★1 暗がりでの一幕


 足が、足が止まらない。

「……………ッ」

 顔の横でまた、赤い色が散る。

 悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。

 自分のものでないモノと、そして、自分のもの。

 その区別すらつかなくて。

 この目に映るものは、本当に現実なのだろうか。

 余りにも、悲惨すぎる。

 余りにも、残酷すぎた。


 自分の物であるはずの両の足が、まるきり自分の言う事を聞いてくれない。少女は、ただ闇雲に行き先すら分からず、走り続けなければならなかった。

 灰色の道を蹴って、足が跳ね上がる。走る度起こる風に、血で染まった紅い髪が靡いた。

 音に慣れきってしまったのか、耳は悲鳴を拾わない。風が鳴る音のように、それは遠く聞こえるだけだった。

 頭がずきりと痛み、脳内に声が響く。

 誰の物かもわからない、男か女か、子供か老人かも分からない、

 ただ、逃走を命じる、声。

 逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ………………

 逃げろ?

 どこへ? なぜ?

 少女は問う。けれど答えは、返ってこない。だから、少女は走るしかない。

 幼くても、少女には自分のやってしまった事がとんでもない事であるとわかっていた。

 彼女の頭の中では、延々と赤い光景が、壊れてしまったプレーヤーように繰り返されていた。

 やってしまった事が目に焼きついて離れなかった。

 自分に触れたとたん、例外なく人は消えて、血液だけが飛び散る。何故そんな事ができるのかがわからなくて、その得体の知れない力が怖かった。

 脳内の声が、命令する。

 走れ。走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ

 それに彼女は弱弱しく反論をする。

 嫌だ、苦しい。走れない、走りたくなんか無いのに。

 力なく振られる手が、勝手に胸を押さえる。そこは刺すように痛んだ。

 走れ、走らなければ死ぬぞ。


 死 ぬ?

 あのひとたちとおなじように?

 しぬの?

 あたしが?

 あたしも?

 あたしはひとをころしてしまった。

 だから?

 恐怖がまた踊り上がって、いっそう激しく少女の身体を突き動かした。ただ怖かった。しかし、何が怖いのかは彼女には全く分からなかった。

 あたしも、あたしが殺してしまった人と同じように殺されてしまうのだろうか?

 それが怖いのだろうか?

 分からない。

 足だけが、別の生き物のように動き続ける。

 必死に走る彼女を嘲笑うかのように、痛みがどんどんと強くなる。頭が、喉が、胸が、目が、足が、体が。全身が、外側から内側から、全て、痛い。

 足取りも自然と重くなる。

「はぁ…っ、はっ…」

 苦しい。あがる息を飲みこんで、苦しさに逆らって、足を動かす。

 動かしたくなんか無いのに。

 また、同じ命令が下る。

 走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ

 無理だ。嫌だ!

 思いっきり、叫ぶようにそう頭の中に答えを返した。

 現実は喉がひゅうひゅうと無様に息を吐いただけだった。

 息を吐き出すのさえも苦しくて、咳き込むように吐き出し、喘ぐようにしながら息を吸った。

 命令は止まらない。

 走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ

 走らなければ、お前の生きる道は無い。

 そんなの、もう、どうでもいいよ。

 喘ぎながら、答える。


 どうだって、どうだって、

 どうだっていいよ。

 そんなこと、どうだっていいんだよ。

 いきるみち、なんて。

 そんなもの。

 こんな苦しさに、比べれば。 

 あたしのやったことに―――

 比べれば。

 涙が零れ落ち、また、喘ぐ。

 その苦しさに、重ねるように。

 思いがあふれ出した。

 無理だ、無理だ無理だ無理だ無理だ。無理なんだ無理だ、無理なんだよ。

 もう、無理だ。

 そこまで思ったところで、少女は、自分に走れと命令する声が遠のくのが分かった。途端にがくんと速度が落ちて、よろよろと目に付いた細い路地に入り込む。壁に手をついて、そのまま濡れた地面に倒れ伏した。体に感じる地面が冷たい。しかし今は、熱くなった体に心地よかった。

