

「チームに年齢は関係ないわ。適正試験はあるけれど、原則やりたいと思った人間は試験をクリアすれば参加できる」

 胸が、強く打っている。体はいつの間にか動かなくなっていた。

「彼女を追って、捕まえることも出来る」


 サア、正義ノ刃ヲトリナサイ。


 囁いたのは悪魔か聖母か。洸にその声が聞こえることは無かったが、今日この時が、自分にとって大きな決断を下すきっかけになったことは確かだった。

 B・Bは何事も無かったかのように屈めていた体を伸ばし、明るい声で、話しかける。

「でも、能力の芽を切り取って、今の話を全て忘れる事だって悪いことじゃないわ。こんな大きい事……あなたみたいな、まだ十三歳の女の子には重過ぎるでしょう?」

 洸は、何も言わなかった。

「とにかく、返事はゆっくり寝てからでも遅くないわ。食事をするような気分でもないだろうし、休んで。初めて転送装置を通過したから、一応身体や精神に異常がないかチェックをさせてもらったの。着替えさせたのは女性だから、心配しないでね。服と鞄はベッドの下の籠の中。ショックも大きかったでしょうに、長話になっちゃってごめんなさいね。私も、そろそろお暇するわ」

 B・Bは左腕を上げ、機能性重視だがどこか美しい腕時計を眺めて、もうこんな時間と軽い調子で口にした。

 洸は俯いたまま、立ち去りかけたB・Bの背中に問いかけた。

「もし、こっちに来ることになったら、学校は……家は、どうなるんですか」

 B・Bは振り向くと、ああそうかと忘れていたとでも言いたげな顔をした。

「学校は転校の手続きをすることになるわ。もちろんここでも、数学や国語等の一般教養も学ぶカリキュラムになっているから。後、家のことは何も問題ないわ」

 彼女は目を細めた。

「騙すみたいになって申し訳ないけれど、あなたのおばさんは親戚ではなくて、私たちの派遣した、この組織の人間なんだもの」

 洸は目を見開いた。

 質問はそれだけ? と尋ねられ、洸が糸が切れたように頷くと、彼女はそれじゃあお休みなさいと言い残して出て行った。

 扉は小さな音を立てて閉まり、静かで明るい部屋に、洸はたった一人で残された。ベッドに身体を倒し、一点の染みも無い真っ白な天井を見上げる。

 丸い、大きな蛍光灯が、太陽のように照らしている。その光が眩しくて、洸は僅かに目を逸らした。立て続けに凄い事が起こって、洸はいささか疲れていた。

 竜の翼を持ったクラスメイトにさらわれて、気がついたら見たこともない部屋に寝かされていて、コードネームを名乗る女の人に両親は死んだと聞かされて、しかもそれは、自分と同年齢の女の子がやったかもしれないだなんて。

 ……おばさんが、血の繋がりの無い他人だったことも地味に衝撃だった。

 これだけ大きな組織が、世の中から黙殺されていることも含めて嘘みたいな話で、自分でも理解できていないし、ひょっとしたらやっぱり夢なのかもしれない。

 きっと、長い、長い夢。

 そんな可能性だって捨てきれないほど、異様な話だ。

「やば……やっぱ、ショックだ……」

 洸は、自分にしか聞き取れないような声で呟いた。

 視界が曲がる。曇る。そして、歪む。

 死んじゃってたんだ、二人とも。本当に。

「お母さんも、お父さんっ……!」

 悲しみが打ち寄せる。

 きっと生きていると信じていたのに。

 それだけを信じて、生きてきたのに。

「置いてかないでよ……」

 二人が遠ざかる。

 あの日の笑顔のまま、遠く、遠く、小さくなっていく。

 必死に追いかけても、例え足が折れたとしても、走り続けたつもりなのに。

 ずっとずっと待ってたんだよ?

 堪えきれずに、呟きが漏れる。

「大切なこと、教えてくれるって言ってたのに……」

 二人の笑顔が、よぎって。

「答えてよ……答えてよぉっ!」

 全身を切り裂くような声は、その大きさに反して、余りに弱い。

 そして、返事は無い。

 部屋は静まり返ったままで、

 まさか二人が現れて、抱きしめてくれるなんて思ってなんかいないけど。

 でも。

 洸の両目から、今までずっと堪えて来た涙が落ちた。何年間も押し殺していたそれは、頬を伝って、幾つも幾つも零れ落ちていく。透明なビーズのような丸い粒が、幾つも跡を残しながら、清潔なシーツにしみ込んだ。

 聞こえないように声を押し殺す事なんか出来なかった。溜まった思いが、多すぎて。洸は、小さな子供のように声をあげて泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣きじゃくった。

 二人の笑顔が、柔なガラス細工のように、砕けて割れて、飛び散ってしまった。

 もう二度と戻らない。心の中に残っていても、でもそれは、心の中だけにしか残っていない。

 シャボン玉のように、はじけて消えた。

 ぱりぱりに乾燥したドライフラワーを握り潰したみたいに、細かい破片になって、吹いた風に散らされてはるか遠くへ。

 あたしが絶対行けないところへ、連れて行ってしまった。


「あたしは……」

 何年振りかに声をあげて泣いた後、洸は押し殺した声で言った。洸の目は涙に濡れて、二つのライトのように、輝く星すら褪せるほどに、激しく、強く光っていた。

「あたしは、真実を探す」

 燃える双眸はどんどんと澄み渡り、その色を変え始めた。焦げ茶に近い黒だった瞳が、その色を、天高い空の青へと変えていく。

 赤よりもさらに温度の高い、真っ青に燃え盛る炎。

「真実を……探すよ。もしも、あの子が犯人だっていうのなら、あたしが蹴りをつける」

 白くて清潔なシーツはいつのまにか、洸が握り締めたせいで、ぐしゃぐしゃにもつれてしわが寄っていた。まるで、均衡が崩された、洸の心の内そのもののように。

 完全に色が変わった青い目から放たれる光は、激烈だ。そしてその色は同時に、見る者に、触れただけで壊れそうな危うさをも感じさせた。


 胸の中にダイヤモンドがある。

 それは硬質化した、自分の心。

 誰にも傷つけることのできない、二人がくれたギフト……。

 そう思うと、涙が零れて止まらなかった。

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