 服が水気を吸って、だんだんと冷たくなる。彼女の体温も奪われていく。

 服が湿って、地面の感触がリアルに肌に伝わってきた。ざらざらして、硬い。冷たくて、でこぼこしている。その濡れた感触が、触れている彼女の手のひらと頬にゆっくりと染み込んだ。

「馬鹿、くず、ごみ――――」

「あんたなんか、居なければ良かったのに――――」


 イナケレバヨカッタノニ


「――――っ!」

 唐突に、胸を突き上げるようにして吐き気がこみ上げる。

 体を跳ね上げ、腕をついて胃の中身を戻した。しばらく経って吐き気がおさまり、彼女はどうにか体を動かして、壁に背をつけた。

 これから、どうしたらいいだろう。

 体重を壁に預けると、考えが、頭の中を億劫そうに巡り始めた。

 あたしは人殺しだ。何人も何人も死なせてしまった。重い罪を犯してしまったのだ。気持ち悪い。怖い。何であんな事になってしまったのだろう。あたしは何にも望んでいなかったのに―――

 本当にそうなのだろうか?

 何かが、耳元で囁いた。唇を吊り上げて笑いながら、意地悪く少女の耳に口を近づけて。

 お前は本当に、何も望んでいなかったのか?

 あたしは本当に、何も望んでいなかったのだろうか?


 すると、自分は気分が悪いはずなのに、なぜかどこかで気分が良いような、笑いたくなるような心地が押し寄せてきて、少女は思わず胸を掴んだ。そんな感情を抱く自分に、酷い嫌悪感を抱いたからだ。

 頭を振ってその考えを追い出そうとしたが、疲れた体に頭は重く、動かすことなど出来なかった。どうやら気分が悪いのは、自分のやってしまった事のせいだけではないようだ。

 目が、霞む。頭がじわりと痛くなってきて、震えるほど寒いのに、体が熱い。

 このまま、死ぬのかな。

 そんな風に、思考が動いた。微笑みが零れる。怖さや苦しみより、楽になれるという安堵感の方が強かった。

 それでも、いいや。

 こんなところより、死んだほうがきっと良いだろう。

 少なくとも、きっと苦しみは感じなくてすむに違いない。

 死んで、今より苦しいのなら、少し考えてしまうけど。

 そう思った時だった。濃い灰色が、フィルターを被せるように突然視界に掛かる。

「?」

 少女の座っている場所に、影がかかったのだ。

 重い頭を動かすのは大儀な仕事だったが、それでも頭を持ち上げて、上方を仰いだ。

 そこには、全身黒ずくめの男が、自分を見下ろして立っていた。

 片膝を少し曲げ、伸ばした右足に体重をかけて、やる気なさそうな立ち姿で、ズボンのポケットに両手を入れて。

 黒い服、黒いズボンに黒い靴。

 装飾と呼べるものがどこにも無い、真黒の装い。

 けれどそれは、普段目にする色とは違っていた。

 普通の黒じゃ、ない。

 目線を上昇させると、首の上には、服の色よりももっと濃い色の、髪と、瞳があった。

 すぐ目の前が壁のような、胸を押さえられているような、妙な圧迫感を感じさせる色で、同時にはるか遠くまで、延々と空間が続いているようにも思わせる。

 闇のような黒。

 それが真っ直ぐと、自分の姿を見据えていた。


「見つけたぞ」

「――――!」

 片端を吊り上げた口から出た声は、漂わせた雰囲気よりも思いのほか、若い。

 ただ一言だけだったのに、幼い少女をおびえさせるのには十分すぎる力を、有していた。

 大人でさえ、恐怖を感じずに居られないだろう声は、恐ろしく冷たく、ぞっと総毛立つ感覚に、反射的に少女は自身の体を守るように抱きしめていた。硬く目をつぶる。

 だが予想に反して、男はそう言った切り、何の行動も起こさない。

 不審に思って、少女が恐る恐る俯けた顔を上げると、男は苦虫を噛み潰したような顔をして、少女をただ、見つめていた。

 まだ悪寒は消えないが、先ほどとは違う空気を感じ取り、少女は不安げに瞬きを繰り返した。

 いったい、どうしたのだろう。

 彼は何かをののしるように小声で呟くと、乱暴に黒い頭をがしがしと掻いて、しゃがみ込み、少女に目線を合わせた。そして低い声で聞く。

 先ほどの恐ろしさが嘘のように、声は柔らかくて、戸惑いと、少女に対する心配を含んでいた。

「お前、名前は?」

「なまえ…?」

 問われてゆっくりと記憶を手繰るが、頭の中には、何も、浮かんでこない。

「………」

 忘れて、しまったのか。

 とうの昔に、呼ばれなくなっていたから。

「ない……よ」

 少女が呟いた答えを怪訝に思ったのか、彼は眉をひそめた。

「は?……名前が無いのか?それじゃ、家では何て呼ばれてたんだ」

「えと…「くそがき」とか、「ばか」とか、「ごみ」とか…だった」

「……」

 虚ろな顔で答える彼女を見て、男のひそめられた眉間にさらにしわが寄った。

 この人は怒っているのだろう。

 少女には、それが自分に向けられているものでは無いと言う事が分かった。

 だから、気分が悪くならなかった。

 おとうさんやおかあさんが怒っているときは、必ず悲しくて、気分が悪かったのにな。

 そう思った瞬間少女はふと思い当たり、何か悩んでいるような様子のその男に向かって、ごく自然な様子で尋ねた。

「―――あなたは」

 あたしを、殺すために来た人なの?

 普通ならば一笑にふして終わりの、子供のたわごととしかとれないような台詞だった。だがそれに、彼は表情を少しも動かさず「そうだよ」と言った。

 ああ、やっぱり。

 少女は穏やかといってもいいような気持ちで、彼の反応を受け入れた。

 絵本で読んだ、黒い服の死神。

 そう、ずっと前、まだお母さんが怒っていなかったころ。


 灰色の空の下、闇色の衣に身を包み、空と同じ灰色の馬を駆る。

 その手に、どんよりと鈍く光る鎌をたずさえて。

 それこそは、魂を狩るための道具。


 黒い、黒い。闇の、衣。

 なぁんだ、そうか。決まってたんだ。

 少女はうっすらと笑みを浮かべた。

 何かを覚悟した、表情で。

 いいよ、と少女は言った。

「うふふ。よかった……あたし、ひどいことしちゃったから。それに、あたしはいらない子だったんだもん」

 ありがとう、と彼女は笑った。

 その様子はとても幸せそうだった。

「お父さんもお母さんも、あたし、いらなかったんだよ。だって、いっつも怒ってた」

 少女は、男の黒い目をじっと見つめた。

 凄く、透明な色だ。

 向こうが見えないように暗い。それは突き抜けるように遥かを映した、透明な色。人のものではない、人を近づけさせない色。

 けれど、まるで自分の心さえも、澄んでいくような気持ちにさせる。

 少女は柔らかく微笑む。

「死んだって、いいんだよ。誰も悲しくなんかないから」

 男が目を細めると、周りの空気を緊張した。滑らかな動作で立ち上がり、何も無い空間に、右手を伸ばす。

 差し出した右手に、湧き上がるように白い光が差す。一瞬長い物体を形取り、鈍色の鎌が姿を現す。

 長身の男と同じくらいはある長い柄に、小さな子供の背丈など簡単に追い越すような、巨大な刃。余計な装飾は一切無く、ただ、刃の手前の柄をぐるりと一周、線のような細かい紋様が埋めていた。

 男は鎌を無造作に掴むと、回転させて、ぴたりと両手に収めた。

 凛とした瞳。

 それを見て、少女は目を閉じた。

 切られたら痛いだろうかという思いが頭を掠めるが、すぐに終わるだろう、と打ち消す思いが浮かび上がる。

 切られるのは、確か魂だけのはずだ。それならば、痛みも無いだろう。

 うろ覚えの知識を呼び起こして、静寂に身を任せる。

 どちらにしろ、自分は死ぬ。

 その事実だけで、十分だ。

 少女はわからないほどかすかに、頷いた。

 ――うん。

 これでいいんだ。


 あたしは、死ぬんだ。

 お父さんもお母さんも、ごめんなさい。

 お母さん、いつも言ってたもんね。

 あたしは悪い子だって。

 だから叩くんだって。

 ごめんなさい。

 あんなこともして、あたし、やっぱり悪い子だから。

 ごめんなさい。

 でも、でもね。

 今から、あたしも行くから。

 いくらでも、怒ってくれていいから。


 空気を裂く音がして、鎌が振り上げられたと分かる。


 一、二。

 僅かな空白。

 そして、

 風を切る音を響かせ、重さが込められた一撃が振り下ろされた。

 少女は身体を硬直させ、鈍色の刃が自分の体に届く瞬間を待ち構える。

「………………………………………………………………、………え?」

 小さく、声を漏らした。

 痛く、無い?

 重く、鋭い音。確かにしたのに。いつまで待っても、自分の体に何の変化も感じない。

 片目ずつ、ゆっくりと目を開けていき、少女は自分の体の横、灰色のコンクリートの壁に、その鈍色の刃が、深々と突き刺さっているのを見て取った。

 少女が男の顔色を窺うと、鈍色の刃は蒸発するみたいに、現れた時と同様の光を帯びて空気を唸らせ消えてしまう。

 見下ろした自分の体に、刃による傷跡は見当たらない。

 辺りを確認するように見回す。腕も動く。足も動く。

 どこにも異常は無かった。

 傷もない。死んで、ない。

 そのことを理解した途端、体中の力が抜けていった。

 硬く握り締めていた手が、ずるんと体の脇へ落ちる。

「―――やめた」

 混乱する少女の耳に、低い、声が届く。

 その声の元を仰げば、男が何かを決心したように腕を組んで立っていた。

「やめだ。こんなことをしたって意味が無い」

「……え、あ、じゃあ」

 あたしは。

 あたしは、いったい、どうすれば。

 少女はうろたえた。

 行く当てなどあるはずもない。そんなものがあれば、こんな場所にはいないだろう。

 決意を覆されて、でも安心することもできず、行く先を奪われて彼女は視線をさまよわせた。

「俺と、来い」

 少女が目を大きく開くと、男は腕を広げる動作で雄弁に語りながら、彼女に向かって声を放った。

「お前、行く所ないんだろ。それに、そんなびしょ濡れでこんな所に居たら、いくらなんでも死んじまう」

 見たところ、健康とは言えないようだしなと男は続ける。

「でも、あたし、あたしは……」

「何も考えるな」

 少女の言葉をさえぎって、男は言う。

「来るか、でなければ、死ぬか。お前の選択肢は、その二つだ」

 少女は口を開けて男の言葉を聞いていた。

 彼の言う事が、とても信じられなかったからだ。

 少女の頬を、自然と一筋の涙が伝う。


 連れて行ってくれると、言うのなら。

 もう少しだけ、死ぬのを伸ばしてもいいかもしれない。

 少女はしっかと男の目を見た。漆黒の瞳が、どうする? と少女に向かって問いかけるように光った。

「行く」

 よどみ無く答えた少女に、彼は楽しそうに小さく笑った。

「よし、わかった。じゃあ来い……と言っても、動けないか」

 彼は手を伸ばし、少女に触れようとした。

 少女の頭の中に、自分のやってしまった事が鮮やかに甦る。彼女は身をよじり男の手から離れようとした。

「さわらないで!」

 不安に揺れる少女の目を見て、男は怯えを読み取った。だが、彼は安心させるようにゆっくりと、手を伸ばした。

 少女は恐怖に再度目を強く閉じ、これから起こるであろう惨状を見ないようにした。

 彼の手が服の上から腕に触れた。少女は身体を強張らせた。

 ……体から、硬い、コンクリートの感触が消える。

 恐る恐る目を開けて――――少女は、自分が男の腕の中にいる事がわかった。

 男は少女を抱き上げていた。彼はなんとも無かったかのように、平然としていた。また、緊張していた体の力が抜ける。黒い目を見上げ、確かめるように問いかけた。

「平気……なの?」

「もちろん」

 暖かい腕に抱かれながら、少女は久し振りに解き放たれたような感覚を得た。

 大丈夫

 その言葉が、ふっと脳裏に浮かんだ。

 少女は泣き崩れた。胸に縋り付いて、自分でも大げさに思えるほど声を上げて泣く。

 男は少女の頭をずっと片手で胸に押し付けるように、抱きかかえていた。

 男の足がごく自然に地面を蹴ると、二人は宙に浮いていた。

 地面が遠くなる。自分の家だったところが小さく見えて、そして、すぐ見えなくなった。

 自分の住んでいた場所が形を失って、きらきらと小さな光ばかりが残る。威圧するばかりだった建物が、姿を変えて。少女は思った。

 きれいだ。

 男が唐突に口を開き、少女に向かって告げた。

「お前に名前をやる。名前がないと不便だからな」

 少女は男の顔を見上げる。

「名前?」

「そうだな……紅恋くれんで、どうだ?」

「くれ…ん?」

「そうだ。これから、お前の名は紅恋。嫌か?」

〝紅恋〟

 その単語を口の中で転がす。

 心が、体が、急に温かくなったような気がした。

 紅恋、紅恋。

 あたしだけの、名前。

 あたしの、名前。

 あたしは、紅恋。


 少女はたやすく受け入れることができた。

 紅恋はにっこりと、しかし少しぎこちなく男に笑いかける。

 長い月日で失われた微笑み方を、取り戻すのには少しばかり、時間がかかりそうだった。

「ううん……すごく、きれいだと思う。あなたは、何ていうの?」

「俺か?」

 紅恋は頷いた。彼女の目は生気を取り戻しつつあり、まだ弱弱しいとはいえ、確かに淡く、煌めいていた。

「名前……知らないと、呼べないから」

「俺は……」

 僅かに迷いを覗かせてから、彼ははっきりとした声で、名乗る。

「俺の名は、黒衣こくい

(黒衣……)

 紅恋は彼の名前を頭の中で繰り返して、小さな声で呟いた。

「………ありがとう」

 聞こえたかどうかは分からない。紅恋は疲れた目を閉じた。暖かい黒衣の腕の中で、不安は微塵も無かった。


 *


「………さて」

 とんでもない拾い物をしてしまったと黒衣は思案する。

「これから……どうするか」

 ここまでの展開は、予定通りでは全くない。

 全て勢いだったとはいえ、我ながら少々事を急いてしまった感覚が、否めない。

 ――――いいか、これがお前の初仕事だ。絶対に失敗するなよ。

 父親の声が耳に蘇る。

(……これは、失敗に入るのだろうな)

 口から溜め息が出た。

 仕方ない。自分で選んだ道だ。こうなった事は誰のせいでもなく、自分の責任である。黒衣は思考を切り替えると、深く、暗い灰色に染まりつつある空を蹴って、風に乗った。

 目線を下げて、自分の腕の中の少女に目を落とす。


 骨と皮ばかりの痩せた体に、やつれた顔。

 軽く握っただけで折れそうな腕と足。

 そこには汚れた化粧のような、青や黒のあざが散らばって。

 腕の中の少女の体は、氷のよう。そのくせ、額は燃えるように熱かった。

 黒衣は渋面を作り、力無く首を振った。

 少女だとは聞いていた。しかし今、自分の腕の中に居るのは……せいぜい、五、六歳の子供。ただ話に聞くのと、姿を見るのは衝撃が段違いだ。

 結局、予定を捻じ曲げてしまった。

 黒衣は表情を暗くした。

 それこそが、彼の死神としての致命的な欠陥だった。

 相手に情が移り、魂を狩り切れないせいで、黒衣が増やした幽霊と呼ばれる者達は、彼の仲間に、そして多くの人間にまで、少々とは言えない被害を及ぼしている。


 狩らない事で命が助かる訳も無く、返ってもう二度と戻れないのに、この世を彷徨うのは苦しいばかりだ。だから、悪霊になる。

 わかっていても、できない。

 死神は、相手が生まれたての赤ん坊だろうと、老人だろうと、善人だろうと、犯罪者であろうと同じように、非情に鎌を振るえなければならない。

 物心ついてからずっと、自身の父親に教えられてきたことの一つだ。

 だが、できないものは、できないのである。


 優しさじゃない。

 それはきっと、多分。情が移ったなんて綺麗な理由じゃなくて。

 黒衣は眠りに落ちてしまった紅恋の、紅に染まった髪を撫で、体を冷やさないようにとしっかり抱きかかえた。この様子では、早く手当てをしてやらなければならないだろう。

 この、紅。人を殺めたせいで染まった色。

 彼女の服を所々染めている跡は、既に錆色になり、ごわごわし始めている。なのに髪だけは何故か、星の光に艶めいて、鮮やかな色をとどめていた。

 原因はわからない。

 だが、それよりも驚くべきは彼女の瞳の色だろう。

 目を合わせた瞬間、驚きに息が止まりそうになった。

 血まみれの赤い髪をした少女。それだけで、事実彼は驚いていたのだ。それでも、その感情を表面に出さないというのは普段の訓練の賜物だろうが―――

 

 紅。

 

 信じられないような、鮮やかな紅い色の瞳を、少女はしていた。力無く虚ろになっていても、その色は彼を引き付けて放さなかった。

 そしてさっきの、名を与えられたときの輝きときたら。

 きらきらと光を取戻し、多少の傷さえも物ともしない、力強く輝いた。

 美しいとしか言いようが無かった。

 彼は年端も行かない子供に、魅せられてしまっていたのだ。黒衣が彼女を死なせられなかったのには、そういった理由もあった。

 穢れなき魂。

 もう、深く傷つくところを見たくない。

 みすみす、死なせることなどできるか。

 そう思ってしまった時から、自分の失敗は決まっていたのだろう。

 軽く息をつき、空中に手で大きく円を描く。描いた円は仄かに燐光を帯び、その中だけが幕を落としたように黒くなる。そして円は緩やかに拡大し、黒衣の背丈を追い越す程の大きさになる。

 円の中へ足を踏み入れようとして、ふと、天を仰いだ。

 暗い灰色の空。どんよりと鈍い色をした、空。

 冷え冷えとまるで彼をとがめるように、広がっている。

 黒衣は挑戦するかのように笑みを作った。父に習った、狩る対象を威圧する笑みではなく、自分の中から、自然に浮かんできた笑みだった。もう一度、腕の中の少女の頬を安心させるように撫で、今は閉ざされている、鮮やかな髪と同じ紅い目を思った。

 紅い紅い、紅の、ルビーのような瞳。

 彼女が再び目を開いた時、瞳がどんな輝きを見せるのかを思って、決意を胸に抱く。

 

 俺は、もう二度と、悩まない。


 ただ、彼女と二人で、どこまでも行こう――と、誓った。彼は白く光る円の中へと、足を踏み出した。黒衣の体が何一つ残さず輪の中へ消えると、円は音も立てずに縮み、一瞬を置いて消え去った。

 ほんの数秒前までそこに居た二人は、もうどこにも居た痕跡を残さなかった。


 二人の者が消えても、灰色の夜空は、ただ、広がっているだけだった。


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